ソーカル、ブリクモン『知の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』
いわゆる「サイエンス・ウオーズ」の一環をなす論争の書である。私は数年前にこのテーマに関心をいだいて、
金森修『サイエンス・ウォーズ』についての読書ノートを書いたが、そのときには、このソーカルとブリクモンの共著に関しては金森著その他一連の文章における紹介で大体の内容がつかめるという気がしたので、それ自体は読まなかった。それでも、あるテーマに関連する読書ノートを書いていながら、その重要な関連著書――それも相当広い範囲で話題になっている本――を読まないままでいるのは何となく気になり、一種の「宿題」のように感じていたので、今年の夏休みを利用して遅ればせながら本書を読んでみた。
大まかな読後感をいうと、以前に金森著の読書ノート(以下、「前稿」と記す)を書いたときにもっていたイメージはあまり変わらず、前稿を大きく修正する必要は感じなかった。それに、本書の中心部分は、科学用語およびその濫用に関する解説からなっているが、そうした個所を詳しく検討することは、私にとっては――それらの用語についても、またそうした用語を濫用している論者たちについても、特別に深い関心をいだいているわけでない以上――あまり必要性が感じられない。それでも、部分的にいくつか刺激されたところがなくもないので、本書の全体について詳しく論じるのではなく、断片的な感想を書くことにした。その意味で、このノートはいわば前稿への補注ともいうべき性格を帯びていることを断わっておく。
一 ポストモダニズム批判をめぐって
分量的に本書の大部分をなしているのは、特定の論者(ラカン、クリステヴァ、イリガライ、ボードリャール、ドゥルーズとガタリ等々)の特定の文章――科学用語を乱発した個所――について、それが物理学や数学の無理解に基づいた言葉の乱用だということの暴露である。
この側面に限定していえば、おそらく大半はソーカルらのいうことが正当なのだろうと思われる。読者たる私がよく分からない現代科学上の事柄に関して、「おそらく正当なのだろう」と思うのは、ただ単に、著者たちが専門の科学者(物理学者)で、批判される側が自然科学については素人だから、というだけの理由ではない。もしそれだけの理由でそう考えるなら、それは「専門家の権威」を無批判に鵜呑みすることになり、権威主義的メンタリティーのあらわれということになる(本書の読者の中には、そうした読み方をする人も結構いるだろうし、本書が少数の科学者だけでなく広い範囲の読者に読まれるということは、そういう要素抜きにはあり得ないが)。
高度に専門的な事項については、素人は自ら確認することはできず、専門家たちの見識を信頼するほかないという面は確かにある。こういうと、「いや、ある手順を踏めば、非専門家にもそれらの事項の当否が必ず明らかになるはずだ。それこそが科学というものの特徴だ」といわれるかもしれない。原則的にはそうだろうが、これからその分野に進もうとしている学生ならともかく、それ以外の人がそうした手順を踏んでいるいとまは通常ない。それでも科学的知見というものが――時としてあれこれの科学批判にさらされることはあるにしても、通常の日常的意識の範囲では――一般に信頼されているのは、「専門家集団によって長年の間に積み重ねられてきた知見の蓄積は、個別の問題はともかく、全体としては多分信頼できるのだろう」という意識を一般人が懐いているからである。そのような「信頼」というものは、健全な常識ともいうべきものであって、それをも懐疑の対象にするなら、日常生活は成り立たなくなってしまう(これは、次項で述べる「極端な懐疑主義」が日常生活と常識の観点から維持できないものだというのと同じことである)(1)。そういうわけで、読者があまりよく知らない物理学や数学の話が主題となっているとき、哲学者の素人論議よりは専門の物理学者のいうことの方が正しいのだろうと想定するのは自然である。だが、それだけでなく、本書で批判対象として引用されている文章は、いかにも「知ったかぶり」「わざと難解な用語をもてあそんで、人を煙に巻く」という印象を起こさせる体のものであり、それだからこそ、批判者のいうことが当たっているのだろうと思われもするということを付け加えておくべきだろう。こうして、ここまでの限りでは、本書の指摘はうなずけるということになる。ただ、この点は前稿で既に指摘したとおりであり、この範囲でいえば、とりたてて意外性はない。
問題は、本書はそうした部分を中心にしているとはいえ、それだけに尽きるものではなく、もう少し長い射程をもっているかに書かれている――つまり、個々の論者の個々の発言を超えて、ある流派(いわゆるポストモダニズム)の議論の全体についての批判という性格を帯びている――という点にある。もっとも、「はじめに」や、特に「日本語版への序文」はより慎重で、自分たちの議論はあくまでも特定の論点に限定されたものであって、それ以上のことを主張しているわけではないという書き方をしている(たとえば、「われわれは、こういった濫用がこれら知識人の作品の他の部分を無効にするなどとは主張しない。この点についてはわれわれは判断を保留している」。日本語版への序文、vi頁)。しかし、本書の「エピローグ」には明らかにそれ以上のことが書かれているし、それ以外の個所も、ニュアンスとしてはそれ以上のことが示唆されているように読みとれる。それにまた、大多数の読者にとって、あれこれの人の個々の発言が正確か間違っているかなどということはそれほど重要ではなく、もっと大きな知的流派の全体的評価の方が主要な関心事だろう。本書が広く読まれるのも、後者の関心に応えるという性格があればこそではないだろうか。
とすれば、著者たちは、一種の二枚舌を使っているのではないかという疑問が湧いてくる。ある個所ではかなり大きな結論を示唆し、それによって一般読者の評判を博する。しかし、他の個所では、ありうべき反論を予期して、自分たちのやっているのは厳密に限定されたことであって、それ以上ではないという予防線を張っている、というわけである。実は、こうした二枚舌は、本書で批判されている側の人たちにも当てはまる。著者たちのポストモダニスト批判の中に、次のような一節がある。「過激な解釈の方は、比較的経験の浅い聴衆や読者の気をひくのに役立つ。そして、この解釈がばかげていることが露見したら、すぐに、自分は誤解されたと弁解して無害な方の解釈に撤退することができるのだ」(二五二頁)。この批判は当たっているが、それをいうなら、本書についても、「漠然と示唆されている拡大解釈――ポストモダニズムの全体が無価値・有害なものだという――の方は、比較的経験の浅い聴衆や読者の気をひくのに役立つ。そして、この解釈がばかげている、ないし行き過ぎていることが露見したら、すぐに、自分は誤解されたと弁解して無害な方の解釈――本書はごく限定されたトピックしか扱っていないのだという――に撤退することができるのだ」ということもできるのではないか。こうして、「どっちもどっち」という印象が生じてしまう。
だからといって、本書における種々の批判がごく周辺的な意味しかもたず、ポストモダニズムの全体的意義には何ら響かないというわけではない。本書で取り上げられているのはポストモダニストたちの中でも代表的な論客たちであり、彼らがある部分でかなりいい加減な文章を書いているなら、他の部分についても、ひょっとしたら怪しいのではないかという疑惑が生じるのは自然だし、そうした思想潮流の仕事全体について批判的検討が必要だということは明らかである(この点も、前稿の段階で私は意識していた)。だが、そこから、ポストモダニズムはすべて阿呆陀羅経だという結論に至るのは論理の飛躍になる(いうまでもないが、本書で著者たちが直接そこまでの結論を断定的に述べているわけではない。だが、多くの読者は本書の中にそのような示唆を読みとり、それ故にこそ、本書を非常に刺激的な書物と受けとっているのではないだろうか)。ある人の書いた文章の中に、でたらめやごまかしの部分と優れた着想の部分とが同居しているということは、決してあり得ないことではない。前者の摘発は、それはそれとして必要なことだが、それが後者をも押し流すことになってしまうなら、あまり実り多い作業とはいえない。
本書の「エピローグ」では、科学方法論や認識論の問題から更に議論が広がって、政治的左翼性との関係といったことにまで話が及んでいる(二六一‐二七一頁)。ここで指摘されている事柄――左翼の混迷、政治への失望感の広がり、口先だけのラディカルさ、合理主義への十把一絡げでやみくもな攻撃等々――の多くも、私が前稿で述べたことと重なるところがあり、その範囲内ではうなずける。だが、ここでも著者たちは論敵を叩くことに集中していて、そこから何をくみ出すかという積極的主張になると、安易な結論にとどまっているという印象を否めない。政治的左翼の混迷を嘆いたり、口先だけのラディカル派が実は何ら建設的展望を出していないではないかと批判するのは易しいが、混迷を実際に克服するための積極的指針を打ち出すのははるかに難しい。ソーカルらは「政治的左派を自認するわれわれ」(二七五頁)と宣言するのだが、その場合の「左翼」ということの意味を明確にしているわけでもなければ、それがどのような展望をもちうるのかを示しているわけでもない。物理学者にそれを求めるのはお門違いかもしれないが、彼ら自身が政治についても一家言あるかのごとくに振る舞っており、他者に対して偉そうな批判を提起している以上は、「そういうお前はどうなのか」という問いにさらされざるを得ないだろう(これはちょうど、哲学者が物理学に通じている必要は一般的にはないが、物理学用語を乱発し、あたかもよく通じているかに振る舞っている哲学者の場合は、その認識が問われるというのと同じことである)。
二 科学方法論および認識論をめぐって
本書の中心的な部分は他者批判におかれているとはいえ、本書のすべてがそれで終始しているというわけではなく、科学方法論および認識論についての積極的な議論もある程度は提示されている。それが特に顕著なのは第四章であり、この部分は、私にとっては本書の中で最も興味深かった。
この章の前の方でソーカルらは絶対的懐疑論および独我論について検討しているが、そこでは次のように論が運ばれる。われわれの感覚の外に何物かが存在しているということはどうすれば分かるのかというと、「そんなことは決してわからない」。われわれの意識から独立した外界が存在するというのは「仮説」なのだ。絶対的な独我論、極端な懐疑主義は「論駁できない」。しかし、実際問題として心底からの独我論者などはいないし、「誰でも(真面目に生きている限りは)日常の知識についてまで首尾一貫して懐疑主義を貫き通すのは不可能だろう」(七三‐七六頁、強調は原文のもの)。
この論法は、実は私が前稿で書いたのと同じものである。前稿を書いたとき私はソーカルらの考えの細部までは知らなかったのだが、結果的には、この点に関する限り見解の一致があったことになる。それ自体は歓迎できることだが、実は、問題はそれで片づかない。著者たちは、いまみた個所では絶対的懐疑論や独我論はそのものとしては「論駁できない」と書いておきながら、後の方の個所では、極端な懐疑主義は「非合理的」だ(八三頁)、独我論を信じるのは「不合理である」(九六頁)、徹底した相対主義は「誤った結論」だ(一一〇頁)、「間違っている」(一二四頁)等々と書いている。「徹底した懐疑主義をそのものとして論駁することはできないが、日常的にそれを貫くことは不可能だから、仮説として実在論をとるしかない」という命題と、「徹底した懐疑論は間違っており、実在論が正しい」という命題とは決して論理的に同じではないはずである。議論の出発点において前者を説いた人が、いつの間にか後者に飛び移っているのは論理の飛躍ではないだろうか。
私はいたずらに細部をほじくるような議論をしているのだろうか。そうは思わない。確かに、極端な懐疑論をとことん徹底することは事実上不可能だし、敢えてそうしようとするなら日常生活をまともに送ることもできなくなるから、どこかで、「これは高度に確実なものとして、疑わないことにしよう」という仮説を立てるほかない。しかし、それは所詮「仮説」だから、後に修正を迫られることもありうる。また、「極端な懐疑論」をとれないのは確かだとして、何をもって「極端」とするかは程度の問題である。いま「健全な懐疑精神(批判精神)」と「あまりにも極端で、ナンセンスになってしまうようなたぐいの懐疑論」を対置するなら、前者をとり後者を退けるのは当然のことだが、前者と後者の間の線は一義的に引けるとは限らない。どちらに属するかの判断が微妙な場合には、どう考えたらよいのか。
この点と関わって、帰納的推論についてのソーカルらの議論をみてみよう。著者たちは次のようにいう。いかなる状況とも関係ない合理性の「絶対的な」基準など存在せず、帰納の原理の一般的な正当化は不可能である。だが、比較的合理的な帰納的推論もあれば、あまり合理的でない帰納的推論もある。たとえば、「明日も太陽は昇るだろう」という予測は確実とみなしてよいが、「一〇〇億年後も太陽は昇る」といえるかといえば、それまでに太陽系が消滅しているだろうから、この予測は成り立たない(八二頁)。
この指摘は興味深いが、そこで止まってしまったのでは十分でない。「一日後」と「一〇〇億年後」の間には、非常に大きな幅の時間がある。X年後という時点をとって、そのときまで太陽系およびそこにおける地球の運行に変化が起きていない確率を考えると、「一日後」では限りなく一〇〇%に近く、「一〇〇億年後」では限りなくゼロに近い。とすれば、どこかの時点については、「そうである確率は相当程度に高いが、そうでない確率がネグリジブルといえるかどうかは微妙だ」といったことがありうるだろう。ソーカルらは、「明日」と「一〇〇億年後」という極端な例のみを挙げることで、帰納的推論への懐疑は、あるケースでは全くナンセンスだし、あるケースでは言わずもがな――誰もそんな予測をしようと思わないから、わざわざいう必要もない――という風に論を運ぼうとしている。だが、いま挙げたような中間的な場合には、「そうでない確率はネグリジブルであり、そうだと考えてよい」という考えと「そうでない確率は、小さいとはいえネグリジブルではない、それを無視してしまうのは不当な独断だ」という考えの双方が成り立つ。
やや一般化していうと、著者は本書のあちこちで、認識的相対主義は「穏健な」読み方をすると真実ではあるが自明だし、「過激な」読み方をすると人を驚かすが誤った主張になる(七一頁)とか、「〔ポストモダニストの多くのテクストは〕読み方に応じて、正しいがかなり当たり前の主張か、過激だが明らかに誤った主張のいずれかになる」(二五一‐二五二頁)といった書き方をしている。認識的相対主義・懐疑主義は、極端な形(明日太陽が昇るかどうかも分からないというような類の)ではナンセンスだし、穏健な形(太陽が今と同じように昇るという推測が一〇〇億年後も有効かどうかは疑わしいという類の)は自明で言わずもがなだ、というわけである。だが、実は、その中間に、ナンセンスだというほど極端ではないが、かといって自明ともいえないような場合がありうる。そのことを、著者たちは無視しているのではないだろうか(2)。別の言い方をすると、圧倒的多数の人が「真実」だと信じて疑わないことに対して疑念を提出する人がいた場合、その人は、@ただ単に奇矯な言を弄することで人目を引きつけようとしているだけで、自分でも本気ではない(あるいは自分の言うことの意味がよく分かっていない)のか、A精神異常なのか、Bあるいはとてつもない先駆者で、誰もが予期していなかったような新発見をしたのか、といったいくつかの可能性が考えられる。@Aならまともに取り合うに値しないが、Bの可能性があるなら、まともに受けとめて検討しなければならない。個別の事例がそのどれに該当するかは、自明の場合もあるだろうが(そしてソーカルらの眼は、ほとんど専らこのようなケースに向けられている)、常にそうだとは限らないのではなかろうか。
本書が槍玉に挙げているのは、認識的相対主義――その極端なあり方――であり、それは結局のところ「何でもあり」という発想――どんなでたらめを言ってもかまわないという極論――に突き進むということが激しく批判されている。ある種の相対主義にそのような傾向性があること、それを批判すべきだというところまでは納得できる。だが、相対主義にもいろいろな種類があるし、相対主義を批判して「普遍」「客観性」の復権を説く議論にも、行き過ぎた相対主義への矯正という性格のものから、ドグマティックな自己流「真実」の押しつけと化してしまうものまで、いろいろなタイプのものがある。ある種の相対主義への批判が正当だからといって、それでもって議論が完結し、著者の議論が「客観的」「真実」だと証明されるわけではない。ソーカルらが直接そこまでいっているわけではないが、本書における議論の単線性は、そのような発想を読者に広めるものではないかという気がしてならない(3)。
合理主義の擁護を図る著者たちは、「不明瞭なものがすべて深遠なわけではない」(二四七頁)という。これはもちろん正当な指摘である。そしてまた、一部のポストモダニストが、「深遠ぶる」ために、ことさらに不明瞭なものの言い方をしていることへの批判としても妥当といえるだろう。そのことを確認した上での話だが、だからといって、「不明瞭なものはすべて阿呆陀羅経だ」ということになるわけでもない。問題は、難解な文章にぶつかった場合、それが「扱っている内容自体の性質のために難しくなった言説」なのか、それとも「わざとわかりにくい書き方をして、中身がないことや凡庸なことを用心深く隠そうとしている言説」(同上)なのかをどうやって見分けるかにある。私自身、前者のタイプの難しさはやむを得ない――学問的文章においてある程度の難解さは不可避であり、非難できない――と思う一方、後者のタイプの難解さは願い下げにしたいと考える方なので、ソーカルらの指摘にある程度までは共感するのだが、その見極めが難しい場合はどうなのかという問題がどうしても残る。この点について、著者たちは次のようにいうのだが、これはいかにも安易な印象を受ける。
「二つのタイプの難しさを見分けるために役立つ判断基準はいくつかあるようにみえる。第一に、もし難しさが本物ならば、その理論がどのような現象を扱っていて、主要な結果が何であって、それを支える最良の論拠は何かといった点を、ある程度初等的なレベルでわかりやすい言葉を使って説明できるのが普通である。〔中略〕。第二に、難しさが本物ならば、そのテーマについてより深い知識を身につけるためのはっきりとした道が――長い道のりかもしれないが――用意されている」(二四七‐二四八頁)。
前の方の文章の末尾にある「普通である」という言葉はくせ者である。あるいは、自然科学では――そしてまた社会科学でも、一部の分野で「科学化」が進んでいる場合には――それが「普通」なのかもしれない。つまり、ディシプリンが確立していて、クーン流にいえば「通常科学」の土俵の上で「パズル解き」がなされているときには、その「パズル」がいくら難問であっても、そのテーマ・論点・結果・論拠等々については共通了解があり、それを明確に説明することが可能だろう。だが、ディシプリンそのものが未確立だったり、動揺したりしている場合(同じことだが、パラダイムが未確立だったり、動揺したりしている場合)、「どのような現象を扱って」いるのかということを明らかにすること自体が難しい――何をとりあげ、それをどのような現象と捉えるかということ自体が争点であり、論争当事者間で共通了解がないために、言葉もなかなか通じない――ということが珍しくない。第二の、「そのテーマについてより深い知識を身につけるためのはっきりとした道が用意されている」というのも、既に確立した学問分野において、「初等編」「中等編」「高等編」といった教科書があるような場合には当てはまるが、その分野そのものが開拓途上の場合には、そうした「道」は決して「用意されて」などいない。むしろ、「道なき道」を自ら切り拓きながら――ということは、どこかで泥沼に足を取られて、完全に方向を見失ってしまうという危険性をも敢えて冒しながら――進むほかないという場合もあるのである。
いま述べたようなことが実際にどの位の重みをもつかは、それぞれの場合によって異なりうる。どの場合にどの程度重いかをきちんと論じるのは大変な作業だが、とりあえず大まかにいうなら、おそらく、自然科学――あるいは「科学」化の進んだ他の分野――においてはそれが比較的軽いのかもしれないし、その限りにおいてソーカルらの議論が妥当性をもつといえるのかもしれない。だが、人文社会系の学問の多くにおいては、先の事情は無視できない重みをもつ(4)。関連して、ソーカルらは、いくら対象の認識が難しくても対象の存在そのものは客観的であり、迫るべき「真実」という概念は確固としている――犯罪捜査の比喩でいうと、具体的な犯人探しは難しいことがあるにしても、どこかに真犯人がおり、それを見つけねばならないという課題自体は明白だ――と説くのだが、そもそもの研究対象が人間から独立した「自然」である場合と、ある社会的文脈の中で人々によって構成された概念や制度を研究対象とする場合とでは、話が大きく違ってくる(いま挙げた犯罪捜査の例――これを著者たちは本書で多用している――でいうと、そこでの課題が明白であるようにみえるのは、何をもって犯罪とみなすのかとか、犯罪捜査や司法制度についての共通了解が確固としているという前提を暗黙におくからである。これに対し、犯罪概念や法的カテゴリー自体が争点になっているような場合には、著者たちが考えるような常識論ではとても片づかない(5))。
こういったような点を全く考慮の外においている点で、やはり本書は自然科学者の作品であり、人文社会系の学問への理解を欠いているという観が否めない。そのこと自体は、ある意味では無理からぬことであり、一方的な「無い物ねだり」をするつもりはない。ただ、ソーカルらが本書を狭義の「科学」――数学および大部分の自然科学を典型とし、「通常科学化」の進んだ一部の社会科学を加えたもの――に限定して考えているのか、それともより広く、あまり「サイエンス」的でない人文系や社会科学も含めて考えているのかには、微妙な揺れがある。ある個所では、「議論を自然科学に限定〔する〕。〔中略〕。様々な社会科学の科学性というデリケートな問題には踏み込まない」といった慎重な限定をつけている(七三頁)し、社会科学者に対して、「自然科学の猿真似はやめよう。社会科学には独自の問題があり、独自の方法がある」と呼びかけた個所もある(二四九頁)。ところが、「エピローグ」の多くの部分では、自己の「科学」観を社会科学に当てはめようとして無理をしている観がある。この点でも、著者たちはある種の二枚舌――ある個所では大胆な越境をして人目を引きながら、他の個所では、ありうべき批判に備えて慎重な自己限定を施すという――をとっているように思われてならない。社会科学への越境を完全に禁欲しているのなら何も言う必要はないが、現にある個所では越境をしているからには、社会科学観の深浅が問われざるを得ない。
三 論争のあり方について
最後に、本書自体を離れて、それを取り囲む周囲の反響のようなものについても、簡単に感想を述べてみたい(もっとも、私は本書の反響について徹底的に調査しているわけではないので、あくまでもたまたま眼に触れた限りでの状況についての漠然たる感想に過ぎない)。
まず、本書で批判されている側の人たち――直接の標的とされた論者たちのみならず、彼らを担ぎまわり、ありがたがっている人たち――は、これほどまでに強い批判が提起されたからには、かなり深刻な反省を迫られるはずである。ところが、奇妙なことに、あまり目立った反論ないし回答がないように見える(フランスでは本書に対してかなり激しい反論があったらしいが、日本のフランス思想紹介者たちは、私の知る限り、あまり態度を明らかにしていないようにみえる)。反論したり弁解したりするわけでもなく、かといって反省して立論を変更・修正するというのでもなく、あたかも何もなかったかのように、以前と同じような議論をそのまま続けている人たちが結構多いのではないか。私自身はソーカルらほど極端にポストモダニズムに否定的というわけではないが、それにしても、このような反応――というよりも、むしろ無反応――は奇妙なことのように思われる。
他方、ポストモダニズムを以前から苦々しく思っていた人たちは、本書を読んで快哉を叫んだようだ。その気持ちは分かるし、私自身も半ばは共有する。だが、それだけでとどまるのは安易ではないかとも思う。何か新しいことを言おうとして、うまい表現が見つからず、混乱した表現をとってしまうというのはよくあることである。その際、混乱した表現の中から何かを酌み取るのではなく、ひたすらナンセンスだとやっつける態度は不毛である。それに、哲学者の物理用語・数学用語理解の誤りを物理学者が指摘したのをみて、他の人文社会系の学者たちが喜ぶというのは、何とも情けない構図ではないだろうか。ポストモダニスト――そのうちのある部分――が自分でもよく分からない現代科学用語を乱発して「箔付け」をする一方、アンチ・ポストモダニストの側は、これまた自分自身には分からない事柄について物理学者の解説を聞いて「ほら見たことか」と元気づくというのでは、どちらの側も自然科学者の権威にもたれかかっていることになる。どちらの側にも「反権威」を気取っている人が少なくないが、それでいながら、実際には権威主義的メンタリティーを共有しているのではないかという気がしてならない。
全体として、論争の構図を単純化していうなら、次のような図式が描けるのではないだろうか。いま仮に、@「極端な合理主義(実在論)」、A「穏健な合理主義(実在論)」、B「穏健な懐疑主義(相対主義・反本質主義・反実在主義・構築主義)」、C「極端な懐疑主義(相対主義・反本質主義・反実在主義・構築主義)」という四通りの立場があると考えた場合、AとBは論理的に両立する。もちろん、それらの間で具体的な事例についての判断が分かれることはあるだろうが、その場合にも、建設的な討論を交わすことができるはずである。ところが、往々にして、合理主義者は論敵たる懐疑主義者・相対主義者を「極端な懐疑主義者(相対主義者)」と見立てて、これはまるでナンセンスだという(あるいは、穏健な懐疑論は正しいが、それは当たり前すぎて、とりたてていう必要もないことだと一蹴する)。逆に、懐疑論者・構築主義論者の側も、論敵たる合理主義者を「極端な合理主義者」に仕立てて、これではまるで話にならないという(あるいはまた、穏健な合理主義は妥当だが、これは当たり前すぎて、とりたてていう必要もないと一蹴する)。
こうして、抽象的に考えれば建設的な議論を交わす可能性があったはずなのに、不毛な非難の応酬という結果になってしまっているというのが不幸な現実ではないだろうか。このような索漠とした感想も、前稿で書いたのと同じものである。
(1)この点はおそらくソーカルらも同意見であると思われる。ところが、ソーカルの話題となった「トリック論文」(わざと間違いを含んだ論文を雑誌に投稿した)は、まさしくその信頼を破壊する行為を行なったことになる。これは、広い意味での知的共同体の存立を危うくする行為だといわねばならない。
(2)「穏健」な懐疑主義・相対主義と「極端」な懐疑主義・相対主義を対比するソーカルらの議論は、構築主義の「強いヴァージョン」と「弱いヴァージョン」を対比する金森修の議論と似ている(前稿の三参照)。なお、ソーカルらの議論の仕方は常に同じトーンであるわけではなく、ある個所では、「はじめに認めておきたいのは、多くの『ポストモダン』の考えも、穏健な形に述べさえすれば、素朴なモダニズム(たとえば、はてしない連続的な進歩への信仰、科学主義、文化的なヨーロッパ中心主義など)に必要な修正を与えてくれることだ。われわれが批判しているのは、極端な型のポストモダン思想や、ある意味でそれから引き継がれた穏健なポストモダン思想における知的混乱だけなのである」(二四三頁)といった記述もある。ここでは、「穏健な」ポストモダン思想は有意味だと認めているかのようにみえる。もしこのようなトーンが本書の基調をなしていたなら、あまり論争的になることもなく、それこそ「穏健な」議論になっただろう。だが、こうした個所はどちらかというと例外であり、多くの個所では、むしろ「極端な型の」反論がなされている。
(3)種々の相対主義ということについても、前稿の三である程度触れた。そこで言及したギアツの「反・反相対主義」(その後、邦訳が『解釈人類学と反=反相対主義』みすず書房、二〇〇二年に収録された)や、井上達夫(その後、『普遍の再生』岩波書店、二〇〇三年を出して、相対主義批判をより鮮明にしている)の所説について更に考えを深める必要を感じているが、今はその作業はなしえない。
(4)自然科学・社会科学・人文学などをそもそもどのように定義するか、そしてそれらの相互関係をどう考えるか――自然科学を模範とする「科学」観が他の分野にどのように当てはまるか、当てはまらないか――という大問題について、ここで立ち入ることはできない。完全に分断するのも完全に同一視するのもともに不十分だという程度のことなら簡単にいえるが、ではそれらの関係を具体的にどのように解きほぐすのかという段になると、非常に複雑微妙な話になる。私はこの問題についてこれまで、前稿の他、ポパー『歴史主義の貧困』、クーン『科学革命の構造』、カー『歴史とは何か』に関するノートでもある程度論じてみたが、今後も継続的に考えていきたい。
(5)この点に関し、ソーカルらなら次のように反論するかもしれない。「なるほど、どのような行為をもって犯罪とみなすかは解釈によるだろうが、たとえばドメスティック・ヴァイオレンスが犯罪とされるとされないとにかかわりなく、ある男性がある女性を殴ったという行為自体は、客観的な真実性を確定できるはずではないか」。これは一見当たっているかのようだが、十分な反論にならない。《解釈を被る前の生の事実》というような観念が成り立つかどうかも認識論上の大問題だが、仮にそうしたものがあるとして、ある人の腕が上がり、それが下がって、他の人の身体に当たったというようなことを問題にするのは、いわば動物行動学の見地であって、社会科学の見地ではない。社会科学においては、最初から解釈を含んだ概念が問題となるのである。それに、ある行為を犯罪とみなすという合意が成立していない場合、そのような行為があったという証拠を保存するとか「犯人」についての捜査をするという試み自体がなされないから、仮にそれが抽象的には「客観的真実」たりうるとしても、それが実際問題として実証されることはあり得ず、「なかったこと」とみなされるほかなくなる。
*アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『知の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳)岩波書店、二〇〇〇年
Alan Sokal and Jean Bricmont, Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science, Picador, USA, 1998.
(二〇〇三年八‐九月)