ミフニク『民主主義の天使』
 
 
     一
 
 大多数の日本人にとって東欧はあまり馴染みのない地域だが、その中では相対的に親近感を呼び起こすのがポーランドである。それには、ショパンやキュリー夫人の名前を思い出すといったことをはじめとしていくつかの理由があるが、一つの大きな要素として、アンジェイ・ワイダの一連の映画や、一九八〇‐八一年の「連帯」運動の高揚、そして「連帯」指導者だったヴァウェンサ(ワレサ)が大統領にまでなったといった経緯から、比較的よく知られ、特に「悪逆非道なソ連の支配に対する不屈の反逆」というヒロイックなイメージが共感を呼ぶという点があるだろう。
 このような書き出しの文章に、早くも軽い皮肉めいた口調が混じってしまったが、他国による支配への抵抗やそれへの共感に水を差すのが本意ではない。私自身も、ワイダの『地下水道』や『灰とダイヤモンド』によって戦後ポーランドへの最初のイメージをつくったし、「連帯」運動が起きたときには、熱い思いをいだきながらそれを見守っていた経験がある。だから、いまでは多少の距離をおいてみるようになったのは、決して「連帯」その他の運動に頭から反感をもつとか、ましていわんやソ連を擁護するというようなことではなく、むしろ元来の出発点がポーランドの民衆運動への共感にあったからこそ、それをただそのままいつまでも「馬鹿の一つ覚え」のように繰り返すのではなく、共感すればこそ冷静な眼ももたねばならないと考えるようになったからである。
 ある時期まで、ほぼ無条件で共感していた動きに、少しずつ留保をつけたり、軽くではあるが皮肉っぽい眼で見たりするようになったのはいつ頃からだろうか。いまでは記憶も定かではないが、一つには、一九八〇‐八一年の「連帯」高揚期に日本のジャーナリズムであまりにも表面的で心情的な「『連帯』頑張れ」の応援論が幅をきかせたこと(これは八九年の東欧激動期に更に増幅されて噴出した)、もう一つには、私自身の専攻対象はロシア・ソ連史だがポーランドをはじめとする東欧諸国についても少しずつ勉強を重ねていくうちに、あまり薄っぺらで心情的な応援論を繰り返すのは無責任ではないかという気持ちをもちだしたことが影響しているだろう。
 一般に、これまであまり関心をもたなかった国に興味を引かれる場合、その最初のきっかけが、悲劇的事件を知って共に涙したり、英雄的行為を知ってそれに熱い連帯感情をいだいたり、といった経験であることは珍しくないし、それをきっかけとして更に理解を深めていくなら、それは大いに結構なことである。ただ、最初のきっかけを離れて理解を深めていくうちに、どの国も多面的な要素をもち、あれこれの有名な悲劇や英雄的行為ですべてが尽くされるわけではないということが分かってくるのが常だし、有名な事件だけでその国についてのステレオタイプ的イメージをつくってしまうのは、その国の人にとっても有難迷惑で、むしろ失礼なことだということも分かってくる。
 どの国にも、光も影もあり、英雄もいれば裏切り者もいる。そのうちの「影」の側面や「裏切り者」にばかり目を向けるのは、もちろん失礼な話で、専らそのような側面を強調するようなことはすべきでないが、だからといってそういう側面には触れないで済まそうというのも、真に共感するからではなく、むしろおざなりなキャッチフレーズで片づけようとする安易な態度の現われではないだろうか。どのような人間も国民も、愚かさや醜さや狡猾さをもっているが、それから眼を背けるのでもなければ、そうした面があるから嫌うとか馬鹿にするというのでもなく、そのような側面を含めつつ全体として共感をもって理解しようと努めることこそが異文化理解の基本のはずである。
 ところが、これまで日本であまり知られていなかった国を紹介しようとする人は、ややもすればこうした基本的なことを忘れて、安易なキャッチフレーズ的理解で済ませようとする傾向があるように思われてならない。専門家向けでない文献の場合、ある程度の単純化はやむを得ないことだが、例えばイギリスのジャーナリストの著作などと比べても、日本人の啓蒙的著作には皮相な心情論とキャッチフレーズ的理解が多すぎるような気がしてならない。
 ポーランドという国は、広く日本人一般によく知られているというほどポピュラーではないが、そうした類の啓蒙的著作の数が少なくはないという意味で、日本人の異文化理解の歪みを象徴的に映し出す鏡のような位置にある。私がポーランドに関する日本の著作に、やや斜に構えたような態度で接してしまいがちなのは、そのような事情があるためである。
 
     二
 
 前置きが長くなってしまった。本書の感想に入る。
 本書の著者アダム・ミフニク(一九四六年生まれ)は、「連帯」運動の中心的理論家のひとりであり、一九八九年の「円卓会議」で大きな役割を演じ、体制転換を担った中心人物のひとりでもある。そのミフニクの論文集(一九七〇年代の反対派時代から、旧体制転覆後の一九九四年に至る)は、戦後ポーランド政治史への重要な証言であり、資料的価値の高さはいうまでもない。もっとも、政治闘争の一方当事者の同時代的発言であるだけに、その発言にはある種の一面性もつきまとっている。また、一つ一つの論文が短いせいもあって、その主張はそれほど体系的に提示されてはいないし、執筆時による視点の違いもきちんと説明されてはいない。例えば、第五・六章では、ゴルバチョフおよびヤルゼルスキに対してかなり強い警戒心が表出されているが、これは執筆が一九八七年、つまりまだペレストロイカが本格化せず、その後の展開が見通せない時点のものだということを念頭におかないと、その後の変化――著者に代表されるポーランド反対派のヤルゼルスキ政権との接近――が理解しにくい。
 やや批判がましいことを書いたが、研究者による分析の書ではなく、当事者の政治評論を集めた書物である以上、こうした点は、むしろ当然のことだろう。本書のそのような性格を念頭において読む限り、興味深い書物であることは間違いない。
 私の個人的関心からいえば、やや専門的になってしまうが、一九五六年以降のポーランドに現われた思潮を「修正主義」と「ネオ・ポジティビズム」とに分け(後者は一九世紀末の歴史的現象を念頭においたアナロジー)、その上で、「ソ連の国家組織を教会に、マルクス主義のイデオロギー的教義を聖書に見立てれば、修正主義は聖書には忠実であったが、それを自分流に解釈し、一方、ネオ・ポジティビズムは教会に忠実でありながら、その教会は遅かれ早かれ消滅すると期待していたのである」といった指摘(一六‐一七頁)が特に興味深かった。このような観察は、さすがに内部に生きていた人ならではと感じさせられる。
 政治上の戦術に関しては、ある意味で意外、ある意味で当然なのだが、ミフニクは「妥協」の信奉者である。早い時期の論文で既に、「反対派は、ポーランドにおける変化が――すくなくともその最初の段階では――『ブレジネフ・ドクトリン』の枠内で進められるべきことを、十分に認識しなければならない」と説いており(二八‐二九頁)、八〇年の「連帯」運動期にも、「われわれの地政学的な条件や、ヨーロッパ内部でしめる位置を考えれば、わが国は共産党によって統治されなければならない」と述べている(五六頁(1))。そして、八九年の決定的転機においては、「諸君の大統領、われらの首相」という定式を提出して、「民主的反対派と、権力機構内の改革派とが手を結ぶこと」を説いている(一六〇‐一六一頁)。もちろん、このような「妥協」論は、あくまでも戦術として説かれているのであって、基本的立場そのものに関しての妥協性や無原則性のあらわれではない。原則においては徹底的に争うが、現実政治の戦術としては無用な衝突を避けて妥協を志向するという、この二重性がミフニクの議論の特徴をなしており、独自の魅力の源泉ともなっている。
 こうした「妥協」論をミフニク自身は、フランコ後のスペインにおける政治体制移行の教訓から導きだしているが、もう一つ見落としてはならないのは、「妥協」が可能になるには、相手方にもそれなりの条件があるという点である。先にも簡単に触れたが、ミフニクは当初ヤルゼルスキを強い不信で見ていた。しかし、やがて彼と対話が可能であることに気づく。そうでなければ「円卓会議」などあり得なかったろう。ただ、本書では、いつどのようにしてそのことに気づいたのかは述べられていない。
 ヤルゼルスキが「円卓会議」に応じたのは、もちろん一つには反対派の運動によって追いつめられたからであるが、それだけなら、「窮鼠、猫を噛む」的な強硬な反応もありうるのであって、それをとらずに対話に応じたのは、一つの選択である。そうした体制側の選択の内側を知るには、例えば、ヤルゼルスキの回想録(2)を本書とあわせ読む必要がある。ついでながら、この回想録には、「アダム・ミフニクとの対話」も収録されており、ある時期まで不倶戴天の敵だったこの二人がこうして対話できるということの深い意味を痛感させられる。こうやって双方の側からみなければ、歴史を立体的にみることはできない。
 共産党時代のポーランドの支配体制がそれほど硬直したものでなかったことは、ミフニクも本書のいくつかの個所で触れている。例えば、権力の弱さのあらわれとしての「寛容」の指摘である(五一頁)。ミフニクは、これはあくまでもやむをえざる対応であり、権力の側の「選択の結果」ではないということを強調しているが、私の見地からは、たとえそのようなものだとしても、ともかく反対派側から「寛容」と評価されるような状況が生じていたという事実が重要だと思える。もっといえば、戦後ポーランドがミフニクをはじめ数多くの反対派活動家を次々と輩出したという事実、そして彼らが制約された状況においてではあれ活発な言論活動を続けることができていたという事実自体が、驚嘆に値することであり、体制の特異なあり方を物語っている。著者は、「〔反対派の〕本や新聞雑誌は秘密裡に印刷されたが、そこには著者や編集者の実名が明記されていた」という(九六頁)。これは確かに重要な点だが、そのことは反対派の勇気を示すだけでなく、体制側の弾圧がそれほど強烈でなかったからこそ可能だったのだということも忘れるべきではない。
 
     三
 
 本書を読んで感じることはまだいくつかあるが、ここでは、もう一つだけ、私が強く引っかかった点に触れておきたい。それは特に、「プロローグ――ヨーロッパにかんするポーランドの夢」にかかわる。
 一九九五年に書かれたこのプロローグの趣旨は、「ヨーロッパへの回帰」という点に尽きる。
 「共産主義は反ヨーロッパであった」、「共産主義にたいする抵抗はつねに(中略)ヨーロッパの価値に立脚した」、「共産主義者たちは、自由や近代性を我慢できないのと同様、西ヨーロッパも我慢できない」、「〔保守勢力は〕ストラスブールやボンやパリやワシントンとのつながりよりもカザフスタンや中国との提携を望む」、「われわれの多くは、生まれながらのヨーロッパ人である」、「われわれは北大西洋条約(NATO)とヨーロッパ連合(EU)に加盟したいと願っている――仲間はずれに甘んじ、田舎でありつづけるのを恐れるがゆえに」(四、五、一〇頁)。
 ほとんどコメントは不要だろう。あまりにも露骨というか、ナイーヴとさえいいたいほどのヨーロッパ中心主義――一種独自のエスノセントリズム――の手放しの表出である。こういう風にいうと、ミフニクに対して辛すぎると反論されるかもしれない。ミフニクが念頭においているのは、現実のヨーロッパそのものではなく「ヨーロッパ的」とされてきた価値のことであり、それは民主主義とか自由とか寛容とかいったもののことであって、それを尊重するのは当然だといわれるかもしれない。それはその通りだろう。だが、どうしてそれを「ヨーロッパ」と表現するのか。「ストラスブールやボンやパリやワシントン」と仲良くすることは民主的で、「カザフスタンや中国」と仲良くするのは反民主的だ、などといわれたら、カザフ人や中国人は一体どうしたらよいのか。ここで念頭におかれているのは人民ではなくて政権のことだといわれるかもしれないが、先の引用文はそのような表現にはなっていない。カザフスタンや中国にも人民がいるのだということはまるで頭の中にないかのようである。
 これはミフニクだけの問題ではない。かつてペレストロイカの最中に、あるエストニアの学者が、今日のロシア人は、モンゴルに征服されたときにロシア女性がモンゴル男性に強姦されて生まれた人間の末裔であり、だから野蛮なのだという趣旨の発言をして、物議を醸したことがある(3)。これほどあからさまな人種差別的発言はさすがに珍しいが、ロシアは「モンゴル的」「タタール的」「アジア的」であり、だから「ヨーロッパ」たるバルト三国やポーランドよりも劣っているし、民主主義に遠いのだ、といった発言は決して少なくない。そのような論理に従うなら、モンゴル人やタタール人は一体どうしたらよいのかなどという問題は、こうした発言をする中欧諸国の人の念頭には全く浮かばないかのようである。政治変動の渦中にある当事者が感情的発言をするのはまだしも理解できるとしても、それを観察している日本の評論家が、こうした発言を無批判に受容したり賛美するのには驚くほかない。
 この問題の根は、考えていくと、更に深いところに行き着く。ややかけ離れた例とみえるかもしれないが、あのマックス・ウェーバーも、ポーランドやロシアのような「東方」に対して――特にロシアについてはポーランドに対して以上に――驚くほど差別的なまなざしをもっていた(4)。これは単なる偶然とか、「どんな偉大な人間にも意外な欠点があるものだ」というようなレヴェルの問題ではない。考えてみれば、ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理への注目や、西欧にのみ固有な合理主義化傾向への注目は、「西欧」対「東方」の対置図式を根底にもっており、「ヨーロッパ」の東端の自意識を持つドイツにとって、自己が「ヨーロッパ」に属することを確認するには、その東にある諸民族を差別的に見下すことが必要だったのである。
 ドイツのすぐ東に位置するポーランドも、「ヨーロッパの最東端」という意識を、ドイツ以上に強烈にもち、彼らにとってロシア蔑視とヨーロッパへの憧憬とは切っても切り離せない関係にある。ミフニクの「ヨーロッパ人」意識はひとり彼だけのものではなく、ポーランド知識人に大なり小なり共通するものなのである。そればかりではない。我が日本もまた、福沢諭吉の「脱亜入欧」という有名な言葉をもっており、これは決して他人事ではない。
 このように述べたからといって、私は、ウェーバー、ミフニク、福沢らを「欧化主義者」「差別主義者」「オリエンタリスト」などのレッテルを貼ることで切って捨てようというのではない。サイードの『オリエンタリズム』以来、そのような勇ましい「オリエンタリズム批判」は日本でも珍しくなくなったが、あらゆる勇ましい議論に抵抗を覚える私としては、そのような議論にただ同調するということもできない。彼らの「アジア」観に差別的な要素があるということは紛れもない事実だが、だからといって彼らが偉大な思想家であるということまでが否定されるわけではない。「偉大な思想家」であることと「差別主義者」であることとが両立するという事実――ここに、最も困難な問題がある。そのどちらか一方をあっさりと切って捨てられるなら、話は簡単になってしまうのである。
 その上、もっと厄介なのは、「入欧」意識を今日のわれわれもそう簡単に否定するわけにはいかないということである。近代西欧諸国がその掲げる理念を本当に実現しているかどうかはもちろん大いに疑義があるが、ともかく通常「ヨーロッパ的」とされる一連の価値――民主主義、自由、理性、市民社会など――が、今日なおわれわれにとっても価値と感じられることは、好むと好まざるとにかかわらない事実である。その意味では、私自身も、ウェーバーやミフニクや福沢諭吉とそれほど隔たったところにいるわけではない。単純に否定しきることができないからこそ引っかかるのである。
 「ヨーロッパに入る」という発想は、福沢の生きた時代の日本でも、ソ連・東欧圏解体直後の中欧諸国でも、強い魅力を帯びて広まっている。それは無理からぬことである。切ないほどの想いとさえいってよい。だが、それは同時に、「自分よりも東の国はヨーロッパには入れない」という発想を前提している(日本の場合は東西が逆になって、地理的には西に位置するアジア諸国が入欧できないということになる)。
 この構図は、芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』を思い起こさせる。極楽(ヨーロッパ)に入るための糸は細い。それを這いのぼっていけるのは自分だけである。他人(隣国)までがその糸にしがみつこうとするのは許せない。それを蹴落とし、「お前はヨーロッパには縁のない衆生だ」といって、ようやく自分だけが何とか救われることを目指すのである。このような姿勢は、当事者にとっては、必死の営為であり、笑い事ではない。他人(隣国)を蹴落とすのも、いじらしいほどの努力のあらわれである。本稿執筆中の一九九七年現在まさに進行中のNATO拡大問題(ポーランド、ハンガリー、チェコ三国の先行加入)においても、このような構図が見え隠れする。
 こうした努力を「切ない」「いじらしい」と感じる私は、ウェーバーやミフニクや福沢を単純に「欧化主義者」と決めつけて否定するといった類の勇ましい議論をする気はない。ただ、その「いじらしい」努力が、同時に、隣国に対する差別的なまなざしと表裏一体であることだけは忘れたくない。そのことを忘れて、「偉大な思想家」だとはやし立てるだけでは、あまりにもおめでたいのではないかという気がするのである。
 
 
(1)この個所の邦訳は、「共産党にとって」とあるが、「共産党によって」の誤植と解した。
(2)ヤルゼルスキ『ポーランドを生きる』河出書房新社、一九九四年。
(3)エストニアの学者マデの論文は、はじめスウェーデンの新聞に発表され、それをロシア・ナショナリストの新聞『ソヴェツカヤ・ロシア』一九八九年八月五日が転載して物議を醸した。このエピソードに関して、私は旧稿「現代ソヴェト政治における民族問題の位置」日本国際問題研究所『ソ連研究』第一一号(一九九〇年)、一一‐一二頁で紹介したことがある。
(4)今野元「『西欧』『ドイツ』『東方』――マックス・ヴェーバーのナショナリズムにおける『二律背反』問題の考察」東京大学大学院法学政治学研究科修士論文、一九九六年参照。但し、今野自身はウェーバーの東方観が「差別的」だったと述べてはいない。本文に記したのは、私の解釈である。
 
*アダム・ミフニク『民主主義の天使――ポーランド・自由の苦き味』同文舘、一九九五年
 
(一九九七年六−八月)
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