山内昌之『納得しなかった男』
 
 
 本書を読み始めたとき、私の著者に関するイメージは率直に言ってあまり芳しいものではなかった。といっても、以前からずっと悪い先入観をいだき続けてきたということではない。著者、山内昌之が中東イスラーム世界とソ連にまたがる歴史に関して独自の研究を公刊し始めたのは一九七〇年代のことだが、当時大学院に入って間もなかった私は、それらを発表直後から熱心に読み、極めて強い印象を受けた。私自身がやがてソ連の民族問題に関心を深めていくのも、それ以前からの下地があったとはいえ、山内の仕事に触発された面もかなり大きかったから、その意味では学恩をこうむっていることになる。ただ、その後、私自身が類似のテーマに取り組むようになったとき、山内の仕事の粗雑さが甚だしいことに気づき、それまでの賛嘆が大きかっただけに、落胆もまた激しかった。
 山内の仕事の一つの転機となったのは、『ラディカル・ヒストリー』(中公新書、一九九一年)だろう。この本は大胆な問題提起の書として大きな反響を呼び、吉野作造賞を受け、何人かの書評者からは絶賛された。そのように非専門家の間で好評を博した反面、専門の近い人たちの間での評価はむしろ非常に厳しかった(1)。私自身も、大きな疑問をいくつか感じた。問題は単に狭義の専門の観点からの厳密性ということだけにあったわけではない。この本は確かに多くの重要な問題に触れてはいるが、それらの相互関連が明確でなく、面白い論点に触れた途端にすぐ次の話題に移ってしまうという散漫さが目についた。また既成の研究への批判が激しいわりには、それを超える積極的な見解の提示は乏しく、「ラディカル」と称しているにもかかわらず、実は多くの先人によって既に指摘されていた論点の再確認にとどまっているような個所も少なくなかった。全体として、狙いは野心的だとしても、看板倒れの観を否めず、外面的に華やかな美辞麗句の羅列は、無内容さを押し隠すもののように見えてならなかった。
 この本の後、山内はますます大風呂敷を広げる方に向かい、手堅い実証研究から離れていくようにみえた。狭い専門に閉じこもるのではなく、広い視野から多面的な問題に取り組もうという姿勢そのものは壮とすべき面もあったが、その際、専門外の事柄について丁寧な理解の努力を積み重ねた上で発言するのではなく、皮相な思いつきだけを無責任に述べるのでは無意味である。宙に舞い上がって、国際政治やら政治思想やら日本史やら、ありとあらゆる事柄について、あたかも権威者のように振る舞う態度はほとんど滑稽だった。たまにソ連と中東世界の接点という彼の当初の問題領域に立ち戻る場合にも、かなり安易な放言をすることがあり、ほとんど学問とは無縁の世界に行ってしまったように思われた。
 その彼が久しぶりに昔からのテーマに立ち戻って、エンヴェル・パシャという人(一八八一‐一九二二年、トルコの政治家・軍人)の伝記を書いた。永年温めていたテーマについて、膨大な資料調査を踏まえて、長い時間をかけて大著に仕上げたという。これは何を意味するのか。一時の脱線から本業に戻ったということなのか、それとも新しい方向の模索なのか。懸念と期待の入り混じった複雑な思いを懐きながら、本書に手を出した。
 読後感を一言でいうなら、「意外に面白い」というものである。そのことの説明は長くなるので、この後でゆっくりと書くことにするが、とにかく、この「面白い」という感覚がなかったら、この小文を書く気にはならなかったろう。単純に「下らない」と感じた著作を取りあげ、ただやっつけるための書評や感想文を書くというのは空しい業である。これに対し、自分自身の仕事のスタイルとは異質だが、それでも「意外に面白い」と思わせるような著作については、その「意外な面白さ」がどこにあるのかを考えることを通して自分自身の頭を整理することができ、新鮮な刺激を得ることができる。
 本書を読んで「意外に面白い」と感じた理由はいくつかあるが、最大の理由は、本書は歴史研究書というよりも歴史小説であり、小説としてよく書けているという点にある。小説だと思わずに読んだら小説だったという意味で「意外」だが、そういうものとしては上出来であり、「面白さ」を十分感じさせてくれる、ということである。
 誤解を避けるために付け加えておかねばならないが、本書を小説だというのは、皮肉や悪口の意味ではない。研究書と小説とは、どちらが高級とか低級とランクづけることのできない別個のジャンルであり、小説だからいけないなどということはあり得ない。また人には様々な側面があるのだから、歴史研究者が小説を書いて悪いということもなく、その小説が面白く書けていれば、それで十分である。ただ困るのは、ときとしてどちらのジャンルに属するのかはっきりしないような中途半端な作品があり、そういう本は無用の誤解や混乱を招くという意味で、あまり感心しない(2)。それに対し、この本は、明示的に「小説」と銘打っているわけではないが、ちょっと読んでみれば「歴史小説」として書かれていることはほぼ明白であり、誤解の余地はない。私がこれまで山内の仕事に苛立ちを感じていたのは、「研究者でありながら、それにしては粗雑な仕事をする」という点にあったのだが、今回の本は、はっきりと小説の側に属する作品であり、それならそういうものとして安心して読めると感じたのである。私のソ連史の最初の師は菊地昌典だが、菊地も歴史小説に深い関心をもち、自ら小説を書くことまではしなかったが、歴史小説論は何度か書いた。山内がこのような本を書いたのも、菊地と山内が東京大学教養学部で同僚だった時期があることを思えば、何かの縁という気もする。
 本書は「歴史小説」だといま述べたが、正面切って「小説」と銘打たれているわけではない――「あとがき」に「構成や叙述は通常の学術書の体裁とやや異なっている」という断わり書きがある(六〇九頁)が――書物を「小説」だと断定するのはどのような根拠によるのかを明示しておく必要があるだろう。本書においては、エンヴェル・パシャという歴史上実在の人物および彼を取り巻く人々の群像が一次資料に基づいて描かれ、またその社会的背景にも言及されているが、社会的背景の方は主人公の行動と心情を理解する上での道具立てに過ぎず、主たる関心はあくまでも個人の心情に向けられている。本書を読んで何よりも強く印象づけられるのは、オスマン帝国からトルコ共和国への推移でもなければ、初期ソヴェト政権の実情でも、第一次大戦直後ドイツの混乱した世相でもなく、それらを活躍の場とした冒険家の精神のあり方である。読者は、背景としての歴史的事情についてとりたてて予備知識をもたずとも、主人公の冒険心に共感したり反撥したりしながら、本書を読むことができる。これらはすべて歴史小説に固有な特徴である(3)
 歴史研究と歴史小説は――特に、後者のうちのノンフィクションを念頭におくなら――ときとしてかなりの程度接近し、区別しがたいケースもあり得る。常識的には、想像力を駆使するのが小説で、想像によらずに史実を再現するのが歴史研究だと考えられがちだが、研究においてもある種の想像力は必要だし、小説でも想像を極力排するタイプのものもある。森鴎外の「歴史其儘」と「歴史離れ」という議論は、歴史小説について考える上で一つの出発点をなすだろう。もっとも、私自身は、鴎外についても歴史文学一般についてもさしたる見識をもっているわけではなく、あまり大層なことをいうつもりもないが、とりあえず歴史小説の種類として、次のような分類ができるのではないかと思う。
 歴史小説をノンフィクションとフィクションに大別するのは常識だが、ここでは、それぞれを二つずつに分けて四通りに区分してみたい。第一は、ノンフィクションのうち「歴史其儘」を徹底するもので、資料の渉猟の上に立って、史実――厳密にいえば、「史実そのもの」ということではなく、十分に慎重な手順を踏まえた上で史実と想定されるもの、ということだが――のみに即そうとするものである。これは、描かれる中身については歴史研究書とほとんど区別しがたい。それでも歴史研究と異なるところがあるとするなら、それは内容よりも叙述スタイルにかかわる。即ち、歴史研究が対象に内在する一般性の要素を追求するのに対し、文学ではむしろ個別性の要素に力点をおく、また文章表現上の工夫をより重視し、読者に知的興奮よりも美的感興を与えることを主たる目的とする等々である。第二の類型として、やはりノンフィクションで、資料の渉猟と史実の尊重を心がけるが、その上で、どうしても資料によっては埋められない部分――特に主人公の内面的心情など――については、敢えて想像力を駆使して資料の限界を補うというタイプのものが挙げられる。これは想像の要素を含みはするが、ノンフィクションである以上、歴史研究の結論と矛盾することは書かない、またいかにも実際にありそうだと感じられる範囲内で、という制約条件が付けられる。第三は、「歴史離れ」したフィクションで、雰囲気作りなどのために一応歴史的研究を踏まえはするが、史実の再現ではなく、むしろ独自の文学世界の構築を目標とする。ここでは、歴史上の人物を史実とは別に勝手に動かしたり、実在しなかった人物を登場させたりするのも自由である。ただ、フィクションにしても歴史的リアリティーを重視するので、その時代背景や、当時の様々な社会的条件からして絶対にあり得ないようなことは排除する。第四は、フィクション世界の構築をもっと優先させたもので、素材が歴史上の時代だとしても、時代背景にはあまりとらわれないものである。その時代にはあり得なかったようなことを書いて読者が違和感をもっても、まさにそうした違和感を喚起すること自体が作者の狙いだったりすることもありうる。
 このように分類するなら、本書は、一面で資料の渉猟、史実の尊重を追求してはいるが、他面で想像力の駆使も自らに禁じておらず、登場人物の内面を積極的に描写しているという点で、第二の類型に属するということになるだろう。文体にしても、著者独特の擬古的で美文調の文体は――これはこの著者に限らず、その種の文章を書く人一般にいえることだが――往々にして論理の飛躍や実証性の欠如をごまかす役割を果たしがちであり、そのことへの自覚が欠けている場合には学術論文として危ういものとなるが、これが学術論文ではなく小説だということになれば、どのような文体をとるのも自由であり、このような作品にはこのような文体がふさわしいとも思えてくる。
 歴史小説としての本書のもう一つの特徴として、登場人物に対する好悪の情を隠さないという点がある。もちろん、研究者といえども研究対象に何らの価値判断や好き嫌いの感情を持たないということはありえない。マックス・ウェーバーの「価値自由」論は価値判断を絶対に避けるべきだということではなく、むしろそれを明確に自覚するべきだという趣旨である。ただ、研究者の場合、自己の価値観の自覚を通して、自分がひいきする側への肩入れを自制し、そのことによって偏頗な見方に走るのを抑制するという態度が職業倫理として要請される。これに対し、自制どころか、ひいきする側を大きく持ち上げ、嫌う側を徹底して叩くといった書き方は、歴史研究では許されないが、小説でなら自由である。好悪の情をあからさまにした文章というものは、登場人物について語る形をとりながら、むしろ作者自身について語るものである。惚れ込んだ人たちについて語るときの著者は、彼らと酒を酌み交わしながら夜を徹して語り合いたいといった風情であり、嫌いな人に筆が及ぶときは、おぞましいものを見てしまったという嫌悪感で全身が震えるさまが見えるようである。
 このようにみてくるなら、本書を歴史研究書としてではなく小説として読むという私の姿勢は、一応正当化されるだろう。もし本書を歴史研究として読むなら、本書の中には私自身の研究対象たるロシア・ソ連史との接点が多々ある――一九二〇年のバクーにおける東方諸民族大会、ソヴェト政権初期の中央アジア情勢とりわけバスマチ運動、またオスマン帝国とロシア帝国にまたがって居住していたアルメニア人をめぐる諸問題等々――から、それらの点についての検討が欠かせない。だが、本書が小説だとしたら、そうしたことを一々考えることは必ずしも必要ではないということになる(4)。以下では、小説としての本書の特徴とそこから私の受けた感慨について、二、三の思いつきを記してみたい。
 「理想と幻想は、日本語では一字違うだけである」という一句がある(四六〇頁)。この言葉は、本書全体を象徴している。主人公エンヴェルは「理想」を追う人だったが、実は「幻想」の世界でさまよっていただけなのかもしれないという認識がここには窺える。そして、本書を貫くのは、そのような理想と幻想のきわどい境目に生きる人間への共感である。「あとがき」の言葉では、「私たちと同じように弱さと決意、勇気と卑怯未練を併せもつ人間の性格的矛盾」ということになる(六一〇頁)。こうした言葉にみられるように、著者は主人公を単純に美化しているわけではなく、その空想性や政治的弱点などについてもはっきりと認識しているが、むしろ欠陥だらけだからこそ人間臭さをもった、愛すべき人だというのが著者のエンヴェル観――あるいはエンヴェルに限らず、彼を取り巻く同志たちに対するまなざし――だといってよいだろう。これは確かに読者に訴えかけるものをもつ人間観である。欠点のない人間などというものは世の中に存在しないが、欠点がどこにあるかよくつかめず、そのために、「あまりにも高いところにいて、自分たちとは縁遠い」と感じさせる人もいる。あるいは、その欠点が自分にとってはどうしても受け入れがたいものであるために、ひたすら嫌悪感しか呼び起こさない人もいる。これに対して、欠点自体が共感を誘うような人というものは、まさに小説の主人公として好適な素材であり、著者の造形が確かであれば、読者も著者とともに主人公に一体感を覚えることになるだろう。
 それはよいのだが、この視点はすべての登場人物に同じように適用されているわけではない。考えてみれば共産主義者たちもまた一種独自の理想と幻想のきわどい境目に生きていた人たちだといえるはずだが、彼らに対してはこの視点は適用されず、彼らはひたすら「悪役」として描かれている。先に、本書の特徴として、登場人物に対する好悪の情を隠さないということを挙げたが、これはまさしくこの点に関わる。
 このことは、似たような要素をもつ登場人物が、その人の立場によって大きく異なった価値付けをこめて描かれるという結果をもたらす。たとえば、登場人物の言動が首尾一貫性を欠く場合、それがエンヴェルや彼を取り巻く人たちであるなら、愛すべき大らかさとして描かれるが、ボリシェヴィキについての場合には、無節操きわまりないという評価が与えられる。同様に、マキアヴェリスティックな政治的術策は、主人公たちについては、政治家として当然必要とされる資質として捉えられるが、ボリシェヴィキについては彼らの冷酷無比の証左として扱われる。ある地域への政治的進出の願望は、主人公たちについては雄大な解放の夢とされるが、ボリシェヴィキについては、世界制覇・領土拡張の邪悪な欲望とされる。
 登場人物の弁明しがたい汚点が触れられている個所もある。エンヴェルにおけるアルメニア人大虐殺への関与、ボリシェヴィキにおけるコーカンド自治政府蹂躙はまさしくその代表例である。この場合、汚点は汚点として認め、それをもみ消すような態度をとっていない点は、一応フェアな態度といえる。だが、前者については、長所・欠点ともに大きな「人間臭いヒーロー」の一つの負の側面という形でバランスをとって描かれるのに対し、後者については、その一事でもって邪悪さが論議の余地なく示されるものという描かれ方がとられており、その意味では公平性など最初からかなぐり捨てた叙述である。これももちろん、研究では許されないが小説では許される筆法だろう。
 このように、チュルク・ムスリム系の登場人物とボリシェヴィキとでは、それ自体として共通する要素がある場合でも、およそ対蹠的な感情を込めた描写がなされているのが、本書の大きな特徴である。もっとも、チュルク・ムスリムといっても様々な人たちがおり、なかには「敵役」を割り振られた登場人物もいる。多くの場合、そうした悪役でさえも、チュルク・ムスリムはどことなく憎めない人間臭さをかかえた人として描かれるのが常だが、唯一の例外をなすのが、エンヴェルを最後の敗北に導いたイブラヒム・ベクという人物で、彼については、「無知蒙昧」「冷酷非情」「頑迷固陋」「残虐無比」「反動このうえもない狂信家」「ロシア人を利する敵対行為」と、最大限の悪罵が連ねられている(四六八‐四六九、四七五‐四七六、四八〇、四八四頁など)。おそらく、「許し難い裏切り者」という感情が作用するのだろう。
 その他、本書には、ソヴェト・ロシアおよび共産主義について、偏見をあからさまにした記述が随所にみられる。ソ連や社会主義に対して批判的な見地をとる書物は昔から決して少なくなかったし、特にソ連解体後は急増した。私自身も、批判的観点をずっと保持してきた。だが、それにしても、本書に窺われる著者のソ連嫌い・共産主義嫌いは、冷静な批判の域をはるかに超えて、感情的・生理的な反撥・憎悪としかいいようがない。これは何に由来するのだろうか。一番簡単な説明は、政治的立場としての反共イデオロギーのなせるわざだというものだが、これは単純に過ぎるだろう。一九七〇‐八〇年代の山内は、ソ連体制に対して批判的ではあったが、このように激しい嫌悪の情をむきだしにすることはなかった。次に思い浮かぶのは、ソ連解体直後の一部の知的流行への追随だという説明である。おそらくそうした要素もあるだろう。だが、もしそれだけなら、あまりにも陳腐な話になってしまい、私が「意外な面白さ」を感じることもなかったろう。
 忖度するに、著者の共産主義者嫌いは、理論的というよりもむしろ体質的ないし生理的なものではないかという気がする。政治に関わる人たちの中には、組織性と理論性を重視するタイプの人と、それらにとらわれない「野人」型の人とがいる。信念を持った共産主義者の多くが前者であるのに対し、著者が偏愛するのは後者である。私自身は、かつて前者と関わった経験から、その恐ろしさや醜さもよく承知しているつもりだが、自分自身の体質として理論癖があるために、彼らのことを、よかれ悪しかれ「異質な他人」としてみることができない。欠陥を含めて、「他人事ではない」と感じるところがある。これに対し、山内は、そうしたタイプの人間については体質的に受け付けないようである(5)
 本書を読んでいてしばしば思い出したのは、戦前日本の「大陸浪人」や「壮士」の世界のことである。本書の中で、対象と直接的な関わりのない日本人――イスラーム研究に造詣の深かった大川周明は別格としても、石原莞爾、橋本欣五郎、東条英機、徳富蘆花、山県有朋等々――への言及が多いのも、それと関係するのではないかという気がする。吉村貴之の書評(前注4)は、これを歴史研究にとっての夾雑物と見ているが、歴史研究ではなく歴史小説だと考えれば、かけ離れていても共通性のある人物への言及はむしろ自然なことなのかもしれない。著者が次の作品で日本の大陸浪人を主題として描いても、私は驚かないだろう。
 それと関連するが、本書で描かれているのは、徹底した「男」――マッチョ的なという意味において――の世界である。大多数の登場人物が男性であるばかりでなく、「男らしい」という言葉が無条件にほめ言葉であるような世界である。女性としてはエンヴェルの妻への言及が各所にあるが、それは彼女自身が主体としてどのように考えたり、行動したかではなく、エンヴェルがいかに愛妻家であり、どのような贈り物をしたかというような文脈である。つまり、女性はひたすら男が愛玩し、庇護する対象として描かれているのである。
 このような感性は私自身の感性とは程遠い。しかし、遠いから理解できないと決まっているわけではない。むしろ、自分にとっての「異文化」に属する人の感覚をヴィヴィッドに描き出すことで、成る程、世の中にはこういう人たちもいるのかと感じさせてくれる作品もある。私にとって、エンヴェルも著者もともに「異文化」であり、ほとんど「異星人」といいたいほどだが、そのような人たちの感性を理解させてくれたという意味で、本書を読むのは「意外に面白い」経験だった。
(二〇〇一年一月)
 
*山内昌之『納得しなかった男――エンヴェル・パシャ、中東から中央アジアへ』岩波書店、一九九九年
 
 

(1)長谷川毅による書評(『文化会議』第六号、一九九一年)、および木村崇による書評(『むうざ』第一二号、一九九三年)。また、木村崇「ロシアのカフカーズ支配とレールモントフ」『ユーラシア研究』第三号(一九九四年)も参照。
(2)かつて檜山良昭『スターリン暗殺計画』という本が出たことがあり、事情に通じない読者が不用意に読むと、歴史研究――あるいはそれに立脚したノンフィクション――の本だと読めるところがあるが、実際には純然たるフィクションだった。歴史に素材をとったフィクションを書くのは、もちろん作者の自由だが、ノンフィクションではないかという誤解を誘発するようなスタイルは、読者を混乱させるものだろう。
(3)E・H・カーは、歴史家は歴史上の人物の個人としての道徳的評価には関心をもたず、また特殊性にこだわるよりも一般化可能性を重視するのだとしている。私はカーの歴史観を全面的に受容するわけではないし、カーの考えが歴史についての唯一の権威だというつもりもないが、ともかく本書の主たる関心の方向がカーのいう歴史とは明確な対照をなしていることは確かである。カー『歴史とは何か』に関する小論を参照。
(4)本書を歴史研究書と受けとめて、丁寧に検討した本格的書評として、吉村貴之のもの(『イスラム世界』第五四号、二〇〇〇年)がある。
(5)山内も若い時期に左翼的政治運動に関与していたことがあるが、それは組織と理論を重視するオーソドックスな共産主義運動とは大いにタイプを異にする潮流だった。荒岱介『破天荒伝――ある叛乱世代の遍歴』太田出版、二〇〇一年、九二‐九三、一一九‐一二一頁など参照。