二つのゴルバチョフ論
ソ連解体と同時にゴルバチョフがソ連大統領を退陣してから、約七年の歳月が過ぎ去った。その後のロシアでは次々と新しい事態が起きて、ゴルバチョフとペレストロイカは、今や遠い過去のことのようにみえるに至っている。この間、ロシアではペレストロイカに関係した多くの人が各種の回想類を出版し、当時の状況をそれぞれの見地から描き出して、歴史研究への素材を提供しているが、その多くは、今なお政治に関与している人によって現実政治的な思惑をもって書かれた「生臭い」ものであり、引退した人の書く回想に比べると、「歴史への証言」というよりも「政治パンフレット」的な色彩が濃い。
他方、日本を含む外部世界では、ペレストロイカおよびゴルバチョフは過去のこととして忘れ去られる傾向が強い。そういう中で、イギリスとアメリカを代表するソ連・ロシア政治研究者二人によって、相次いで重厚なゴルバチョフ論が刊行されたことは注目に値する。一つはイギリスの政治学者アーチー・ブラウンの『ゴルバチョフ・ファクター』(Archie Brown, The Gorbachev Factor, Oxford University Press, 1996)であり、もう一つはアメリカの政治学者ジェリー・ハフの『ソ連における民主化と革命』(Jerry F. Hough, Democratization and Revolution in the USSR, 1985-1991, Brookings Institution Press, 1997)である。ともに、近年刊行された多数の回想や著者自身が関係者に行なったインタヴューなど豊富な情報に基づき、また欧米の各種政治学理論を駆使して、独自のゴルバチョフ像を描き出している。この小文では、この二著を手がかりにして、ゴルバチョフとペレストロイカが今日どのように振り返られているかについて考えてみたい。
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ハフは一九三五年生まれ、ブラウンは一九三八年生まれで、二人の著者はほぼ同世代に属する。冷戦期の欧米で盛んだった反共イデオロギー色の濃いソ連研究から距離をおいた新しい研究の流れを一九七〇‐八〇年代に形づくり、今では大家としての位置を占めるに至った世代である。この二人はまた、ブレジネフ末期に逸早くゴルバチョフという若手政治家に注目し、彼の台頭を予言した数少ない専門家という点でも共通する。おそらく、ゴルバチョフの興隆と失脚を見届けた後に彼らがゴルバチョフ論を書こうと思いたったのも、そうした自らの研究歴と関係があるだろう。
こうした共通性があるとはいえ、二著のゴルバチョフ評価はおよそ対照的である。ブラウンがゴルバチョフを今なお高く評価するのに対して、ハフのゴルバチョフ評価は手厳しい。かつてゴルバチョフに強い期待を寄せた者として、その期待が裏切られたことへの幻滅を表出しているかの如くである。もっとも、二著とも政治評論ではなく学術書であるから、そういった評価ばかりがこれらの書物の中心を占めているわけではない。先に書いたのは、話を分かりやすくするために敢えて行なった単純化である。しかし、それにしても、「学術書にしては、必ずしも常に冷静でなく、ところどころに感情論がにじみ出ている」という印象を与えることは否みがたい。もはや歴史になりつつあるとはいっても、まだ完全に距離をおいた歴史になりきっていない対象を論じるときには、このような感情論の表出はある程度まで自然なことなのかもしれない。
もう一つ付け加えるなら、ゴルバチョフ評価では対照的な二人も、エリツィン現政権下における「民主化」の進行を極めて厳しく評価する点ではほぼ一致している。ブラウンは、だからそういうエリツィンよりもゴルバチョフの方がよかったという素直な見解を示唆するのに対し、ハフは、そういうエリツィンに負けてしまったゴルバチョフの不甲斐なさを嘆くかの如くである。
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二著のうちでは、ブラウンの方が分かりやすい。破壊とデマゴギーをこととするエリツィンに対して、理性を信じて漸進的改革を目指したゴルバチョフを高く買い、歴史に見捨てられたかにみえる彼を名誉回復しようというのが基本的な姿勢となっている。
もっとも、このような評価は、「ゴルバチョフは社会主義にこだわり、徹底した改革を進めることをためらったのではないか」という見解に立つ人から見れば、理解しがたいとされるだろう。そのような見解からすれば、エリツィンこそが、たとえどんなに批判の余地のある政治家だとしても、とにかく徹底した改革推進の頂点に立ち得た唯一の指導者であり、ゴルバチョフの「漸進的改革」とは中途半端さ、不十分性、保守勢力との妥協の別名に他ならないということになるからである。ブラウンはそうした評価がありうることを十分念頭において、まさにそのような見解に反論することを課題としている。ゴルバチョフが社会主義にこだわっているかにみえたのは、保守派からの反撥を最小限に抑えるための戦術的配慮の産物に過ぎず、彼自身の「社会主義」とは、本来の意味での共産主義ではなく、事実上の社会民主主義化を遂げていたというのがブラウンの見方である。彼はゴルバチョフの各種発言を丹念に調べて、「社会主義へのこだわり」と解釈されがちな発言の多くが、むしろなし崩し的な脱社会主義化の志向を隠しもったものだということを示している。平和裡の転換を進めるためには、あたかも体制内改良であるかの体裁をとらねばならず、そのことがゴルバチョフの目標を外見上不鮮明なものとしたが、決して最後まで体制護持にこだわっていたわけではないというのである。
もっとも、ゴルバチョフが最初から脱共産主義を目指していて、それを着々と実現していったなどという見方をブラウンがとっているわけではない。ペレストロイカの展開過程における急進化については種々の説明の仕方が可能だが、ブラウンは、ゴルバチョフの学習能力を強調し、ある時期まで想定されていなかった体制転換がペレストロイカの渦中にゴルバチョフによって受容されるに至ったととらえている。政治変動の比較研究においてしばしば「自由化」と「民主化」が段階的に区分され、前者から後者に進むか否かが分水嶺とされているが、ブラウンはこの用語法を受け入れた上で、ゴルバチョフは「自由化」にとどまったという通説に反対し、むしろ彼は漸進的に「民主化」にまで突き進んだのだとする。用語法の適否はともあれ、政治変動の段階論をややもすれば固定的にとらえがちな議論が多い中で、微妙な質的転換の要素を摘出したものとして注目される。
もっとも、ブラウンもゴルバチョフを手放しで賛美しているわけではなく、各所で彼の失敗や誤りを指摘している。ただ、それらの誤りの多くは、どちらかといえば戦術レヴェルのもの――例えば人事登用における失敗、急進派との提携におけるタイミングの遅れ――ととらえられており、基本的な立場としてゴルバチョフの改革観が不十分だったわけではないとするのである。こうした見解は――この紹介では結論のみを要約的に示したために、やや単純で、あまりにもゴルバチョフ賛美的なものという印象を与えるかもしれないが――豊富な情報に裏付けられて提示されており、賛否は別として、それなりの一貫性と説得力をもつ。
ブラウンのゴルバチョフ観は以上にみたように、他の多くの論者よりも彼に好意的だという点で特異なものだが、その点を別にすれば、彼の「改革」理解は基本的には常識的なもの――ここで「常識的」とは、多くの欧米の論者と一致していることを指す――である。つまり、「市場経済化と西欧型民主化」をあるべき方向とし、それをできる限り急速かつ平和裡に進めることが望ましいとするものである。ここには欧米的価値観そのものへの疑念などは見あたらない。その意味で、よかれ悪しかれ「常識的」ということができる。本書の分かりやすさは、ある程度、このような常識性に由来するだろう。
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他方、ハフの著書は常識的見解に真っ向から逆らおうとする論争性が特徴である。彼は自著の挑発性をよく自覚しており、「多くの読者の血圧は危険なほど高まるだろう」と自ら記している。読者に多大の知的刺激を与えることは確実だが、逆説や論争的表現に満ちているだけに、その真意を読みとるのはなかなか難しい。「もしこうだったら、こうなっていただろう」という歴史上の仮定論法をためらわずに多用しているのも特徴であるが、その際、「歴史上の現実とは異なった道が実現していたら、その方がよかったのに」という未練論が背後にあるのか、それともそうではなく、ただ単に抽象的思考実験として、「こういう道もあったかもしれない」ということを価値評価から離れて提示しているだけなのかは、必ずしも明白でない。また、随所にみられるやや奇をてらった表現は、文字通りに著者の見解を示しているのか、それとも論争喚起のために極論を提示しているだけで、実は真意はやや異なったところにあるのか、迷うところがある。こうした読みとりにくさがあるため、以下の紹介は、やや恣意的なものとなっているおそれがあることを予め断わっておく。論争的な書物であるだけに、当たり障りのない紹介よりも、「こういう風に読むこともできる」という読み方をくっきりと提示した方が、議論喚起のためにはよいのではないかと考えるからである。
先ず、経済改革の戦略について、ハフは中国型の道――政治改革より経済改革を優先させ、後者の中でも農業およびサービス業を先行させる、また正式の私有化は必ずしも急がない――がよかったとする。そして、そのような道のソ連における推進者はルィシコフ元首相に代表されるテクノクラートたちであり、彼らを「保守派」と描く西側の多数見解は間違っていたとする。この点は価格改革問題とも関連する。ルィシコフらは行政的手法での価格引き上げを主張したが、ソ連の急進改革派および彼らを支持した西側の多くの経済学者は、行政的手法での価格引き上げは指令経済を温存するものだとしてこれに反対した。しかし、手法はどうあれ価格引き上げは需給ギャップを縮めて、将来の価格自由化の前提をつくるという意味で改革の不可欠の前提だった。これに対し、急進改革派は、言葉の上でラディカルな改革を唱えながら、実際には価格引き上げを先送りしたので、むしろ経済改革を妨害したことになる(そしてこの点では、ゴルバチョフもエリツィンも実は同罪だったとされる)。ここには、価格引き上げは大衆の反撥を招くという政治的考慮が作用しており、そうしたポピュリズム(大衆追随主義)が経済改革の実施を妨げたのだが、これは「民主化」の急ぎ過ぎと関連していることになる。
この点と関連するが、官僚は改革に反対する保守勢力だという通念をハフは否定する。実際には官僚は多様であり、その中のかなりの部分が市場経済に乗り移ったということを彼は強調し、官僚を全体として敵視する必要はなかったとする。こうした見解は、ソ連における「保守派」の主張に理解を示すもののようにもみえる。実際、本書では、いわゆる保守派の著作が各所で引用され、全面的に賛同するわけではないにしても、一定の理があったとされている。但し、それはいうまでもなく社会主義擁護論からのものではなく、社会主義から資本主義への移行の進め方に関する独自な判断である。
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連邦再編問題についてのハフの見解もユニークである。アメリカではソ連解体を自らの勝利とする見方が圧倒的多数であり、またそれ以外の国の、必ずしもアメリカべったりでない論者たちの間でも、ソ連解体は「最後の帝国の解体」であり、起きるべき当然のこととして起きた肯定的現象だとみるのが常識的である。日本でもそうだし、ブラウンもそのような立場に立っている。ところが、ハフはそのような通説に正面から反対し、連邦は――もちろん、一定の改革を施した上でだが――維持されるべきだったという立場を示唆している。インドはソ連以上の多民族国家だが数十年にわたって民主的連邦国家として維持されているとか、アメリカもコンフェデレーション(国家連合)ではなく連邦であり、州権力の連邦権力への不服従は許されないといった例を引き合いに出して、連邦の解体やコンフェデレーション化は必要なかったとするのである。
ハフがソ連解体を肯定的に見ない最大の理由は、ソ連解体は広汎なロシア人の間に強い屈辱感をもたらしたため、ワイマール・ドイツがナチ台頭を生んだのと同様に、ロシアでもファシズム台頭の危険があるという点にある。もっとも、将来が未知である以上、それは絶対的に必然ということではない。結果的に、そうした危険な事態が避けられるということもありうる。しかし、ロシアン・ルーレットが確率からいって六分の五は大丈夫だとしても、失敗した場合のリスクが大きすぎるのと同様に、ソ連解体もあまりにも危険の大きい賭だったというのが彼の意見である。
この連邦制の問題と先に触れた経済改革の問題の双方に関わるのが、いわゆる「五〇〇日案」(シャターリン案)の評価である。急速な私有化・自由化と共和国への分権化を特徴とする「五〇〇日案」は、欧米や日本の多くの観察者によって高く評価され、ゴルバチョフが一時はそれを支持していながら最終的に放棄したことがゴルバチョフの「後退」「保守化」、更にはペレストロイカの断末魔の開始となったという評価が多数を占めている(ブラウンもほぼ同様である)。ところが、ハフはこの「五〇〇日案」を、「クレージー」「笑うべき」「めちゃくちゃなユートピアニズム」「不誠実」「馬鹿げた」と、最大限の形容詞を連ねて批判している。ゴルバチョフの誤りは、これを放棄したことではなく、むしろ、一時的にもせよこのように馬鹿げた案をもてあそんだ点にこそあるというのである。こうした評価は、経済改革および連邦制についての上記の評価からすればある程度自然な流れだが、ここまで強い表現をとるのは異様との観さえも与える。
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前項末尾で述べたように、ハフは連邦維持の立場を示唆しているが、そうなると、エリツィン・ロシア政権をはじめとする共和国の反抗にどのように対処すべきだったかが大きな問題となる。この点に関しても、ハフはショッキングな見解を示す。不服従に対しては、実力行使を含む断固たる態度をとるべきだったのに、ゴルバチョフがそれを避けたことが問題だったというのである。ペレストロイカ期にトビリシ、バクー、ヴィリニュスなどで流血事件が起き、世界の耳目を集めたが、彼はこれらの事件はわずかな流血でしかなかったと言い放つ。そして、連邦を維持し、ペレストロイカを成功させるためには、抗議運動に限界のあることを示す必要があった、実力行使に責任をとりたがらなかったことこそがペレストロイカを滅ぼした、というのである。
実力行使に関するこうした見解は、政治的民主化についての理解とも関係する。民主主義は一定量の抑圧や力の行使と両立するのに、ゴルバチョフはそのことを理解しなかった、その根底にはナイーヴでアナキスティックな民主主義観があるというのがハフの見方である(民主主義が「自己目的」化されたとの指摘もある)。多くの観察者はゴルバチョフが権威主義的に支配することを恐れていたが、実際は逆で、権威主義性が足りなかったというのである。
軍の出動などの抑圧措置をとったら西側から非難され、経済援助が得られなくなるから、そうした政策はとりようがなかったという意見も当然考えられるが、これに対しては、西側諸国は抑圧的な多くの政権と友好関係をもってきた歴史があるし、天安門事件後の中国への外国からの投資も、一時的には減ったものの、すぐ拡大したと反論している。そして、民主化には長い時間がかかるし、経済発展の一定の段階では民主主義は不適切であるのに、ゴルバチョフはそのことを理解しなかったとも主張している。この論点は、先に価格改革の遅れを「民主化」の急ぎ過ぎと結びつけてとらえたこととも関連している(このような主張は、ソ連でいえばミグラニャンに代表される権威主義不可避論とよく似ているが、どういうわけか、本書ではミグラニャンの名前は言及されていない)。
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もっとも、ハフもいくつかの個所では、ゴルバチョフがそれほどナイーヴな民主主義者ではなく、マキアヴェリスティックな打算ももっていたとの解釈を提示している。性急な民主化とみえたものは、党機構を弱体化することによってゴルバチョフへの党からの制約を取り除こうという打算に基づいていたのではないかとか、エリツィンへの対応を誤ったためにかえってエリツィンの人気を高めたようにみえる点については、実はゴルバチョフはエリツィンを必要としており、一九九〇年のロシア最高会議議長選挙に際しては、表向き彼に反対しつつ、実は彼を当選させようとしていたのではないかという論争的解釈を提示している。しかし、党機構を弱体化させた後も大統領権力を十分強力に行使しなかったとか、ロシア政権を握った後のエリツィンが期待に背く行動をとったときに、それに対して明確な対決姿勢をとらなかったという点では、やはりナイーヴな民主主義信奉のためにマキアヴェリズムを欠いた弱い政治家というイメージを濃厚に打ち出している。
敢えて乱暴に要約するなら、私有化を急ぐな、官僚を十把一からげに敵視するな、民主化を急ぐな、連邦を解体させるな、必要なときには武力行使をためらうな、というのが彼の提言であるようにみえる。それは何も、「市場経済と西欧型民主主義」という目標に反対するからではない(自分自身の価値観として「西欧的価値」を暗黙の前提におく点では、ハフもブラウンと変わらない)。ただ、そのような目標を達成するためにも、連邦維持、官僚との同盟、秩序維持が不可欠だという判断が押し出されているのである。こうした議論の最大の特徴はマキアヴェリスティックな政治観にあり、ゴルバチョフがそうしたマキアヴェリズムを欠いていたこと――それと対比的にいえば、エリツィンやその側近(ブルブリス、シャフライら)は見事にマキアヴェリズムを身につけていたとされる――こそ彼の敗北の要因だったとみるのである。
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このようにハフは、ゴルバチョフおよびその「民主派」的側近(ヤコヴレフ、ペトラコフら)の政策を厳しく批判するが、それにとどまらず、そうした、彼の眼から見て非現実的な政策をロシア人に吹き込んだのは、多くの西側知識人だとして、後者に対しても厳しい批判の矢を放っている。これが本書のもう一つの大きな特徴である。
ハフによれば、西側の多くの論者は、現代アメリカの理論だけを尊び他を排斥するような偏狭なロシア改革派を応援し、旧制度を破壊しさえすればすべてはうまくいくとロシア人に請け合った。ハフに限らず、ソ連解体後のロシア政権でとられた「改革」政策について、その安易さや拙劣さを批判する議論は今では少なくない。ただ、その多くが「だからロシア人は駄目なんだ」という軽侮の念を伴いがちであるのに対し、彼の場合は、むしろそうした政策をロシア人に吹き込んだ西側専門家の責任がより重要視されている点が特徴的である。そのことは、ロシア急進派はいまでは自分の誤りから学びつつあるのに、多くの西側の人は、彼らよりもはるかにナイーヴな観念をその後も保持しているといった指摘にも示されている。
ここには、アメリカにおける社会科学者の役割についての反省もにじみ出ている。ハフによれば、アメリカの学者たちは、未来を予測して政策を提言する「宮廷付き占星術者」になるよう要請された。その役を演じるには、ブレジネフ期のクレムリンに勝るとも劣らない複雑怪奇な「宮廷のルール」に従わねばならなかった。これは自己批判でもあると明確に断わった上で、ハフはアメリカの学者があまりにもしばしば「宮廷付き占星術者」の役割に魅(ひ)きつけられ、その役回りが自分の研究内容に影響するのを許してしまったと、痛恨の念をもって記している。
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ハフとブラウンの著書は多くの点で対照的だが、いくつかの共通点もある。二人とも学者にしてはかなりあからさまに自己の評価を明示していること、エリツィンに対して二人とも辛いことは前述した。おそらく、二著が準備されつつあった時期におけるロシアの状態(経済の急激な落ち込み、議会への砲撃事件、チェチェン侵攻など)が二人の著者の念頭にあっただろう。
ゴルバチョフ敗北の理由については、二人の見解は大きく分かれるが、いずれにしてもゴルバチョフが社会主義にこだわったとか、彼の改革構想が不十分だったというような点にあったのではないという点では共通する。ブラウンによれば、改革構想は十分にラディカルだったが、戦術ミス(保守的な側近を信頼しすぎた反面、急進派との提携が遅れた)が大きかった。ハフによれば、むしろエリツィン派ともっときっぱりと対決すべきで、そのためにはテクノクラートや軍をもっと大胆に利用すべきだったのだが、そうしなかったのはゴルバチョフの民主主義理解がナイーヴで、マキアヴェリズムが欠けていたからだとされる。つまり(そこまであからさまにいわれてはいないが、敢えて補えば)、現実を無視して過度に民主的であろうとした点がゴルバチョフの最大の弱点だったということになる。
いずれの議論も、やや極端に走って一面的になっているという印象は否みがたいが――しかも、この小論ではそうした側面ばかりを抽出したので、それが一層濃縮した形で示されていることは断わっておかねばならない――それなりに鋭利な見解だということも事実である。結論への賛否は別として、今後のゴルバチョフ論において、この二つの見解を無視することはできないだろう。
二著のもう一つの共通性は、政治家個人への注目集中という点である。これは、政治におけるリーダーシップの役割の大きさを思えば、政治学者の書物として当然のことではあるが、やはり視野が狭いように思われてならない。その結果として、政治家を何がどのように拘束していたかが十分明確にならず、特にハフの場合、あたかもマキヤヴェリスティックな政治家ならどんなマヌーヴァーも可能だったかのような、一種の政治家全能論が前提されてしまっているという印象がある。
ペレストロイカの一つの大きな特徴は、政治以外の社会全体の大きなうねりがいたるところで生じたことだった。また、連邦解体はモスクワ以外の各地での独自な動きによって大きく規定された。そうしたことを考えると、二著とも、あまりにも政治エリート中心・モスクワ中心主義であるように思われる。より広い社会全体の動きを、モスクワ以外の各地も視野に入れつつ描く作業は今後の課題として残されている。
(東京大学出版会『UP』一九九九年一、二月号)
《付録:該当ページ指示つきのオリジナル原稿》
ソ連解体と同時にゴルバチョフがソ連大統領を退陣してから、約七年の歳月が過ぎ去った。その後のロシアでは次々と新しい事態が起きて、ゴルバチョフとペレストロイカは、今や遠い過去のことのようにみえるに至っている。ロシアでは、ペレストロイカに関係した多くの人が次から次へと回想を出版し、当時の状況をそれぞれの見地から描き出して、歴史研究への素材を提供しているが、その多くは、今なお政治に関与している人によって現実政治的な思惑をもって書かれた「生臭い」ものであり、引退した人の書く回想に比べると、「歴史への証言」というよりも「政治パンフレット」的な色彩が濃い。
他方、日本を含む外部世界では、ペレストロイカおよびゴルバチョフは過去のこととして忘れ去られる傾向が強い。そういう中で、イギリスとアメリカを代表するソ連・ロシア政治研究者二人によって、相次いで重厚なゴルバチョフ論が刊行されたことは注目に値する。一つはイギリスの政治学者アーチー・ブラウンの『ゴルバチョフ・ファクター』(Archie Brown, The Gorbachev Factor, Oxford University Press, 1996)であり、もう一つはアメリカの政治学者ジェリー・ハフの『ソ連における民主化と革命』(Jerry F. Hough, Democratization and Revolution in the USSR, 1985-1991, Brookings Institution Press, 1997)である。ともに、近年刊行された多数の当事者の回想や著者自身が関係者に行なったインタヴューなど豊富な情報に基づき、また欧米の各種政治学理論を駆使して、独自のゴルバチョフ像を描き出している。この小文では、この二著を手がかりにして、ゴルバチョフとペレストロイカが今日どのように振り返られているかについて考えてみたい。
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ハフは一九三五年生まれ、ブラウンは一九三八年生まれで、二人の著者はほぼ同世代に属する。冷戦期の欧米で盛んだった反共イデオロギー色の濃いソ連研究から距離をおいた新しい研究の流れを一九七〇‐八〇年代に形づくり、今では大家としての位置を占めるに至った世代である。この二人はまた、ブレジネフ末期に逸早くゴルバチョフという若手政治家に注目し、彼の台頭を予言した数少ない専門家という点でも共通する。おそらく、ゴルバチョフの興隆と失脚を見届けた後に彼らがゴルバチョフ論を書こうと思いたったのも、そうした自らの研究歴と関係があるだろう。
とはいえ、二著のゴルバチョフ評価は正反対といいたいほどに対照的である。ブラウンがゴルバチョフを高く評価するのに対して、ハフのゴルバチョフ評価は手厳しい。かつてゴルバチョフに強い期待を寄せた者として、その期待が裏切られたことへの幻滅を表出しているかの如くである。もっとも、二著とも政治評論ではなく学術書であるから、そういった評価ばかりがこれらの書物の中心を占めているわけではない。先に書いたのは、話を分かりやすくするために敢えて行なった単純化である。しかし、それにしても、「学術書にしては、必ずしも常に冷静でなく、ところどころに感情論がにじみ出ている」という印象を与えることは否みがたい。もはや歴史になりつつあるとはいっても、まだ完全に距離をおいた歴史になりきってはいない対象を論じるときには、このような感情論の表出はある程度まで自然なことなのかもしれない。
もう一つ付け加えるなら、そのように対照的なゴルバチョフ評価を下す二人も、エリツィン現政権下における「民主化」の進行を極めて厳しく評価する点ではほぼ一致している。ブラウンは、だからそういうエリツィンよりもゴルバチョフの方がよかったという素直な見解を示唆するのに対し、ハフは、そういうエリツィンに負けてしまったゴルバチョフの不甲斐なさを嘆くかの如くである。
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二著のうちでは、ブラウンの方が分かりやすい。破壊とデマゴギーをこととするエリツィンに対して、理性を信じて漸進的改革を目指したゴルバチョフを高く買い、歴史に見捨てられたかにみえる彼を名誉回復しようというのが基本的な姿勢となっている。
もっとも、このような評価は、「ゴルバチョフは社会主義にこだわり、徹底した改革を進めることをためらったのではないか」という見解に立つ人から見れば、理解しがたいとされるだろう。そのような見解からすれば、エリツィンこそが、たとえどんなに批判の余地のある政治家だとしても、とにかく徹底した改革推進の頂点に立ち得た唯一の指導者であり、ゴルバチョフの「漸進的改革」とは中途半端さ、不十分性、保守勢力との妥協の別名に他ならないということになるからである。ブラウンはそうした評価がありうることを十分念頭において、まさにそのような見解に反論することを課題としている。ゴルバチョフが社会主義にこだわっているかにみえたのは、保守派からの反撥を最小限に抑えるための戦術的配慮の産物に過ぎず、彼自身の「社会主義」とは、本来の意味での共産主義ではなく、事実上の社会民主主義化を遂げていたというのがブラウンの見方である。彼はゴルバチョフの各種発言を丹念に調べて、「社会主義へのこだわり」と解釈されがちな発言の多くが、むしろなし崩し的な脱社会主義化の志向を隠しもったものだということを示している。平和裡の転換を進めるためには、あたかも体制内改良であるかの体裁をとらねばならず、そのことがゴルバチョフの目標を不鮮明なものとしたが、決して最後まで体制護持にこだわっていたわけではないというのである。
もっとも、ゴルバチョフが最初から脱共産主義を目指していて、それを着々と実現していったなどという見方をブラウンがとっているわけではない。ペレストロイカの展開過程における急進化については種々の見方があるが、ブラウンは、ゴルバチョフの学習能力を強調し、ある時期まで想定されていなかった体制転換がペレストロイカの渦中にゴルバチョフによって受容されるに至ったととらえている。政治変動の比較研究においてしばしば「自由化」と「民主化」が段階的に区分され、前者から後者に進むか否かが分水嶺とされているが、ブラウンはこの用語法を受け入れた上で、ゴルバチョフは「自由化」にとどまったという通説に反対し、むしろ彼は漸進的に「民主化」にまで突き進んだのだとする。これは、用語法の適否はともあれ(私自身は、「自由化」と「民主化」は本来異なるヴェクトルを指すので、段階論を表わす用語としてこれらの語を使うのは適切でないと考える)、政治変動の段階論をややもすれば固定的にとらえがちな議論が多い中で、微妙な質的転換の要素を摘出したものとして注目される。
もっとも、ブラウンもゴルバチョフを手放しで賛美しているわけではなく、各所で彼の失敗や誤りを指摘している。ただ、それらの誤りの多くは、どちらかといえば戦術レヴェルのもの――例えば人事登用における失敗、急進派との提携におけるタイミングの遅れ――ととらえられており、基本的な立場としてゴルバチョフの改革観が不十分だったわけではないとするのである。こうした見解は――この紹介では、結論のみを要約的に示したために、やや単純で、あまりにもゴルバチョフ賛美的なものという印象を与えるかもしれないが――豊富な情報に裏付けられて提示されており、賛否は別として、それなりの一貫性と説得力をもつ。
ブラウンのゴルバチョフ観は以上にみたように、他の多くの論者よりも彼に好意的だという点で特異なものだが、その点を別にすれば、彼の「改革」理解は基本的には常識的なもの――ここで「常識的」とは、多くの欧米の論者と一致していることを指す――である。つまり、「市場経済化と民主化」をあるべき方向とし、それをできる限り平和裡に進めることが望ましいとするものである。これは欧米的価値理念を基本的に是認しつつ、それを地域の特性を考慮しながら広めていけばよいという発想であり、欧米的価値観そのものへの疑念などは見あたらない。その意味で、よかれ悪しかれ「常識的」ということができる。本書の分かりやすさは、ある程度、このような常識性に由来するだろう。
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他方、ハフの著書は常識的見解に真っ向から逆らおうとする論争性が特徴である。彼は自著の挑発性をよく自覚しており、「多くの読者の血圧は危険なほど高まるだろう」と自ら記している。524。読者に多大の知的刺激を与えることは確実だが、逆説や論争的表現に満ちた文章が多いだけに、その真意を読みとるのはなかなか難しい。「もしこうだったら、こうなっていただろう」という歴史上の仮定論法をためらわずに多用しているのも特徴であるが、その際、「歴史上の現実とは異なった道が実現していたら、その方がよかったのに」という未練論が背後にあるのか、それともそうではなく、ただ単に抽象的思考実験として、「こういう道もあったかもしれない」ということを価値評価から離れて提示しているだけなのかは、必ずしも明白でない。また、随所にみられるやや奇をてらった表現は、文字通りに著者の見解を示しているのか、それとも論争喚起のために極論を提示しているだけで、実は真意はやや異なったところにあるのか、迷うところがある。こうした読みとりにくさがあるため、以下の紹介は、やや恣意的なものとなっているおそれがあることを予め断わっておく。論争的な書物であるだけに、当たり障りのない紹介よりも、「こういう風に読むこともできる」という読み方をくっきりと提示した方が、議論喚起のためにはよいのではないかと考えるからである。
先ず、経済改革の戦略について、ハフは中国型の道――政治改革より経済改革を優先させ、後者の中でも農業およびサービス業を先行させる、また正式の私有化は必ずしも急がない――がよかったとする。そして、そのような道のソ連における推進者はルィシコフ元首相に代表されるテクノクラートたちであり、彼らを「保守派」と描く西側の多数見解は間違っていたとする。この点は価格改革問題とも関連する。ルィシコフらは行政的手法での価格引き上げを主張したが、ソ連の急進改革派――および彼らを支持した西側の多くの経済学者――は、行政的手法での価格引き上げは指令経済を温存するものだとしてこれに反対した。しかし、手法はどうあれ価格引き上げは需給ギャップを縮めて、将来の価格自由化の前提をつくるという意味で改革の不可欠の前提だった。これに対し、急進改革派は、言葉の上でラディカルな改革を唱えながら、実際には価格引き上げを先送りしたので、むしろ経済改革を妨害したことになる(そしてこの点では、ゴルバチョフもエリツィンも実は同罪だったとされる)。ここには、価格引き上げは大衆の反撥を招くという政治的考慮が作用しており、そうしたポピュリズム(大衆追随主義)が経済改革の実施を妨げたのだが、これは「民主化」の急ぎ過ぎと関連していることになる。
この点と関連するが、官僚は改革に反対する保守勢力だという通念をハフは否定して、官僚は多様であること、その中のかなりの部分が市場経済に乗り移ったことを強調し、官僚を全体として敵視する必要はなかったとする。こうした見解は、ソ連における「保守派」の主張に理解を示すもののようにもみえる。実際、本書では、各所で、いわゆる保守派の著作が多数引用され、全面的に賛同するわけでないにしても、一定の理があったとされている。但し、それはいうまでもなく社会主義擁護論からのものではなく、社会主義から資本主義への移行の進め方に関する独自な判断である。
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連邦再編問題についてのハフの見解もユニークである。アメリカではソ連解体を自らの勝利とする見方が圧倒的多数であり、またそれ以外の国の、必ずしもアメリカべったりでない論者たちの間でも、ソ連解体は「最後の帝国の解体」であり、起きるべき当然のこととして起きた肯定的現象だとみるのが常識的である。日本でもそうだし、ブラウンもそのような立場に立っている。ところが、ハフはそのような通説に正面から反対し、連邦は――もちろん、一定の改革を施した上でだが――維持されるべきだったという立場を示唆している。インドはソ連以上の多民族国家だが数十年にわたって民主的連邦国家として維持されているとか(252)、アメリカもコンフェデレーション(国家連合)ではなく連邦であり、州権力の連邦権力への不服従は許されないといった例を引き合いに出して、多民族性は必ずしも解体を要請しないと主張するのである。
ハフがソ連解体を肯定的に見ない最大の理由は、ソ連解体は広汎なロシア人の間に強い屈辱感をもたらしたため、ワイマール・ドイツがナチ台頭を生んだのと同様に、ロシアでもファシズム台頭の危険があるという点にある。もっとも、将来が未知である以上、それは絶対的に必然ということではない。結果的に、そうした危険な事態が避けられるということもありうる。しかし、ロシアン・ルーレットが確率からいって六分の五は大丈夫だとしても、失敗した場合のリスクが大きすぎるのと同様に、ソ連解体もあまりにも危険が大きい賭だったというのが彼の意見である。519
経済改革および連邦制の双方にかかわるのが、いわゆる「五〇〇日案」(シャターリン案)の評価である。急速な私有化・自由化と共和国への分権化を特徴とする「五〇〇日案」は、欧米や日本の多くの観察者によって高く評価され、ゴルバチョフが一時はそれを支持していたにもかかわらず最終的に放棄したことがゴルバチョフの「後退」「保守化」、更にはペレストロイカの断末魔の開始となったという評価が多数を占めている(ブラウンもそうである)。ところが、ハフはこの「五〇〇日案」を、「クレージー」「笑うべき」「めちゃくちゃなユートピアニズム」「不誠実」「馬鹿げた」と、最大限の形容詞を連ねて批判している。ゴルバチョフの誤りは、これを放棄したことではなく、むしろ、一時的にもせよこのように馬鹿げた案をもてあそんだ点にこそあるというのである。361-367.こうした評価は、経済改革および連邦制についての上記の評価からすればある程度自然な流れだが、ここまで強い表現をとるのは異様との観さえも与える。
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連邦維持の立場に立つということになると、エリツィン・ロシア政権をはじめとする共和国の反抗にどのように対処すべきだったかが問題となる。ここでもハフはショッキングな見解を示す。不服従に対しては、実力行使を含む断固たる態度をとるべきだったのに、ゴルバチョフがそれを避けたことが問題だったというのである。ペレストロイカ期にトビリシ、バクー、ヴィリニュスなどで流血事件が起き、世界の耳目を集めたが、彼はこれらの事件はわずかな流血でしかなかったという。そして、連邦を維持し、ペレストロイカを成功させるためには、抗議運動に限界のあることを示す必要があった、実力行使に責任をとりたがらなかったことこそがペレストロイカを滅ぼした、というのである。402-403, 498-499.
実力行使に関するこうした見解は、政治的民主化についての理解とも関係する。民主主義は一定量の抑圧や力の行使と両立するのに、ゴルバチョフはそのことを理解しなかった、その根底にはナイーヴでアナキスティックな民主主義観があるというのがハフの見方である(民主主義の「自己目的化」という指摘もある。142,171.)。多くの観察者はゴルバチョフが権威主義的に支配することを恐れていたが、実際は逆で、権威主義性が足りなかったというのである。
軍の出動などの抑圧措置をとったら西側から非難され、経済援助が得られなくなるから、そうした政策はとりようがなかったという意見も当然考えられるが、これに対しては、西側諸国は抑圧的な多くの政権と友好関係をもってきた歴史があるし、天安門事件後の中国への外国からの投資も、一時的には減ったものの、すぐ拡大したと反論している。204-205, 253-254.そして、民主化には長い時間がかかるし、経済発展の一定の段階では民主主義は不適切であるのに、ゴルバチョフはそのことを理解しなかったとも主張している。この論点は、先に価格改革の遅れを「民主化」の急ぎ過ぎと結びつけてとらえたこととも関連している(このような主張は、ソ連でいえばミグラニャンに代表される権威主義不可避論とよく似ているが、どういうわけか、本書にはミグラニャンの名前は言及されていない)。
もっとも、ハフもいくつかの個所では、ゴルバチョフがそれほどナイーヴな民主主義者ではなく、マキアヴェリスティックな打算ももっていたとの解釈を提示している。性急な民主化とみえたものは、党機構を弱体化することによってゴルバチョフへの制約を取り除こうという打算に基づいていたのではないかとか、エリツィンへの対応を誤ったためにかえってエリツィンの人気を高めたようにみえる点については、実はゴルバチョフはエリツィンを必要としており、ロシア最高会議議長選挙に際しては、表向き彼に反対しつつ、実は彼を当選させようとしていたのではないかという論争的解釈を提示している。329-332.しかし、党機構を弱体化させた後も大統領権力を十分強力に行使しなかったとか、ロシア政権を握った後のエリツィンが期待に背く行動をとったときに、それに対して明確な対決姿勢をとらなかったという点では、やはりナイーヴな民主主義信奉のためにマキアヴェリズムを欠いた弱い政治家というイメージを濃厚に打ち出している。
敢えて乱暴に要約するなら、私有化を急ぐな、官僚を十把一からげに敵視するな、民主化を急ぐな、連邦を解体させるな、必要なときには武力行使をためらうな、というのが彼の提言であるようにみえる。それは何も、「市場経済と西欧型民主主義」という目標に反対するからではない(自分自身の価値観として「西欧的価値」を暗黙の前提におく点では、ハフもブラウンと変わらない)。ただ、そのような目標を達成するためにも、連邦維持、テクノクラートや軍の大胆な利用、秩序維持が不可欠だという判断が押し出されているのである。こうした議論の最大の特徴はマキアヴェリスティックな政治観にあり、ゴルバチョフがそうしたマキアヴェリズムを欠いていたこと――それと対比的にいえば、エリツィンやその側近(ブルブリス、シャフライら)は見事にマキアヴェリズムを身につけていたとされる――こそ彼の敗北の要因だったとみるのである。
このようにハフは、ゴルバチョフおよびその「民主派」的側近(ヤコヴレフ、ペトラコフら)の政策を厳しく批判するが、それにとどまらず、そうした、彼の眼から見て非現実的な政策をロシア人に吹き込んだのは、多くの西側知識人だとして、後者に対しても厳しい批判の矢を放っている。これが本書のもう一つの大きな特徴である。
ハフによれば、西側の多くの論者は、現代アメリカの理論だけを尊び他を排斥するような偏狭なロシア改革派を応援し、旧制度を破壊しさえすればすべてはうまくいくとロシア人に請け合った。ソ連解体後のロシア政権でとられた「改革」政策について、その安易さや拙劣さを批判する議論は少なくないが、その多くが「だからロシア人は駄目なんだ」という軽侮の念を伴いがちであるのに対し、ハフの場合は、むしろそうした政策をロシア人に吹き込んだ西側専門家の責任がより重要視されている。そのことは、ロシア急進派はいまでは自分の誤りから学びつつあるのに、多くの西側の人は、彼らよりもはるかにナイーヴな観念をその後も保持しているといった指摘に現われている。493. 特に、アメリカ財務省・IMF・世界銀行を行き来する経済学者はひたすら経済自由化を説き、政治的安定の問題を無視した。518-520.経済学者がそうした市場一辺倒だったのに対し、政治学者や外交官は政治的安定をより重視したが、相互関係を煮詰めて考えなかったとハフはいう。
ここには、アメリカにおける社会科学者の役割についての自己反省もにじみ出ている。ハフによれば、アメリカの学者たちは、未来を予測して政策を提言する「宮廷付き占星術者」になるよう要請された。その役を演じるには、ブレジネフ期のクレムリンに勝るとも劣らない複雑怪奇な「宮廷のルール」に従わねばならなかった。これは自己批判でもあると明確に断わった上で、ハフはアメリカの学者があまりにもしばしば「宮廷付き占星術者」の役割に惹きつけられ、その役回りが自分の研究内容に影響するのを許してしまったと、痛恨の念をもって記している。522。
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ハフとブラウンの著書は多くの点で対照的だが、いくつかの共通点もある。二人とも学者にしてはかなりあからさまに自己の評価を明示していること、エリツィンに対して二人とも辛いことは前述した。おそらく、二著が準備されつつあった時期におけるロシアの状態(経済の急激な落ち込み、議会への砲撃事件、チェチェン侵攻など)が二人の著者の念頭にあっただろう。
ゴルバチョフ敗北の理由については、二人の見解は大きく分かれるが、いずれにしてもゴルバチョフが社会主義にこだわったとか、彼の改革構想が不十分だったというような点にあったのではないという点では共通する。ブラウンによれば、改革構想は十分にラディカルだったが、戦術ミス(保守的な側近を信頼しすぎた反面、急進派との提携が遅れた)が大きかった。ハフによれば、むしろエリツィン派ともっときっぱりと対決すべきで、そのためにはテクノクラートや軍をもっと大胆に利用すべきだったのだが、そうしなかったのはゴルバチョフの民主主義理解がナイーヴで、マキアヴェリズムが欠けていたからだとされる。つまり(そこまであからさまにいわれてはいないが、敢えて補えば)、現実を無視して過度に民主的であろうとした点がゴルバチョフの最大の弱点だったということになる。いずれもやや極端にある側面を強調しているという印象は否みがたいが――しかも、この小論ではそうした側面ばかりを抽出したので、それが一層濃縮されていることは断わっておかねばならない――こうした評価への賛否は別として、今後のゴルバチョフ論において、この二つの見解を無視することはできないだろう。
もう一つの共通性は、政治家個人への注目集中という点である。これは、政治におけるリーダーシップの役割の大きさを思えば、政治学者の書物として当然のことではあるが、やはり視野が狭いように思われてならない。その結果として、政治家を何がどのように拘束していたかが十分明確にならず、特にハフの場合、あたかもマキヤヴェリスティックな政治家ならどんなマヌーヴァーも可能だったかのような、一種の政治家全能論が前提されてしまっているという印象がある。
ペレストロイカの一つの大きな特徴は、政治以外の社会全体の大きなうねりがいたるところで生じたことだった。また、連邦解体はモスクワ以外の各地での独自な動きによって大きく規定された。そうしたことを考えると、二著とも、あまりにも政治エリート中心・モスクワ中心主義であるように思われる。より広い社会全体の動きを、モスクワ以外の各地も視野に入れつつ描く作業は今後の課題として残されている。