論文の書き方 (Ver. 2.7)
*この小文は、最初は学部学生のレポート執筆を念頭において書いたものだが、それにしてはやや要求水準が高すぎたので、むしろ大学院生向けの論文作法として書き改めた。そのようなものとしてみた場合、ある意味では当たり前のようなことを書いてあるが、実は、当たり前のようなことがなかなか実践できないというのが現実であり、「言うは易く、行なうは難い」ということを痛感する。私自身を含めて、既に研究者になった人間も、守るべき作法を本当に守っているか、時々反省してみる必要があるのではないかと思う(2001年2月)。
1 研究論文とは?
大学生やあるいは社会人も種々の調査レポートを書いたり、研究発表をする機会がよくあるだろうが、「研究論文」というものは、それらと――似た要素ももちろんあるが――同じものではない。では、どこにどのような特徴があるだろうか。
「研究論文」とよばれるものの最大の特徴は、予め「正解」がどこかにあって、それを見つけ、書き写し、まとめ直し、覚えればよい、というようなことではないという点にある。そもそも問題自体も、人から与えられるものではなく、自分で提起する、そして答は出来合いの形では存在しないので、何とかして自分でつくり出していかなくてはならない――これが論文である。
社会科学の場合、特に「正解」「定説」がないことが多い。従って、仮に誰かが何かの本に「答え」らしいことを書いていても(あるいは、最近の動向としては、インターネット上に、「答え」らしきデータが載っていても)、それをみつけるだけで済むわけではない。安心して依拠できる「定説」がどの程度あるかは、分野によっても違うが、例えば現代史のような領域では、ごく初歩的な問題についてさえも、「定説」がないことが多いし、仮に「定説」らしきものがあっても、それを疑い得る余地は相当大きい。
だからといって、「人それぞれに見方が違うのだから、何をいってもよい。どの見解の妥当性も相対的だから、どれをとっても同じだ」ということになるわけではない。実証性および論理性において、どの程度綿密な検討が施されているかによって、説得力の度合が異なる。その検討が万全ということはありえない――特に、初歩の場合には、どうしても穴だらけにならざるを得ないのは自然であり、欠陥が多いということをそれほど嘆くにもおよばない――が、それでも、どの程度努力を積み重ねた産物かによって、出来映えが異なるということになる。
補) 「定説」のない分野における探求の特徴
「正解」が与えられているものではないということを書いたが、このことは、一般論としてはどの分野についてもいえるにしても、どの程度まで安定した「定説」があるかは分野によって異なる。ディシプリンとして確立している分野――自然科学ではほとんどすべての分野、社会科学では法学、理論経済学、理論社会学など、人文系では言語学、心理学など――は、相対的には「定説」がはっきりしており、特に初歩の段階では、ひとまずそれをきちんと吸収することが要請されるだろう。これに対し、歴史(特に現代史)、地域研究、現状分析、政治などにかかわる分野では、「定説」を提示しにくいことが多い。「パラダイム革新」ということがよくいわれるが、ディシプリンとして確立していない分野においては、そもそも「パラダイム」が存在しないのである(こういう分野についてさえも「パラダイム革新」を叫ぶ人を見かけるが、これは自分のいっていることをよく理解していない人の言辞である)。
現在に近い事象ほど、評価が定まらないケースが多い。また、政治的評価とかかわる事象は、立場によって極端に異なる見解が存在するのが常である。ジャーナリスティックな関心を引くテーマについては、一見分かりやすく解説した文献が書店を賑わしているが、それがどこまで信用できるかとなると、眉に唾をつけねばならないこともよくある。論者が特定の党派的な立場にたっているために、議論が一面的になっている文献も多い。それが自覚的になされているなら読者はそのことに気づきやすいが、筆者自身が無自覚のうちに或る立場に引きずられているため、「党派性」があらわになっていないというケースも稀ではない。
このような傾向は、私の専攻するロシア・ソ連史の場合、特に著しい。それが、ロシア・ソ連史の難しさでもあり、面白さでもある。ロシア・ソ連史に限らず、ディシプリンとしてあまり成熟していない分野の研究をする場合には、成熟度の高い分野の場合とは異なった独自の手順が必要とされる。後者では、先ず「定説」を覚え、習得する、そして高次の段階ではじめて「定説」批判を試みるという順序がかなり明確に設定できるのに対し、前者では、そのような段階を明確には設定できない。ではどういう手順になるかという問いに対しても、実は「正解」がない。ただ、そうした難しさと、それ故の面白さを念頭において、絶えず批判眼を働かせながら、種々の見解の相対的妥当性を検討しつつ、手探りで進むほかない。
もちろん、いくら「定説がない」とはいっても、相対的に手堅い叙述とそうでないものとの差はあるので、できる限り手堅そうなものを選んで吸収する努力が必要である。初歩のうちは、どれが手堅く、どれがそうでないかも見分けにくいだろうが、その場合は教師や先輩にいろいろと尋ねるのも一法である。もちろん、その教師や先輩のいうことも全部鵜呑みにできるとは限らないが。
2 テーマの設定
論文には明確なテーマが必要である。往々にして、何がテーマなのかをはっきりさせないまま、とにかく調べたことをだらだらと羅列した文章があるが、それは論文とはいえない。
もっとも、テーマは最初から明確にしぼりきれるとは限らない。はじめのうちは曖昧な、焦点の定まらない事柄を漠然と調べているうちに、次第にテーマがはっきりとしてくるということもよくある。ただ、その場合にも、実際に書く段階では、テーマが明確になっていなくてはならない。
多くの場合、最初は単一のテーマと思われたことも、調べていくと複数のテーマの複合体だと分かることになるのが常である。それらの複数のテーマの相互関連性には、非常に密接なものもあれば、それほどでない場合もある。言葉の上の外見的類似性だけがあって、実際にはほとんど無関係なことを一まとめにして考えていた、などということもよくある。そうした関連性の濃淡を踏まえて、最中心のテーマ、それと直接かかわるテーマ、周辺的なテーマなどに分け、あまり関連性のないものは切り捨てていく、という形で、全体の構想を練ることになる。
初歩の段階では偶然的にテーマを選んでいても、ある程度たつと、テーマ選択をもう少し突っ込んで考えるようになる。その際、「この問題にはどのような意味があるのか」という角度と、「この問題は、堅実に接近するための手がかりがどの程度あるのか」という角度の双方からの検討が必要である。論文の出来映えに直接影響するのは後者の方であり、具体的手がかりの乏しいテーマをとりあげた論文は、ややもすると単なる空回りになりやすい。しかし、だからといって後者だけを念頭において前者をなおざりにするなら、一応まとまっていても面白みのない論文が生まれるということになりやすい。難しすぎるテーマを選んで挫折するのも困るが、若い時期には、多少自分の能力以上かと思われるような難問にチャレンジする元気もほしい。
3 全体の構成
文章の組み立て方というものは、その文章のジャンルによって異なる。随想の場合には、話があっちに行ったりこっちに行ったりするのがむしろ普通であり、そこに味がある。小説の場合には、読者の緊張感を誘うために、わざと構成が分かりにくいような形で組み立てることもある。これに対し、論文の場合には、構成が論理的に明確につくりあげられていなくてはならない。
もっとも、準備段階では、最初から論理構成を明確にできるとは限らない。最初から明快に論じられるようなテーマは、話が単純だからであり、結論の分かりきった、つまらない論文しかできない、ということもある。従って、準備段階では、話を論理的に組み立てられずに悩み、考えがあっちに行ったりこっちに行ったりするという経験をするのがむしろ普通である。
しかし、そうした悩みをそのまま表現したり、議論があっちに行ったりこっちに行ったりした文章は、「論文」そのものではなく、「論文執筆の内輪話」ともいうべきもので、ジャンルとしては随想の方に属する。もし随想ではなく論文を書こうというのであれば、そうした悩みを経た上で、「とにかくこういう風に組み立ててみよう」という自分なりの結論――暫定的な結論に過ぎないかもしれないが――をはっきりさせて、きちんとした論理構成をとらねばならない。
構成を乱す大きな要因として、「ともかく調べたことは何でも詰め込んでしまおう」という姿勢で書くことがある。折角調べたことを盛り込まないのは惜しいという気持ちは誰しもが感じることだが、それでも敢えて、ある一つの論文の論旨にとって不要なものは削るという姿勢をもたないと、すっきりした文章は書けない。あるときに捨てたものでも、別の機会に生かせるということもあるので、一度に詰め込むのを焦ることはない(特に、パソコンを使っていれば、ある論文で削ったものも、別ファイルとして保存しておけるから、別の機会に生かしやすい)。むしろ、いかに削るかということが文章の質を高める上での一つのポイントになる。
ある程度以上長い論文の場合、その構成を序章で予告することがよく行なわれる。これは読者の理解を助けるという肯定的意味をもつが、その際、ただ単に、第1章では何を論じ、第2章では何を論じるということを列挙しただけ――いわば目次を文章体で書いたようなもの――では、意味が薄い(しばしば実際にそういうものが見受けられるが)。それだけなら目次をつければ済むことであるし、特に長大でなければ、それもなくても構わない。問題は、自分は当該テーマをどのようにとらえ、それをどのような基準で小テーマに細分したのか、そしてまたそれらをどのような論理的連関でとらえるが故に、このような順序で論じていくのか、といった説明をすることである。そのような説明をすることは、読者の便宜のみならず、自分の頭を整理する上でも役立つ。
4 個々の言明の根拠付け
論文において重要なことは、全体が論理的に組み立てられていることと並んで、個々の言明についても、その都度はっきりとした根拠付けが行なわれているということである。根拠付けにはいろんな種類のものがある。
@実証性。種々の資料を用いて、自分の言明が事実によって裏づけられるということを示す。ここで「資料」とは、多くの場合、種々の文献だが、現地調査、インタヴュー、統計データ、非文字資料(絵画・写真・彫刻・音楽・建築物・考古学資料その他)なども含まれる。
注意すべき点は、「資料」は直接に「事実」そのものを示すわけではないということである。前者から後者を導くのは「解釈」という作業であり、その解釈の妥当性については、様々な角度からの検討・吟味が必要となる。初歩の段階では、それほど丁寧な検討までは行なえないだろうが、ともかく、「解釈」およびその検討というプロセスがあるということだけは念頭においておく必要がある。それ抜きに、資料が直接に事実を示しているという幻想は避けなくてはならない。
A論理性。ある前提からある結論が、きちんとした論理のステップを踏んで導かれるということを示す。これもいくつかの要素に分かれる。
第1に形式論理学的な意味での論理整合性。これが論文にとって不可欠だということは当たり前、いわずもがなと思われるかもしれない。しかし、社会科学の問題というのは複雑かつ難解なものが多いため、実際には、つい論理的整合性を欠いた叙述をしてしまうことがよくある。自分の書いた文章を丁寧に読み返して、そうした整合性の欠如がないかどうかを点検することが必要である。
もう一つつけ加えるなら、社会科学における問題の複雑性と関係して、対象自身に矛盾が含まれ、純粋に形式的な論理整合性は本来求めるべくもないということもありうる。そのような場合にも、そうした対象内在的な矛盾を明確に意識し、明示的に論じることが必要である。その意識なしに、何となく論じたらいつのまにか矛盾が含まれてしまったというのでは困る。
第2に、自分自身がこれまでに論証した命題からの派生的命題の導出がある。これがきちんと積み重ねられていて、その体系で論文が構成されていれば申し分ない。実際には、なかなか難しいことであり、無理をして形だけ実現しようと思うことはないが、目標としては念頭においておくべきことである。
第3に、何らかの理論が広く有効性を承認されていて、それを出発点にするということもある。何らかの理論を出発点にする場合に注意すべきなのは、社会科学においては自然科学に比べ、異論の余地ない理論体系というものは極めて少ないということである。従って、とりあえずある理論を採用するにしても、それが必ず満足のいく結果を生み出すとは限らないことを念頭においておく必要がある。仮に非常に優れた理論であっても、その射程距離は限られているので、自分が論じようとするテーマがその射程距離内にあるのかどうかの吟味も欠かせない。
B以上が最も基本的なものだが、実際には、複雑多岐にわたる論点について洩れなくきちんとした根拠を示すのは困難であることが多い。そこで、いくつかの点については、やむを得ず、誰か他人の書いたことに依拠する(そのまま借りてきて利用する)ということもある。これは、特に初歩の段階で多いことはいうまでもないが、ある程度以上研究が進んでからでも、複雑多岐な論点を扱う論文の中の副次的な論点についてはありうることである(主要論点が借り物では困るが)。
この場合に重要なことは、それが「借り物」だということを明確に意識しているということである。「借り物」であるのに自分自身の研究成果であるかのように錯覚することほど危険なことはない。
5 「自分の頭で考える」ということ
冒頭に述べたように、研究論文というものは、どこかに「正解」があるわけではない事柄について書くものである。そうである以上、「自分の頭で考える」という作業を抜きにして論文を書くことはできない。
これは当たり前のことみたいだが、実際にはそう簡単なことではない。いくら「自分の頭で考える」のが大事だといっても、何の手がかりもなしに考えることはできないので、どうしても手始めに誰か他人の書いたものを読んでみるといったことから始めるしかない。ところが、まだあまり沢山のものを読んだことがない段階で、たまたま読んだ文献にもっともらしいことが書いてあると、どうしてもそれに引きずられるという現象が起きる。これはある程度まで自然なことだが、警戒すべき点である。形式的な注意事項としては、ある命題を述べるときに、それが「自分の考え」なのか、「誰か或る人の考え」なのか、「誰もが一致して認める異論の余地ない事実」なのかを明確に区別することである。
一つの見解だけに引きずられないようにするには、多数の文献を読み比べなくてはならない。しかし、ただ単にたくさん読みさえすればよいというものでもない。いろんな文献に書いてあったことを単純に並列し、それぞれに引きずられるなら、まだ自分の頭で考えていないという点で、一つの文献しか読んでいない場合と同じことである。重要なのは、複数の文献を読み比べたときに、そこにある差異に気づき、それがどこから由来するのかを考えることである。「同じようなテーマについて書かれたものなのに、どうして異なった叙述があるのだろうか」と考え、それぞれがどのような視点からの叙述であるかを考えることから、自分の視点の形成、そして自分の考えの形成が始まる。
今日、「情報化時代」ということがいわれ、実際、各種の情報量および情報伝達手段は幾何級数的に増大しつつある。このことは、知的な作業にとって有利な前提条件をつくっているかのようだが、実は、あまりにも多すぎる情報の海の中で溺れる危険性の増大をも意味している。一つ一つの情報をよく吟味し、咀嚼し、消化吸収するという作業抜きに、単に飲み込み、機械的に再生し、忘れる、といった態度が普及しやすい。つまり、「自分の頭で考える」ということが情報化の渦巻の中で困難になりつつあるのである。このことに対する明快な処方箋はないが、とにかくそうした時代に生きているということを意識しつつ、それぞれに対処を考えるしかない。
以上、「自分の頭で考える」ということを強調してきたが、実は、独創性・創造性と模倣の関係はなかなか複雑であり、「創造は難しいが、模倣は易しい」とは言い切れない。この辺の事情を誤解して、創造性だけを表面的に追求しようとすると、とにかく外観的に他人と違うことをいうとか、他人の書いたものにはいっさい言及しない(実際には他人の恩恵をこうむっているのに、それを隠す)といった態度をとることがよくある。しかし、ある意味では、有意義な模倣は非常に難しいことであり、それ自体が創造の第一歩である。誰もが「権威者」とみなしている人や流行の著作の模倣は易しいが、「権威」とされていない無名の作品に優れたものがあるのを見つけだして紹介したり、模倣するのはずっと難しい。つまり、何をどのように模倣するかを考えるということ自体のうちにも、「自分の頭で考える」ことの萌芽がある。
日本では、外国(それもほとんどの場合、欧米)の研究者の紹介や模倣は盛んに行なわれ、「かっこいい」こととされるが、日本人の仕事については見向きもしないか、あるいは実は影響を受けていてもそのことを隠しているといったことが往々にして行なわれる。これは明治以来の悲しい伝統だが、最近は、「国際化」のかけ声のもとで、形を変えて再生産され、再び強められているようにみえる(「外人」の仕事をたくさん知ってさえいれば「国際的」で、そうでないと「時代遅れ」だといったような)。だからといってナショナリストになって「外人には見向きもせず、日本人のものばかりを真似よう」というのではないが、何をどういう風に真似るか、そこから何を引き出すかは真剣に考えるべき問題である(この問題については、大分古い文章だが、板倉聖宣「科学と教育における模倣と創造と盗作」『朝日ジャーナル』1977年12月16日号に示唆を受けた)。
6 注をつけることの意味
論文には注というものがつけられるのが普通だが、これは単なる飾りではない。時として、とにかく外観を飾り、あるいは「権威」ぶるために、沢山の注を意味もなくつける――特に、先にも書いたように、外国人の外国語の著作をたくさん挙げる――といったことが行なわれる。自分の議論とどのように関係するのかを示さずに、とにかく読んだ本を片っ端から挙げるとか、甚だしきは、実は読んでもいない本を挙げるとかいったことをする人が少なくない。しかし、これは注というものの意味をわきまえないものである。
注の第1の意義は、根拠の明示ということである。第4節の@で触れた資料を示したり、あるいはAの第3で触れた理論がどの著者のどの本にあるかを示すというものである。なぜこれが必要かというと、執筆者がいくら正しいと信じていることでも、他人はそれを疑い、吟味する権利があるので、その吟味のための手がかりを提供しておくなら、読者は必要に応じて自分の目で再検討ができるという点にある。つまり、注が適切につけられているということは、他者による検証に開かれているということである。そのような性格をもっているからこそ、論文は、たとえ「客観的な真実」ということを直ちに主張できなくても、「間主観的な妥当性」を獲得できる条件を備えているということになる。
そのような目的をもつものである以上、注は、読者が元の資料や文献に当たるのを助けるようなものでなくてはならない。同じような資料・文献が複数種類あるときには、多くの読者にとって見つけやすいものを優先すべきである。往々にして、自分の「権威」を見せびらかすために、わざと見つけにくいものを挙げる――実際には、もっとあり触れた資料によって論証できるのに――ということがあるが、これは本末転倒である(但し、先に「同じような資料」と書いたのは、内容が同じというだけでなく、信憑性も同程度ということである。あり触れた資料が信憑性が低いのなら、入手困難な資料によるのもやむを得ない。つまり、入手困難な資料を挙げるのは「やむを得ない」からであって、「カッコイイ」からではない)。
注の第2の意義は、自分の研究の手がかりとなり、いろいろな示唆を与えてくれた先学への謝意を表わすことにある。いくら「自分の頭で考えた」論文であっても、他人の世話にならないものはない。それを隠すのは、自信がないからであることが多い。正々堂々と、誰の世話になったかを明示するのは、当然の礼儀であるばかりでなく、どこまでが他人の影響であり、どこからが執筆者の独創であるかを示す点で意味がある。もちろん、この場合にも、「注は飾りではない」という原則は当てはまるから、自分の論旨にとって無関係な文献を、とにかく有名だったり流行だったりするからということで多数列挙するのは筋違いである。あくまでも、本当にこうむった恩恵を示すことに意味がある。
注の第3の意義は、第4節のBのような場合について、「借り物」である個所は誰からの借り物かを明示するという点にある。第5節で述べたように、模倣は必ずしも恥ずべきことではない。有意義な模倣もあれば、無意味な模倣もある。誰の何をどのように模倣し、借りたかを明示してあると、それがその論文の水準の評価にも役立つ。真似るに値するのにあまり知られていない文献を見つけて言及してあるケースと、真似るに値しないにもかかわらず虚名ばかりが高い文献を注にあげてあるケースとを比べれば、執筆者の姿勢の違いが分かる。最悪なのは、実際には借り物であるのにそのことを隠しているケースである。
7 レファレンス・トゥールの利用
レファレンス・トゥールとは、辞書、事典(百科事典および分野別事典)、文献目録、年表、人名録、蔵書目録、年鑑、その他、種々の調査・研究に役立つ道具としての意義をもつものである。近年では、印刷された書籍の形をとったものの他に、データベースその他の電子情報も増えてきた。どの分野でも、様々なレファレンス・トゥールが存在しており、それらをよく知って、使いこなせるということが、その分野の「プロ」ないしそれに準じる人の必須条件とされている。初歩の場合、もちろん「プロ」の水準にいきなり達しようとするには及ばないが、ともかくそういう事情があるということだけは念頭においておいた方がよい。
しかし、「馬鹿と鋏は使いよう」である。鋭利な鋏は確かに役立つ。だが、鈍い鋏でも何とかなる場合もあるし、なまじ鋭利な鋏をもっていたために怪我をすることもある。別の比喩をすると、日曜大工の仕事もしないのに、むやみやたらと高級な工具ばかりを買い揃えても、何の意味もない。ただ、いざ実際に日曜大工の仕事をするとなると、やはり道具というものはあった方が便利だと分かるし、その過程でいろいろと自分にとって有用な道具を探すということになる。
従って、自分自身の研究にとっての必要性から離れてレファレンス・トゥール整備を自己目的化するのは空しいことだが、必要に応じてそれらを探索しようという心構えはもっておいた方がよい。
付) パソコン・ワープロなどの利用について
ここではコンピューター利用についての一般論はしない。その種の文献は無限といってよいほどたくさんあるし、私自身には十分な解説能力がない。ここではただ、コンピューター技術もまた、前節で書いた「馬鹿と鋏は使いよう」の典型だということを強調するにとどめる。
コンピューターの一つの使い方としてのワープロについては、文章術とかかわるので、留意点を述べておく。ワープロが何よりも優位性を発揮するのは、何回でも文章の推敲ができるという点である。どのような文章を書く場合でも、推敲という作業が極めて重要だということはいうまでもないが、ワープロだと手書きよりもはるかに容易に推敲を重ねることができる。
ところが、ここでもまた「馬鹿と鋏は使いよう」で、利点が裏目に出ることもある。「どうせ後で推敲ができるのだから、とりあえずは整わない文章でも、そのまま入力しておこう」と思って書き始め、「いつかそのうち推敲しよう」と思っているうちに、それを忘れてしまうとか、もう締切がきてしまうということが起きる。しかも、プリンターで印刷すると、外見的には手書きよりもきれいなので、内容的には整っていない、乱雑な文章であっても、あたかもきれいにできあがった文章であるかの錯覚をいだいてしまうことがある。そうした落とし穴があるということに気をつけて、推敲を絶対に忘れないようにすることが肝要である。
ワープロのもう一つの利点として、いろいろな時期に断片的に打ち込んだデータを、後で組み立てて論文にする作業を技術的に容易にしてくれるということがある。ノートやカードに手書きしたデータを後で原稿用紙に書き移すのは相当の手間だが、その点、ワープロだと時間と労力が大分節約できる。しかし、ここでもまた利点と陥穽は表裏一体で、安易さにおぼれてマイナスの結果に導くことがよくある。いろいろな時期に断片的に打ち込まれたデータから論文をつくるには、それらの相互関係を考え抜いて、きちんとした構成にまとめ直すという作業が不可欠だが、にもかかわらず、小手先の作業としての継ぎ接ぎ細工が容易になったおかげで――というか、そのせいで――論理的構成がきちっと練り抜かれていない羅列的な「論文」ができるということになりがちである。そういった類の安手の「論文」は昔からあったとはいえ、パソコン・ワープロ普及によって最近特に増えてきたように感じる。心すべき点である。
Ver. 1. 1995夏.
Ver. 2.1. 1995秋.以後,断続的に改稿.
Ver. 2.7. 2001.2.19.