塩川伸明『民族とネイション――ナショナリズムという難問』(岩波新書、二〇〇八年)への反響と応答
どこまで実現できたかは分からないが、拙著にはかなり欲張った狙いを込めてある。そうした欲張った狙いを十全に達成することなどできようはずもなく、あちこちで中途半端さを残さざるを得ないということは予め覚悟していたことであり、そうした中途半端さに由来する批評も甘受しなくてはならない。ただ、私自身の期待としては、いくら中途半端ではあっても、とにかくいくつかの問題提起をすることで、何らかの一石を投じ、それがさらなる討論のきっかけとなればいいが、という気持ちがあった。
「欲張っている」というのは、先ずもって、取り上げた主題があまりにも広範囲にわたるという点に明白である。このような大風呂敷が粗い個所を含まざるを得ないのは自明である。有名なベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』にしたところで、東南アジアの事例を念頭において書かれた個所の説得力が最も高いのに対し、他の各地の事例に触れた個所では大なり小なり疑問の余地がある。この種の書物においては、著者が相対的に強いフィールドと弱いフィールドとでかなりのバラツキが生じるのは至極当然のことで、こういう課題を掲げたことにつきまとう宿命でもある。だが、拙著が「欲張っている」というのは、その点だけではない。
「あとがき」に次のようなことを書いた。
「新書という書物の性格を意識して、できるだけ広い範囲の読者に読んでいただけるような分かりやすさを心がけた。ただ、その際、『分かりやすさ』とは、水準を落とすとか、『専門家にとってのありふれた常識を、噛み砕いて非専門家に教える』ということと同義ではないのではないか、という思いが常にあった。むしろ、著者自身にとって未知の領域への挑戦の作業を、読者とともに模索していこうと呼びかけつつ、その模索の過程をできるだけ分かりやすく提示しようと努めたつもりである」(二一三頁)。
つまり、一方では、広い範囲の読者に読んでもらえるような分かりやすさを心がけ、専門家のみに関わる特殊な論点を深く掘り下げるような作業はもともと目標としなかったが、それでいながら、無難な常識論に終始することで満足するのでもなく、私自身にとっての「未知の領域への挑戦」という要素をも、できるだけ盛り込もうと心がけた。そこには、常識的通念への疑念の提出とか、論争的な問題への自己流の取り組み、異端の問題提起などが含まれる。常識的な概説と論争的な問題提起とは性格を大きく異にするものだが、その両者を一冊の本に盛り込もうとした点が、拙著が「欲張った」狙いをもつということの最大の意味である。
もちろん、常識的通念への疑念とか論争的観点の呈示を含むといっても、その一つ一つを丁寧に掘り下げることは、一冊の薄い著書の範囲内でできようはずもない。そのような掘り下げた作業ではなく、ただ「常識からは外れるかもしれないけれども、こういう見方も案外、面白いかもしれませんね」とか「こういう難しい論争的問題についても、ときには考えてみる必要があるのではないでしょうか」といったことを軽く示唆するにとどめる、というのが拙著の基本方針だった。ある意味では、薄い本だからこそできる冒険といえるかもしれない。そのような軽い示唆だけでは物足りないという読者は、もっと重厚な著書に向かっていけばよい。拙著の狙いは、とりあえずいくつかの疑問や示唆を読者に投げかけ、そのことによって、いわば「頭の刺激」の役割を果たすことができるなら、さしあたりはそれで十分だと考えた。
一応そのような方針を立てたわけだが、自分自身にとって専門でない領域を幅広く取り扱いながら、それらについても「挑戦」「頭の刺激」となるような叙述を目指すというというのは、身の程をわきまえない難事業だった。それがどの程度の成功ないし失敗を収めたのかについては、読者の批判を仰ぐしかないが、とりあえずここで「楽屋裏」めいたことを簡単に書いておきたい。
私に限らず多くの人に共通することではないかと思うが、専門に特化することなく、あれこれの事柄について「広く浅く」勉強する機会が一番あるのは、基本的には大学の学部学生ないしせいぜい大学院修士課程くらいの時期である。その後は、特定の分野に集中的に特化することを否応なく迫られるからである。もちろん、何らかの分野の「専門家」になった後も、折りに触れて専門外の事柄について勉強する機会がないわけではなく、若い時期に仕入れた教科書的知識およびそれに基づいた漠然たるイメージを少しずつ修正するということもときどきはある。だが、それは概して断片的・非系統的なものにとどまる。ということは、自分の専門外の領域に関する基本的な知識とイメージは、若い時期――私のような世代の者にとっては、いまから三〇年以上も前――に形成されたものがベースになり、それに非系統的な修正を継ぎ足したものだということになる。
実をいえば、本書の執筆に取りかかる前は、「若い頃に勉強しただけの専門外の事柄についても、その後、折りに触れて新しい研究動向に接したことがある程度はあるのだから、そうした新しい知識を自分の頭のなかで整理していけば、それなりに有意味なことが書けるのではないか」というような思い上がった見込みをもっていた。しかし、いざ書き出してみると、とてもそんな安易なことでは済まず、あれこれの領域について、大慌てでにわか勉強をして、「成る程、この分野では、ここ二、三〇年ほどの間にこんなに大きな変化があったのか」と、認識を改めさせられることの連続だった。これは結構しんどい作業だったが、その分、さまざまな領域の事項について自分の認識を改め、自分の蒙を開くことができるという意味で、私自身にとって大変有益な経験だった。「啓蒙書」というものは、「偉い先生が他人の蒙を啓く」という性格のものであるよりは、むしろ著者が自分自身の蒙を啓いていく過程を明らかにする書物なのではないか、などと感じたりもした。先に引用した「あとがき」の一節には、そうした感慨が込められている。
というわけで、私自身は本書の執筆で大いに有意義な経験をしたと思っているのだが、その産物としての拙著が読者にとってどの程度の意義をもちうるのかとなると、これはもちろん別問題である。あれこれの領域についてにわか勉強をしたと書いたが、私の限られた能力・エネルギー・時間の中でのにわか勉強である以上、それぞれの分野の最先端の知識を十分に吸収したなどと胸を張って言うわけにはいかない。その上、最先端の研究というものは、往々にして、専門細分化の結果として極度に細かい事柄に集中するきらいがあり、門外漢が漠然といだいている大まかな構図やイメージが最新の研究によってどのように修正されるのかという点は、なかなかつかめないことが多い。
とにかく、私自身としては、本書執筆を通して、若い頃にもっていたイメージをかなりの程度更新することができたという感触があり、そうした感触に基づいた記述をしたつもりだが、そこには多くの不十分性があるだろう。このように大風呂敷を広げた書物では、そうした不十分性や中途半端さは避けられないものだが、それが「ギリギリいっぱい許容範囲内」とみられるか、それとも「まるで不十分で、どうしようもない」とみられるかは、個々の論点ごと、また読む人の要求水準ごとに異なるだろう。
先にも書いたように、拙著は、「薄い本にたくさんのことを盛り込んだのだから、個々の論点の掘り下げが足りないのはやむを得ない」ということを言訳として、多数の事項について、比較的軽い、あっさりとした書き方をした。それでいながら、これも先に書いたように、あちこちで「常識的通念に逆らう問題提起」とか「論争的な難しい論点の呈示」という要素を盛り込もうとしたが、それらは詳しい展開を伴うことことなく、いわば常識的概説の合間合間にこっそりとちりばめるような形で埋め込まれている。私の思惑としては、読者のうち、本書の主題についてこれまであまり考えたことのない人は常識的概説の部分をあまり抵抗感なく通読してもらえばよく、他方、やや気むずかしいタイプの読者は、あちこちにちりばめてある論争的な記述に、「おや、これはどういう意味だろう」という疑問を持ち、それをきっかけに更なる探求を各自で行なってもらえばよい、というのが秘かな期待である。
いま書いたような思惑をもって書いたわけだが、もちろん、現実の読者が私の期待通りの読み方をしてくれるという保証はない。おそらく、いろいろな種類の反応があるだろう。いくつかの類型を私なりに想定し、それに対する私の応答を考えると、次のようになる。
本書を初級の入門書と思ってざっと流し読みした人は、あちこちにちりばめた論争的記述には気づかず、「当たり前の常識に終始した、無難な入門書」と思うことだろう(そのように思われたとしても、入門書として一定の役割を果たしたと受け取られるなら、それはそれで結構なことである。ただ、それがすべてだと思われると、やや寂しい)。
特定の部分についてやや高度の関心をもっている読者の場合、「ここに書いてあることは、ずいぶんと常識はずれだ。著者は自分の専門外のことに無理をして手を出しているらしく、この個所については、まるで常識をわきまえずにでたらめなことを書いている」と決めつけるかもしれない(そのような批判が当たっている個所があるかもしれないという危惧は私自身にもある。ただ、自意識としては、「その分野の常識を全く知らない」というのではなく、一応は常識を踏まえた上で、敢えて風変わりな問題提起をするように努めたつもりである)。
あるいはまた、個々の論点について専門的に研究している人は、「この個所で著者は最新の研究動向を摂取したつもりになっているようだが、その摂取の仕方は非常に偏っており、専門の見地からはとても評価できない」と批評するかもしれない(この種の批評は基本的に甘受するしかない。ただ、専門を超えた対話を試みる限り、こうした問題は不可避であり、そうした欠陥を抱えながら相互摂取・交流を図るべく努めるしかないのではないかと思う)。
私が最も期待するというか、こういう読み方をしてくれると嬉しいと思うのは、「全体としてはバランス感覚と常識をもって書かれた概説書だが、あちこちに、おや、これはどういう趣旨なのだろう、という疑問を引き起こす問題提起がある。それらの問題提起について、立ち入って掘り下げる作業がなされていないのは物足りないが、薄い概説書である以上、それは無理からぬことだ。これらの問題提起に刺激されながら、これから自分もいろいろと考えていこう」というようなものである。著者の期待を読者に押しつけるわけにはいかないので、あくまでも願望に過ぎないが、もしそうした読者が一定人数いるなら、この上なく嬉しいことである。
楽屋裏のようなことを書いていると切りがないが、あちこちに論争的な問題提起の要素をまじえ、それでいながら、そのことを詳しくは説明しないというスタイルで書いたため、「ここのところはさらっと書いているけれども、実はいろんなことをさんざん考えた末に、あえてこの程度にとどめた」といった風な説明をしたくなるような個所も相当ある。しかし、それをいちいち説明するのは、所詮は、書物そのものの中に明示的に盛り込んでいないことに関する未練がましい言訳の類になりかねない。そういうわけで、「裏の事情の説明」めいたことを長々と書くことはしないが、一つだけ、「たとえばこんな風なことだ」という意味で、例を挙げておく。
拙著には、私の本来のフィールドであるロシア・ソ連史から例をとった個所がかなりあるが、スターリンの民族理論については一言も触れなかった。近年に至るまで、「民族に関するさまざまな理論の歴史」といったテーマで何かが書かれる場合、スターリンの民族理論――代表的には一九一三年の論文「マルクス主義と民族問題」――が言及される頻度は相当高かった。いうまでもなく、古い時期の著作では、「スターリンから学ぶ」という姿勢が顕著で、「どのように解釈し、どのように学ぶか」が熱心に議論されていたが、ここ数十年はそれが逆転して、「スターリンをどのように批判するか」が、多くの人の関心を集めてきた。スターリン統治下のソ連における数々の暴虐が広く知れ渡った後、その一つの根源として彼の民族理論が注目されたのにはそれなりの理由があり、この問題をめぐり種々の議論が一定期間熱心に交わされたのは当然である。
しかし、そうした議論が二、三〇年以上積み重ねられる中で、もはやこの問題はそれほどの重要性をもたなくなってきたのではないかというのが、私の判断である。それというのも、第一に、一九一三年のスターリン論文は、若い日の作品だということとも関連して、それほど独自な見解を示しているものではない*。後の「大独裁者」のイメージをこの論文に読み取ろうとするのは、そもそも無理があると思われる。第二に、後にソ連で実際に行なわれた民族政策は、一つの論文で呈示された抽象理論から直ちに演繹されるようなものではない。現実の政策を分析するには、その後の歴史過程を実証的に掘り下げる作業が何よりも重要であり、それ抜きで、一つの論文で呈示された理論だけを批判しても、得られるところはあまりない。かつての社会主義論の多くは頭でっかちで理論偏重という欠陥をもっていたが、その後、社会主義やソ連を批判しようとしはじめた人たちも往々にして同じ欠陥を引き継いでおり、スターリンの理論を批判しさえすれば現実を解明できると思いこんでいるように見えるところがある。もちろん、理論もある程度の範囲に現実的影響を及ぼすなら「歴史的現実」の一構成要素となるから、それを完全に無視することはできないが、それはあくまでも「一つの要素」というにとどまり、それだけでもってすべてを説明できるような決定要因ではない。この点、従来の大多数の議論はスターリンの民族理論の役割を過大評価してきたように思われる**。私が拙著で敢えてこれに触れなかったのは、「この問題に触れなくても、ソ連の歴史はかなりの程度よく説明できる」ということを示したいという意図が働いていた。
*スターリン民族理論のベースがカウツキーにある――その限りではレーニンも同様――ということは、いまから三〇年以上前に田中克彦が指摘したところである。田中「言語から見た民族と国家――カウツキー再読」『思想』一九七四年一〇月号(後に、「カール・カウツキーと国家語」と改題して、論文集『言語から見た民族と国家』〔いくつかの版があるが、最新のものは、岩波現代文庫、二〇〇一年〕に収録)。もっとも、カウツキーとスターリンの――そしてまたレーニンの――間にある微妙な異同とか、田中のスターリン理解を今日どう評価するかといった問題に立ち入り出すと、複雑な問題がたくさん出てくるが、そうした問題を論じる準備は今はない。とにかく、スターリンの民族理論批判でもってスターリン時代の歴史的解明に代えることはできないということだけははっきりしている。
**この問題につき、より詳しくは、テリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国』(半谷史郎監訳、明石書店、二〇〇九年刊行予定)に寄せた私の解説を参照。
*
新書という「軽い」体裁をとった書物であるせいか、書評はそれほど多くは出なかった。代表的なものとしては、赤澤史郎氏によるもの(『朝日新聞』二〇〇九年一月一八日)、堀江則雄氏によるもの(『ユーラシア研究』第四〇号、二〇〇九年五月)がある。『週刊読書人』二〇〇九年一月九日号では、姜尚中氏が「新書のすすめ」という記事の中で、一五冊の推薦書の冒頭に取り上げてくれた。その他、『東京新聞』二〇〇八年一二月一四日、『読売新聞』一二月二一日、『東洋経済新報』二〇〇九年一月一七日号には、簡略な紹介が載った。
書評とは性格を異にするが、稲葉振一郎『社会学入門』(NHKブックス、二〇〇九年)、佐藤成基「ナショナリズムの理論史」(大澤真幸・姜尚中編『ナショナリズム論・入門』有斐閣、二〇〇九年)、およびO・ジマー『ナショナリズム』(岩波書店、二〇〇九年)への訳者(福井憲彦氏)による日本語文献案内は、いずれもナショナリズム論に関する主要参考文献として拙著を挙げてくれた。あまたある関連図書の中で特に拙著を取り上げ、「小さいながらも中身がギュッと詰まった、最新の入門書」(稲葉)、「出色の入門書」(佐藤)、「おおいに頭脳が刺激されるはず」(福井)などという過分のほめ言葉までつけて下さったのは大変ありがたいことである*。
*その後、苅部直『ヒューマニティーズ政治学』岩波書店、二〇一二年の文献案内は、ナショナリズム関連の項目で、「概観としては塩川伸明『民族とネイション――ナショナリズムという難問』が、もっともいい」と書いてくれた。また、中西寛・石田淳・田所昌幸『国際政治学』有斐閣、二〇一三年の第4章(石田淳氏担当)の文献案内は、拙著について「統治領域の再編が、領域(を基盤とする政体)と個人との結びつきを組み換える――この視座の可能性と限界を考える上で、繰り返し立ち戻りたい論考。理論では単純に割り切れない現実の諸相を確認できる」と書いてくれた。先に挙げたものとあわせて、社会学・歴史学・政治学・国際政治学という多様な分野の専門家に評価してもらえたのは望外の幸せである。
インターネット上では、長短取り混ぜて、種々の感想や批評が出ているようだが、網羅的にはみていない。それ以外に、多くの人々から個人的な手紙やメールで批評・感想をいただいた。
これらの批評に接して感じたいくつかの論点について、以下で述べてみたい。
最も多くの人たちから疑問を提起され、私自身ももっと練らねばならないと感じているのは、ナショナリズムの定義、そしてそれと関連してシヴィック・ナショナリズムの評価である。拙著第一章におけるナショナリズム定義はゲルナーのそれに一定の修正を施したもので、基本的にエスニック・ナショナリズムを念頭においたものになっているが、ではシヴィック・ナショナリズムをも含むより広いナショナリズムはどのように定義されるのか、という疑問でもある。
これは大問題で、とても明快に答えられるものではない。現時点での私の秘かな感触を明示すると相当乱暴な議論になってしまいかねず、敢えてそれを明示するのはためらわれるところがある。そうしたためらいはあるが、多くの疑問を寄せられたことでもあり、敢えて未熟かつ乱暴な感触を多少敷衍してみると、次のようなことになる。
第一章でゲルナーの定義を一応の出発点にした(完全にゲルナーと一致しているわけではないが)のは、それが分かりやすくて便利だからということもあるが、ナショナリズムというものは結局のところエスニックなものと切り離せないのではないか、その意味で、あらゆるナショナリズムは――明示的か暗黙にかの違いはあるにせよ――エスニック・ナショナリズムなのではないか、という感覚が私にあったからである。もっとも、これは「エスニシティ」概念の定義にもよる。他の諸概念同様、「エスニシティ」にも様々な定義があるということを第一章で述べたが、比較的狭い定義(血統を中心とするもの)によるなら、それと結びつかないナショナリズムも当然あるだろう。しかし、エスニシティ概念をもっと広義にとり、血統と結びつかない要素まで含めるなら、あらゆるナショナリズムの根底には、暗黙にもせよある種のエスニックな要素が含まれているのではないかと思われる(たとえばフランスにおけるフランス語普及や世俗主義原則も、一種のエスニックな意味合いがあるのではないかということである)。
そのようなナショナリズムと明確に対峙する対概念は何かといえば、それはコスモポリタニズムではないだろうか(これはあくまでも論理的な対概念は何かということであって、それが「正しい回答」だというような話とは縁がない。念のため)。そして、シヴィック・ナショナリズムとは、「エスニック・ナショナリズムでもなければ、コスモポリタニズムでもない」と自己主張するヌエのような存在ではないか、という疑念が拭えない。つまり、「エスニックな要素に関わらない」と称しつつ、実はエスニックなものを隠しもっているのがシヴィック・ナショナリズムなのではないかということである。拙著の一つの特徴は、シヴィック・ナショナリズムに対してわりと辛い点にある。知識人の世界ではシヴィック・ナショナリズムをよしとする考えがかなり広まっているようなので、「それはそれで一応分かるけれども、本当にそういうものがありうるのだろうか?」という疑問を出してみたいという気持ちがあった。
確かに、コスモポリタニズムは非現実的だし、エスニック・ナショナリズムは往々にして紛争の元となりやすいとするなら、そのどちらでもないシヴィック・ナショナリズムに憧れるというのは、願望としては分かりやすく、共感を呼ぶものがある。しかし、それは所詮、願望であって現実ではないのではないか――そんな風な意地悪い気分がちょっとある。しかし、そういう風に言いきってしまうと身も蓋もない話になってしまうので、軽い疑問の提示にとどめた次第である。
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個別の記述に関する批評。これまでのところ、日本およびその旧植民地、フランス、中国とチベット、インドといった諸地域の事情に詳しい方々、そして国際政治学の専門家から、種々の批評をいただいた。身の程を弁えず大風呂敷を広げた結果、それぞれの地域の専門家から欠点の指摘を受けることは当然だが、その大半は好意的かつ建設的な提言であり、大変ありがたいことと受け止めている。
●ある敬愛する大先輩からの私信
《批評の要旨》 「植民地的公共性」という言葉が出てくる(八七頁)が、これには大きな疑問を感じる。要請としての「公共圏」とは、異なった価値の間の討論からより普遍的なものを見出していく過程を生み出す場であり、それは討論の構成員に関する垂直的および水平的閉鎖性を克服する志向をもつものである。それなのに、「植民地」についてこの語を当てはめるのは、およそ形容矛盾でしかないのではないか。
《私の感想》 私は日本およびその植民地の歴史に関し、ごく皮相な知識しか持っておらず、当該個所も四苦八苦しながら書いた。「想定できるのではないかとする問題提起もある」という、腰の引けた表現をとり、自分自身の確固たる主張という形をとらなかったのもそのためである。そうはいっても、現にこうして活字にしてしまった以上、逃げ隠れするわけにもいかない。とりあえずの暫定的な考えをまとめるなら、次のようになる。
いただいた私信には、上に引いたように「要請としての『公共圏』」という表現があり、「要請としての」という個所に傍点が振ってある。これに対し、拙著で問題提起したのは、「要請として」という規範論ではなく、「(規範論の観点からは残念な)現実」の認識に関わる。当該個所で、「植民地公共性」の前に「非自由主義的な公共性としての」という言葉をつけたのも、そのような気持ちを込めたつもりである。「植民地公共性」とは「形容矛盾」だというのは「公共性/公共圏」の語を規範概念として使うからであって、規範論を離れて考えるのであれば矛盾はしない――「規範的観点からは望ましくない現実」を捉える概念装置たりうる――ということではないだろうか。
私は「公共性」「公共圏」の問題について、これまである程度気にはしつつも、あまり深く考えてきたわけではなく、そのため、きちんとした形で自説を展開する用意はない。ただ、「非自由主義的な公共性」もあるのではないかという問題提起に、何かしら考えるべきものがあるのではないかという気がしている。それはスターリン体制という私の年来の課題と関わっている「非自由主義的な公共性」という問題提起は「ファシズム的公共性」論から出てきたもののようだが、それと同様に、「スターリニズム的公共性」「天皇制的公共性」というものも考えられるし、むしろ考えなくてはならない、そうでなければ、いくらファシズム・スターリニズム・天皇制を批判しても、その国民統合のからくりを明らかにすることはできないのではないかという風に思われる。
「植民地公共性」という概念がどういう風にして登場し、またどのようなものとして使われているかについて、私自身よく通じてはいないが、一つの流れとしては、現代韓国の知識人の間の議論があるようだ。たとえば、尹海東「植民地認識の『グレーゾーン』――日帝下の『公共性』と規律権力」(『現代思想』二〇〇二年五月号)という論文がある。これは私にとって十分咀嚼できないところがあったので拙著には挙げなかったが、ともかくこの論文の筆者は決して植民地支配を肯定しているのではなく、ただ植民地支配に協力してしまった韓国人が少なからずいたという苦い歴史的事実を見つめることから出発しようとしているのではないかと思われる。「苦い事実」の認識は「要請としての」方向性追求と矛盾する関係にあるわけでなく、むしろ後者を空文句にとどまらせないために必要な一つの作業としての意味をもちうるのではないだろうか。
いただいた私信の中には、「帝国主義的(植民地支配)なものを推し進める方向か、それに反対して、人権回復、平和志向という方向を示すか」という個所があった。今日ないし将来へ向けてのわれわれの選択としてであれば、この言葉に異論があるわけもない。しかし、歴史研究という見地からは、「帝国主義的(植民地支配)なものを推し進め」たのは一握りの悪辣な支配者だけではなく、多くの国民(植民地の人々を含む)がそこに取り込まれていったということ、そしてそれを通して、「(規範的な観点からいえば歪んだ)公共性」が形成されてしまったという事実を認識しなくてはならないのではないか。そのような「(規範的な観点からいえば歪んだ)公共性」が形成されたという現実をみない限り、それをどうやって解体していくかという問題意識も生まれないのではないだろうか。
●あるフランス文学者からの私的メール
《批評の要旨》 @近代的文章語の形成過程について「庶民の話すさまざまな俗語をもとにした文章語がつくり出され」とある(三九‐四〇頁)が、フランスの場合、庶民の言葉ではなく、上流社会の言葉をもとにした文章語が一七世紀につくり出され、それが国の中央集権化を推進する宰相リシュリューの文化政策にも導かれて〈国語〉の創設をもたらし、ひいては国際語としての地位を占めるに至った。関連して、「フランス革命当時、住民の言語は統一されておらず、後に標準フランス語とされる言語を話す人たちは全人口のおよそ半分程度だったといわれる」(四三頁)とあるが、当時における言語の非統一性は地域差によるというよりも、むしろ社会階層差である(上流階層は既に文章語としての標準フランス語を身につけていたが、それ以下の階層はそれぞれの地域語を話した)。
A近代化過程における「教育の普及」の役割を重視している(三九‐四〇頁)が、「教育」は誰がどの枠で行なうかが決定的であり、その意味では「教育」一般ではなく「公教育」というべきである。
《私の感想》 この批評は、二点とも重要な点を衝いたものと感じる。とりわけ第一点については、教えられるところが多かった。一国内における言語の多様性・非統一性について、地域言語という観点からだけでなく、社会階層という観点から考える必要性は確かに大きいだろう。
第二点についていうと、私自身も、厳密に書くときには「公教育」という言葉づかいをするようにしている(本書でも、四一頁ではこの言葉を用いているし、『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房、一九九九年、第V章第二節で近代化について一般的に論じたときにも「公教育」とした)。ただ、この言葉は何となく「堅苦しい」イメージがあるような気がして、何度も繰り返すのは煩わしいという感覚から、一種の便宜的簡略化として「教育」という言葉を本書では多く用いた。なお、この問題は、元来カトリック教会が主たる教育の担い手だったフランスで公教育が世俗教育として行なわれるようになったという経緯と関係しているが、そうした聖俗関係と教育の関わりについて、広く諸国の事例を比較検討する作業は、私自身には到底手に負えない大問題である。できることなら、各国の専門家たちのご教示を仰ぎたいところである。
●あるブログに載っていた批評
《批評の要旨》 塩川は中国について平野聡の著作『清帝国とチベット問題――多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会、二〇〇四年)に依拠して書いている(七五頁)。しかし、この平野著に対しては石濱裕美子の壊滅的な書評がある(『東洋史研究』第六四巻第二号、二〇〇五年)。そのことを知らずに、既に完膚無きまでに叩き尽くされた平野著に依拠するというのは、塩川自身の見識の低さを物語る。
《私の感想》 私はもちろん中国史の専門家ではなく、この領域について見識を誇ることなどとうていできないが、平野著に対して痛烈な批判を加えた石濱の書評があるということ自体は執筆段階で知っており、この論争にどう対応すべきかというのは、相当悩ましい問題だった。簡単に説明を付け加えるなら、平野著は清朝の国家統合原理について巨視的な視点から大胆な問題提起を行なったものであり、石濱はチベット史専門家の観点から、平野のチベット史理解を批判しているという関係である。ところで、拙著でチベットに言及したのは七五‐七六頁と一三六‐一三七頁の二個所だけであり、そのうちの後者は平野著が取り扱っている時期ではないから、平野著と関わるのは前者だけであり、これはほんの数行の短い記述にとどまる。もしチベット問題を正面から取り上げて、詳しく論じようというのであれば、平野・石濱論争を避けて通ることはできないだろうが、このように軽く触れただけのテーマについて、ごく最近の専門家間の論争にまで立ち入る必要はないだろうというのが私の判断だった。
それでも、この問題についてどう考えたらよいのだろうかという問いは、ぎりぎりまで私を悩ませていた。そういう中で、原稿を出版社に送る直前に、加々美光行『中国の民族問題――危機の本質』(岩波現代文庫、二〇〇八年)が出たのはありがたかった。この本の中で加々美は平野と石濱の「見解の違い」に触れ、「論争というにはなお未熟な段階にあるため、あえてここでは『見解の違い』という表現を用いる」と説明している(四七頁および八四頁の注12)。また、やや離れた個所で、別の論点についてだが平野著の参照を求めている(八五頁の注19)。つまり、中国民族問題の専門家である加々美は、この「見解の違い」は論争というほど熟しておらず、当面あまり立ち入る必要がない、また平野著は少なくともある範囲では参照に値する書物だ、という見解を示しているわけである。こういう風に書くと、加々美を絶対的な権威として、その陰に私が隠れようとしているととられるかもしれないが、それは私の本意ではない。どのような「専門家」であろうと「絶対的権威」などというものはありえないし、異論の余地は当然ありうる(私自身も、中国に関する知識は加々美よりはるかに劣るにもかかわらず、いくつかの点では加々美の記述に若干の疑問を持っている)。しかし、それはともかく、加々美がこの分野における代表的な専門家の一人であることは疑う余地がない。専門家たちの間で意見の分かれている事項について非専門家がどのように触れることができるかは悩ましい問題だが、論争当事者でないもう一人の専門家がその論争についてどう書いているかを――「絶対的権威」というわけではなく一つの手がかりとして――参考にするのは、一応許されることだと思う。
中国の民族問題をめぐっては、いま名を挙げた平野、石濱、加々美の他、毛里和子、濱下武志、王柯、村田雄二郎、田島英一らも、それぞれ一家言をもっており、種々の関連著書・論文を書いている(ここに挙げた以外にも多くの専門家がおられるはずだが、そこまで視野を広げられなかったことについては、素人の限界として寛恕を請うしかない)。私は中国について書く際に、平野(および加々美)だけに依拠したのではなく、これらの人の仕事も大なり小なり参照し、私の理解しうる範囲においてではあるが、「おおよそこの辺が、いまの研究段階を踏まえて言えることだろう」という見当をつけて書くように心がけた。もちろん、それでもなおかつ不十分だったり、誤っていたりするところもあるだろうことは認めるにやぶさかでない。ただ、少なくとも、「平野著は痛烈な書評にさらされた」→「だから、平野著は完全に無価値だ」→「その平野著に言及した塩川著もいい加減な本だ」、というような即断はあまりに短絡的ではないかと思う。
●インドの公用語に関する鈴木義里氏からのメール
《批評の要旨》 憲法付則で一五の言語が公用語として挙げられ、その後、一八に増やされたとある(一二三頁)。先ず、一五は明らかな誤りで、正しくは一四である。また、一八に増えたのは一九九二年改正のことだが、その後、二〇〇三年改正で二二にまで増えた。付則に載せるために運動をしている言語集団があり、彼らの立場からは、これはどうでもよい問題ではない。
《私の感想》 先ず第一点はご指摘の通り。では、なぜ一五と書いたかというと、付則に挙げられている公用語の他に、英語も公けの場での利用を保障されていることから、事実上の公用語は一四プラス英語で一五と考えてしまった。しかし、事実上の公用語と正規の公用語は区別すべきであるし、憲法付則に言及した以上、そこに挙げられている言語の数としては、一四と書かねば不正確である。結論的に、私の明らかなミスであり、増刷時に修正することにした。
第二点についてもありがたいご教示である。ただ、増刷時の修正については、やや難しい問題がある。拙著該当個所で挙げた鈴木義里『あふれる言語、あふれる文字』は二〇〇一年刊であり、その時点での公用語の数は一八と記されていたので、私もそのままの数字を紹介した。その後、二〇〇三年に二二になったとのことなので、最新の情報を盛り込むためには二二と直した方がよい。しかし、単純にそう書くと、典拠に挙げた文献の記述との間に齟齬が生じてしまう。一番いいのは、「二〇〇三年には二二に増えた」と書き、「鈴木義里氏の個人的御教示による」という注記を加えることだが、増刷時の修正は行数を増やさないという原則があり、このように長い追加をすることはできない。そこで、中途半端な解決策だが、「その後増えつつあり、二一世紀初頭時点では一八」と改めることにした。この書き方なら、典拠に挙げた文献通りの忠実な紹介になるし、「二一世紀初頭時点では」と限定することにより、その後の変化可能性を示唆することができるからである。これは行数を増やすことができないという技術的制約に基づく苦肉の策であって、あまりうまい解決ではない。鈴木氏および読者にお詫びし、ご寛恕を乞うしかない。
なお、以上の二点については、二〇〇九年一月の第二刷から修正されている。
●ある国際政治学者からの批評
《批評の要旨》 ナショナリズムは国家という「政体」と深くかかわるものであり、そしてその国家は国際社会の構成単位であるがゆえに、(国家の領域的範囲と統治原理という面において)どのような国家を国際社会の正統な構成員と捉えるかは、すぐれて国際問題であるから、ナショナリズムという問題には国際的次元が付随することになる。この点は、本書の中では、ウティ・ポシデティス原則*が社会主義連邦の解体という局面に応用されるという文脈で(一五六‐一五八頁)さらりと論じられているが、国境の国際的再編の原理の選択(=図式的に整理すれば、「自決型の積極的再編」か「ウティ・ポシデティス型の消極的再編」か)は、ナショナリズムというアポリアを論ずるうえで、正面から体系的に論じられてもよい問題なのではないか。
*一九世紀の旧スペイン領南アメリカ諸国の独立に際して、これまで同一の主権者に属する行政区画または植民地の間の境界に過ぎなかったものが国境に転化した。この原則が一九六〇年代アフリカの独立に転用された。このような、従来の行政境界の国境への転化をウティ・ポシデティスという。
《私の感想》 この問題を拙著が「体系的に論じ」ていないというのは御指摘の通り。もっとも、中途半端ながら一応は明示的に触れたつもりだったが、その中途半端さのために欲求不満を残してしまったのだろう。それはともかく、「自決型の積極的再編」と「ウティ・ポシデティス型の消極的再編」の関係は、微妙なものがあり、簡単には割り切れないように思う。古典的事例とされるラテンアメリカやアフリカにおける独立国家形成時の場合と、ソ連・ユーゴスラヴィア解体の間には、ある種の類似性と同時に微妙な差異もあり、その辺の事情を解きほぐすのはかなり複雑な作業となる。
一つには、独立達成以前における「ネイション」形成のあり方の差がある。この点については、不十分ながら拙著一一九‐一二〇頁で触れた。アジア・アフリカ・ラテンアメリカについて詳しいことは知らないのでさておくとして、ともかくソ連・ユーゴスラヴィアの場合、旧体制の中で徐々に「ネイション」形成が進められつつあり、それが後の独立につながったという連続性がある。これはしばしば見落とされがちだが、重要な意味をもつ論点である(拙著一一一‐一一二頁など)。
もう一つには、ソ連およびユーゴスラヴィアでは旧体制が「民族自決」原理に基づいた複数の「国民国家」の連合という体裁をとっていたため、連邦解体に際して、既存の共和国間境界をそのまま独立諸国間の国境に転じるという解決がとられやすかったということがある(拙著一五七‐一五八頁)。これは、いわば「自決」論による独立国家形成と「ウティ・ポシデティス」の結合ということになると思われる。そして、そのこと(国境問題については争わないという合意)が、解体を相対的に平和的なものにする要因となったと考えられる。もっとも、このような解決に至ることが最初から確定していたわけではなく、解体前後の時期においては、国境をめぐる対立が激しい紛争(場合によっては、新興独立国同士の戦争)になりかねないという様相を呈したこともあったが、それはあまりにもコストが大きいことが明白であったため、大多数の場合、国境については争わないという合意が形成された(ロシアとラトヴィア、ロシアとウクライナ、ルーマニアとウクライナ、ロシアとカザフスタン、あるいは旧ソ連の外でいえばドイツとポーランド等々)。これにより、その後は、いくら諸国間に各種の対立があるにしても少なくとも戦争には至らないという状態が形成された。
但し、上記は、あくまでも旧体制下で「連邦構成共和国」という地位を与えられていた地域に関してのことであり、それ以外の地域(自治共和国・自治州、あるいはそうした地位さえも与えられていなかった民族地域)については、事情が異なる。それらの地域で「自決」権に基づく独立運動が起きると、領域画定がはるかに複雑で、「ウティ・ポシデティス」による解決が難しく、そのため軍事紛争が起きやすいという傾向があった。ボスニア=ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ、沿ドネストル、アブハジア、南オセチア、ナゴルノ=カラバフ、チェチェンなど、旧ソ連・ユーゴスラヴィアの地域紛争が武力化したほとんどすべての例は、こうした状況と関わる(拙著一六三‐一六七、二〇四‐二〇七頁)。アルメニアとアゼルバイジャンの間の戦争にせよ、最近のロシア・グルジア戦争にせよ、自治共和国・自治州レヴェルでの紛争が絡んだからこそ戦争にまで突き進んだのであり、それぬきで独立国家間の戦争になったとは考えられない。
敢えて単純に図式化すると、「自決」論に基づく独立国家形成が「ウティ・ポシデティス」をとり得た場合とそうでない場合とがあり、前者は相対的に平和的であるのに対し、後者はしばしば軍事紛争化した、という対比があるように見える。チェコスロヴァキアの場合には後者に当たる地域が存在しなかったおかげで「ビロードの分離」となったし、ソ連でも、自治共和国・自治州などが絡まない共和国の独立が平和裡に進行したのはそうした事情によるところが大きいのではないか。
●植民地地域での日本語普及に関わる山本忠行氏からのメール
《批判の要旨》 「朝鮮語および中国語はいずれも日本統治以前に文章語を形成していた」と記されているが(八四頁)、これは朝鮮語に関しては不正確である。
朝鮮語によって文章をどう書くかは、一九〇五年に保護国となったときにはまだ明確な定めがなかった。甲午改革(一八九四年)のなかで近代教育の導入および漢字諺文混用による公用文作成の方針が打ち出された――それまで公文書は漢文か吏読で書かれていた――が、大韓帝国は意見をまとめることができなかった。朝鮮語の標準語制定、正書法制定は一九一二年の普通学校用諺文綴字法が第一段階で、現行の文体、正書法がほぼ完成したのは一九三〇年制定の諺文綴字法である(この諺文を「ハングル」と名づけるようになったのも一九一二年のこととされている)。
《私の感想》 私は朝鮮史には不案内であり、当該個所を書くに際して数冊の参考文献に当たったとはいえ、本格的に研究したなどと言えるわけではない。従って、山本氏のご指摘に対しては、大変勉強させていただきましたというほかない。その上で、敢えて言訳めいたことを付け加えるなら、当該個所で私は「文章語を形成」と書き、「確立」という表現は避けた。「確立」をいうには多くの条件――公文書で使われるとか、正書法が統一されるなど――が必要だが、「形成」はもっと緩い条件で言えるのではないかということで、こう書いたように思う。あまり権威の高くない、俗語的なものとしてであれ、とにかく文字を使って文章が書かれたり、読まれたりするというプラクティスがある程度以上広まれば、文章語が「形成」されつつあると言えるのではないだろうか。世界中にきわめて多数の言語があるうち、正書法や文法が確立し、公文書で使われるのはごく一部だが、そこまでいかなくても、ある程度まで文章語として使われるようになりつつあるなら、それをもって「形成」と呼んでもよいのではないかと考えたわけである。このような趣旨のことを山本氏への返信メールで書いたところ、「文章語が『確立』はされていなかったが、『形成』されていたのかどうか、となると試みはあったけれども、形成されかかっていた、ぐらいが妥当なところかもしれません」との回答をいただいた。
(最初のアップロードおよび第一回補訂は、記録をきちんと残さなかったため日取りが不明だが、およそ二〇〇九年四月と九月。第二回補訂は二〇〇九年一〇月、第三回補訂はおよそ二〇一二年五月頃。第四回補訂は二〇一三年七月)。