サロッティ『1インチの攻防*1』を読む
一
「ベルリンの壁」開放後のポスト冷戦秩序の形成過程を大量の一次資料発掘に基づいて詳述した書物である。本書が広く話題を集めているのも理由のないことではない。しかも、本書の記述は米・欧・露諸国にわたっていて、マルチアーカイヴァルな多角的歴史であるかに見える。だとすれば、ますます本書の価値は高く、多くの人に読まれるべき本だということになりそうである。しかし、丁寧に読むと、多数の登場人物に関わって大量の一次資料を跡づけて、どのような構想がどのように対抗し合っていたかを論じているのはアメリカに関わる部分が多く、他の諸国については、ところどころで重要人物の言動を取り上げてはいるものの、それほど徹底してはいない。もちろん、アメリカの対ロ政策だけでも十分に大きなテーマだと言えば言えるが、それにしても文字通りの多角的歴史を描いた作品ではないというのが全体的感想である。
米ロ関係とは相対的に別個に扱われるべき米欧関係についての比重が低いという点は、既に吉留公太氏によって指摘されている*2。ロシア・ウクライナ・中東欧についてもあまり幅広い掘り下げがなされてはいない。ウクライナについてはほとんどもっぱらプロヒーに依拠している。サロッティはプロヒーと共著論文を書いたりしていて、ウクライナに関しては全面的にプロヒーに負ぶさっているように見える。しかし、プロヒーはそれなりに有力な歴史家ではあるが、論争的な個所もあり、彼をウクライナの歴史家の唯一の代表と見なすのは適切でない*3。プーチンについては、大統領就任時に刊行された小著『一人称で』に大きく依拠している。本書全体でプーチンの位置付けはかなり大きなものがあるが、その大部分は根拠を示さない推測に基づいている。特に「日本語版への序文」はウクライナ戦争開始後に書かれたという情勢を背景に、それが歴史にさかのぼる一貫性を持つかのような書き方になっている(元来の序章でもそれに近い見地が表明されているが、日本語版では一層強調されている)。エリツィンについてはいくつかの一次資料を利用しているが、全体的な流れとしてはコルトンおよびアロンの伝記に依拠するところが大きい*4。ゴルバチョフについてもいくつかの一次資料を使っているとはいえ、それほど綿密ではなく、わりとあっさりと片付けられている観がある。こういうわけで、本書はウクライナおよびロシアについては掘り下げが浅いと言わなくてはならない*5。
二
本書は3部からなり、第1部は1989-92年、第2部は1993-94年、第3部は1995-99年という時期区分になっている。このうちの第1部は、拙著『歴史のなかのロシア革命とソ連』(有志舎、2020年)第6章および『現代史の起点――ソ連の終焉へ向けて』(岩波書店、近刊)第5、7、9、10、11章と多くの点で重なる。そのため、私にとってはこの部分が特に大きな関心の対象となる。本書は多くの一次資料に基づいて、これまであまり知られていなかった細部を掘り起こしていて、多くを教えられたが、他面、これまでにも知られてきたことをやや簡略化している観があり、私としてはそれほど圧倒されたという印象を受けない。以下、内容に即して検討してみたい。
第1章では主に1989年が扱われ、中東欧諸国におけるワルシャワ条約機構からの離脱傾向の高まりが論じられている。これは、後のNATO加盟論への背景という意味があるが、結果から過去にさかのぼった見方になっているのではないかとも感じられる。また、ゴルバチョフについての記述は詳しくなく、どちらかというと受身的に描かれている。第一部の末尾には、理想主義的な空想家だったゴルバチョフは、自らの無能さによって破滅したと書かれている(上、237頁)。これは大まかな見方としては多くの人が指摘するところだが、より突っ込んで、どこにどのような弱点があったのか、その理想主義はどこまで実現可能性があったのかなかったのかといった点に立ち入った検討はない。
特に重要なのは、1989年11月9日の「ベルリンの壁」の開放だが、この個所はわりと短く、東ドイツ指導部は限定的な壁の開放を売ろうとしていたのに、それに失敗したという書き方になっている(上、49-50頁)。これは前著『1989』に比べて綿密さに欠け、通俗的解説に傾斜しているという印象を受ける。ゴルバチョフの反応については、彼はベルリンの壁開放を恐怖感で受けとめたとか、双方の軍事ブロックを解散するというシェワルナゼの構想を引っ込めたと書かれているが(上、50-51頁)、これはアメリカおよび西ドイツの関係者の観測に過ぎず、ゴルバチョフ自身の言葉によるわけではない。
この時期のゴルバチョフ周辺の人物の考えを知る手がかりとして、チェルニャーエフの浩瀚な日記が重要である。彼はゴルバチョフの補佐官として密接な協力関係にあったが、ときおりゴルバチョフと意見を異にすることがあり、ゴルバチョフの言動に苛立ったりしていた。サロッティにしろ、他の何人かの欧米論者にしろ、チェルニャーエフの日記のうちの特にゴルバチョフ批判に関わる個所だけを取り上げて、あたかも二人が大きく隔たっていたかに描き出す傾向があるが、これは一面的である。ベルリンの壁が開いた翌日の日記には次のような記述がある(この個所は本書では引用されていない)。「これはゴルバチョフの大きな達成だ。彼は歴史の歩みを感じとり、それが自然な方向に向かうのを助けたのだから」。これに続けて、しかし来るべきブッシュとの会談は困難なものになるだろうとの予測も記されていて、歓迎と不安の二面的態度が表出されている*6。
11月下旬の出来事としては、ソ連共産党中央委員会国際部長ファーリン(訳書ではファリンと記されている)の文書――コールの補佐官テルチクに渡されたもの――が重要である。本書における紹介の仕方は、ドイツの非核化およびNATO脱退を条件としてのみ統一は認められるとしたという風に記されている(上、55-58頁)。だが、この文書の主たる狙いは、両ドイツの「国家連合(コンフェデレーション)」の可能性というアイディアがあることを西ドイツに伝えるという点にあり、サロッティの要約には疑問の余地がある。このファーリン文書のショックを受けて、コールが急遽打ち出したのが、有名な「10項目」演説(11月28日)だった。この演説はゲンシャー外相にも知らされていないという抜き打ち発表だったことはよく知られている*7。本書はそうした関係に一応触れているものの、あまり丁寧ではない。
これに続くマルタ会談(12月2-3日)は「壮観と拍子抜けの奇妙な混合」とされ、わりとあっさりと片付けられている(上、61-62頁)。この会議で米ソの溝が埋まったわけではなく、決定的な結論が出たわけではないことは事実である。だが、会議の終盤で米ソが互いに相手を敵と見なすことをやめるという点で歩み寄りが見られたのも反面の事実である。会談後に共同でもたれた記者会見で、ゴルバチョフは「われわれはともに、世界は冷戦という時代から新しい時代に入ったことを確認した」と語った。米政権内にはまだ対ソ不信が強く、冷戦終焉を語るのは時期尚早だとの考えも有力だったが、この時点でそれを明示することは避けられ、あたかも米ソ共同で冷戦終焉が確認されたかのイメージがつくりだされた*8。本書はマルタ会談のそうした側面にはまるで言及していない。
マルタ会談直後の動きとしては、その晩にブッシュはコールと会見し、翌日のNATO首脳会議に向かったということだけが記されているが(上、62-63頁)、これと時を同じくしてワルシャワ条約機構首脳会議が開かれ、東西接近・和解としての冷戦終焉というゴルバチョフ報告が承認された(唯一の異論はチャウシェスク)ことには言及していない*9。
第1章の末尾では、このときのプーチンについて、根拠抜きの憶測が記され、コールとプーチンを対比している(上、64-65頁)。ゴルバチョフおよびその周辺については詳しいことを記さず、軽視しておきながら、プーチンはこの時期からソ連(ロシア)を代表する人物だったかの構図が描き出されている。これは本来歴史研究であるはずの本書を過度に現状と密接させるものではないかと思われてならない。
三
第2章では1990年前半が主に扱われている。
章の冒頭で、ゴルバチョフの「ヨーロッパ共通の家」論の中身は曖昧だったが、ブッシュは明確にNATOの維持および拡大を考えていたという対比が、典拠抜きに断言されている。全体として、ゴルバチョフは明確な考えや方針を持っていなかったという憶測がサロッティにはあり、そのためにゴルバチョフの扱いが軽くなっているという印象を受ける。
続く個所によれば、問題はコールがモスクワと取引する可能性にあり、それにどう対処するかにあった。アメリカは統一ドイツ全体をNATOにとどめることを目標として、ゴルバチョフがその見返りとして何を求めているかを知ろうとした、しかしゴルバチョフ自身が何を望んでいるのかが分かっていなかった、とある(上、68-70頁)。この個所には注がついているが、それは外部からの観測に過ぎない。
1989年末の時点ではまだドイツ統一がすぐに実現するかどうかは明確でなかったが、東ドイツの国家機構と経済が急速に破綻する中で、1990年1月にはドイツ統一という方向性が明確なものとなっていた。この点で重要なのは、少数のソ連指導部たちによる会合(1月26日)である。本書はこの会合について短い記述をしているが(上、72-74頁)、それはあまり要点を押さえるものになっていない。この会合では、様々な参加者たちが立場の違いに関わりなく統一不可避論を共有しており、その上で、その実現過程に関わる議論がなされたのだが、本書の書き方ではそれがはっきりしない*10。また3月に予定された東ドイツ議会選挙の結果がこの時点では未知だったことも重要だが、そのことにも触れていない。
これに続く個所では、西ドイツのゲンシャー外相とアメリカのベーカー国務長官がNATOは東ドイツ領に広がらないという考えをとったことが取り上げられている。西ドイツ国内ではコールとゲンシャーの間に開きがあり、アメリカ国内では国家安全保障会議と国務省の間に開きがあったため、ソ連にどのようなメッセージを伝えるかにも不確定性が残った。このことは従来の研究史でもよく知られているところである。そうした中で、ベーカーは2月9日に訪ソし、ゴルバチョフとの会談で「NATOの管轄が現在の位置から1インチたりとも東に移動しない」可能性について発言した。これがその後長く論争となる「1インチ」発言である(上、87-89頁)。これにすぐ続いて訪ソしたコールは、ベーカーからとブッシュから異なるメッセージを受け取っていたが、この時点のコールはベーカーと似た言葉遣いをとった。
実は、アメリカの国家安全保障会議ではベーカー発言は否定されていたのだが、そのことはソ連には通知されなかった。ということは、つまりアメリカでは否定された方針をゴルバチョフはまだ有効なものと受け取ったということを意味する。その後長く「1インチ」発言が論争的となる一因はこの点にあった*11。本書はこの点についてあまり詳しく書かず、ただベーカーはこの後「1インチ」発言を繰り返さなくなった、ソ連政府がそれに気づくのにはいささか時間がかかったとだけ記している(上、106-107頁)。
2月上旬の段階ではコールはベーカー同様にNATO不拡大の可能性を語ったが、下旬の米独首脳会談でブッシュはコールを説得し、NATOの中の統一ドイツという方針を共通のものとして確定した。このとき、ブッシュは「勝っているのはわれわれであり、彼ら〔ソ連〕ではない」と発言し、この路線を納得させるためにはドイツからの資金援助が有効だと語った(上、115-123頁)。このプロセスはよく知られているところだが、金を出せばソ連をなだめられるという発想は、ソ連国内で「金で勢力圏を売る」ことへの反撥を生み出し、ゴルバチョフの立場を弱めたことが考慮されていない。
四
第3章は主に1990年後半の時期を扱っている。この時期に最大の問題となったのは、ドイツ統一をどのような形で進めるかにあった。
ゴルバチョフは統一ドイツのNATO加盟はありえないと断言していたが、アメリカはそれを現実のものとして推し進めようとしていた。フランスはやや異なる立場をとろうとしたが、ブッシュはミッテランに、ゲンシャーが説くような汎ヨーロッパ的組織は論外だと語った(上、129-130頁)。また、東ドイツの領域がNATOに包括されるだけでなく、中東欧諸国についてもNATOを含めた構想が描かれ始めていた。チェコのハヴェルは「軍事ブロックに属さない非武装の中央ヨーロッパ」を提唱していたが、アメリカはハヴェルもいずれ事態を理解するだろうと考えており、実際その通りになった、と書かれている(上、130-131頁)。ここで重要なのは、ハヴェルの態度がいつ、どのようにして変わったのかだが、その点には立ち入っていない。少し後の方で、チェコスロヴァキアが秘かにNATO加盟を打診してきたことが述べられ、「両軍事同盟に代わる汎ヨーロッパ的な組織」の構想もゲンシャーやミッテランに持たれていたが、NATOを優先するアメリカの意向が優勢になっていたとある(上、162-163頁)。「汎ヨーロッパ的」構想がアメリカに受け入れられなかったのはその通りだが、どうしてそこに落着したのかについてはもっと掘り下げた検討があってもよいのではないかと思われる。
他の中欧諸国はともかく、東ドイツはソ連にとって特に重要な存在だった。しかし、3月18日の選挙によって、ドイツ統一の実現がいよいよ間近に迫った。この選挙こそがゲーム・チェンジャーとなった(上、134-135頁)。この記述は、それ自体としてはその通りだが、「ゲームチェンジャー」というなら、章の冒頭で触れておくべきではなかったかという気がする。蓋を開けてみればこういう結果になり、それが後の経過を大きく規定したわけだが、選挙の直前まで、これとは異なる結果になるかもしれないという予想がかなり多くの人たちに分かちもたれており、そのことが2月から3月半ばの政治家たちの言動に影響したはずだが、本書はそのことをあまり重視していない*12。
こうした情勢の中で注目されるのは、ソ連のファーリンが独自の構想をいだいていたという点である。彼はそれまでの成り行きに不満をいだいており、中東欧の同盟国との決別を内々に告げはじめていた。ゴルバチョフの指導に飽き足りないファーリンは、ドイツ統一がNATOの枠内で行なわれるべきかについて国民投票を行なうことを提案した。これは共産党幹部だった時代からの見事な発想の転換だった。もし国民投票が行なわれるなら、NATO加盟を断念する結果になる可能性は十分にあった。もしコールが国民投票を避けるなら、それをゴルバチョフは利用することができた。この好機を一刻も早く使う必要があった。そろそろ本気にならねば手遅れだということをファーリンはゴルバチョフに伝えようとしていた。しかし、ゴルバチョフがその助言に従わなかったため、これがソ連の衰退に歯止めをかけられたかどうかは永遠の謎のままだ、と述べられている(上、133-134, 138-141, 156-157頁)。この個所は注目に値する。前著『1989年』でもファーリンのことが各所で取り上げられていたが、本書の記述はもっと詳しくなり、かつての党イデオローグがリアルポリティクに長けた政治家になったという見地が示されている。本書は概して、ソ連にはリアルな対応策がなく、ずるずると後退したかの書きぶりだがが、もしファーリンの提案が生かされていたなら随分違った結果になったと示唆したいかのようにも読める。ではどうしてファーリン提案が生かされなかったという問題になるが、この点ではゴルバチョフが耳を貸さなかったとするのみで、本格的な分析はない。
ゴルバチョフは5月31日からの米ソ首脳会談およびそれに先だつ18日のベイカーとの会談で、統一ドイツのNATO加盟可能性について押し問答し、ドイツがどの同盟を選ぶかは自ら決定できるという権利を認めた。ここでゴルバチョフが認めたのは抽象論としての同盟選択権ではあったが、事実上NATO加盟を認めたものという風にアメリカは受けとめた(同席していたファーリンとアフロメーエフもそのように受けとめ、ショックを受けた)。なお、このときゴルバチョフはソ連がNATOに加盟する可能性にも触れたが、ベイカーは正面から答えなかった(上、141-149頁)。
少し後でNATO改革の問題が触れられ、これはソ連共産党大会でゴルバチョフが反対派からの攻撃をしのぐのを助けたとされている(上、155頁)。これは欧米の観察者たちの間で広く共有されている見解だが、ソ連の中から見るなら、ゴルバチョフがこの大会で書記長にとどまるしかなかったのはゴルバチョフの勝利ではなく、むしろ彼を苦境に追い込んだと見ることができる*13。その点を視野に入れていないために、アメリカとNATOはゴルバチョフを助けようとしていたのにそれが実を結ばなかったという見方になるが、これではゴルバチョフがますます追い詰められていたことがはっきり浮かび上がらない。
8月に始まるペルシャ湾岸危機はアメリカの関心を引きつけたが、もしこの時期にドイツ統一交渉がまだ決着していなかったら、ドイツ統一は困難だったろうという風に書かれている(上、162頁)。湾岸危機のもう一つの影響として、アメリカはソ連との協調を重視し、そのことが米ソ関係に一定の転換をもたらしたことがあるのだが*14、その点には触れられていない。
ドイツ統一は10月3日に現実化し、12月にはゴルバチョフへのノーベル平和賞授与が決定した。しかし、国内では「物乞い国家」への転落への反撥が強かった(上、173-174頁)。これはその通りである。だが、どうしてそうなったのかについての追求はない。
五
第4章では、部分的に1990年後半にさかのぼりつつも、主に91年の動向が扱われている。
冒頭に近い個所に、1991年12月に「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3ヵ国が結束して連邦の解体を要求し、それに成功した」とある(上、180頁)。これは3国の間の差異を無視した書き方であり、また中央アジアその他の諸国も度外視している。全体としてソ連の内部事情に深く立ち入ろうという意欲がないことのあらわれである。
1990年半ばまでにワルシャワ条約機構はかなり大きく揺らいでいた。問題はその揺らぎがどのように着地するかにあった。本書では、6月7日にハンガリーはワルシャワ条約機構の軍事組織の「即時清算」を要求したと述べられている(上、182頁)。ハンガリーの中にそのような志向があったのは事実だが、まさにこの6月7日に開かれたワルシャワ条約機構の政治協商会議における公的発言はそれとは異なっていた。本書ではとりあげられていないが、この会議の議事録は極めて興味深いものがある。詳しくは別の場で紹介したが、かいつまんで言うなら、ワルシャワ条約機構とNATOはともに全欧的な機構に溶解し、そのことによってヨーロッパの分断を克服すべきだというゴルバチョフの提言を、チェコスロヴァキアのハヴェルも、ハンガリーのアンタルも支持していた*15。これは願望に過ぎないと言えば言える。「効果的な汎ヨーロッパ的安全保障システムも生まれていなかった」というのもその通りである(上、184頁)。だが、それを目指すかどうかという問題に本書は触れておらず、そのため結果論的な発想に陥っている。
この後のソ連はますます混乱に満ち、解体への予兆を見せ始めた。とはいえ、その道は一直線ではなく、種々のジグザグに満ちていた。本書はそうしたジグザグに立ち入ることなく、分離運動の高まりが軍事力で抑え込まれる情勢になった――その頂点が1991年1月のヴィリニュス事件――という直線的理解に立っている(上、187-188頁)。この個所はあまりにも単純すぎて、およそ歴史らしくないというほかない。詳しくは別に論じたが、しばらく迷った後のゴルバチョフは武力による共和国政権転覆を否定し、バルト諸共和国との再度の交渉に転じた*16。こうした経過に触れていないのは、ソ連の歴史に深い関心を寄せていないからだと考えるしかない。
続いて、1991年7月、ロンドン・サミットへのゴルバチョフの参加について書かれているが、このとき欧米諸国がソ連援助に乗り出さなかったことに触れていない。それにすぐ続いて、6月のうちにソ連国内での反ゴルバチョフ・クーデタの試みがあったという記述がある(上、191-192頁)。このときのクーデタの噂は当時から根強く広がっていたものだが、ゴルバチョフを追い落とすかに見えたパヴロフ首相はすぐに後退した*17。当時のソ連政権中枢で複雑な角逐が展開していたのは事実だが、それはゴルバチョフを一挙に追いつめるほと煮詰まっていたわけではなく、本書の書き方は安易である。
当時のソ連でゴルバチョフの最大のライヴァルだったのはいうまでもなくエリツィンだが、二人の関係は対立を強めたり和解の様相を示したりといった複雑な変転を経験していた*18。本書はエリツィンがテレビ演説でゴルバチョフの辞任を要求していたと書いているが(上、192-193頁)、まもなくその要求を取り消したことを見ておらず、四月以降しばらくの間のエリツィンはゴルバチョフを擁護するかの姿勢を示したことも見落としている。続いて、いよいよ8月クーデタに話が進むが(上、194-197頁)、この個所もあまり正確ではなく、安易な書き方というしかない*19。
その後の過程では、核兵器管理問題が重要視されているのが一つの特徴である。国際安全保障の観点から言えば、この問題が最重要視されるのは理解できる。その点は評価できるが、ソ連最末期の政治過程はこの問題だけに尽きるわけではないので、本書の視点はやや限定されているのではないかとの印象も否めない。
ソ連最末期の攻防の焦点はウクライナにあった。米政権内で対ソ強硬派の代表格だったチェイニーは、ウクライナとの関係強化を推し進めたという(上、203頁)。スコウクロフトの発言によれば、エリツィンはウクライナがソ連崩壊の直接の原因となるように工作していたが、本当の理由はウクライナの独立願望を自己の目的のために利用したエリツィンの狡猾さだった。解体の力はかなり強かったが、エリツィンとゴルバチョフの間の敵愾心がなければソ連は何らかの形で存続したかもしれない、というのが彼の見解だった(上、206頁)。これは重要な指摘である。12月1日にはウクライナで国民投票が行なわれ、独立が圧倒的に可決された。本書ではそのことについて、ウクライナが「完全な独立」を決定した場合、ウクライナは直ちにスラヴ民族から痛みを伴う経済的・政治的分離を開始し、英仏を上回る核保有国となると書かれている(上、209-210頁)。実際には、この投票には文言上のあいまいさがあり、「独立」しても「同盟」に加わる可能性を排除しないという微妙さがあった。また、同じ日に行なわれた大統領選挙では各候補ごとに得票率の地域差がかなりあり、ウクライナが全面的に一体ではないことを示した*20。こうしたことに本書は全く触れていない。続く個所に、国民投票の前日にブッシュとエリツィンの電話会談があったことが述べられている(上、212-214頁)。ブッシュは同じ日に、エリツィンと話すのに先だってゴルバチョフとも会談していたのだが、そのことには触れていない。
これにすぐ続いて、「自国に核兵器を保有する三人のスラヴの指導者たち」が会談して、ソ連解体を宣言した。本書はこの3者で連邦を解消する権利があると感じていたと書いている(上、215-216頁)。だが、これは正しくない。そのすぐ後の諸方面への連絡や各政治家たちの動向、そして各国議会での批准についての記述なども不正確である(上、216-217頁)*21。
その後の焦点は、核兵器の諸国への分散をどう考えるかにあった。スコウクロフトは核兵器が分散しても脅威にはならないと考えたが、ベーカーはこれに反対で、ロシアへの集中が必要だと考えた(上、217頁)。ベーカーは12月12-15日(15-18日の誤記か)に、核を保有する4つの連邦構成共和国を訪問した。エリツィンによれば、核発射のブリーフケースはゴルバチョフ、エリツィン、シャポシニコフが持っていたが、ゴルバチョフからは取り上げる、ウクライナは核兵器の仕組みが分かっていないし、ブリーフケースではなく電話を持つだけで満足すると語った、と書かれている(上、218-221頁)。後の章になるが、核兵器そのものはウクライナ領にあるにしても、それを運用する指揮・統制組織はキーウではなくモスクワに置かれていた、ウクライナはソ連から引き継いだ核兵器備蓄の詳細について何も知らなかった、とも書かれている(上、258頁)。ということは、独立直後のウクライナが本来的意味での「核保有国」だったとは言えないことを意味するように思われる。にもかかわらず、本書はウクライナは核保有国だったと各所で繰り返し書いている。ウクライナ自身が1990年7月の主権宣言でも91年の独立確定直後の最高会議決定でも非核国家になることをうたっていたのだが、ソ連解体後の国際交渉の駆け引きの中で、自国に核兵器が置かれていることを外交上の梃子としようとする考えが浮かび上がったことが関係しているように思われる(この点については、次章で触れられている。上、258頁)。
章の終わり近くでは、12月21日のアルマアタ会議が触れられている(上、221-222頁)。この会議では、中央アジア諸国とスラヴ3国の間にあった一定の差異が妥協的に調整されたのだが、本書はその問題には踏み込んでいない*22。核兵器の問題に最大の力点がおかれているため、それ以外の問題にはあまり関心を示していないということのようである。
ソ連解体後、ベーカーはロシアの債務返済免除を主張したが、財務省の反論に敗れた。債務免除がロシアを助けることができたかどうかという疑問は、結局実現しなかったため、答えられないままに終わった(上、228-230頁)。NATO拡大問題については、米政府内で積極論と対ロシア配慮論の論争があった(上、231-232頁)。そうした中で11月に米大統領選挙があり、クリントンが勝利した。翌年発足したクリントン政権は、かつての敵対国を同盟国、友好国、平和的競争相手に変えるという課題を負ったが、そのための方法を見出すのは至難だった。このように論じた上で、古参の元外交官ジョージ・ケナンの言葉として、戦勝国が犯しうるあらゆる誤りのうち敗戦国の弱みにつけ込む愚行は最も嘆かわしいものだという発言が紹介されている(上、235-236頁)。このケナンの言葉は、第2部以降を考える上でも参考になる。
六
以上、第1部について詳しく検討してきた。前述のように、この第1部は私がかなりの力を入れて書いた論述と重なるところが多いので、細部にこだわって詳しい検討を行なったわけだが、第2部と第3部で扱われている時期(1993-99年)については、私自身はざっとフォローしたことがあるにとどまり、専門的に研究したわけではない。そこで、この部分については細かい検討は省き、大きな流れを確認しながら若干の感想を述べることにしたい。
この部分の主要テーマは、第5章のタイトル「3角を4角にする」という言葉に示されている。ここで「3角」とは、ロシア・ウクライナ・中欧諸国の3者を指しており、「4角にする」とは、それらの両立しにくい立場を勘案しつつ進路を探り、何とかしてそれら全員を満足させようとする努力を指している。結果的にいえば、この努力は失敗した。それは、ある程度成功可能性があったのに惜しくも失敗したのか、それとももともとうまくいくはずはなかったのか、二通りの解釈がありうる。本書の序章および終章は前者の解釈を示唆しているが、序章・終章を除く本文ではそこまで明確に書かれてはいない。
過去に試みられたことにどこまで成功可能性があったかを明確に確定することはできず、ここに最終的結論はありえない。ただ本書であまり深く探られていないロシアの側から見るなら、多くの人々にとって、アメリカはあれこれの「アメ」を仄めかしはしたものの、結局はロシアを疎外しようとしているのではないかという感覚で事態を受けとめらる傾向が強かったことは否定しがたい。そのことは、その後の米ロ関係緊張の根底を形づくった。もっとも、だからといって、ウクライナ戦争までの過程が一直線だったというわけではない。本書が取り扱っている1990年代とその後の経過は別個に研究しなくてはならない。サロッティは1999年まではさまざまな可能性があったことを描き出す一方、その後のウクライナ戦争への過程は一直線だったかに示唆しているように見えるが、これは飛躍であるように思われる(本書が直接の主要登場人物でないプーチンに各所で触れているのも、そうした飛躍と関係している)。
ロシアから見て、最も大きな問題はNATO拡大の方針にあった。アメリカ政権の関係者たちはこれ自体は是としつつ、それをどうやってロシアに納得させるかを考えていたようである。しかし、ロシアの多くの人たちの眼からは、どういう条件が付けられようとNATO拡大自体が自己を排除するものと考えられたのではないか。
ある政策が浮上し、曲折を経て最終的に確定するまでには多数のアクターの関与がある。本書はアメリカについては多数のアクターを登場させ、彼らの間の論争に触れることで、NATO拡大政策が初期から有力でありながら、最終的確定にはいくつかのステップが必要だったことを描き出している(特にPfP構想が打ち出されてからしぼんでいく過程の記述が詳しい)。その点は本書の強みとして高く評価することができる。だが、アメリカ以外の諸国については、それほど大勢のアクターを登場させることはなく、各国の政策がどのようにして確定したかも比較的単純な描き方をしている。ソ連については唯一ファーリンが独自性を秘めた提案をしていて、もしこれが採用されたらどうなっただろうかと感じさせるが、結局彼の提案は現実化しなかったということで片付けられている。ソ連解体後のロシアについては、エリツィンがクリントンと友好的だったことが重視されているが、そのエリツィンは酒を飲み過ぎて奇行に走ったり、健康問題を抱えて、十分信頼することはできなかった上に、チェチェンへの侵攻で失点したことで有力なパートナーたり得なかったという書き方になっている(コズィレフとプリマコフについては、事態の進展が後者の立場を正当化するかに見えたとされている)。ウクライナについてはところどころで言及があるものの、具体的な登場人物としてはクラフチュークとクチマに断片的に触れるにとどまっている。独立時のウクライナはいかなる軍事ブロックにも入らないことを掲げており、その後も長くロシアと西欧の双方と協力するという全方位外交路線をとっていたし、NATOについては1990年代後半から加盟論を唱える政治家が出てきたものの、世論調査では一貫して反対論が優位を占めていた(急速に賛成論が増えたのは2014年以降のこと)。そうした経緯に本書は一切触れていない。
アメリカの事情に関しては、ジョージ・ケナンのNATO拡大反対論がかなり詳しく紹介されており、評論家たちの間では再考論が強かったとされている(下、173-174頁)。これは重要な点である。しかし、評論家・専門家たちの間で懐疑論が強くても、政権内部では意思決定は確定していると考えられていたのだという。だとしたら、専門家の多数が得策でないと考えていた政策が政権中枢では「確定済み」と見なされていたということになりそうである。
アメリカ政権がNATOの東方拡大に進んでいるときに、それを危うくしかねなかったのは、ケナンらの批判ではなく、クリントンとモニカ・ルインスキーの個人的関係をめぐるスキャンダルだったというのが本書の記述である*23。このスキャンダルは1997年頃から浮上しつつあったが、それが決定的に公然化したのは1998年、そしてクリントンの大統領弾劾公聴会が開かれたのは1999年1月のことだった。本書はこの問題を重視して、多くの紙数を割き、もし大統領の弾劾公聴会がもっと早くに開かれていたならNATO拡大を批准することは不可能だったかもしれないと書いている(下、187-188頁)。だとすると、NATO拡大の成否はロシアの対応やアメリカ国内での論争ではなく、ルインスキー・スキャンダル表面化のタイミングにかかっていたということになりそうである。そう考えてよいのだろうか。
終章では「ジョージ・ケナンは正しかったのか」という問いが出されている。まずNATO拡大のアメリカにとってのコストとベネフィット、ついで中東欧諸国にとってのコストとベネフィットが検討され、最後にロシアが取り上げられている。ここで、ロシアがどう思っているかにもっと注意を払うべきだったというウェスタッドの意見が紹介されており、これを重視するならケナンの警告が正しかったということになりそうだが、そこまでは言っておらず、結論は不明確である(下、274-278頁)。
最後に、本書で論じてきた過去の経緯の理解をどのようにして未来へとつなげていくのかという問題が取り上げられている。冷戦後、ロシアとの間で失われた協力の機会があったということを確認し、分断線のない世界をつくることが試みられたにもかかわらず、それは実現しなかったとして、新たな世界をつくりだすために全力を尽くさねばならないと締めくくられている(下、278-282頁)。一般論としてはもっともな話だが、ではどうやってとなると、答えが与えられているわけではない。
全体として、本書は冷戦終焉後の国際秩序がどのようにして構築されたかという問題をアメリカ内部での論争や駆け引きに力点をおいて解明している。そこにおいては、大量の一次資料が利用されており、叙述は迫力に富んでいる。ただ、アメリカ以外の諸国、とりわけロシアおよびウクライナについてはそれほど突っ込んだ解明がなされてはいない。一人の研究者がなし得る仕事量の限界として、それは無理からぬことと言えば言える。それはそうなのだが、本書の書き方は、ロシア側の対応をやや一面化しているように感じられる。本書がアメリカ外交に関する重要な貢献だということを認めつつ、その限界についても押さえておく必要があるように思われる。
(2025年2-3月)
*1M.E.サロッティ『1インチの攻防――NATO拡大とポスト冷戦秩序の構築』(岩波書店、2025年)。原著は、M. E. Sarotte, Not One Inch: America, Russia, and the Making of Post-Cold War Stalemate, Yale University Press, 2021.
*2世界政治研究会(2024年10月12日)における報告。
*3塩川伸明「プロヒー『ウクライナ全史』を読む」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/Plokhy'sbook.pdf)参照。
*4Timothy J. Coton, Yeltsin: A Life, Basic Books, 2008; Leon Aron, Yeltsn: A Revolutionary Life, St. Martin's Press, 2000.
*5サロッティの前著『1989』(1989: The Struggle to Create Post-Cold War Europe, Princeton University Press, 2009, new and revised edition, 2014)も、いくつかのロシア語資料を使っているとはいえ、それほど包括的ではなく、米欧諸国に比べて突っ込みが浅かった。この旧著に関する読書ノート(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/Sarotte1989.pdf)参照。
*6塩川伸明『歴史のなかのロシア革命とソ連』(有志舎、2020年)140-141頁、塩川伸明『現代史の起点――ソ連の終焉へ向けて』(岩波書店、近刊)第7章も参照。
*7塩川『歴史のなかのロシア革命とソ連』145頁、『現代史の起点』第9章も参照。
*8塩川『歴史のなかのロシア革命とソ連』142-143頁、『現代史の起点』第7章も参照。
*9塩川『歴史のなかのロシア革命とソ連』143頁、『現代史の起点』第7章も参照。
*10塩川『歴史のなかのロシア革命とソ連』147頁、『現代史の起点』第9章も参照。
*11塩川『歴史のなかのロシア革命とソ連』149-150頁、『現代史の起点』第9章も参照。
*12塩川『歴史のなかのロシア革命とソ連』150-151頁、『現代史の起点』第9章も参照。
*13塩川『歴史のなかのロシア革命とソ連』161頁、『現代史の起点』第8章も参照。
*14吉留公太『ドイツ統一とアメリカ外交』(晃洋書房、2021年)第9章参照。
*15塩川『歴史のなかのロシア革命とソ連』157-160頁、『現代史の起点』第9章も参照。
*16塩川伸明『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』(東京大学出版会、2021年)、第九章第二節および第一二章第三節参照。
*17塩川『国家の解体』第九章第三節参照。
*18塩川『国家の解体』第九章第三節参照および第一〇章第三節参照。
*19塩川『国家の解体』第一八章参照。
*20塩川『国家の解体』第一九章第二節および第二〇章第一節参照。
*21塩川『国家の解体』第二〇章第一節参照。
*22塩川『国家の解体』第二〇章第三節参照。
*23余談だが、このルインスキーはロシアではレヴィンスカヤと呼ばれる。ルインスキー・スキャンダルが世界中で取り沙汰されていた時期にロシアでつくられたマトリョーシカの一つに、何人かのアメリカ大統領の顔を描いたものがあり、クリントンの中からレヴィンスカヤが出てくるものがあった。