「ウクライナの声」の多様性
 
 
 ウクライナ戦争が全面化してからほぼ3年が経とうとし、停戦の展望についてもあれこれと取り沙汰されている。そうした中で、「ウクライナは/ウクライナ国民は○○を願望している/○○と考えている」といった類いの言説があちこちで飛び交っている。こうした言説は、「ウクライナ/ウクライナ国民/ウクライナの人々」といった主語を単一のものとし、あたかも一枚岩のウクライナが存在するかのような前提を暗黙に置いている。しかし、いうまでもないが、一口にウクライナといっても、そこには大勢の人がおり、その声や思いが単一ということはありえない。戦争という情勢の中で、「一体にならなければならない」という意識が作用して、あたかも一枚岩であるかのような情勢が描かれるのは無理からぬことではあるが、実際には「ウクライナの声」は一つではなく、多様である。
 そうした声の多様性は往々にして見落とされがちだが、さまざまなデータによって示されることがないわけではない。それらを検討することで、どのように多様な声があるのか、またそれらがどうして見落とされがちなのかを考えることを試みたい。
 
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 一つの重要な情報源として、各種の世論調査がある。たとえばゼレンスキー支持率は当初は非常に高く、その後だんだん下がってきたが、今でも過半数の支持を得ているとか、「一部の領土を失っても停戦した方がよい」という意見への賛成率はじわじわと上昇し、最近では50%を超えるに至ったというようなことが伝えられている。このような世論調査データは重要かつ興味深いものだが、それを受け取るに際して、時間的・地域的差異の大きさという問題を押さえておかなくてはならない。
 時間的差異についていうなら、この問題への注目が高まったのが比較的最近であるため、せいぜいここ2、3年のあいだの変化が取り上げられることが多い。しかし、もう少しさかのぼってみるなら、ここ十数年のあいだのウクライナ世論の変化は実に大きなものだった。たとえば親露/反露意識に関するキーウ国際社会学研究所の調査によるなら、2013年以前はロシアに対して肯定的な意見をもつ人がおよそ8割、否定的な意見をもつ人がおよそ1割ということで、圧倒的に親露的な考えが優勢だった。2014年を境に、親露感情が大きく低下し、反露感情が上昇したが、それでも後者が前者を圧倒するというところにまでは至らず、双方の感覚が拮抗する状態が2021年まで続いていた。それが2022年になると、反露意識が92%、親露意識が2%という極端な大差に至った*1。これはいうまでもなく2014年および2022年における政治的変化の衝撃を物語っているが、とにかく長期的に見るなら、ウクライナの世論は現在のような状況が安定的に持続していたわけではなく、激変をこうむってきたことが明らかである。
 EUおよびNATOへの態度についても同様の変化を見ることができる。EUに対してとNATOに対してとでは違いがあり、調査の種類によっても種々の差があるが、大まかに言って、2013年までは高くなかったEU加盟志向およびNATO加盟志向は14年以後に上昇した(前者の方が高く、後者はそれよりもやや低い)*2
 もう一つの例として、ウクライナ民族主義者組織(OUN)およびウクライナ・パルチザン軍(UPA)――しばしば「ナチとの協力」が問題とされている――への評価をみるなら、2013年までは否定論の方が肯定論よりも高かったが、2015年頃から肯定論が高まり、2022年には81%が肯定的評価を示すに至った。地域別に見るなら、西部では当初から一貫して肯定論が強く、他の地域では時期による変化が見られるが、南部・東部では中部に比べて肯定論の比率が相対的に低いという差が見られる*3。ここに見られる変化は親露/反露意識の変化をちょうど裏返したような関係になっている。
 最後に挙げた例に見られるように、世論は地域によっても異なる。このこと自体は広く知られているが、新しい情勢を考える上で重要なのは、時期によって調査対象の範囲が異なるという点である。2014年以降、クリミヤ全体およびドンバス2州の一部がウクライナの統治範囲から離れ、2022年以降にはザポリッジャ州とヘルソン州の一部がこれに続いた。ロシアないし親露派の統治下に入った地域の人口は、時期によっても異なるので正確には言えないが、およそ700-800万程度と見積もられる。この規模の人間が現在のウクライナの統治下から外れたために、世論調査の対象に入らないということになった。更に、国外流出も開戦後に急増した。これも正確に掌握することはできないが(戦時下のウクライナでは18歳から60歳の男性の出国が禁止されているが、その禁令を破って出国した人の数は正確に記録されていない)、数百万にのぼるといわれている。こうして、ロシア/親露派占領地域の人口と外国に出国した人口を合わせると1000-2000万程度ということになりそうである。ウクライナにおける最も新しい人口調査たる2001年の調査ではウクライナの総人口は4800万だったから、そのうちのおよそ3割前後がウクライナの統治範囲の外にあり、世論調査の対象外だということになる。そうした人たちがどのような見解をいだいているかは不明だが、現在のウクライナ政権下に居住している人たちに比べれば相対的に民族主義的傾向が低いと想定することは無理がないだろう。
 こういうわけで、この間伝えられているウクライナの世論は、もともとのウクライナ人口の全体ではなく、そのうちの一部だけを反映しているということになる。
 
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 次に考えてみたいのは、ウクライナ出身の社会科学者たち――現在は往々にして国外に出て、欧米諸国に拠点を移している――がどのような見解を表明しているかである。
 社会学者のイシチェンコ(かつてはキーウに拠点を置いていたが、今は拠点をベルリンに移している)、政治学者のクデリア(もともとリヴィウ出身だが、現在はアメリカを拠点としている)の二人については、以前にその見解を紹介したことがある*4。詳しくはそちらを見ていただきたいが、一言で言って彼らは決して「親露派」ではないが、現在のウクライナ政権に対してはあれこれの点で批判的であり、民族主義的発言とは距離を置いている。
 もう一人の例として、政治学者のカチャノフスキ(もともと西ウクライナ出身だが、現在はカナダのオタワ大学教授)が挙げられる。彼はいろいろなテーマについて書いているが、特に論争的なのは、2014年2月20日における大量殺戮は誰によるものだったかという問題への取り組みである。ウクライナおよび西側における通説はこのときの射撃はヤヌコヴィチ政府と警官隊側によるとしているが、この通説を確証する証拠は提出されていない。むしろマイダン派が占拠していた建物から極右勢力による射撃がなされたという証拠が裁判に提出されているのだという。これは一種の「偽旗作戦」だが、その結果、暴力的政府転覆(いわゆるマイダン革命)が生じ、それはクリミヤ併合、内戦、ドンバスへのロシアの軍事介入をもたらした。このように論じるからといって、カチャノフスキは2022年のプーチン政権によるウクライナ侵略を肯定するわけではない。ロシアの侵略は明らかな国際法違反であり、2014年のマイダン殺戮はロシアの不法な侵略を正当化するものではない。だが、同様にロシアの侵略はマイダン殺戮を正当化しない、と彼は論じている*5。見られるように、「親露派」的な立場に立つことを避けながらも、マイダン革命およびその後のウクライナ政権に対して批判的な見地を示している。彼はその後もフェイスブックに多数の文章を投稿して、現在のウクライナ政権に批判的な見地からの情報を発信している。彼の議論は論争性をはらんでおり、それをどう評価するかは一概に言えないが、とにかく「ウクライナの声」が一色ではないことを示している。
 以上では社会学者と政治学者の例を挙げたが、歴史家たちもさまざまな見解を表明している。日本では、セルヒー・プロヒー(ハーヴァード大学教授)の名が、その大著が翻訳されたことや、また最近来日したこともあって、わりと広く知られている。だが、彼だけがウクライナ歴史学を代表しているというわけではない。プロヒーは確かに力のある歴史家であり、幅広く種々のテーマについて書いているが、その議論が万全であるわけではなく、ところどころ論争的だったりする(単純なナショナリストというわけではないが、どちらかといえばその方向への傾斜がある)*6
 プロヒーとは異なる歴史家の例として、ゲオルギー・カシヤーノフを取り上げてみたい。なお、彼は最近までウクライナ科学アカデミー・ウクライナ史研究所の現代史および政治部門の長を務めていたが、その後、キーウに居づらくなったのか、最新の論文では、ルブリンのマリア・キュリー=スクウォドフスカ大学所属となっている。カシヤーノフが取り組んでいるのは一種の史学史であり、歴史研究が現実の歴史の中でどういう役割を果たしているかという問題である。彼によれば、ソヴェト期も、その前および後も、歴史はさまざまな目的のために利用されたり、乱用されたりしてきた。そのことを批判的に振り返るべきことが説かれている。
 2015年の論文では、およそ次のようなことが指摘されている。19世紀には、国家を持たない民族の復古的ナショナリズムのパターンがあった(チェコ、スロヴァキア、ポーランド等々)が、ソ連解体後、ネイション化しつつある国家としてのウクライナは、ネイション存続の根拠を国家に求める伝統を引き継いだ。その際、国家が言説と政策の主たる担い手となった。現在を説明し、国民国家および基幹民族を正当化するように過去の像を構築・再構築すべく歴史と歴史家が動員された。こうして、本質主義的なナショナル・ヒストリーがつくられ、そこでは基幹民族以外の民族が無視された。それはソヴェト的歴史観に「真の歴史」を対置するものとされた。21世紀になってからの歴史/集合的記憶は3通りの方向に分かれる。@一貫したウクライナ民族の歴史という民族主義史観、Aソヴェト・ノスタルジア史観、B両者の混合。@は西部および中部の一部で強く、Aは東部とクリミヤで強い。Bは中部および南部の一部で広がっている。これらの史観は最近まで平和的に共存していた。政治エリートたちが異なる史観で論争していても、大多数の人々はそうした論争にコミットせず、単なる観察者にとどまっていた。この状況はオレンジ革命以降に変化した。ユシチェンコおよびその同盟者たちはホロドモル問題や記念碑などをめぐって、歴史の政治を展開した。一方がバンデラの記念碑を建てたり、レーニン像を倒したりするのに対し、他方はバンデラ派の犠牲となった人々の碑を立てたりした。この動きは2007-10年に高まり、マイダン革命後に一層顕著となった。2014年2月から10月の間に300以上のレーニン像が倒された。「ウクライナに栄光あれ、英雄たちに栄光あれ」というスローガンは元来1930-40年代のウクライナ民族主義者のスローガンだったが、マイダン運動の中でヤヌコヴィチ政権への抗議のスローガンとなった。これに反対する側は、独ソ戦期における「ベルリンへ」というスローガンを今度は「キーウへ」として、反ファシズム闘争のシンボルとした。どちらの側も、歴史的正義のため、敵を除去しようとして、味方および敵の生命を犠牲にしている*7
 上記論文からおよそ10年後の2024年の論文では、前稿とほぼ同じ見地に立ちつつ、歴史と政治の関係がより新しい時期までフォローされている。ユシチェンコとポロシェンコは民族派の支持を集めたが、その代わりに、より広い社会の支持を失った。2014年までは共産党や地域党がこうした民族派に対抗していたが、マイダン革命後、共産党は禁止され、地域党は分解したため、民族派的な記憶言説への対抗者がいなくなった。ウクライナ民族主義者組織(OUN)とウクライナ蜂起軍(UPA)の名誉回復への動きはソ連末期にさかのぼる。1990年7月、ウクライナ共産党政治局はウクライナ史教育に関する決定で、OUNとUPAの問題にも触れた(但し、正面からの名誉回復ではなく、とにかく歴史的存在として認めるという趣旨)。他方、ガリツィアではOUNとUPAの公的名誉回復が主張されるようになり、バンデラおよびシュへヴィチの記念碑創立やバンデラ博物館創設などが始まった。それでも、当初の名誉回復はOUNのうちのバンデラ派にとどまり、メリニク派はナチ協力者だったとされていた。そうした中で、1996年にはOUNおよびUPAの活動に関する調査委員会が設置されたが、対立が続き、結論を出すことができなかった。オレンジ革命後の2005年に、歴史家の作業グループが一定の結論に至った。このグループには異なる見解の持ち主が参加していたが、委員会の長は名誉回復論に与した。一つの要因として、大統領夫人のカテリーナ・ユシチェンコは、ウクライナ青年同盟(OUN系)の活動家だった。こうして、ユシチェンコの時代にOUNおよびUPAの名誉回復論は特定政党のものの域から国家政策に手が届くものとなった。ユシチェンコはいくつかのステップを踏んで、OUNおよびUPAの正式の名誉回復を試みた。2008年1月には、「1920-1990年代における独立ウクライナのための闘争の参加者たちの法的地位に関する法律」の草案が提出されたが、ユシチェンコとティモシェンコの競争に巻き込まれたため、成立に至らなかった。その間に、西部ではOUNおよびUPAの参加者たちへの社会的給付が始まった。2007年にはユシチェンコはシュへヴィチに「ウクライナの英雄」の称号を付与したが、これはロシアだけでなくイスラエルの反撥を招いた。1990年から2010年までのあいだに、西部の100の通りがバンデラ通りと名づけられ、バンデラの記念碑が17個所に建てられた。2010年1月(大統領選挙でユシチェンコが大敗した直後)、退陣間際のユシチェンコはバンデラに「ウクライナの英雄」の称号を授与した。ナショナリスト的な記憶の語りは、2013-14年のマイダン革命後に大きく拡大した。ソヴェト・ノスタルジア的歴史観は制度的支えを失い、その支持者はクリミヤおよびドンバスのロシア派統治地域に残るということになった。しかも、ロシアがその歴史政策を強めることで、それは反ウクライナ的という性格を帯びるようになった。他方、右派ナショナリストは政治的役割を上昇させた。ロシアの侵略にも助けられて、ナショナリスト・イデオロギーの支持者ではない与党連合にもこの史観は広がった。ポロシェンコ大統領にとって歴史は道具的価値を持っていた。2015年4月の一連の法律――「非共産主義化法」とか「記憶法」と呼ばれる――は「大祖国戦争」の用語の排除、共産主義的シンボルの利用の禁止などを定めた。1920年代の「民族共産主義」も否定された。もっとも、こうした法律は法学者やリベラル知識人に批判されたし、EUのヴェニス委員会も批判的だった。OUNおよびUPAの名誉回復が正式のものとなるなかで、バンデラにちなんだ地名が各地に登場した。こうした動きはポーランドおよびイスラエルで反撥を呼び起こした(OUNとUPAは反ポーランド・反ユダヤ的性格を帯びており、虐殺に関与してもいた)。世論調査でOUNおよびUPAへの評価の変動を見るなら、2013年までは否定論が優越していたのが、2014-21年には賛否が対抗するようになり、2022年には肯定論が優越的位置を占めた。2022年2月のロシアによる本格的侵略は国民を団結させ、新しい英雄主義の物語を生み出しつつある*8
 見られるように、決して「親露派」でもなければ、「ソヴェト・ノスタルジー」に与するものでもないが、ウクライナ民族主義的史観がソヴェト的史観と実質的に類似する性格を帯びていることを批判的に指摘している。このような歴史家がキーウに住みづらくなったことは、現在のウクライナの言論状況が政治的に狭められる状況にあるのではないかと懸念される。
 もう一人、ホロコースト研究に携わっているマルタ・ハヴルィシュコ(リヴィウ出身だが、現在はクラーク大学客員准教授)も注目に値する。彼女はSNSで積極的に発信しているが(ウクライナ語・ロシア語・英語を混用)、そこでは現代ウクライナで反ユダヤ主義を支持する極右が一定の役割を果たしていること、にもかかわらずそのことを指摘しようとすると、「ウクライナの敵」というレッテルが貼られて、発言が抑止される状況があることが指摘されている*9。短い文章での発信がたくさんあるので、どう評価するかは難しいが、とにかく「ウクライナの声」の多様性を象徴する例とは言えるだろう。
 ある国における意見や感覚が単一ではなく多様だというのは、ある意味で常識的な話である。ここ20年ほど、歴史家たちのあいだで「ナショナル・インディファレンス」という議論がかなり盛んだということも思い起こされる。もっとも、この言葉を使う人たちのあいだに明確な一致があるわけではなく、種々の修正意見――「日常的民族実践(everyday ethnicity)」とか「道具主義的なナショナリズム」など――が出されてもいる*10。それにしても、「ネイション」と呼ばれる集団が単一ではなく、多面的な要素が含まれることは当然だろう。ウクライナの場合、元来ウクライナ人とロシア人のあいだに高度の近接性があり、それほど明確な一線を引くこともできないということは常識だったのだが、2014年以後――より一層明確には2022年以後――になると、ウクライナとロシアの対抗関係が全面化し、ウクライナ国民の強固な団結が前面に出るようになった。それでも、具体的にどのように対ロシア戦争を進めるかとか、停戦可能性についてどのように考えるかとなると、当然ながら各人ごとの差異がある。こうした問題について考える上でも、「ナショナル・インディファレンス」論やその修正版がある程度参考になるように思われる。
 
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 はじめの方で述べたように、現在ウクライナで行なわれている各種世論調査は、ロシア/親露派占領下の地域の住民を包括していない。その地の住民にもさまざまな人がおり、また時期によって考えが変わることもありうるから、彼らの考えを確定的に推測することはできないが、現にウクライナ政権統治下にある地域の住民に比べるなら相対的に親露的だということは確実である。そして、そうした人たちの間では、「この地はもともとロシア領であってもおかしくはなく、確定的にウクライナ領だとはいえない」という考えがかなりある。ある地域をどの国の領土と見なすか自体が住民のあいだで一定してはいないということは、停戦交渉の行方を考える上でも押さえておく必要があるのではないだろうか。
 ウクライナの声が単一でないように、ロシアの声も単一ではない。戦争という情勢下では、「ウクライナ」と「ロシア」がそれぞれ単一の主体であるかに見なされ、それらが衝突する中でどちらが勝つか負けるかが問題とされがちである。しかし、どちらの側にも多様な声があって、それらが複雑に交錯する中であれこれの動きが進行していくというのが現実だろう。それがどのような帰着に行き着くかは不確定だが、とにかくそうした交錯を押さえておく必要があるように思われる。

*1「ウクライナのプラウダ」(https://www.pravda.ua)2022年5月26日。塩川伸明「ウクライナ戦争の序幕――2014年前後/2010年代後半/2020-21年」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/IntroductionUkrainianWar.pdf)5-6頁。
*2塩川「ウクライナ戦争の序幕」6-7頁。
*3Georgiy Kasianov, "Nationalist Memory Narratives and the Politics of History in Ukraine since the 1990s," Nationalities Papers, vol.52, no. 6, 2024, pp. 1248-1249.
*4塩川伸明「ウクライナの社会学者による現代ウクライナ政治分析」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/Ishchenko.pdf);塩川「ウクライナの政治学者によるウクライナ政治の分析:セルヒー ・クデリアの場合」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/SKudelia.pdf)。
*5彼はこの問題に関連する文章を多数書いている。初期の論文はやや議論に性急なところがあり、多くの論者から厳しい批判を受けたが、2023-24年の一連の作品は論を練り直して、説得力を高めている。Ivan Katchanovski, "The Maidan Massacre Trial and Investigation Revelations: Implications for the Ukraine-Russia War and Relations," Russian Politics, vol. 8, 2023; id., "Buried trial verdict confirms false-flag Maidan massacre in Ukraine," Canadian Dimension, February 20, 2024; id., The Maidan Massacre in Ukraine: The Mass Killing that Changed the World, Palgrave/ Macmillan, 2024. 関連して、松里公孝『ウクライナ動乱――ソ連解体から露ウ戦争まで』(ちくま新書、2023年)110-115頁および塩川「ウクライナ戦争の序幕」10頁参照。
*6塩川伸明「プロヒー『ウクライナ全史』を読む」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/Plokhy'sbook.pdf)参照。
*7Georciy Kasianov, "How a war for the past becomes a war in the present," Kritika, vol. 16, no. 1(2015).
*8Georgiy Kasianov, "Nationalis Memory Narratives and the Politics of History in Ukraine since the 1990s," Nationalities Papers, vol.52, no. 6, 2024.
*9ハヴルィシュコはフェイスブックやX(旧Twitter)で精力的に発信している。日本では市野川容考氏がしばしばシェアしている。
*10マールテン・ヴァン=ヒンダーアハター&ジョン・フォックス編『ナショナリズムとナショナル・インディファレンス――近現代ヨーロッパにおける無関心・抵抗・受容』(ミネルヴァ書房、2023年)参照。