「みすず」編集部編『丸山眞男の世界』
 
 
     一
 
 丸山眞男への私の関心は、時期によってかなりの濃淡があり、ずいぶんと折れ曲がっている。最初の出会いは、高等学校に入って間もない頃、雑誌『中央公論』一九六四年一〇月号が「戦後日本を創った代表論文」という特集を組んでいたなかに「超国家主義の論理と心理」が再録されていたのを読んだ経験である。いまから思えばずいぶんと無茶な背伸びをしたものだが、ともかく、何か自分がひどく偉くなったような気がしたことをよく覚えている。なお、この特集には、丸山論文の他、坂口安吾、川島武宜、竹内好、桑原武夫、福田存、吉本隆明、梅棹忠夫、鶴見俊輔などの論文が収録されていた。高等学校に入ったばかりの私にそれらの意味がきちんと理解できたわけではもちろんないが、生まれてはじめて社会科学的文章に触れたということで、強い興奮を覚えた。これらの人の名前も、多くはそのときはじめて知ったものだが、その後長らく、私の脳裏に焼き付くことになった。高校時代には、その後、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)や『日本の思想』(岩波新書)を読み、これらも――特に前者は――理解のほどは怪しいものだが、ともかく非常に強烈な印象を残した。
 大学の初年時にも、『現代政治の思想と行動』(未来社)をはじめいくつかの作品を読んだが、その頃にはもう私の生意気が相当高じていたので、「この程度のことはだいたい分かっている」という思いこみがあり、丹念に読解しようという態度をとることはなかった。間もなくラディカルな新左翼思想に心酔した私は、その後、丸山を「既に乗り越えられたブルジョア民主主義イデオローグ」というレッテルで片づけるようになり、大学闘争時に彼が示した態度への反撥もあって、すっかり遠ざかってしまった。もっとも、「『ブルジョア民主主義者』の中では相対的に上質」程度の認識はあったから、完全に馬鹿にしきるということでもなく、意識の片隅にある程度残ってはいたように思う。
 学生運動をやめて大学に戻った直後には、ともかく専門のソ連史研究に集中せねばという気持ちが強く、丸山への関心を復活させる余裕はなかった。高校時代に感銘したり、「乗り越え済み」と思っていた時期にも「相対的には上質の論敵」と感じていた経緯があったから、ときどき気になることがなかったわけではない。ただ、なかなか専門外の著作に手を伸ばす余裕を生み出せずにいたのである。
 久しぶりに丸山の著作を読むようになったきっかけはよく思い出せない。あるいは、『戦中と戦後の間』(みすず書房)刊行が契機だったかもしれない。その頃、私は政治学という学問にアンビヴァレントな思いをいだきつつ、ともかくある程度は勉強してみようと考えていたので、その一つの手がかりとして丸山再読ということがあったように思う。私は大学院では「国際関係論専攻」というところに属していて、「政治学専攻」ではなかったが、ソ連政治史の溪内謙の教えを受けるようになった関係で、少しずつ「政治学」にも接近した。といっても、元来「政治学」という学問分野を馬鹿にしていた背景があり、素直に帰依する気にもなれなかった。「ひとまずは謙虚に摂取し、しかし究極的には、批判的に乗り越えよう」といった態度をとろうとしていたのである。「政治学」一般と丸山とを同一視したわけではないが、後者は前者の中でもユニークな位置を占めていると考え、それぞれについて、批判的に学ぼうというのが当時の私の姿勢だった。
 大学院およびその後の助手時代には、私が将来どのような分野で職を得ることになるのか――ソ連政治、ソ連経済、ロシア史、国際関係論、ロシア語、その他――はっきりとしていなかったが、結局、「ソ連政治」ということで職に就き、形式的には「政治学者」ということになった私は、その後も、ストレートに「政治学者」になろうとは考えなかった。たまたま就職したところが、かつて丸山が籍をおいていたのと同じ東大法学部だったことには、何となく奇妙な感じをいだいたが、丸山の教えを受けたこともなければ、「政治学者」になろうと考えたこともない私としては、彼の弟子筋に連なろうとは思わなかった。ただ、やはり読めばそれなりに知的刺激を受けることが多く、ときおり思い出したように読むというような関係が続いた。
 社会主義・マルクス主義の再検討ということを常に念頭においていた私は、丸山や大塚久雄に代表される「近代主義」(この言葉の内実については、改めて検討することが必要だが、それについては後で触れる)を、いわばその裏側にあるものとして意識し続けていたような気がする。一口に「裏側」といっても、具体的にどのような関係かは、いろいろな捉え方がありうる。「『近代』は社会主義以前のものだ」というあっさりした片づけ方では足りないということは、かなり早い時期から意識していた。「社会主義の歪みを防ぐためにも、『近代』をきちんと踏まえることが重要だ」という発想(戦後日本の「進歩的近代主義者」自身も、そのような発想をもっていたのではないかと思う)は、それなりに納得のいくものをもっていたが、どことなく釈然としないものも残った。多少敷衍するなら、「現存社会主義」が種々の矛盾・欠陥をかかえていることは、まだペレストロイカもソ連解体も迎えない当時から明らかだったが、その一つの理由として、「近代を正しく踏まえなかったからだ」という指摘には、うなずかずにおれない正当性を感じると同時に、「そういうだけでも済まないのではないか」という思いもまたつきまとっていた。その思いの内実を当時から十分明確にすることができていたわけではないが、振り返っていうなら、次のようなことを漠然と考えていたような気がする。
 大塚や丸山に代表される戦後日本の「近代主義者」はマルクス主義者ではなく、社会主義を――少なくとも当面の具体的目標としては――目指していたわけではなかったが、にもかかわらず、マルクス主義の影響を色濃く受け、また「遠い将来の目標としては社会主義ではないか」という漠然たる意識をいだいていたように思われる(この点、アメリカの「近代化」論者とは大きく異なる)。自分自身の直接的な自己規定(強いて単純化していえば「自由主義者」)と、遠い将来の究極目標(広い意味での「社会主義」)の間にズレがあり、「社会主義者ではないが社会主義シンパだ」という同伴者的意識がつきまとっていたように思う。
 私自身もそうした同伴者的意識に無縁ではなかったから、冷ややかに他人事視したわけではないが、そのような「同伴者」の態度には、ある決定的な甘さがあるように思われてならなかった。「同伴者」とは、最終的な目標の選択を他人に委ねるような態度である。いくら共産党や正統マルクス主義に対して批判的態度をとり、自分はそれとは違うのだといっても、それとの関係をとことん突き詰めることをせず、「正統マルクス主義を批判するのは、マルクス主義を真に生かすためだ」というような解釈の余地をも残しており(この場合、「実は『隠れマルクス主義者』だ」とさえもいうことができる)、それでいて、そのような立場をとるのだと明言もしない、そのような態度である。もし共産主義者の側がそうした「建設的な批判」を受容して、柔軟に脱皮するなら、彼らの願望は満たされるかもしれないが、その「もし」はあくまでも願望にすぎず、それが満たされるか否かは「同伴者」にはかかわらない。結局のところ、「同伴者」とはそうした、当てにならない期待に身を委ねる存在ではないか――そんな風な気がしてならなかった。私自身、かつて新左翼的な革命運動のただ中に身をおいた経験があるだけに、そうした「同伴者」の期待は「革命家」の側から適当に利用されるだけの空しいものではないかという疑惑を拭いきれなかったのである。
 そういうわけで、社会主義への態度は私の方が厳しかった(繰り返すが、これはペレストロイカやソ連解体よりも前のことである)が、マルクス主義に対する内在的な批判とか「近代」の意味の検討などについては学ぶところが多いようにも思えた。
 その後、一九八六年(つまりソ連でペレストロイカが始まって間もない時期)に『「文明論の概略」を読む』(全三冊、岩波新書)が刊行され、ついで一九九二年(つまりソ連解体の直後)に論文集『忠誠と反逆』(筑摩書房)が刊行された。丸山の著作をあまり系統だって読んでいなかった私にとって、後者に収録された論文のかなりの部分がはじめて接するものであり、昔読んだものにしても、ほとんど内容を忘れていたから、遅ればせに新鮮な印象をもって読んだ。そのときに感じたことのいくつかは拙著『社会主義とは何だったか』にも記したが、社会主義の最終的崩壊という現実の中で、「近代」をそう簡単に超えるわけにはいかないということの確認が当時の私の関心の中心を占めていた。ただ、当の丸山自身は、ソ連解体後の座談会(『図書』岩波書店、一九九五年七月号、後に『丸山眞男座談』第九冊、一九九八年に収録)で、ソ連が崩壊したからといって社会主義が完全に死滅したわけではないといった趣旨の発言をしていて、私にはやや違和感があった。あまりにも安易に社会主義を忘れ去ろうとする当時流行の風潮に対する反撥という心情自体は分かるものの、「ソ連型」以外の諸種の社会主義改革の試みがすべて破産したという事実をどうとらえるのかがはっきりしておらず、先に触れた「同伴者」的心情をもっていた人の総括としては、物足りなく思えた。
 もう一つ、これはやや偶然的な事情だが、上記の二書刊行を記念して、東京大学法学部の「政治学研究会」という場で著者本人を迎えた合評会が開かれ(前の本については一九八七年四月、後の本については一九九三年四月)、私も、満員の研究会室の片隅から著者をみる機会があった。既に「歴史的存在」と化しているように思えた丸山が、現に目の前にやってきて座っていることに、何となく「これは現実ではないのではないか」というような奇妙な感覚を覚えたりした。死去に至る前の丸山との私の関わりは、だいたいこういったものだった。
 
     二
 
 一九九六年に大塚久雄と丸山眞男があいついで死去したとき、新聞・雑誌は彼らの業績をたたえる追悼記事を満載した。人が死んだときに故人をたたえるのは当たり前のことであり、ことさらに目くじらをたてるべきことではないだろう。だが、彼らに対して複雑でアンビヴァレントな感情をいだいていた私としては、「こんな風な一方的称賛で、本当に人々は納得しているのだろうか」という疑問を拭うことができなかった。少し前まで、「ポストモダンの時代」といった言葉がもてはやされ、「近代主義」など完全に時代遅れだという風潮が世間全体を蔽っていたのに、突然「近代主義」が脚光を浴びるという状況を目にして、「ここで発せられる言葉に、人々はどういう気持ちで対しているのだろうか」という疑問をいだかずにはいられなかった。もしそれが「とにかく死んだのだから、故人にはお世辞をいっておこう」というだけの態度であるなら、少なくとも「思想家」に向ける文章としては実にふさわしくないものだと思われた。
 『みすず』四二七号*(一九九六年一〇月、以下、すべて同年なので刊行年を略す)には、外国人一五人、日本人九人が、追悼の言葉を寄せており(日本人は姓の五十音順に並んでいるが、外国人はその前に一括して並べられている。この並べ方も不可解である)、『世界』一〇月号には六人の友人・弟子が寄稿している。いずれも故人を、学問的のみならず、人格的にも傑出した人間として偲ぶものである。そこに書かれていること自体を疑おうというつもりはない。確かに抜きんでた個性をもった人だったことに間違いはないだろう。ただ、「いま、どのように総括するのか」という視点がそこには欠落しているように思われてならない。
*その後、『みすず』の特集は、若干増補されて、『丸山眞男の世界』として刊行された。私が参照してこの小文を書いたのは前者だが、本稿の標題には、より一般的に参照されるであろう後者を挙げることにした。
 他方では、辛口の批評もいくつかなかったわけではない。私の目にとまったものとしては、発表順に、西部邁(『東京新聞』八月二八、二九日夕刊)、佐伯啓思(『朝日新聞』九月四日夕刊)、佐藤誠三郎(『中央公論』一二月号)の文章がある。先ず、佐伯のものは短文ながら一つの興味深い点を出している。彼はいう。
 
彼〔丸山〕の、日本社会や日本思想の分析は、……その解釈や批判に際しては、彼は、日本の外に、すなわち西欧市民社会の側に身をおくのである。そして、日本の外部に身をおいた上で、彼は、その高みから日本の現実に向かって語りかけてくるのだ。この外部に立つことによって、彼の分析は「科学的」とされ、彼の批判は「啓蒙的」と呼ばれた。このからくりによって、彼(あるいは、彼ら進歩的文化人たち)だけが、前近代的で無責任な日本という制約を免れ、より進んだ目で日本を分析できるということになる。いわば、自己特権化を巧みに遂行するわけである。
 
 このように指摘して佐伯は、「六〇年代の末に、学生たちをいらだたせたものは、進歩的文化人のもつ自己特権化というこの構図であったと思う」と記している(安易に世代論ですべてを片づけるのは好きでないが、このような個所に私が注目するのは同世代感覚が作用しているということを否定するつもりはない)。佐伯はまた、末尾で、「七〇年代以降ほとんど評論家的発言をしなくなった丸山眞男にとってもまた、進歩的知識人『丸山眞男』という仮面はいささか窮屈なものだったのではないだろうか」とも述べて、「仮面」と区別される丸山本人に対しては同情を表明している。
 佐伯の文章は短いもので、十分詳しく展開されているわけではない。また、ここに引用した以外の個所には、違和感を覚える部分もある。しかし、ともかく「進歩的知識人」の「自己特権化」への反撥という限りでは、それなりに共感しうるところがある。これに対して、一見したところ佐伯と似た角度からの丸山批判のようでありながら、かなり異なった印象を与えるのが、西部邁の激越な丸山批判である。西部は――そしてある程度まで佐伯および佐藤も――丸山が「近代」というものを根本的に誤解していたという。その批判にはある程度まで当たっている面もある(この点については後で立ち戻る)。しかし、にもかかわらず、西部の文章に対して私が違和感を覚えずにいられないのは、「大衆社会」を痛罵してやまない西部が、自分自身はその「大衆社会」からひとり超然とした位置を占めているかに思いこんでいるようにみえる点である。これは、佐伯の筆法を借りていうなら、「西部は、大衆社会の外に、すなわち精神の貴族の側に身をおくのである。そして、大衆社会の外部に身をおいた上で、彼は、その高みから日本の現実に向かって語りかけてくるのだ」とでもいうべき態度ではないか。丸山と西部の主張は対蹠的ではあるが、自らを「精神的貴族」と見なし、「自己特権化」をしている点では同断であるように思われてならない。
 佐藤誠三郎の文章(「丸山眞男論――その近代日本観」)は、上記の二つよりもずっと長文のものである。そこには、自己の丸山との関わりについてかなり率直に語った個所もあり、また丸山批判がそうたやすいわざではないことの自認もあって、それなりに洗練されたものという印象を受ける。かつて恩師と仰いだ人への訣別と全面的否定に至る精神史の表白として興味深い文章である。だが、慎重な導入部を終えて丸山批判の本文に入った後の論の展開は、わりとあっさりとした断定が多く、本格的格闘の産物という印象を受けない。序の部分の重さと、その後の部分の軽やかさとの間にかなりの隔たりを感じる。そこにおける丸山批判の論点――その多くは西部、佐伯と重なる――自体については、それなりに理解できる部分もあることはあるが、もう少しじっくり論じないと、これでは単にやっつけていることにしかならないだろう。その上、「戦後日本の内政と外交についての丸山の判断は、率直にいって、ほとんど系統的に間違っていた」(二〇一ページ)というようなものの言い方には、「世論を正しい方向に導く特権的知識人」の座を丸山と争っているような印象があり、結論はどうであれ「同じ穴のむじな」ではないかと思わずにはいられない。
 
     三
 
 この小文の前の方で、私自身の丸山へのアンビヴァレントな態度についてふれた。かなりの程度高く評価しながら、釈然としないものを残すという関係が続いていたわけだが、その理由についてはこれまであまり煮詰めて考えてはこなかった。いくつかの追悼文や論評を読んだいま、自分なりの態度の内実をもう少し明確にする必要を感じる。
 先に、アメリカ流「近代化」論と戦後日本の「近代主義」の差にふれた。この両者はともに「近代」ということを問題にし、しかもそれを基本的に肯定する立場に立っているにもかかわらず、両者の間には大きな違いがあるように思われる。単純にいうなら、前者は「近代化」を工業化とか都市化とか教育の普及といった、経験的につかまえやすい指標に還元した上で、それがわりと単線的に進展する――特に日本の場合には成功裡に進展してきた――というイメージをいだいているのに対し、後者は、「近代市民社会」とは自律的・理性的な「近代的個人」からなるものだと想定し、そのような意味での「近代」は日本ではなかなか訪れないととらえて、「未完の近代」をいわば永遠の目標として思い描いてきた(このような発想は、戦後日本の「進歩的知識人」に特有のもののように思えるが、外国ではハーバーマスあたりが近いかもしれない)。
 この二つの立場は、単に「近代」の捉え方が違うというだけでなく、そもそも議論の性格自体に違いがあるように思われる。アメリカ流「近代化」論は、それがどこまで成功しているかはともかく、ドライに割り切った社会科学の手法という性格をもっている(それと同時に、各国政府への政策提言という性格も兼ね備えているが、そのこと自体、アメリカ流社会科学の顕著な特徴である)。これに対し、戦後日本の「近代主義」は、社会と個人はいかにあるべきかという哲学的思想としての性格をもっていた。
 私自身の考えでは、社会科学と哲学的思想は、無縁ではないにもしても安易な直結は避けるべきである。そして、前者の側面に限っていうなら、アメリカ流「近代化」論から学ぶ点はそれなりに大きい。もっとも、初期の「近代化」論は往々にして過度に単純なものであり、それに対しては既に繰り返し批判がなされてきた(「近代化」をとらえる指標の単純性、世界史的相互関連および各国の独自性を無視した単線的発展段階論、「近代化」がある段階に達した後についての安易な楽観論など)。ただ、そうした批判を踏まえた上で、「近代化」の多面的諸要素を考慮に入れた、より立体的な「近代化」論を構築することは可能なはずだし、また現にある程度まで行なわれている。実際、日本の社会科学の世界でも、かつて圧倒的権威を誇った丸山=大塚流の「近代主義」の影響力が次第に衰え、それに代わって、アメリカ流社会科学の影響力増大が「進歩」と受けとめられるという状況があるが、それはいま述べたような意味での「近代化」論の洗練に負うところが大きいだろう。
 しかし、「近代化」を社会科学的に洗練した形でとらえることと、「近代」における人間と社会の運命について哲学的に考察することとは、同一ではない。社会科学的認識がいくら進展しても、後者の課題は依然として残る。そのような観点からみたとき、ある時期以降の日本の社会科学は、丸山=大塚流の「近代主義」からアメリカ流社会科学への「脱皮」によって一定の「前進」をなしとげながら、逆に、かつての鮮烈な問題意識を鈍らせてきたという面があるように思われてならない。この二人があいついで世を去ったとき、多くの人が二人の業績をたたえたのは、どこまで明確に意識されていたかは別として、最近の社会科学の「前進」の陰で忘れられかけていたものを改めて思い出させられたという意識が作用していたのではないだろうか。
 「近代主義者」たちは、日本が(アメリカ流「近代化」論のいう意味で)「近代化」を達成した後も、まだ「近代的市民社会」「近代的個人」が生まれていないととらえていた。いってみれば、「近代化してもまだ近代ではない」ということになる(彼ら自身がこのような表現をとったわけではないが、事実上はそのような立場だったと考えられる)。これはいうまでもなく語義矛盾を含む主張であり、あまり説得力をもたないものと響いたのも無理からぬことだった。「近代主義者」たちがある時期以降、「時代遅れ」とみなされるようになったのは、日本社会が常識的意味での「近代化」を過剰なまでに成し遂げ、「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」とか「最先進国・日本」などといわれるようになったという事実を背景としており、その時期についてなおかつ「まだ十分近代化していない」と主張するのは、どう考えても無理があった。
 しかし、もし「近代」という言葉を価値中立的な経験的概念としてとらえるなら、「近代化」が高度に達成されたという認識は、「それが理想であり、批判すべきものはない」という主張につながるとは限らない。「近代化の達成」を一個の事実として認識した上で、それに対する批判的な視座を保つことは原理的に可能なはずである。ところが、長らく「近代化」を――それをどのようなものとしてとらえるかの差異を超えた共通の心情として――目標としてきた背景があったために、ある者は、「近代化の達成」をバラ色のイメージでとらえ、他の者は、批判的視座を保とうとするあまり「まだ近代化は達成されていない」と言い張るという不幸な分裂が生じてしまったのではないだろうか。
 「近代主義者」たちの議論には確かに概念上の混乱――「事実としての近代」と「理念としての近代」の混同――があり、そのためにある時期以降説得力を失ったかにみえた。だが、今日むしろ彼らから学ぶべきものは、「事実としての近代」に対する批判的視座保持という点である。彼らが解明しようとしたのは、単純な社会科学的意味での「事実としての近代」ではなく、むしろそれと区別される「理念としての近代」だったからである。そうした視点は、「未完の近代」とか「永久革命としての民主主義」といった表現に示されている。「事実としての近代社会」が「達成すべき究極目標」などではなく、種々の矛盾をはらんだものであるならば――そのことはわれわれが日々の経験で確認していることのはずであるが――そのような批判的視座は依然として貴重である。
 もっとも、「事実としての近代」を批判的にみるという場合、その批判のよりどころとなる視座は多様でありうる。「社会主義」こそがそれに当たるとする考えも、ある時期まではかなり強かった。また、「近代の超克」とか「ポストモダニズム」といった言葉も、様々な人々によって繰り返し提起されてきた。しかし、社会主義の凋落はソ連解体を待つまでもなく大分前から明らかだったし、「近代の超克」や「ポストモダン」論にしても、しばしば近代以前への逆行だったり、一過性の流行・徒花に終わったりして、「超克」「ポスト」の後に何がくるのかを明確に提示することはできていない。そこに、一見古めかしい「理念としての近代」が再浮上してきた理由がある。社会主義圏崩壊直後に流行した通俗的な「自由主義の勝利」論はあまりにも安易なものが多かったが、それにとどまらず、リベラリズム思想の再検討と鍛え直しを改めて試みる議論が提起されているのは、そのような事情を背景にしているのだろう。
 その上でなお残る大きな大きな問題は、「事実としての近代」と区別される「思想的理念像としての近代」にしても、それを本当に究極的な価値とすることができるのかという疑問である。
 これまで「理念としての近代」という言葉を定義抜きで語ってきたが、その内実を簡単に要約するなら、個人主義・自由主義・理性主義などの言葉で言い表わすことができよう。共同体的規制から解放され、偏見からも権力的統制からも自由な、理性的に思惟する個人が、上からの押しつけなしに自発的に秩序をつくりあげる、そのような社会というイメージである。これが高度に理想主義的な発想であることはいうまでもない。「理想」だということは、「現実」とは違うということであり、そのこと自体は、「近代主義者」自身も十分わきまえていた。だから、「そのような理想は近代西欧においても実現していなかった」という事実を指摘するだけでは、彼らに対する十分な批判にはならない。
 しかし、「歴史的存在としての西欧近代」が「理念としての近代」と同じでないのは、単なる偶然的夾雑物によるのではなく、そもそも後者が純粋に実現することなど原理的にあり得ないことを物語っているのではないか。「近代」というもの自体が、伝統や文化に支えられることなくしては成立し得なかったのではないか。自発的に秩序を形成しうる個人というものは、裸の個人ではなく、家族なり小集団なりによって支えられた個人だろうし、自由が放恣や「万人の万人に対する闘争」に陥るのを避けられるとしたら、それは文化的一体性が暗黙に前提されているからこそではないか。そしてまた、そうした伝統や文化が過剰に解体されつつある現代社会においては、「近代原理」そのものが危機にさらされつつあるのではないか。
 人間はあらゆる共同体や伝統から自由に、純粋な理性的判断だけで生活し、行動することのできる存在である――あるいは、そうなることができる――という想定は、目指されるべき目標としては理解できるにしても、実際問題としてどこまで現実的だろうか。自由な諸個人の活動が自発的な秩序形成に導くためにも、それを支えるある種の「共同体」とその伝統・文化が必要ではないだろうか。しかし、他面では、そのことを強調する論者が、自らの信奉する「共同体」を固定的なものとして押しつけてくるのではないかという危惧もある。国家であれ、民族であれ、文化的共同体であれ、宗教であれ、それらの「共同体」は、人間を支えるものであると同時に、人間を鋳型に押し込み、分断し、対立させるものでもある。そして、現代世界においては、それらの「共同体」はとりかえしがたく解体しつつあるのであって、その復古の志向は、よくいって夢想、悪くすると暴力的な強制=押しつけになりかねない。
 個人主義と共同体主義の単純な二者択一ではなく、各人の複数共同体への重複所属を認め、共同体間の移動、共同体のあり方の内部変化などの可能性を許すような柔軟な社会=個人関係は可能だろうか。そしてまた、可変的な複数の共同体の間での透明な共存のルールは成立可能だろうか――今日の問題はこのような点にあるように思われる。
 
     四
 
 最後に、一見したところ思想の本質からはずれるように見えるかもしれないが、西洋古典音楽への態度という問題について触れておきたい。丸山眞男が大のクラシック音楽ファンだということは、以前からよく知られていたことで、死去に際しての追悼文でも多くの人が言及している。故人を偲ぶときに身近な人が故人の趣味をたたえること自体は自然なことであり、それがその範囲にとどまるならば異を唱えるつもりはない。ただ、丸山のような人を論じるとなると、どうしても、その発言が――趣味に関する、本来は気軽な発言さえも――むやみやたらとありがたがられる傾向があるように思われてならない。もし仮に、彼が日本調の演歌のファンだったら、そのことが追悼文でこれほど熱心に言及されただろうか。「趣味はそれぞれの人の好みの問題であり、優劣を論じるべきではない」という原則に立つなら、クラシック・ファンであろうと演歌ファンであろうと何の差もないはずだが、丸山のような人の場合、クラシックに造詣が深いということが彼の思想の特質と密接に結びついていると多くの人に受けとられているようである。やや極端な言い方かもしれないが、私は、ここに丸山の「精神的貴族」性の一つの端的なあらわれをみるような気がする。
 マックス・ウェーバーの有名な言葉に「精神なき専門人、感性なき享楽人」というものがあるが、この言葉を引用する多くの人(丸山その人を含め)は、現代社会における人間をこのようなものとして批判しながら、自分自身だけは「精神なき専門人」ではなく、豊かな感性をもっていると暗に想定しているように思われる。先に、「進歩的知識人」の「自己特権化」という問題に触れたが、彼らにとって、日本の演歌しか知らない人は「日本的な前近代性」の体現者であり、いっさいの音楽的趣味をもたずに仕事に没頭している人は「精神なき専門人」であり、クラシックを聴かずにポピュラー音楽だけを好む人は「感性なき享楽人」であるのに対し、西洋クラシック音楽に通じている人だけは、その外に立つ「特権的存在」であると暗に想定されているかのごとくである。
 ここで、私自身の西洋クラシック音楽との関わりに触れておくなら、私は子供の頃から、音楽といえばほとんど専らクラシックという環境で育った(特に「上流階級」的な家庭というわけではなかったが、たまたま母の個人的趣味がそういう風だった)。小さい頃からクラシックに親しむというのは、いまの若い世代にとっては珍しくないことだろうが、私くらいの世代ではまだかなり少数派だったように思う。高等学校ではオーケストラに入って、ヴァイオリンを弾いていた(といっても、当時のアマチュア・オーケストラなので技術水準は極度に低かったし、卒業後は楽器から完全に遠ざかったので、いまは弾けない)。その頃までは、「クラシックは高級で、ポピュラー・ミュージックは低級だ」という偏見をいだいていた。
 その後、種々の人生経験を経て、徐々にクラシック以外のいろんなジャンルの音楽も聴くようになり、それらの良さも次第に分かるようになってきた。だから、私にとってクラシックとは、ことさらに吸収すべきものというよりは、最初から自然に体内に入っていたものであり、むしろそれに凝り固まっていた状態からの脱却こそが課題だという意識をもたせるようなものである。これは単なる私の特異性を述べているにすぎず、そのことを普遍化したり、特別の意味を付与するつもりは毛頭ない。ただ、クラシックが特別に高級な趣味であるかのような言説に接すると、微妙な違和感をいだいてしまうのである。
 かつて中国で「プロレタリア文化大革命」が荒れ狂っていた頃、西洋クラシック音楽の演奏家は「ブルジョア的退廃」の担い手として厳しく糾弾され、三角帽子をかぶせられて引きずり回されたりしたことがあった。そのようなニュースに接したとき、高校生だった私は、「なんと野蛮なことを」と思うと同時に、クラシック音楽の演奏家が「ブルジョア的」だという命題自体には一面の真実もないわけではないと感じた。非ヨーロッパ圏の大多数の「庶民」にとっては西洋クラシック音楽はあまり身近ではないものであり(最近では、各種音響機器の普及と低廉化で、徐々に状況が変わりつつあるのだろうが、当時まではそうだったと思う)、それに親しんだり、まして子供の頃から高度の技術をもつ先生について習練したりすることができるのは、ごく限られた特権層だということは否定しがたいように思われた。だからといって、モーツァルトやベートーヴェンを葬り去ってよいというのは暴論と感じられたが、ではどうやって弁護してよいのかとなるとよく分からなかった。
 当時このような感覚をもったのは私だけではなかったろう。私の連れ合いは、子供の頃からピアノを習っていて、家がもう少し裕福でありさえすれば音楽大学に進んでプロの演奏家になりたかったのにという気持ちをもっていたようだが、大学生時代に全共闘運動にぶつかったとき、臆病心から運動そのものに直接参加はしなかったものの、「このようなときにピアノなど弾いていていいのだろうか」という疑問にとりつかれ、相当長い期間ピアノの蓋を開けなかったという(当時は私はまだ彼女と知り合っていなかったので、これは後で聞いた話である)。いまからみれば、「そんなことを考えたって仕方ないのに」といわれるかもしれないが、当時の雰囲気としては、そのように考えるのはごく自然だったように思う。
 一方でクラシック音楽に子供時代から親しみ、それが自分の骨肉に入っているために、その価値を否定するような言説には同調することができないが、他面、それを「ブルジョア的」とか「贅沢」とする主張に何か反論できないものを感じもするという、このアンビヴァレンスを、どう考えるべきだろうか。「自分が好きなら、その趣味を大事にすべきだ。他人から何と批判されようと、それに動じることはない」というのは一つの見識だろう。しかし、本当にそれだけですむのだろうか。
 ピアノにせよヴァイオリンにせよ、本格的に弾けるようになるには、小さい頃からものすごい練習をしなければならない。プロになったような人でも、子供時代を振り返って、「あのころは親に強制されて練習していたが、辛くてたまらなかった」と述懐することが少なくない。そこでは多大の犠牲が必要とされる。それを支えるのは、家庭環境の文化的・経済的豊かさである。一般に、高度の芸術が経済的なゆとりの産物であることは否定しがたい。もちろん、貧窮の中で生み出された芸術というものもあるが、そのような場合でさえ、間接的には何らかの豊かさに媒介されなければ、生まれもしなかっただろうし、まして後世に残ることはなかったろう。
 「芸術とは、心を洗ってくれる、すばらしいものだ」という命題と、「芸術とは、ゆとりの産物であり、贅沢な環境の中で花開くものだ」という命題は両立する。これは単なる「あれもこれも正しい」という折衷論ではなく、むしろきわめて残酷な真実である。もし、これらの命題のどちらか一方だけが正しかったのなら、どんなによかっただろうか。もしそうなら、矛盾に心を悩ますこともなくてすんだのである。一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけての経験は、私の心に、この矛盾の観念を深く植え付けた。それから長い年月がたち、あのころの感覚も大分記憶から薄れてきた。生き方も、発想も、あの当時のままではあり得ない。しかし、日本経済の高度成長の余波で豊かな生活を享受することにかなり慣れた今でも、そのことをどこかで疚しく思う感覚だけは残っている。
 今から三〇年くらい前には、欧米から一流の演奏家が来日してコンサートを開くというのは、一つの大事件だった。実際にコンサートに行って実演を聞くのは、とてつもない金がかかるので、ごく稀な場合を除いて断念せざるを得なかったが、テレビにかじりついて、興奮しながら聴いたものである。それが今では、毎月毎月、入れ替わり立ち替わり有名演奏家が来日し、とても覚えきれない状況である。コンサートの切符は相変わらず高いようだが(私自身は、演奏会場の取り澄ました雰囲気にどうしても馴染めず、会場に足を運ぶことは滅多にない)、高度経済成長のおこぼれにあずかった人たちは平気で何万円という切符を買って、聴きにいくようである。日本で聞くだけでは足りず、コンサート目的で欧米に行く人も少なくないらしい。「バイロイト詣で」という言葉はかつては特殊な響きをもっていたが、今ではそうした経験をもつ人もそれほど珍しくないようにみえる。こうした状況に、私はどうしても馴染めない。良いもの(芸術に限らず、食事にせよ、消費財にせよ、その他何につけ)を良いものとして享受すること自体を禁欲主義的に全否定することはないが、それを享受できるのはたまたま現在の自分が(そして日本全体が)恵まれた境遇にあるからだという事実への畏れのような感覚だけは失いたくないと思う。
 やや丸山眞男から話がそれてしまった。丸山は昔から「バイロイト詣で」をしていた稀有な日本人であり、その意味で、高度経済成長で成金になったから付け焼き刃でクラシックも聴いてみるというスノッブとはもちろん違う。そのことを承知の上で、なおかつ私は、丸山のクラシック趣味を特別に高尚なものとしてたたえる風潮に、名状しがたい違和感を覚える。高度経済成長後にクラシックを聴きだした大多数の日本人が「成金」だとすれば、彼は「貴族」に類比できよう。そして、彼の趣味を多くの人がたたえているのは、「貴族」にあこがれる「成金」の心理が作用しているとみるのは意地悪すぎるだろうか。
 こんなことを気にするのは、私が、丸山よりは数世代も下だとはいえ、今の若い人たちに比べればやはり古い世代に属するからかもしれない。高度経済成長後に付け焼き刃的にクラシックを聴きだした成金日本人のもう一つ次の、より若い世代(いわば「ブルジョア二代目」)となると、クラシックは他のポピュラー・ミュージックと同じ感覚でごく自然に受けとめられるようになってきているのかもしれず、そうした人たちにとって、芸術とはことさらに「高級」なものでもなければ「贅沢」なものでもない、ごく自然にそこにあるものということなのかもしれない。彼らからすれば、丸山流の貴族趣味も、私のような「やましさ」の感覚もともに縁遠いものということになるのは自然だろう。それはそれでよい。ただ、彼らがそのように感じることができるのは、やはり日本経済の「豊かさ」――いまでは翳りが出つつあるとはいえ、高度成長期の余韻がよかれあしかれまだ残っているという状況――を前提しているということは否定できない事実だと思う。
 何ごとについても折衷的に考える私としては、「貴族」とか「成金」とかあるいは「ブルジョア二代目」といったレッテルを使うことで、彼らを貶めようというつもりはない。私自身、丸山に比べればはるかに「庶民的」ではあるが、子供の頃からクラシック音楽を聞き慣れていたというのは、多少「貴族」に近い面があるかもしれないし、部分的には「成金」なり「二代目」なりの要素もあわせもっているから、これは決して他人事ではない。
 「貴族」には、傲慢さと裏表の関係にある毛並みの良さや、それに伴う特異な人間的資質(目先の利害を追わない大らかさ、高雅に洗練された趣味、大所高所に立った調停者的資質など)がある。「成金」のブルジョアには、貪欲さや悪徳と裏表の関係として、エネルギッシュさと俗世間への鋭い洞察がある。そして「二代目」はたくましい生命力に欠ける代わり、時代の先端的潮流への鋭敏な感覚と趣味をもっている。それらをすべて否定して、「鉄鎖の他に失うものをもたないプロレタリア」を対置するのは無意味だろう。全否定的革命主義に立たないなら、貴族にもブルジョアにも二代目にも、それぞれの存在意義があると認めるべきだろう。ただ、その特異さを何か上等なものとして無条件にたたえ、それをもたない人たちよりも上におく発想にだけはどうしても与することができない。丸山に代表される「進歩的知識人」の「自己特権化」という問題にこの小文でこだわり続けてきたのは、そうした感覚からである。
 
*「みすず」編集部編『丸山眞男の世界』みすず書房、一九九七年
 
(一九九六年一二月‐九七年一月執筆、二〇〇五年九月に微修正)
 
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