【書評】亀山郁夫『大審問官スターリン』
塩川伸明
 
 本書は前著『磔のロシア』『熱狂とユーフォリア』と並んで三部作をなしている。著者の多作ぶりと華麗な文章にはただ賛嘆するほかない。
 スターリンとその時代には、グロテスクで妖気漂う雰囲気がつきまとっており、種々の神話がいだかれがちである。歴史家はそうした神話の大半が実は根拠薄弱だということを暴く「脱神話化」を業としているが、亀山の仕事はそれとは異質である。というのも、ショスタコーヴィチやエイゼンシュテインら同時代のソ連の芸術家たちや、その精神的衣鉢を継ぐ現代ロシア知識人たちがどのような神話的イメージをいだいているかを、あたかも彼ら自身になりかわったかのごとくにビビッドに描き出しているからである。一言でいって、スターリンにまつわる神話世界を見事に形象化してみせるのが亀山の真骨頂である。
 ただ、歴史家として評者がある種の懸念を覚えるのは、本書は一見したところ歴史書であるかに読めるところがあり、少なからぬ読者が本書の記述を“神話”ではなく歴史的事実として受けとるのではないかという点にある。
 もし仮に歴史書として読むなら、大きな違和感がある。それは何も、歴史事実の記述が不正確だとか、推測が大胆すぎるといった点だけにあるのではない。より大きな問題は、取り上げられているエピソードの多く(スターリン=帝政スパイ説、ゴーリキーの死、スターリンのユダヤ人への偏見等々)が、古くから何度となく取りざたされてきたわりには決め手に乏しく、ゴシップとかガセネタの域を出ない問題ばかりだという点である。
 だが、本書に描かれているのは単に亀山個人の勝手な妄想の産物ではなく、多くのロシア知識人の懐いている像でもあり、本書はロシア知識人の共同幻想を描き出すことに成功している。こう考えるなら、本書は『幻視の中のスターリン』とでも題されるのが適切だったろう。そして、近年の亀山が遂行している作業は「スターリン学」ではなく、「ロシア・インテリゲンチア学」とでも名付けられるべきである。
 
(共同通信より配信、『秋田さきがけ』二〇〇六年三月一九日、『神戸新聞』二〇〇六年三月二六日、『信濃毎日新聞』二〇〇六年三月二六日等に掲載)
 
 
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