袴田茂樹『文化のリアリティ』
本書の「まえがき」冒頭に、次のような文章がある。
「ロシア問題の専門家とみられている私が、芸術や美学の問題について語ったり、清水幾太郎について論じたりすると、やや意外に思われる方もあるかもしれない。(中略)大学で私のゼミや講義をとっている学生も、私がしばしばロシア問題をそっちのけにしてモダニズム芸術や映画について、あるいは文化の形而上的なリアリティについて熱っぽく語るのをみて、初めは驚いたり戸惑ったりするようである。ある学生が『先生はロシアの専門家と思っていましたが、先生にとってそれは仮の姿なんですね』と言ったことがあったが、私はこの言葉を聞いてなぜか悪い気はしなかった」(i頁)。
確かに、著者である袴田茂樹は通常、ロシア問題――それも、国際政治とか権力闘争といった、あまり文化とかかわらないような「生臭い」領域を大きな部分として含む――の専門家として知られているから、本書の第一部が「何を文化を『ほんもの』にするか」と題されており、その内容も、ロシアと関わらない日本の文化状況論がかなりの部分を占めているのをみて、意外の感を懐く読者も多いだろう。
私自身は、著者とは古いつきあい(一九七〇年代前半からだから、もう四半世紀近くになる)なので、彼がこういう関心を強くもっているということは意外ではなく、むしろ本書にこそ袴田の真面目が発揮されているように感じた。「まえがき」に、「私の言いたいことを知ってもらうために自著のうちどれか一冊をといわれたら、ためらうことなく本書を挙げるだろう」とあるのも、ごく自然なものとして受けとめた。著者から本書の恵贈を受けてすぐにそのような感想を書き送ったし、それから数年して東京大学教養学部教養学科ロシア・東欧科の演習を受け持ったときに、ロシアに関心をもつ学生に袴田のことを知ってもらうにはこの本が一番よいのではないかと考えて、これを取りあげたのも、そうした感想によっていた。
しかし、演習でとりあげた機会に本書を再読し、また著者と久しぶりにじっくりと話す機会をもったりするうちに、微妙な違和感も湧いてきた。袴田と私は、もともと体質を非常に異にすることは前から分かっており、むしろ体質が違うからこそ惹かれもするのではないかとかねがね考えてきたのだが、その違いがどのような点にあるのかを多少突っ込んで考えてみようと思いたったのはそうした経緯による。
一
本書、とりわけその第一部では、以下のような一連のテーゼが繰り返し説かれている。世の中には、命をも賭けられるような精神の絶対性、「本物の文化」というものが存在する。それがどういうものかは言葉や理屈で説明できるものではなく、「分かる人には分かる」としかいいようのないものである。そして、人間は、それが分かる人と分からない人とに大きく二分される。日本には、かつては「本物の文化」の分かる人が多かったが、現代ではそういう人が非常に少なくなっている(1)。
これらのテーゼのうち、相対的に分かりやすいのは、現代日本の文化状況の衰退という指摘である。多くの読者は、現代日本では、人々があまりにも忙しくなって、文化をじっくり味わう余裕がなくなっているとか、物質的に豊かになった分、かえって精神的には貧しくなっているのではないかといった指摘に、大なり小なり共感を覚えることだろう。もっとも、物質的豊かさはその余沢を文化の領域にまで及ぼすから、美術展も音楽会も盛んに開かれており、世界文学の翻訳も広く行なわれていて、国際的な水準の芸術を享受する機会には事欠かない。また、最近の若い世代の音楽的能力には驚嘆すべきものがある。だが、そうした状況も、かえって芸術への渇きを衰えさせているようにみえる。満腹した人間が美食に飽きるように、いつでも高度の芸術に接することができるという事情そのものが、それへの心からの感動の可能性を乏しくさせてしまっているのである。
しかし、そのような状況を嘆く人も、多くの場合、自分自身がそうした状況に巻き込まれてしまっているということを認めないわけにはいかないのではなかろうか。「現代日本における精神の貧しさ」というようなことをいえば、自分自身もその貧しさを生きているのだという自覚を伴わざるを得ない。少なくとも、私はそのように感じる。
これに対し、袴田の姿勢は異なる。「大多数の現代日本人=本物の文化の分からない人」と「ごく少数の人=本物の文化の分かる人」が鮮明に対比され、彼自身は後者に属することが、強烈な自信とともに断言されている。この自信の強さに、私などは思わず鼻白まずにはいられない。
確かに、袴田の文化的教養は大変なものである。一方では、新古今和歌集、能、源氏物語といった日本古典、他方では、ジェイムズ・ジョイスの小説とかアンドレイ・タルコフスキーの映画に代表されるような現代的・前衛的芸術、こうしたものに対する彼の思い入れには並々ならぬものがある。独善性と紙一重の自信も、現にそのような教養と深い感受性を彼がもっているおかげで、単なる放言であることを辛うじて免れている。
著者が独自の感性をもつ以上、「自分はこう感じる」と語ることそれ自体は、何ら批判されるべきことではなく、それどころか大いに傾聴に値する。「これこそが本物の文化だ」という言い方は、論理よりも信念の領域に属するが、自己の信念を堂々と披瀝することは、今日の日本では滅多にみられない美徳であり、私はそれを尊重する。ただ、それとは異なる感性の持ち主に対して、どれだけ開かれているのかということが、やや気にならないではない。袴田自身は、「人間を単純に二分するような私のやや断定的な言い方は、多くの人たちから批判や拒否反応を受けるだろうということもわかっている」(まえがきiii頁)とも書いていて、こうした断定的な言い方が独善性に導きかねないことの自覚を欠いていないことを示しているが、この種の断定口調に魅せられる読者の一部には、ある種の独善的傾向を育てかねないのではないかという危惧もないではない。
二
本書の一つの際だった特徴は、このような「文化本質論」ともいうべきものを主題としながら、それがソ連――本書収録の文章の大半は、まだ「ソ連」という国が存在していた時期に書かれた――と日本の独自な比較論を通して提示されている点である。しかも、その基調をなしているのは、「ソ連には本物の文化があり、現代日本にはそれがない」という、実に逆説的な主張なのである。ここには、ソ連時代のロシアへの独自な視線がある。私個人が本書中で最も引きつけられるのは、この側面である。
戦後日本では、一九五〇年代――あるいはせいぜい六〇年代前半――まではソ連という国に対する幻想的な高い評価が広まっていたが、その後、ソ連への評価は長期的に低下を続け、ペレストロイカやソ連解体を待つまでもなく、「理想の国」という幻想はとうの昔に雲散霧消していた。だから、袴田が五年にわたるソ連留学を終えて帰国し、精力的な文筆活動を始めた一九七〇年代の日本では、「ソ連のような国に本物の文化などあるわけはない」というイメージが主流をなしていた。そのような状況の中で、敢えて、ソ連にこそ本物の文化がある、ソ連の文化人には高い精神性がある、と説くのは、実に異例なことであり、人を驚嘆させるものだった。いうまでもないが、これは、かつての教条主義的な立場からのソ連=理想社会論とは全く異質な見地からのものである。彼が注目しているのは、公認の文化ではなく、それとは対極的な一種のカウンターカルチャーだからである。そこには、表面からだけではなかなか分からないソ連という国についての、内側からの鋭敏な観察がある。
繰り返しになるが、これらの文章の大部分は、まだペレストロイカも始まっていなかった「停滞」期のソ連について一九七〇年代から八〇年代前半にかけて書かれたものである。「精神的価値とリーチノスチの復権」(一九七八年)、「Yの軌跡」(一九八一年)、「『精神』の復活」(一九八三年)、「エイゼンシュテインとタルコフスキー」(一九八三年)、「『知識人群島』ソ連」(一九八六年)と並べてみると、ペレストロイカ以前の時期(最後に挙げた作品だけはペレストロイカ開始直後の執筆だが、ここにはまだペレストロイカは反映されていない)の袴田の作品が、いまでも意味を失っていないことに驚かされる。これらの文章をソ連解体後になって改めて論文集にまとめたことは、袴田がもつ並々ならぬ自信を物語るが、その自信はかなりの程度正当化される。
もっとも、著者の語り口がどちらかというと感性にものをいわせるタイプのものであるため、論理的な整理という点では、十分な分析がなされているわけではない。本書にはいくつもの重要な論点や示唆が含まれているが、それらに関する彼の考え方はいささか雑然たる形で提示されている。私はかねてから、袴田が鋭い感性で感受し、われわれに伝達してくれたこれらの問題を論理的に整理し直すことが、袴田ほどの感受性に恵まれていない社会科学者に課せられた課題ではないかと考えてきた。ここでその課題を全面的に果たすわけにはいかないが、いくつかの問題に触れてみたい。
一つの重要な論点として、ロシアの民衆(ナロード)の心性と知識人の精神の間の隔絶ということがある。大衆と知識人の乖離という現象自体は、大なり小なりどの国でもみられることであるし、またロシアにおいてそれが特に著しいということも古くから指摘されてきた。袴田の場合にユニークなのは、革命後には絶滅してしまったと思われがちなロシア・インテリゲンチャの特異なメンタリティーがソヴェト政権下でも脈々と生きていることを、内側からの観察を通して明らかにした点にある。ただ、そうした知識人の心性の特徴は、感覚的に描写されているため、論理的に詰めて考えようとすると、いくつかの疑問が浮かんでくる。
例えば、井筒俊彦著『ロシア的人間』(2)への解説として書かれた第一二章(「『ロシア文学的人間』と読み替えて」)では、一九世紀ロシア文学に登場する「ロシア的人間」は実はロシア庶民の生地とは異質であり、知識人の観念の投影だということが指摘されている。ロシア庶民は即物的なプラグマチストであり、知識人は形而上的な精神性を特徴とする、そして文学に描かれた「ロシア的人間」像は後者に基づいている、というのである。このような「庶民」と「知識人」の乖離の指摘は、一般論としては納得できるものである。しかし、突っ込んで考えると、いくつかの疑問が湧いてくる。ロシア庶民と知識人の間には何の共通性もないのか、もしあるとしたら共通性と乖離の関係をどう考えたらよいのか、またそれが時間的経過の中で変わったのか変わらないのか、変わったとしたらどのようにか――これらの点にかかわるいくつかの観察が断片的に示されてはいるものの、正面から論じることはなされていない。
袴田はドストエフスキーをはじめとする哲学的な文学作品を乱読する経験を日本でもった後でソ連に留学し、モスクワ大学の学生たちがあまりにも「健全」で、「ロシア文学にあふれているあの自意識過剰のひねくれた病的精神」がかけらもなかったことに衝撃を受けたと書いている(二七三頁)。モスクワ大学の学生といえば、「庶民」よりも「知識人」の方に近いはずだろう。もっとも、出身からすると「庶民」の家の出だということは大いにありうるが、それにしても、相対的にいえば「知識人」の卵だということは確かである。現に、袴田は彼らとの交友を通して、現代ソ連(ここでいう「現代」とは一九七〇年代のこと)における知識人の精神世界に触れたのである。とすると、同じ人が、ある面では「健全」でプラグマチックな心性をもちながら、他のときには思いがけないほど「本物の文化」への傾倒を示すという二面性をもっているということがあるのではないだろうか。単純に〈物質主義的・現実主義的な庶民〉vs〈精神主義的で形而上世界に生きる知識人〉と二分法的に対比するよりも、一見相容れない両方の要素が同一人物の中に奇妙に共存しているといった現象に着目した方が面白いのではないだろうか。
同じ章では、「形而上世界」にもいくつかの種類のものがあり、今日のソ連知識人が没入しているのは「人間存在の根本的な意味を問うといった実存主義のそれよりも、芸術的、美学的な形而上世界」だということも指摘されている(二七五頁)。これも面白い指摘だが、井筒の著書で取りあげられている一九世紀ロシア文学との関連を考えると、やや収まりの悪い叙述である。というのも、大まかにいって、一九世紀ロシア文学が「人間存在の根本的な意味を問う」という性格を帯びていたのに対し、二〇世紀初頭に盛んになったモダニズム芸術はより「美学的」性格――「芸術のための芸術」――を帯びていたという対比があるからである。だとすると、現代ソ連知識人に豊かな精神世界があるという場合、その内容は、一九世紀ロシア文学よりもむしろ二〇世紀初頭のモダニズムとの連続性が濃厚だということになる。では、一体どうして一九世紀と二〇世紀初頭の間にそのような変化が生じたのだろうか。井筒が論じている一九世紀ロシア文学と二〇世紀初頭のモダニズムとはどういう関係に立つのか、そして一体どうして現代ソ連の精神状況は前者よりも後者と連続しているのか――こうした一連の疑問が湧くが、それらへの回答はここでは提示されていない。
知識人と一般大衆の乖離を極度に強調するなら、ひょっとしたら両者は完全に異質な存在なのではないかという疑問をもつ人がいても不思議ではない。ソ連に限ったことではないが、知識人の中にはユダヤ人が相対的に多いことから、〈知識人=ユダヤ人、ナロード=ロシア人〉という図式が描かれれることもある(本書にも、「民衆には伝統的に、反ユダヤ感情と共に反知識人の意識が根強くあった」〔二六三頁〕という指摘がある)。もしこの図式が現実をある程度反映しているなら、両者の乖離はエスニックな差異によって説明されるという考えも成り立ちそうである。袴田自身はそうした立場に立っているわけではないが、第一〇章「この静かなる亡命者たち」では、ユダヤ知識人の特殊性が指摘され、この問題に眼が向けられている。しかし、この章で紹介されているRというユダヤ知識人は、「ユダヤ人でありながらロシア語とロシア文化のエキスを呼吸して生きていた。(中略)彼を西側社会に連れ出したら、彼の創造的精神はたちまちしおれたであろうし、彼自身そのことをよく心得ていた。彼にとって亡命など論外であった」という風に描かれている(二四二頁)。
一口にユダヤ人といっても、その中には、「ユダヤ性」を特に明確に意識する人――イディッシュ語やユダヤ教に自己のアイデンティティーを見出そうとする人――もいれば、むしろ基本的にはロシア化(スラヴ化)した人もいる。後者についても、周囲が「あの人はユダヤ人だ」というまなざしを向けるため、それに対応して自己イメージが形成されるという面があるから、言語がロシア化していたりユダヤ教を信奉していないからといって、「ユダヤ性」が皆無になるとは断定できないが、それにしても、「ユダヤ人」と一くくりにされている人たちの中で「ユダヤ性」の自己意識の強い人とそうでない人の区別はやはり重要だろう。前者については、彼らとロシア人大衆の間の溝はまさしく〈ロシア人対ユダヤ人〉という形で図式化されうるが、後者の場合、その大衆からの孤立は「ユダヤ人だから」というよりも、むしろ〈ロシア人の間でのナロードと知識人の乖離〉の一環としてとらえた方がよいということになる。
先に紹介した文章にすぐ続く個所では、「ユダヤ知識人」の話がいつの間にか「ソ連知識人」全般の話になり、そこからさらに「ロシアの大地に根ざした新たな宗教、新しい精神的価値」の追求へと議論が移っている(二四三頁、強調は塩川)。ソ連の反体制的な知識人というと、ややもすると「西欧的自由・文化」に憧れる人たちと思われがちだが、そうした西欧志向の潮流と鋭く区別される独自なネオ・スラヴ派的潮流もいるという事実は、ソ連・ロシア思想史の注目すべき一局面をなしている。一九世紀ロシア思想史を彩った「西欧派vsスラヴ派」という構図の現代的再版ともいうべき状況が二〇世紀後半のソ連・ロシアにもあるということはペレストロイカ期以降に明白になったが(3)、その点に早くも眼を向けたことは袴田の慧眼を物語る。「どれほど抑圧されても、亡命よりはソ連にとどまることを欲している知識人たち」の存在に言及し、「現在ソ連知識人たちが共有している濃厚な精神世界と人間関係は西側世界に見出すことはできない」(二四四頁)という指摘も、〈西側=自由、ソ連=不自由・抑圧〉という図式では見落とされがちな点への重要な指摘である。ただ、ユダヤ知識人について論じる文脈でこれを取りあげるのは、議論を混乱させかねないという気もする。大まかにいって、ユダヤ知識人の多数派はどちらかというと「西欧派」であり、「ロシアの大地に根ざ」そうとするスラヴ派は主としてロシア人(あるいはユダヤ人だとしてもロシア化度の高いユダヤ人)ということになるはずである。ユダヤ知識人の特徴を語る文章と、「ソ連知識人」全般について――その中ではスラヴ派的傾向が大きな位置を占める――論じる文章とは、区別した方がよかったのではないだろうか。
この章の一つのテーマとして、イスラエルへの――そしてしばしばイスラエルを経由してアメリカへの――出国が取り上げられているが、この点でも微妙な二面性がある。一方ではユダヤ人の出国志向が論じられながら、他方では出国を望まなかったり、出国後に後悔する人たちのことが触れられているからである。そこで問題となるのは、「こんな国〔ソ連〕は捨ててしまいたい」という気持と、「こんな国であっても、自分はそこを抜け出すわけにはいかない」という発想とが、どういう相互関係にあるのかということである。例えば、真性ユダヤ人はイスラエルへの出国を喜び、ロシア人やロシア化したユダヤ人はあまり出国したがらないというような分化があるのか、それともエスニシティーに関わりなく同じ人の中に両面があるのか、こうした疑問が浮かんでくるが、それらを解きほぐす作業はなされていない。ユダヤ人知識人の独自性という重要問題に目を向けたのはよいが、袴田が最も深く通じているのはやはりロシア人についてであり、民族問題はロシア人について語る上での一つの対比材料として扱われるにとどまっている――著者自身はそう自覚していないが――ように思われてならない(4)。
知識人と民衆の乖離のもう一つの側面として、政治体制への態度の問題がある。ソ連を理想社会視するかつての幻想が崩れた後の日本では、「ソ連は労働者大衆の解放を掲げていながら、その目標を達しなかった」という見地からの批判が優勢になり、民衆が権力や官僚によって抑圧されているというイメージが広くもたれてきた。このような一般的イメージによるなら、民衆はソヴェト体制の犠牲者・被抑圧者ということになる。そして、反体制の知識人がソヴェト体制を告発するのは、そのような民衆の不満を代弁するものと受け取られることがよくあった。ところが、本書には、そうしたイメージを完全に否定するような文章が出てくる。「反体制知識人はけっして民衆の不満を代弁したのではない」(一九七頁)というのもそれであるし、やや長くは、次のような記述もある。
「フルシチョフ時代(5)、民衆のほとんどは生活に満足していた。また彼らには大戦中培われた深い愛国心があった。これは党に対する忠誠とも結びついていた。彼らにはパステルナークもメイエルホリドも必要なかったのである。人権闘争を行なう知識人が街頭デモをしたとしたら、彼らを袋叩きにするのは、官憲よりも前にしばしば民衆であった。『党と民衆は一体である』という、巷にあふれている政治スローガンは知識人にとって事実とみなされた。ソ連知識人が民衆に対して『被害者』意識を持つ所以である。帝政時代のロシアインテリゲンツィアは知識階級であること自体、民衆に対しては罪であると感じていた。彼らが民衆に対し『原罪』意識をもっていたとするならば、ソ連知識人は『殉教者』意識をもっているといえるだろう」(一八一‐一八二頁)。
この点は、突き詰めていくとかなり重大なことになる。民衆が体制的だということは、ソヴェト政権がいくら本来の理想から離れているにしても、なにがしかの「民衆性」をそなえていたということを意味する。袴田自身がそこまで明示的に言い切っているわけではないが、〈民衆に支持されたソヴェト政権〉vs〈それに反逆するインテリ〉という構図が事実上提示されているのである。そして、もしソヴェト政権に否定的な態度をとろうとするなら、その政権を支えている民衆と敵対する覚悟をもたねばならないということになる(6)。
日本や欧米のソ連観察者にとって、ソヴェト政権を批判するのは、ペレストロイカを待つまでもなく、遅くも一九七〇年代には容易なことになっていた。また、それを「ソヴェト政権により抑圧されている民衆」の名において行なうことは、批判者の良心を満足させてくれた。しかし、ソヴェト政権が良かれ悪しかれ現に民衆にかなりの程度支持されており、体制批判者はその民衆を敵に回す覚悟が必要だということは、ほとんど誰にも理解されていなかったように思える。私自身は、一九七〇年代後半から八〇年代前半にかけて(つまりペレストロイカの前夜に)、袴田の問題提起に導かれつつ、その点に眼を向けつつあったが、これに明快な回答を与えるのはなかなか困難なことだった(袴田自身も、それほど明快に結論を出しているわけではない)。
この点は、ペレストロイカおよびソ連解体を通した変化の問題とも関係するが、これについては後で立ち戻ることにして、やや違う問題に眼を向けてみよう。
三
本書を読んで誰もが感じる一つの大きな問題は、なぜソ連に、このような「本物の文化」を生み出したり、熱愛したりする高度な内面的精神性が存在するのかという疑問だろう。順序立てて論理的に説明するという書き方がされていないので、推測するしかないのだが、いく通りかの理解がありうる。
一つには、「本物の文化」というものは論理的説明を超越したものだという捉え方が各所で示唆されており、その見地に立つなら、説明しようとすること自体が無意味だということになる。「その真実性はどういうわけか思惟や論理の証明抜きで直感的に絶対の明白性をもって開示される」のだというわけである(一一九頁)。本稿の一で触れた点とも関わるが、確かに、芸術には「分かる人には分かる」としかいいようのないものがあり、それが独善性と紙一重であっても仕方のないところがある。とはいえ、そう言い切ってしまうなら、およそ文化とか精神性とかについて、社会や歴史と関わらせて論じることは全く無意味なことになってしまう。袴田がそのような超歴史的な立場に立つのなら、それはそれで一つの見識である。だが、本書の各所には、文化を社会や歴史との関わりで論じ、それでいながら、論理的説明を回避して直観ですべてを割り切ろうとするかにみえるところもある。しかも、「本物の文化」とか「精神性」とかいった言葉で、ところによって少しずつ異なったことを指しているようにみえる(後述するような社会状況との関係を重視する個所がある一方で、そうした社会状況を超越した、何か普遍的なものがあるのだといった感じの個所もある)。そのため、ある個所については、論理的説明はなくても深いリアリティーをもつ発言だと納得できるが、他の個所については、必ずしも普遍的というわけではなく、むしろ個人的趣味を絶対化しているのではないかと感じさせられることもある。
あるいはまた、いわゆる「国民性論」的な見地に立っているのではないかと感じさせられるところも本書にはある。ロシア(あるいは近代以前の日本)には、なぜとは説明できないが、他の国民には滅多にみられないような高度の精神性が備わっているのだという見方である。あからさまにそうは書かれていないが、どことなくそう考えているのではないかと感じさせるような個所があちこちにある。これはある種の説得力がないわけではないが、国民性論一般の常として、割り切りすぎだという印象も残る。もっとも、袴田も国民性ですべてを割り切っているわけではなく、それが不変だと考えているわけでもないことはいくつかの個所の記述から窺える(7)。
他方では、これらとやや異なった説明をしている個所もある。それは、やや図式的に過ぎるにしても、極めて刺激的な見解であり、やや突っ込んで検討するに値する。例えば、こうである。
「真の芸術が生まれる状況が、知的にも倫理的にも自由で豊かな文化社会と言えるかといえば、それはまったく別なのである。専制的な抑圧社会が偉大な芸術を生むことがあるし、いや、自由な市民社会よりも、いっさいの知的自由を認めない独裁社会の方が、芸術の創造のためにはかえって良いのかもしれないのだ」(一三〇頁)。
その少し先にある文章は、これと同じことをいっているようにもみえるし、やや違うようにもみえる。即ち、禁じられているからこそ好奇心を誘い、「禁断の木の実」であるが故に神秘性が増す、逆に、自由が与えられるなら、「禁断の木の実」に触れようとする精神的興奮もなくなるだろう、という説明である(一三五‐一三六頁)。この個所には、「一面の真実」という言葉があり、袴田自身がこの説明に賛成しているのか、それだけではないと言いたいのか、やや不明確である。
敢えて私見を挟むなら、「禁断の木の実」への関心には二通りのものがあり、それが区別されていないことが議論を混乱させているように思う。一つには、「神秘性」という言葉に象徴されるような、「禁止されているものを入手するためであるなら、命を賭けても惜しくない」といった精神的高揚があり、他方では、「好奇心」という言葉に象徴されるような、「禁止されているから、ちょっとだけ覗いてみたい」という、比較的浅い関心もある。袴田自身は両者を明確に区別せず、「神秘性」という言葉と「好奇心」という言葉を並列しているが、おそらく、前者には深く共感し、後者については、「人がそうした好奇心をもつのは自然だが、それだけでは表面的で、浅い」と考えているのではなかろうか。
それにすぐ続く部分では、独ソ戦期のことが触れられている。生活が極度に厳しく、生命そのものが日常的に危機にさらされているという苦難に満ちた極限状況の中で、「本物の文化」を渇望する精神的高揚がみられたという構図は、それだけとってみれば、スターリンの大テロルの時期と同質のもののようにみえる。現に、袴田の議論は、ここからすぐラーゲリ生活の話へと、切り替えなしに続いている。しかし、私見では、確かにそこには連続性・共通性の要素もあるが、一点において重要な差があるように思われる。大テロル期においては、少なくともその犠牲となった知識人の大部分に関する限り、体制と犠牲者の間の一体性などありえず、知識人の孤立が彼らの悲愴な精神の底にあったのに対し、独ソ戦期には、「ファシストから祖国を守る」という一点で国民的団結が生じ、体制も知識人も大衆も、その限りでの一体感――ソ連史の中で稀な、連帯感に基づく精神的高揚――をもちえたからである。このような認識も、実をいえば、私は袴田から学んだのだが、この文章では、そのことがあまり鋭く指摘されていない。
もう一つ気になるのは、大テロル期であれ戦時期であれ、苦難な極限状況の中でかえって精神が高揚するということはよく分かるが、では逆に、平和と安定の時期にはどうなるのかという問題である。苦難の状況こそが精神の深みを開いてくれるとするなら、苦難が去ることは、「本物の文化」と精神性にとってはむしろマイナス要因ということになるのではないだろうか。実際、国家統制がかつてよりは弱まり、物質的生活水準が徐々に改善された後の「最近のソ連」(ここで最近というのは一九七〇年代‐八〇年代前半のことである)の文学には「少し物足りなく思うことがある」、「社会が弛緩し、緊張感が薄れたせいだろうか」というような個所がある(一四九頁)。先に述べたような、緊張感こそが精神の高揚を生むという著者のテーゼからいえば当然の結論だが、これを突き詰めていくと、自由の拡大はむしろ文化的には好ましくないという逆説的な結論が出てきそうであり、かなり深刻な問題になる。
同様に、「ソ連から亡命した知識人たちが、ヨーロッパやアメリカで生活するようになっていちばん失望するのは、ソ連の知識人世界にあったようなあの濃密な精神世界を周りにどこにも見出せないことだ」という指摘もある(一四七頁)。ここでは、そのことの理由は特に掘り下げられておらず、「日本のインテリ世界の精神的貧しさ」といった論理的説明抜きの感想が出てくるが、前の部分との論理的つながりからいえば、スターリン時代のソ連のような苦難のないことこそが「熱っぽい精神的興奮の世界」の欠如と結びついているととるのが自然だろう。しかし、著者自身はそこまで議論を煮詰めず、「本物の文化」とは普遍的なものだといった一般論に流れてしまっている。
〈物質的にも窮乏し、政治的にも国家統制の強い、不自由な社会=深い精神性〉vs〈物質的に豊かで、国家統制も緩く、自由な社会=精神性の浅い社会〉と図式化するのは、話を極度に単純化するものかもしれない。社会の状況とその中における個々人の精神のあり方は、それほど直線的に結びついているものではない。著者の叙述も、単線的な結びつきを説いてはいない。しかし、そうした留保をおいた上でなおかつ、本書で強調されているのは、どちらかといえば、そうした関係であるように思われる。次のような叙述も、それを示唆している。
「幸か不幸か、いまの日本では偉大な芸術に必要な霊感の統一を生むほどの迫力のある緊張はない。ほどほどの民主主義体制が発達しているため、独裁体制も、強烈な国家主義や民族主義も国民の宗教的統一もそしてテロも欠いているからだ」(一五一頁)。
次のような告白もある。「〔ソ連から日本に帰ってきて〕私が最も恐ろしく思うことは、かつては私自身も帯びていたと思うあの〔精神的な〕磁性が次第に薄れてゆくことである。星を見て震えるあの魂のことである。悲しいことに、磁場が失せると私の磁性も薄れるのだ」(一一三頁)。本稿の一で私は、袴田が自らの感性に絶大な自信をもっていると書いたが、それはこうした「恐れ」の感覚を伴っていたのである(遅い時期の文章になると、だんだんこうした「恐れ」の感覚が薄らいでいくような気がするが、これは僻目だろうか)。
このようにみると、文化とか精神性とかいうものは、条件が悪ければ悪いほど、かえって深いものになるという残酷な逆説が本書では説かれているということになる。これは一般論としてはとりたてて新しい見解ではないかもしれないが、ソ連の文化への指摘としては極めて斬新なものとしての意義を帯びていた(8)。
四
いくつかの点に分けて検討してきたが、最大の問題は、袴田が注目する精神のありようというものは変化しうるものなのかどうか、もし変化するとしたらどのようにして変化するのか、またその変化をどのように評価すべきか、といった一連の問いである。
先ず、変わりうるかどうかという点についていうなら、袴田の議論が国民性論に傾斜しているため、どちらかというと変わりにくい側面に議論の力点がおかれているという観は否めない。そのことは、本書と対をなす論集『ロシアのジレンマ』(9)の構成によく現われている。同書には、本書同様、ペレストロイカ以前の文章とソ連解体後の文章とが収録されている。ペレストロイカ以前の古い文章を敢えてソ連解体後に再刊することの大胆さはいうまでもなく、そうした文章が今でも古びてみえないことには感嘆すべきものがあるが、初出一覧をよく見ると、ペレストロイカ開始以前、あるいはせいぜいペレストロイカ初期(一九八七年まで)の文章が大部分を占め、その後はソ連解体後に飛んでいて、ペレストロイカ絶頂の一九八八‐九一年の文章は収められていないことに気づく。『文化のリアリティ』の方は政治への密着度が低いためか、一九八八年の文章と八九年のものがそれぞれ二点ずつ収められているが、それでもやはり、ペレストロイカ以前および以後に比べて手薄の観は否めない(一九八八、八九年の文章といっても、ペレストロイカを主題としたのは各一点ずつだけである)。袴田のものの見方は、どちらかというと、「変わりそうにないロシア」(ペレストロイカ以前)や、「一見大きく変わったようでいながら、やはり昔と連続性をもっているロシア」(ソ連解体後)の説明に適しており、激動の過程そのものの分析にはあまり向いていないようにみえる。
とはいえ、袴田が何もかもを固定的にみているわけではなく、変化の側面にも注目を怠っていないのもまた事実である(前注7も参照)。そこで、袴田のペレストロイカ論について、本書以外の文章も参照しつつ検討してみたい。
本書にも他の論集にも収録されていないが、袴田はペレストロイカ初期のあるエッセイで、次のような趣旨のことを述べていた。即ち、初期共産党指導者に多かった西欧的知識人たちがスターリンによって弾圧された後のソ連で出世したのは、「ロシア土着の庶民であり西欧的な教養や文化とは無縁の人々」だった。「つまり一九三〇年代に知識人階級は打倒され舞台の背景に押しやられたのである」。しかし、ソヴェト政権は教育に力を入れたため、新しい知識人が育ってきた。そのため、政権の中枢を占める非インテリ的な官僚(叩き上げの経験主義者・保守派)と、新たに台頭しつつある知識人(改革派)の対抗が生じてきた。ゴルバチョフは前者に対抗して後者に依拠している。「つまり知識人が反撃に出ている」のである(このエッセイ自身が、「知識人の反撃」と題されている)。このように過度に知識人に依拠する点に、ペレストロイカの弱さもまたある、というのである(10)
このエッセイはやや図式的に過ぎるものの、ごく巨視的には、一つの核心をついていた。ペレストロイカの渦中には「インテリの民衆への反撃」というに尽きない多面的な要素がめまぐるしく展開したから、それらを捨象して、ペレストロイカ全体をその点で括ってしまうのは乱暴だが、万華鏡のような過程が過ぎ去った後に何が残ったかと考えてみると、確かに、「インテリの民衆への反撃」が実現したかにみえるところがある(但し、ペレストロイカ初期の時点で袴田は、それが成功する可能性についてかなり懐疑的だったが、結果的にそれは「成功」した。この点では予測が外れたことになる)。先に本稿の二で触れたように、ソヴェト政権下での知識人と民衆の対抗、前者のもつ被害者意識というのがかつての袴田の重要なモチーフだったから、ソヴェト体制崩壊を〈ソヴェト体制と結託してきた民衆にインテリが反撃し、ついに勝利した〉という文脈で捉えるのは、かつての見方との一貫性をもつということにもなる。
これはいささか極論かもしれない。だが、袴田とは全く異なった角度からソ連・ロシア史を研究してきた経済史家のR・W・デイヴィスも、ソ連解体の数年後の著作で次のように指摘している。即ち、現代ロシアのインテリは「ルンペン」という言葉を多用し、ソヴェト政権が「ルンペン」に依拠していたとして、反「ルンペン」の態度をとっている。このような反平等主義と民衆蔑視の態度は、民衆に負い目を感じていた帝政期ロシアのインテリとは明確な対照をなしている、というのである(11)。
帝政ロシアのインテリと現代ロシアのインテリの間に民衆観の大きな隔たりがあるというデイヴィスの指摘は、先に紹介した袴田の記述(注5・6の個所)と重なる。もっとも、デイヴィスと袴田とでは、共通した認識をもちながら、その捉え方はむしろ対極的である。袴田が現代のロシア・インテリに共感を示し、彼らが民衆に対して「被害者」意識をもつことにも理解を表明しているのに対し、デイヴィスは現代ロシア知識人の民衆蔑視の心性に違和感を示しているからである。ソ連・ロシアの外に住む良心的な知識人にとって、民衆がどんな存在であろうと民衆蔑視の態度だけはとってはならないというのは一種の公理のようなものだろう。これに対し、ソ連で長期間暮らし、ソ連知識人の精神世界に深い共感をもつ袴田の態度は良かれ悪しかれ異質である。もっとも、念のため付け加えておくなら、以上では、議論の核心を明確化するためにやや誇張気味の書き方をしたが、袴田自身は、ロシアのインテリと無条件に一体化するとか、ましていわんや民衆蔑視の態度をとるのが正しいといっているわけでもない。やはり、日本に住む知識人として、そこまで言い切るのははばかられるのだろう。だが、では民衆に対してどのような態度をとるべきなのかという点については、明示的に語られていない。はっきりと民衆蔑視の態度をとらないことは、むしろ論理の不徹底、中途半端という観もないわけではない。
評価の問題には後でまた戻ることにして、ペレストロイカの最中の袴田の文章をみてみよう。袴田が珍しく大衆運動の高揚に感染し、やや変化を過大評価しているのではないかと感じさせる唯一の文章は、第一一章(「ソ連における「連帯」シンドローム」)である。ここで紹介されている「ロシア人民戦線」の指導者スクルラートフは、この文章によれば、袴田がかねがね重視してきた「ドゥホーヴノスチ(精神性)」を体現するような知識人であり、しかも炭鉱労働者たちの労働運動を支援しているという。長らく知識人と庶民が乖離し、むしろ対立してきたソ連において画期的なことに、労働者と知識人の連帯が実現しつつあるというのがスクルラートフの見方だというのである。「労働者と知識人の乖離・対立」というのが袴田の元来の図式だったことは繰り返し述べてきた通りだが、ここでは、その構図に遂に変化が生じたのではないかとの期待が表明されているわけである。もっとも、事実と期待の取り違え、「思い入れ」への言及もあり(二五九、二六四頁)、手放しでの期待ではないが、それにしてもこれ以前の袴田の文章からは想像しがたいような新しい事態に興奮している様子が見て取れる。しかし、これは明らかな過大評価だった。労働者の動向への期待が「思い入れ」に過ぎたというだけではない。袴田がここで非常に重視しているスクルラートフとロシア人民戦線という団体自身が、雨後の筍のように現われた多数の泡のような団体の一つに過ぎず、ペレストロイカの中でいうにたりる役割を果たす運動ではなかったのである。
ペレストロイカ期のもう一つの文章として、本書には、タガンカ劇場の演出家リュビーモフとの対談が収録されている(第一三章)。これはさすがにソ連第一級の文化人を相手に、その劇場にかつて通いつめた経験をもつ著者が行なったインタヴューだけに、興味深い個所が随所にあるが、ここでは二人の間の微妙なズレに注目してみたい。それは次のような個所に示されている(引用はすべて袴田の発言)。
「これはブラック・ユーモアですが、われわれはスターリン体制の精神的な抑圧に対して、ひょっとしたら感謝しなくてはならないのでしょうか(笑)」 (二八五頁)。
「自由になっても、新しい本物の作品は、そう簡単には現われないようですね。何か芸術の創造のために欠けているものがあるのでしょうか。もしかしたら、抑圧と緊張が不足しているからでしょうか(笑)」(二八九頁)。
「唯物論の国での、このような精神性はまさにパラドクスですね。またもや体制に感謝しなければならないのでしょうか(笑)」(二九三頁)。
これらの袴田の発言は、逆境こそが高度の精神性を生むという持論からいえば当然のものであるが、現に抑圧が解除され自由が拡大しつつある時期に、かつての抑圧の方が文化のためにはよかったというのは、当事者の神経を逆なでする発言だということは明らかである。もちろん袴田自身もそのことを承知しており、だからこそ冗談めかした「ブラック・ユーモア」として語っているのだが、リュビーモフはこれらに対して、「いやいや、とんでもない」と応じている(二八五頁)。もっとも、リュビーモフも、「わが国の生活のパラドクス」に言及しており(二九四頁)、袴田的見地と共通する認識をもたないわけではないが、やはりその国の当事者として、「政治の状態が悪ければ悪いほど、文化のためにはよい」などということを明言することはできないのだろう。
以上、いくつかの発言に即してみてきたが、私が断片的に提示してきた疑問を整理するなら、次の三点にまとめられる。第一は、知識人と民衆の乖離がある程度縮小し、知識人の孤立が薄らぐ中で「知識人の反撃」が成功するという見通しは、どの程度当たっており、どの程度過大評価だったのか。第二に、仮に「知識人の反撃」がある程度の成功を収めたとして、その「知識人」とは、高度の精神性を特徴とした古典的知識人なのか、それともそれを失いつつある即物的でプラグマチックな現代的知識人なのか。そして第三に、いずれにせよ、ソヴェト政権の崩壊と資本主義化の進行というその後の事態をどのように評価するか。
第一点についていえば、ペレストロイカ初期までの袴田は濃厚に悲観的であり、ペレストロイカ絶頂の一九八八‐八九年には一時的に楽観論(労働者と知識人の連帯の可能性)に傾いたが、その後、再び悲観論に戻ったというようにみえる。私の考えをいうなら、ソヴェト政権下で教育が拡大し、大衆の知識水準が向上して、知識人と民衆の間の溝がある程度まで狭まったこと――もちろん、あくまでも相対的な問題であり、乖離が完全に消滅するなどということはあり得ないが――は、やはり事実としていえるように思う。その限りでは、確かにロシア社会は変わったのである。そうしたロシア社会の変化はペレストロイカで急に生じたというよりも、それまでの長い年月の間に徐々に進行していたのが表面化したとみるべきだろう。そうでなければ、ペレストロイカなど起こりようもなかっただろうし(ゴルバチョフがいくら上から音頭をとっても、それに呼応する自由な言論のうねり、そしてそれをとりまく大衆的な規模の熱気などはなかったろう)、ソ連解体後のロシアに成金的な「新ロシア人」が生まれることもなかったろう。もちろん、資本主義経済の形成も、自由主義的民主主義の政治制度の運営も、種々の困難をはらんでおり、順調満帆とは程遠いことは周知の通りだが、それにしても、やはりなにがしかの変化はあったのであり、だからこそ体制転換が実現したとみるべきだろう。
とはいえ、ペレストロイカにせよ、ソ連解体後の「資本主義ロシア」形成にせよ、一部の当事者が期待したようなバラ色のものでなかったのは当然である。そのかかえる困難の一部は、袴田の強調する「国民性」とある程度まで関係するかもしれない(すべてを「国民性」で割り切ってしまうべきでないのは当然だが)。もう一つ確認しておかねばならないのは、ロシア社会にそれなりの変化があり、かつて孤立していた知識人がそれほど孤立した存在でなくなってきたという場合に、その「知識人」とはどのような種類の知識人なのかという問題が残るという点である。「知識人の反撃」が成功したのかしなかったのかという問いへの答えは、どのような知識人を念頭におくかによって異なるからである。ここで議論は第二の問題につながる。
私の考えでは、ペレストロイカを「知識人の反撃」とみる場合、その主役となったインテリの主要部分は、即物的でプラグマチックなインテリであり、精神主義的側面はその政治的「勝利」の陰でむしろ後退した。先に触れたインテリと大衆の関係の問題と関連づけていえば、大衆の変化(知識人への接近)は単なる幻想ではなく確かにあったが、その変化の質が、かつての孤高のインテリへの接近ではなく、精神性よりも経済活動に重きをおくような、現代社会型の知識人(ウェーバーのいう「精神なき専門人」)への接近だったということではないかと思われる。
本書の中に、次のような個所がある。「ソ連でも、文化活動や出版を自由にして見給え。そのような熱気はすぐに消え失せてしまうだろう。(中略)また、ソ連には飲み屋やパチンコ屋など娯楽や気晴らしが少ないため、本などがよく読まれるのだ」(一三五頁)。この個所は皮肉めいた文体で書かれており、こうした事態が実現するなどということはあり得ないという前提があらわになっている。著者への公平のため付け加えるなら、当時(一九八八年一月初出)、そのようなことが実現するとは、著者だけでなく誰もが想像もしていなかったろう。だが、今日のロシアをみるなら、この非現実的な空想(と当時は思われた)が現実のものとなってしまったようにみえる。
ペレストロイカの絶頂期には、それまでのタブーが次々と解除されていくことへの興奮が社会全体を蔽っていたが、やがてそれは飽和感覚とアパシーにとって代わられ、「熱気がすぐに消え失せ」たことは周知の通りである。そして、資本主義化と対外開放の中で、多くの娯楽産業があだ花のように咲き誇り、人々は、高度の精神性を特徴とする芸術的文学書よりも、ソヴェト時代にはみられなかったポルノ・ホラー・オカルトなどに、あるいはまたビジネス・ハウツーものやコンピューター入門書の類に引きつけられている。これは、かつてのソ連で芸術的文学が、迫害に値するとみられていたという意味で逆説的に高い地位を占めていたのと比べると、精神性という面では明らかな後退である。だが、それに代わってビジネス・ハウツーものやコンピューター入門書の類がむさぼり読まれるということは、ともかくも教育が普及して、大衆的な規模での変化が起きたことの証でもある。多くの学者が大学や研究所を捨ててビジネス界に転身し、「新ロシア人」(成金的な新しいブルジョア)になったという話もある。これらの現象は、「知識人の反撃」がともかくも成功したこと、しかしそれは同時に、かつて袴田があれほど感嘆していた高度の精神性を犠牲にし、知識人の金儲け志向を強めるという過程でもあったということを物語っている。
そうだとしたら、このような変化をどう評価したらよいのだろうか。ここで話は先の第三点につながる。もし「知識人の反撃」が高度の精神性を維持しつつ成功したか、あるいは逆に単純に失敗したかのどちらかであったなら、いずれにしても評価は簡単だったろう。前者は喜ぶべきことであり、後者は悲しむべきことだ、ただそれだけの話である。ところが、高度の精神性の喪失というコストを払いつつ、「反撃」が成功してしまったということになると、これをどう評価してよいかは極めて難しい話になる。
本書の中に、次のような個所がある。
「ソ連は不幸な社会なのかもしれない。知識人が精神文化の世界に本気になれるのも、政治とか経済の世界がウソ臭くなっているからだ。政治的な野心のある者、出世欲の強い者は別として、誠実さを大切にする者がそこでは生命を真に燃焼させることができないからである。だから有能な人間が、『大の男』が文学や映画に関心を向けるのである。
そう考えてみると、日本はしあわせな社会なのでもあろう。経済の世界が真剣勝負の場を提供してくれているからである。(中略)エリートは大蔵省へ、通産省へ、そして実業界へ進んで本気に自己を燃焼させることができるのだ。庶民は庶民で大まじめにしこしこと働いている。ロシア庶民の間に広く見られるようなシニシズムの雰囲気は日本社会にはほとんど見られない。つまり現世で生の充実を感じることができ、形而上の世界にリアリティを求めなくても、安心立命の境地を得られるのだ。考えようによってはこれはたいへん健康な社会であるが、しかしこれがまた、現代日本の精神的な貧しさを生んでいるのでもある」(一一六‐一一七頁)。
例によって感性的な叙述であり、幾分の誇張がある――特に日本について――と感じるが、大づかみな対比としては、核心をついた興味深い指摘である。この文章を書いたとき、袴田はソ連が「不幸な社会」から日本のような「しあわせな社会」になるとは予期していなかったろうが(この文章は一九八六年初出)、それはともかくとして、その「しあわせな社会」「健康な社会」が「精神的な貧しさ」と表裏一体であるという指摘は重要な点を衝いている。
ソ連解体後の現代ロシアで、高度の芸術性を誇る文学書よりも、ポルノ、ビジネス・ハウツーもの、コンピューター入門書などが広く読まれているのは、まさしくロシアが「健康な社会」になったことの一つの証である。そうした下らないものに関心はないという「武士は食わねど高楊枝」的態度をとる――とらされる――のは、不自然なポーズであり、「不健康」な状態だったからである。しかし、まさにそのような「不健康さ」と、かつて袴田の賛嘆した高度の精神性とは表裏一体だったのであり、そのロシアが「健康な社会」に移行することは、「精神的な貧しさ」の露呈を意味したのである。
ここでわれわれは、どうしても厄介な難問にぶつかる。いわゆる「改革」――西欧型「民主化」・資本主義化の進行――を「進歩」とみなし、それを支持するのか、それともそれは「精神的な貧しさ」の進行と裏腹であり、あまり賛美できないと考えるのか、という問いである。
本書に示されているような袴田の考えからすれば、後者の方が自然なようにみえる。実際、先に引用したリュビーモフとの対話などにはそのような見地が示されている。ところが、本書には収められていないが、彼の書く政治評論類を読むと、西欧型「民主化」・資本主義化を善=進歩とする前提が暗黙におかれているようにみえる。もっとも、それがうまく進展するかどうかは別問題であり、ロシアの特殊性からして困難性が大きいという点を強調するのが彼の議論の特徴だが、それは移行途上の困難に関わり、進むべき方向性が西欧型「民主化」・資本主義化であるという点についてはあまり疑っていないようにみえる。
回答困難なディレンマが現にある以上、二通りの考えに引き裂かれること自体は自然であり、了解できる。ただ、双方の見地が一つの文章の中で提示されてその間の緊張・相克が明示的に論じられるというのではなく、政治評論を書くときには「改革」支持、文化を論じるときには「改革」を手放しには評価できない、といったやや安易な使い分けがなされているという気がしてならない。
五
最後に、本書の直接的な内容から離れて、「政治的人間」と「芸術的人間」の関係という問題について考えてみたい。というのも、本書で主に表現されているのは、文化・芸術をこよなく愛する「芸術的人間」としての袴田だが、彼はまた、日頃、ジャーナリスティックな場面で政治評論的な発言も頻繁に行なっているからである。しかも、彼がそうした発言を積極的にするのは、「日本にはロシア通の人が少ないから、仕方なしに引っぱり出される」とか「身過ぎ世過ぎのため」というのではなく、彼自身が政治という現象を観察するのが好きで、政治家たちと交わったり、政治について積極的に発言したりすることを好むタイプの人であるようにみえる。私などは、職業的には「政治学者」ということになっていながら、そうしたことが体質に合わないため、滅多にそうした発言をすることがない――唯一の例外はペレストロイカ期だったが、その短期的経験の後は一切の時評的発言をやめた――ので、袴田のその方面での活躍ぶりにはただ驚嘆するばかりである。
いうまでもなく、政治家と政治学者と政治評論家は異なった存在である。彼らを一緒くたにしたら、それぞれの人から怒られるだろう。にもかかわらず、政治学者の大多数(私のような変わり者を除く)や政治評論家たちは、「政治」という現象に強い関心をいだき、その観察に熱中する、いわば「政治好き」という点において、非政治的人間と異なった資質をもち、政治家と共通するものをもっているように思う。その限りで、彼らを「政治的人間」と一括することは許されるだろう。
政治的人間と芸術的人間とは、一見したところ、非常に隔たっているように思われる。「政治的人間」、とりわけ政治家といえば、強引で厚かましく、人の内面の機微などにお構いなしに、ひたすら自己の権力欲を満たそうとする人といったイメージがある。他方、「芸術的人間」というと、俗世的権力や金力に無頓着で、ひたすら内面的・美的感覚に沈潜する人のように思われる。そういうイメージによるなら、両者はおよそ対蹠的で、共通するものを何ももたないということになりそうである。
しかし、よく考えてみると、実は、両者の間には意外な共通点があるのかもしれないという気もする。
どこかで誰かがいっていたのだが、演奏家という人種は、繊細な神経・感受性と、それをぬけぬけと表現してしまう自己顕示欲の強さとを兼ね備えていなければならないという。この言葉は、演奏家だけでなく、芸術家一般に通用するだろう。繊細な神経がなければ芸術家たりえないことは明白だが、それだけなら、人前でそれを表現することに怖じ気づき、「人前では演奏できない演奏家」とか「作品を発表することのできない作家」ということになりかねない。デリケートでいながら、自信や自己顕示性もなくては、表現者となることはできない。つまり、繊細さ、高度な精神性と、それを外に表現する図太さ、過信と紙一重の自信、自己陶酔の奇妙な同居が必要とされるのである。
政治家にしても、その権力欲を満たすには、ただひたすら強引なだけではなく、人の心理の微妙なアヤを理解し、それをつかまえたり操縦したりするのに長けていなくてはならないだろう。政治家の行動それ自体は外面的なものが大半を占め、またそれによって評価されるが、人間の内面というものについて、意外なほど鋭い嗅覚をもっていないと、政治家という職業はつとまらないのかもしれない。
こう考えてみると、政治的人間と芸術的人間の間には、意外な共通点があるような気がしてくる。実際、政治家が私生活において芸術に深い趣味をもつという例も時折耳にすることがある。私など、そんな話を聞くと、反射的に「嘘臭い」と感じてしまうのだが、汚いものにまみれきった政治活動と精神性を真骨頂とする芸術とが対蹠的であればこそ、日頃前者に全力投球している人が、後者の中に安らぎを見出すという逆説もあながち理解できないわけではない。
政治というのは、経済活動のような合理性で割り切れない面が大きく、論理だけではつかみきれないところがかなりある。政治を理解するには、論理よりもむしろ動物的な嗅覚が重要なのかもしれない。その嗅覚はもちろん芸術的なセンスとは異なった性質のものだが、先に触れた繊細さと図太さの奇妙な共存という点では、ある種の微妙な共通性があるのかもしれないとも思う。このようなことから考えれば、袴田が政治評論と芸術論とをともに好むことは、実は意外なことではなく、むしろ自然な結合なのかもしれない。
(1)小さいことだが、本書では一貫して「ほんもの」という風に平仮名書きがされている。そのことに特別な意味があるのかどうかは分からないが、私の癖としては「本物」と漢字で書いた方が自然に感じられるので、ここでは漢字表記にしておく。以下でも同様。
(2)井筒俊彦『ロシア的人間』は、弘文堂の初版が一九五三年、北洋社の再版が一九七八年、そして中央公論社の文庫版が一九八八年刊である。袴田の解説は中公文庫版のために書かれた。
(3)この点について私は、ペレストロイカ期に何度か触れる機会があった。塩川伸明「現代ソ連の思想状況」『ソ連研究』第九号(一九八九年)、『終焉の中のソ連史』朝日選書、一九九三年、第W章(初出は一九九〇年)。
(4)ついでながら、本書に収録された以外のいくつかの文章で著者は東欧諸国を論じたり、リトワニア、エストニア、中央アジアといったソ連の非スラヴ地域について論じたりしている。それらも、足で歩いた現地感覚に裏打ちされており、ロシアとの対比にユニークな観察があるものの、やはり著者の本領はロシア人についての観察にあり、他の民族についての分析はそれほど切れ味がよくはないという印象がある。
(5)ここに「フルシチョフ時代」とあるが、これはたまたまその時期のことに触れたというだけのことであって、ことさらにブレジネフ時代と対比するという趣旨ではなさそうである。この引用文は、フルシチョフ期とブレジネフ期に共通する叙述ととってよいと思われる。
(6)ついでに付け加えるなら、ロシアにおけるインテリと民衆の乖離という特徴は帝政期からの連続性を物語るというのが一般的把握であるが、先の引用の末尾では、知識人の民衆観が帝政期とソヴェト期で大きく異なっているということが指摘されている。これは重要な指摘だが、著者自身は特に注意を促すことなく、さらっと通り過ぎている。こうしたあたりにも、重要なことに気づきながら、それを掘り下げて展開せずに、感覚的叙述で終わってしまう著者の叙述スタイルの長所と欠点とがよく現われている。
(7)別の論文「ロシアにおけるバザール的エトスと分離派的エトス」『ロシア研究』第二一号(一九九五年)では、「分離派的メンタリティ」に注目して、メンタリティーの多様性および変化可能性が論じられている。注目すべき論点だが、例によって、論理的整理は欠けている。
(8)作曲家ショスタコヴィチを素材として、似た視点を提示した文章として、精神医学者福島章のエッセイがある。福島「ショスタコーヴィッチ頌」『現代思想』一九七六年二月号。
(9)袴田茂樹『ロシアのジレンマ』筑摩書房、一九九三年。
(10)袴田茂樹「ゴルバチョフ改革の行方――知識人の反逆」『北海道新聞』一九八七年四月八日夕刊。
(11)R・W・デイヴィス『現代ロシアの歴史論争』岩波書店、一九九八年、一〇六‐一一〇頁(但し、邦訳書のこの個所には部分的な誤訳がある)。
*袴田茂樹『文化のリアリティ』筑摩書房、一九九五年
(一九九八年七‐八月)