3つの自由主義――市場経済(自由経済)・経済自由主義・政治的リベラリズム
〔アンケート:「市場経済移行10年を振りかえって」〕
『比較経済体制研究』第10号(2003年)
体制転換の基本内容を「民主化と市場経済化」とし、その進展や阻害要因を論じる、いわゆる「移行論」が流行となってから10年以上が経った。その後、現実の「移行」が期待されたほど順調でないだけでなく、それを捉える理論図式にも問題があったのではないかという反省も次第に増大している。私自身は、この間、一貫して「民主化と市場経済化」というキャッチフレーズに疑問を呈してきたが、十分な代替理論を提示するには至っていない。ここでは、「自由主義」という言葉の多義性を手がかりに、多少なりとも問題の所在を明確にすることを試みたい。
「自由主義」という言葉は極度に多義的であり、いくつかの用法を区別することが必要である。アメリカでは「リベラリズム」と「リバタリアニズム」の区別が重視されているが、これは、社会民主主義政党が存在せず、リベラルが事実上それに代替するというアメリカ社会の特殊性の産物ではないかと思われる。私の関心からより重要なのは、経済面と政治面の区別である。もっとも、経済面についても、大きくいって二通りの用語法がある。一つは、統制経済や指令経済に対置して市場経済を擁護する場合に自由経済といわれるような経済体制概念であり、これは資本主義体制と言い換えることもできる(市場社会主義の問題をひとまず度外視すれば)。もう一つは、市場経済を前提した上で、そこにおける政府介入の度合や政策の内容に注目する概念であり、これを一応「経済自由主義」と呼んでおきたい。市場経済といっても純粋に市場の論理だけで動くわけではなく、それ以外の様々な要素を含むが、それをできる限り排除すべきだというイデオロギーおよびそれに立脚した政策である。
政治面に目を転じよう。脱社会主義のことを「民主化」と呼ぶのは適切でなく、むしろ「ソヴェト民主主義から自由主義的民主主義への移行(実際には、往々にして権威主義化傾向を含む)」とみるべきだというのが私の一貫した主張だが、ソヴェト民主主義は成り立ち得ず、自由主義的民主主義が民主主義の唯一の現実的形態だという見地に立つなら、この移行のことを「民主化」と呼ぶ人が多いのはそれなりに理解できないではない。ただ、ここでいう「自由主義的民主主義」はあくまでも制度レヴェルのものであり、その実質化は別問題である。その際、「あるべき実質化」の方向として、民主主義の契機を重視するラディカル民主主義論と、自由主義の契機を重視する政治的リベラリズムとがあり、後者が「自由主義」のもう一つの形態ということになる。
こう整理するなら、今日の移行諸国における「自由主義」の状況は、次のように捉えられる。まず、経済体制としての資本主義は、種々の不純な要素を含みつつではあるが、現に採用され、その全面拒否論はごく微弱である。これに対し、政策としての経済自由主義は多くの摩擦を招くために主流にはなっていないが、国際的な要請もあり、また国内でも一部の人々によって推進されていて、これをめぐる攻防が大きな焦点となっている。そうした中で、最も軽視されているのが政治的リベラリズムである。かつてペレストロイカ期の政治改革の中で、これを重視しようとした一部の知識人がいたが、それは今日の状況の中では無力なものとなっている。あえて飛躍した暴論を言えば、日本の状況もこれとそれほど隔たってはいない。「自由経済を守れ」というのが戦後長らく自民党によって叫ばれてきたことであり、それは冷戦後の今日、もはや叫ぶ必要もなくなった。経済自由主義の政策については、推進論と抵抗論がにらみあっているのは周知の通りである。その中で忘れ去られているのは、ここでもまた政治的リベラリズムではないだろうか。