瀬地山角『東アジアの家父長制――ジェンダーの比較社会学』
 
 
《著者への手紙》
 
 御著書をいただいてから大分時間が経ってしまいましたが、各種の用件に追われ、拝読のうえ感想を書き記す時間もなかなかとれず、大変失礼しました。ようやく何とか一通り読ませていただき、多くを教えられましたので、お礼のしるしに、若干の感想を述べさせていただきます。
 全体として、大変興味深い論点を緻密に論じた力作であることについては、改めていうまでもないことかと思います。ジェンダー論を、「思い入れの表出」のレヴェルからしっかりとした学問のレヴェルに移していこうという意気込みが十分に感じ取られる立派な作品だと思います。比較社会学としても、欧米と日本だけでなく東アジア諸国を取り上げ、更に社会主義という体制問題まで考慮に入れた点は、他の分野でもこれまでほとんどなかった試みではないかという気がして、いろいろな意味で刺激されました。
 以下、そうした知的刺激を受けたことを前提して、特に関心を引かれた個所や小さな疑問を感じた個所について、我田引水的な愚見を述べさせていただきます。雑駁な読み方に基づく誤読が含まれるかもしれませんが、素人の思いつき的な感想ということで、予めご容赦を乞いたいと思います。
 
 
 先ず、「家父長制」概念の規定について、そして関連して本書の狙い、問題設定、基本的な発想などについて考えてみたいと思います。
 「家父長制」概念については、上野千鶴子さんとの間で興味深い論争を行なっておられる点に関心を引かれました(1)。四つの論点があげられていますが、私としては特に「A権威・権力と役割の混同」という論点が重要だと感じました。従来のフェミニズムは専ら権力配分を問題にするものが多かったわけですが、これでは、「異質平等論」に立つ役割分担論からの反論(2)に答えられないとして、「性役割の問題性とは、権力と切り離したところにも存在するのだ。(中略)性に基づく役割の配分は、そこに権力が入り込んでいるから(平等でないから)問題なのではなく、生物学的な性に基づいて役割が配分されてしまうということ自体が、自由でないから問題なのである」(三四‐三五頁)としている点には、私も共感します。また、瀬地山さんの旧稿への上野さんの反論が「物質的基礎material basis」を強調していることに対し、「古典的な下部構造決定論でもあるまいし、一体なぜそこまで、物質的基盤を持つという点にこだわらなければならないのかが、理解できない」(四一頁)と切り返している点についても同感です。
 その上で、いくつかの点を更に明確化する必要があるのではないかという気がしました。上野さんは「性支配」という言葉を多用していることに示されるように、「権力」や「支配」の問題を重視し、「役割」の問題もそれに還元しているようにみえます。瀬地山さんは旧稿において既にその点を批判していたのに、上野さんはそれについては答えておらず、瀬地山さんの新著もそのことを突っ込んでいないのですが、これはもう少しこだわるに値する重要な点ではないでしょうか。
 関連する小さな点ですが、御著書の三四‐三五頁では、常に「権力」が問題とは限らないという論じ方になっており、「権力」の問題を退けるわけではないにしても、それが最重要ではなく、もっと別のところに問題があるのだという趣旨にとれます。これに対し、三五‐三六頁では、「権力」が問題ではあるのだが、その権力は「人称的」ではなく「汎人称的」なのだ――つまり権力の種類が問題だ――という論じ方になっており、多少のズレがあるようにみえます。
 私自身は、別に「権力」を実体化するつもりはありませんが、「汎人称的」な権力――誰もが誰もを抑圧するような――というのは「権力」と呼ぶのにあまりふさわしくないのではないかという気がします。もっとはっきりと、「権力的でない関係」を主題に据える――もっとも、その中に「権力」の問題が絡み合うことがあるのは当然ですが――と言ってもよかったのではないでしょうか。
 以上だけなら純理論的問題ですが、ここで、やはりどうしても論者の属する性との関係も問題にならざるを得ないような気がしてきます(これは、学術書の本文で正面切って触れるのは適当でないとも思われますが、にもかかわらず、無視することもできないような気もするのです)。というのも、従来のフェミニズムの多くが、「権力」「支配」を問題にしてきたのは、論者が女性に属し、男性の権力、男性による支配を打破したいという情熱に支えられてきたからではないかと思われるからです(上野さんと微妙に立場の異なる江原由美子さんも「権力」問題を重視しており(3)、私は小さな違和感をもったのですが、そのことも、こうした文脈で理解できるような気がします)。これに対し、男性論者の関わりは、より屈折したものにならざるを得ないように思います。自分自身が男であることを忘れたような顔をして、ひたすら女性フェミニスト論者の応援団になろうとするような安易な論じ方をすまいとしたら、「男にとってジェンダー問題とは何か」を考えなくてはならないからです。
 女性が「女はこれこれでなくてはならない」という規範による束縛を打破したいと願うように、男の中にも、「男はこれこれでなくてはならない」という規範を不自由に感じ、そこからの脱却を願う人がいます。ジェンダー問題に関心をもつ多くの男性はそうだろうと思います。この場合、第一義的に問題になるのは、性別役割に関する規範意識およびそれによる束縛と不自由といった事柄です。しかし、その束縛は誰かの「権力」に由来するものではありません。そこで、「権力」「支配」よりも「役割」「規範」をより重視するということになるのではないでしょうか。女性にとっては当面どうしても「権力」が気になるのに対し、男性論者にとっては、たとえ権力関係のない「平等な」関係であっても不自由な関係は問題だということになるのではないでしょうか。
 もちろん、論者が女だから、男だから、ということを過度に問題にし、女性の議論と男性の議論を単純に対置するようなことはすべきではないと思います。ただ、ともかく、問題の立て方が論者の属する性によって微妙にズレがちだ――たとえ絶対にというわけではないにしても――ということはあるのではないでしょうか。男がこの種の議論をするときに、女性の側から「これだから、男には問題の所在が本当には分からないのだ」という風な批判をされることがあります。そうした批判に対して、いわば純アカデミックな見地から答えるというのも一つの方法ですが(瀬地山さんの別稿「フェミニズムは女性のものか」(4)はそうした観点に立つもののように読みました)、それだけでは相手を十分説得しきるわけにはいかないのではないかという気がします。論者の客観的におかれた状況――論者の属する性は、そのすべてではありませんが、その一つではあります――と相関的に問題の所在の捉え方も異ならざるを得ないことを明示的なものとし、その上で、その違いに居直る――違いを絶対視する――のではなく、異なる視点の間での対話を進め、いわば間主観的な認識を共有できるものとして形成していくといった作業が必要なのではないでしょうか。
 
 
 上野千鶴子さんが論争を回避しているもう一つの点として、瀬地山さんが「資本主義と社会主義とを下位類型として含む産業化(産業社会)」という概念を提出した(五八‐五九頁(5)のに対し、一応言及していながら、それへの自分の立場をはっきり示していないということがあります(6)。文脈から察するに、特に異論がないのかともみえますが、上野さん自身は一貫して「資本制」という概念を使い、「マルクス主義フェミニズム」にこだわっている――これに対し「産業社会」という概念はマルクス主義への批判的な観点を前提していると思います――以上、ここは何らかの応答があってしかるべきだったと思います。
 結局、上野さんは、資本制についても家父長制についても、主として支配・抑圧の権力関係においてとらえ、それに対する批判的な視座をもつことが解放の条件だという論じ方をしているようにみえます。これに対し、瀬地山さんは、資本主義と社会主義をともに産業社会として同一平面で論じることで、「産業社会を超えた展望」の提出を禁欲し、また「権力配分」と区別される「役割配分」に注目することで、ある特定の役割配分の型にとらわれる必要はないが、だからといってその型を「権力的」として弾劾したり、全面的に否定する必要はないと示唆している――それなりに「合理的」だということを認めつつ、その限界を指摘するという論法――ようにみえます。
 このように考えていくと、瀬地山さんの方が「マルクス主義離れ」が著しく、根底的な「解放」イメージについて慎重であるように思えるのですが、これは私の勝手な読み込みでしょうか。
 誤解を防ぐために付け加えるなら、このようにいうのは、瀬地山さんが現状肯定的だなどということを示唆したいからではありません。現状に対する批判的姿勢は本書に明らかだと思います。ただ、現状批判の先にどのような展望をもつかということを考えてみたいと思ったのです。御著書の第十章第2節の表題は「現代日本における『女性問題』の解決へ向けて」とあり、その2・2項は「家父長制の乗り越え」と題されています。しかし、内容を読むと、「解決」とか「乗り越え」ではなく、規範の柔軟化、それを通して、いまある型からのさしあたりの変容の可能性を探るというようなことが問題とされているようにみえます。「すべての女性を解放することなど、すべての男性を解放することと同様に、そもそも不可能なのだ」(三三七‐三三八頁)という言葉は、そのような意味をもつものと読むことができると思います。
 この点は、「家父長制」概念の捉え方とも関連しているように思います。家父長制の起源を論じた個所で、「決め手となるような『家父長制以前の社会』を見出すことはできなかった」ことが指摘されています(二七頁)。だからといって、今後もそうでしかあり得ないということに論理的になるわけではありませんが、家父長制は、知られている限りでは普遍的な現象だ――その具体的な形態には種々のヴァラエティーがあるとしても――というのが本書を読んで受ける印象です。そうだとすると、それからの根底的解放(完全な平等化)はそもそもほとんどありそうにないということになる気がします。
 現状をべったり肯定するわけでもなく、かといって根底的・全面的解放を夢想するのでもないとしたら、次の二つの方向性が考えられるでしょう。第一は、社会的規範による束縛を少しでも柔軟にし、多少なりとも自由度を上げることという方向です(まえがきには、「少しだけ自由になれる」という表現があり、三三八頁の「性に関して少しでも自由で平等な社会を構想すること」という表現と呼応しています)。また第二には、ある時期まではそれなりに「合理的」なものとして機能してきた型もある時期にはその合理性を失うので、別の型――これも完全な自由・平等を保証するものではないが、とりあえずは一定の「進歩」たりうる――への移行を模索するということが考えられるでしょう。ところで、この両者は、本書ではあまり明確に区別されておらず、同一視されているような印象も受けますが、微妙に食い違うのではないでしょうか。というのも、第一は個人の自由の視点からの問題提起であるのに対し、第二は社会の機能性の向上という観点に立つことになるように思えるからです。
 やや大風呂敷を広げすぎて、本書の内容から離れたきらいもありますが、こうした大きな問題をも考えさせるという点に、本書の問題提起的意義の一つもあるような気がして、あえてこれらの点に触れてみました。
 
 
 社会主義についての議論に移ります。
 どのような分野の研究にしても、(旧)社会主義圏を論じるのは(旧)社会主義国の専門家だけで、一般理論や欧米なり日本なりについて論じる人は社会主義圏を無視しているという現状があります。あたかも、社会主義を除外しても一般理論ができるということが暗黙裡に前提されているかのようです。そうした状況の中で、比較社会学の理論図式の中に社会主義の問題を位置づけるという意図には、大変深い共感を覚え、また励まされもしました。
 議論の大筋には、ほぼ賛成です。ただ、いくつかの小さな疑問を感じましたので、述べさせていただきます。
 先ず、社会主義国について論じるときの時期区分として、「初期」と「脱社会主義局面」との二つに分けている点ですが、「初期」の次がすぐ「脱社会主義」というのはどうでしょうか。一つの事情として、歴史の長いソ連と違って、比較的歴史の短い中国・北朝鮮では、あまり細かく何期にも分ける必要がそれほど感じられないのかもしれません。しかし、「脱社会主義」とは、厳密にいうなら、社会主義の放棄、すなわちソ連・東欧でいうなら一九九〇年頃以降を指すべきだと思います(ということは、その直前に当たるペレストロイカは入らないということです。ペレストロイカは「社会主義の最末期」ではあっても、「脱社会主義」ではないと思います。もっとも、細かくいえば、ペレストロイカ末期には脱社会主義も徐々に準備されつつあり、その意味では両義的ですが)。中国では、既になし崩し的に社会主義を放棄しつつあるともみられますが、より明確に「脱社会主義」となるかどうかは今後の問題というべきではないでしょうか。
 御著書で、「初期」の次の時期を「脱社会主義」としているのは、もはや初期のような変革の熱狂はなくなり、家族も解体の対象というよりはむしろ復活強化の対象となって、伝統との妥協・癒着が始まるという点を念頭においておられるようです。中国についてもそのようにとらえられていますし、北朝鮮の金日成体制の確立はマルクス=レーニン主義からの自立・脱却、朝鮮社会の伝統の部分的復活なので、あえて「脱社会主義」と呼ぶ(二八二‐二八三頁)といった叙述にも、そうした考えがうかがえます。ここには、「社会主義」とは「伝統」の否定であり、「伝統」の復活は「脱社会主義」だという図式があるようです。
 しかし、ソ連の場合、伝統の復活はまさにスターリン体制の絶頂期たる一九三〇年代から進行しており、それはとうてい「脱社会主義」と呼べるものではありません。ソ連に限らず、どの社会主義国でも、初期の比較的短い破壊的熱狂の時期が過ぎた後には、伝統――家族制度に限らず、文化、宗教、法制、教育、その他あらゆる分野で――の部分的復活、伝統と社会主義の妥協・癒着という局面が訪れますが、それこそが、歴史的には最も長期にわたった「社会主義中期」の時期というべきだと思います。その時期に社会主義と伝統のからみあいがどのように進行したかは、それぞれの国の特性を理解する上できわめて興味深いテーマです。それを踏まえた上で、更にその後の時期として、最近の――ようやく始まったばかりの――脱社会主義局面が理解できるのではないかと考えています。
 社会主義諸国の間でも様々な違い・個性があるということをどのように理解するかは重要な論点ですが、御著書では、北朝鮮と中国の対比について興味深い指摘があります。私は中国についてはごく一般的な表面的知識しかもっておらず、北朝鮮に至ってはほとんど何も分からないので、多くを教えられました。その上であえて欲をいいますと、両国の差異は主に儒教の浸透度の違いで説明されているようですが、それだけなのだろうかという疑問をもちました。例えば、家族構造(同居と別居、相続、結婚・離婚観念、血縁のない家族員の存在その他)についてはどうなのでしょうか。
 また、家族よりも広い社会関係の特質について、朝鮮社会は年齢と世代による階梯制のしっかりした官僚制組織を作りやすいという指摘(三〇五頁)はうなずけるのですが、中国の場合に「ボスとの放射状組織になりがち」というのは、感覚的には何となく分かる気がするものの、これだけで十分な説明になるのだろうかという気もしました。中央からの統制が建前にとどまらない実態としてどこまで行き届くかというのは、社会主義国の実情を考える上で重要な点ですが、北朝鮮が最も徹底しているというのは、一応その通りだとしても、どうしてそうなのかということについては、もっと立ち入った解明がほしい気がします。
 社会主義諸国の比較という点では、その他にも、例えばヨーロッパの社会主義国では離婚率が高いが、中国では低いという指摘があります(一〇八‐一〇九頁)。これは重要な論点ですが、事実の指摘にとどまっており、理由の解明に立ち入っていない点が惜しまれます。「ヨーロッパ的」という言葉が使われていますが、「ヨーロッパ」は決して一つではなく、その家族類型は種々の型に分かれるのですから、「ヨーロッパだから離婚率が高く、アジアだから低い」というだけでは説明にならないでしょう。また、この個所では中国だけが言及されており、北朝鮮が取り上げられていませんが、後の部分との関係でいえば、ともに「アジア」に属しながら顕著に違う両国なのですから、ここでも比較がなされてよかったのではないでしょうか。
 この点とも関連してもう一つ残念なのは、人口問題との関連が言及されていないということです。一般に、為政者が家族問題に関心を払い、「家族政策」を打ち出すのは、人口問題への関心によるところが大きいのではないでしょうか(現在の日本も含めて)。そして、私の旧稿「旧ソ連の家族と社会」(7)でも簡単に触れたところですが、ソ連のような多民族国家では、まさに民族による出生動向の違いが人口政策・家族政策を考える上で大きな要因となっています。中国の一人っ子政策は有名ですが、それが本書で論じられている家族問題とどのように関係しているのかが、本書からは十分窺うことができません。また、北朝鮮の場合は、人口動向はどうなっているのでしょうか。
 更に視野を広げる方向でいうなら、(旧)社会主義諸国を全体として比較する場合には、文化の軸をもっと多様にして、プロテスタントの国(エストニア、ラトヴィア、旧東ドイツなど)、カトリックの国(ポーランド、リトワニアなど)、正教圏(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、グルジア、ルーマニア、モルドヴァ、セルビアなど)、イスラーム圏(中央アジア、アゼルバイジャンなど)その他を並べて、それらの家族形態、離婚の度合、出生率・人口動向などを論じることが重要となるでしょう。もちろん、これらのことをひとりの人が論じるのは無理というものであり、御著書でそこまで論じられていないのは当然なのですが、私自身がそうしたことに関心をもっているので、何かヒントになることでも叙述されていれば、という望蜀の感をいだいた次第です。
 
 
 東アジアの四例については、私がほとんど無知な領域であり、瀬地山さんの独壇場ともいうべきテーマですので、一方的に教えられました。文化の軸(儒教的伝統の強さ)と体制の軸の交差という点は非常に重要だと思います。この方法を更に拡大して、ソ連・東欧の旧社会主義国についても、文化の軸と体制の軸の交差でとらえられないかというのが、私の年来の課題の一つですので、大いに勇気づけられました。
 これら四カ国の本書での位置づけは、一方では日本と対比して「儒教圏」が一体でないことを指摘する材料とし、他方では文化軸・体制軸の交差で四つの象限に四カ国がそれぞれ当てはまるという形になっています。では、この二つの視角を組み合わせて考える――つまり、後者の四象限図式に日本も入れて考える――と、どういうことになるでしょうか。体制軸では、日本が資本主義に属することは自明であり、問題ありません。文化軸でいうと、儒教の影響力について、日本は朝鮮半島と中国南方との中間ということになるのでしょうか。もしそうだとすると、日本は三二六頁の図で、韓国と台湾の中間あたりに位置するのでしょうか。そういっていえなくもない気がしますが、例えば、神道の役割とか、近代における西欧文化の影響のあり方などを考慮すると、文化軸が「儒教の影響力の深浅」だけではすまないような気もして、そうなると図式がまた複雑になるようにも思えます。
 
 とりとめなく、勝手な感想を書き散らしました。的外れな部分も多いかと思いますが、多少なりとも岡目八目的な問題提起としての意味をもちうる個所があれば望外の幸いです。
 今後もよろしくご教示ください。
 
 
(1)瀬地山は旧稿「家父長制をめぐって」(江原由美子編『フェミニズム論争』勁草書房、一九九〇年)で上野批判を行なっており、それに上野が『家父長制と資本制』岩波書店、一九九〇年で反批判したのに対し、今回の新著で瀬地山が再度の批判をしている。
(2)女性と男性は価値としては平等だが異質であり、それゆえに、それぞれにふさわしい役割があるとする考え。この考えに立てば、「男は外、女は内」というような役割分担は自然、かつ価値的には等価な分業関係であり、差別でもなければ、権力的支配関係でもないということになる。
(3)江原由美子『フェミニズムと権力作用』勁草書房、一九八八年、同『装置としての性支配』勁草書房、一九九五年など。
(4)庄司興吉、矢沢修次郎編『知とモダニティーの社会学』東京大学出版会、一九九四年、所収。
(5)この論点を瀬地山は旧稿「主婦の誕生と変遷」(『相関社会科学』第一号、一九九〇年)で提出し、上野は『家父長制と資本制』でこれにも触れている。
(6)上野千鶴子、前掲書、一四三頁。
(7)石川晃弘、塩川伸明、松里公孝編『スラブの社会』弘文堂、一九九四年、所収。
 
*瀬地山角『東アジアの家父長制――ジェンダーの比較社会学』勁草書房、一九九六年
 
(実際に著者に宛てた一九九七年三月の私信から一部を削除し、注をつけたほか、文章をごくわずかに補訂。改稿は同年九月。なお、後に書いた『現存した社会主義』勁草書房、一九九九年、二六八‐二七〇頁で瀬地山著に触れた)
 
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