韓国語版へのまえがき
 
 
 本書の韓国語版刊行にあたり、私の胸中では、大きな喜びと強い緊張感ないし畏れのような感覚がないまぜになっている。いうまでもなく、日本と韓国の間には、ナショナリズムという難問をめぐって複雑で不幸な関係があり、相互理解や実りある対話は今なお容易ではない。本書はそうした対話を少しでも前進させたいという願いを込めて書かれたが、その願いがどこまで実現できているかは、韓国の読者たちの厳しい審判に委ねるほかない。不十分な試みではあるが、その方向に少しでも寄与できるなら、著者としてこの上ない喜びである。
 
 いきなり日本と韓国の関係というアクチュアルな問題からこのまえがきを書き始めたが、実は、本書はそうした問題を中心課題としているわけではない。むしろ、できるだけ幅広い視野の中で、さまざまな論争的問題について性急に結論を出すのではなく、ゆっくりと考えていくための素材を提供することが、本書の主要な狙いである。解釈の分かれる諸概念の相互関係を考えて、一種の交通整理を試みること、また近現代の世界史の流れを一通り振り返って、大まかな歴史的見取り図を提出することが、本書の主要な内容をなしている。
 本書の主題については、これまでに膨大な量の議論が積み重ねられてきた。中でも、エリック・ホブズボーム、エルネスト・ゲルナー、ベネディクト・アンダーソン、アンソニー・スミスといった人たちの著作は、今では一種の古典となっている。そのように大量の著作がある中で、本書に何らかの存在価値があるとしたら、それは以下のような点にあるのではないかというのが、著者の希望的観測である。
 第一に、いま名を挙げた一連の「古典」の後に出たいくつかの新しい議論を踏まえ、古典的見解の部分的修正を試み、現代の理論的状況にふさわしいナショナリズム論を提出することである。第二に、そうした理論面だけでなく、冷戦終焉後の新しい国際情勢展開を踏まえて、現代的状況に関する試論を提起することである。第三点として、先に挙げた「古典」はみな欧米の研究者によって書かれているために東アジアが相対的に手薄であることを補い、東アジア諸国の読者にとって身近な作品になるよう努めた。最後に、これは私の本来の専門と関連するが、ロシア・旧ソ連諸国という、これまでのナショナリズム論であまり取り上げられてこなかった地域を議論の中に取り込み、それを通して、視野をできるだけ拡大することを目指した。もっとも、これらの目標は「主観的に努力した」というにとどまり、現実には十分達成し切れていないことは著者自身が自覚している。多くの限界や欠陥を免れない書物だが、願わくばさまざまな読者たちからの建設的批評を受けて、それを今後の前進の糧にしたいと考えている。
 本書は分量的に薄く、また特定テーマを深く掘り下げるよりは、むしろ幅広い事項を概観した書物であるという意味で、いわゆる入門書ないし啓蒙書という性格を帯びている。しかし、著者としては、それだけでなく、いくつかの点で新しい問題提起を試み、このテーマについて関心をもつ専門研究者たちにも興味を持ってもらえるような作品にしたいと願いながら、本書を書いた。広範囲の一般読者と専門研究者の双方を想定読者にするというのは、欲張りすぎた課題であり、やや中途半端な結果になっているかもしれない。しかし、もしそれぞれのタイプの読者になにがしかの知的刺激を与えることができるなら、この上ない喜びである。
 
 本書の日本語版は二〇〇八年に刊行された。従って、それよりも後の事態には一切触れられていない。それらを取り込むことは、全面的な改訂を要する大作業になるため、断念せざるを得なかった。言訳めくが、本書は現状分析を主要課題とした書物ではなく、むしろ長期的な視野の中で現代についても考えようという呼びかけを含んだ作品であり、そうした呼びかけは現在でも意味を失っていないのではないかと期待する。
 韓国の読者から率直な批評が寄せられることを切望している。
 
二〇一二年三月
著者