〔番外〕 ド・マン論争とソーカル論争
私はこれまでこの「読書ノート」シリーズで、金森修の『サイエンス・ウォーズ』や、ソーカルとブリクモンの『知の欺瞞』などを取り上げて、学問のあり方、いわゆるポストモダニズムなるもの、また論争のあり方などといった一連の問題について考えてきた(1)。その後、最近になって、リチャード・J・エヴァンズ『歴史学の擁護』という本を読み、その一節に出てくるエピソードとして、ド・マン論争なるものについて知った(2)。これはサイエンス・ウォーズとはだいぶ畑の違う領域での話であり、論点も異なっているが、ごく広い意味ではある種の共通性があるような気がして、興味を惹かれた。この論争自体はいささか旧聞に属し――一九八〇年代末から九〇年代初頭にかけてのことであり、サイエンス・ウォーズに先立つ――、私がそれを知るきっかけとなったエヴァンズの本も原書が一九九七年、邦訳が一九九九年刊だから、もはや新刊書とはいえない。流行という観点からいえば「古くさい話」ということになるが、あまり流行にとらわれずにものを考えていきたいという私のいつもの流儀に従って、とにかくなにがしかの関心を惹かれたので、思いついたことを書き留めておきたい(付け加えるなら、この論争は、日本ではあまり注目を引かなかったように見えるし、ソーカル論争とのある種の類似性ということはほとんど問題にされていないように見える(3)。だとすれば、このエピソードを今頃とりあげるのも、全く無意味というわけでもなかろう)。
一
とりあえず、主としてエヴァンズの紹介に沿って、論争の概要をまとめると、次のようになる。
ポール・ド・マン(一九一九‐八三年、ベルギー出身だが主にアメリカで活躍)は代表的なポストモダン派の文芸批評家であり、ガヤトリ・スピヴァク(『サバルタンは語ることができるか』などで有名)らの弟子を養成したほか、デリダをはじめ多くのポストモダニストと密接な関係にあり、「脱構築批評」の「イェール学派」の中心人物となった(デリダはもちろんフランス人だが、頻繁にアメリカを訪れ、この「学派」の一員と目されるようになったらしい)。その彼が、ナチ占領下のベルギーに暮らしていた一九四〇‐四二年に、ナチ統制下の新聞に多くの論文ないし記事(あわせて約一八〇編)を書き、その中には、フランスの親ナチ著述家への賞賛とか反ユダヤ主義的な言辞などが含まれていた。これらの論文はその後ほとんど知られないままに埋もれていたが、彼の死後の一九八七年に、ある研究者によって発掘され、一種のスキャンダルとなった。
有名な学者に親ナチの疑惑がかけられるというのは、哲学者ハイデッガーの場合などを思い起こさせる(あるいはまた、冷戦終焉後、何人かの左翼系知識人に対して、「あいつも実はソ連共産党と協力していたのではないか」といったタイプの個人攻撃がなされるようになったのも、ある程度までこれと類似した性格をもっているように思われる)。ド・マンの場合、戦後アメリカに移住し、ベルギー時代の著作については完全に沈黙を守っていたことから、死ぬまでこうした事実が知られず、それだけに一躍注目を浴び、論争の的となったらしい。
ド・マンの影響を受け、「脱構築」文芸批評の立場に立っていた多くの人は、彼を擁護するために、種々の論拠を挙げた(以下は、基本的にエヴァンズの著書からの抜き書きだが、私の観点から順序を入れ替え、番号を付けた)。
@多くのヨーロッパ知識人が同じようなことをしてきたではないか。
Aド・マンは論文ひとつで非難されるべきではない。
B彼の初期の論文は脱構築的文芸理論とは無縁である。
Cちょっとした逸話をもとにド・マンの作品やド・マンという人間を裁き、糾弾し、その書物を閉め出す、つまり比喩的にいえば、検閲し、焚書処分にするというのは、皆殺しの気配を再現することではないか。
Dド・マンの問題の文章は、実は反ユダヤ主義を主張したものではなく、むしろナチスへの抵抗に与するものだったのだ。これを反ユダヤ主義宣伝ととるのは大きな誤解である(これはデリダによって提出された論点(4))。
さて、この論争をどのように考えるべきだろうか。いま抜き書きした何通りかのド・マン擁護論はそれぞれに性格を異にしている。前の方に挙げたものから順に検討してみよう。
まず、@は最も素朴かつ常識的な擁護論といえるだろう。確かに、その時代には――特にナチ支配下の地域に暮らしていた人たちの場合――多くの人が大なり小なり似たようなことをしていただろう。そうでなければ生きていけなかったかもしれないことを思うなら、そうした人たちを後世の人間が安楽椅子で非難するようなことはすべきでないという考えも成り立ちうる。もしド・マン擁護者たちがこの論拠を挙げるにとどまっていたなら、それはあまり強い反撥を招くこともなく、「そうも言えるかもしれない」と受けいれられたのではないだろうか。ところが、話はこれで終わらなかった。@は確かに一種の弁護論ではあるが、いってみれば有罪を認めた上で情状酌量を要請するようなもので、全面的な無罪主張ではない。それだけでは足りないと多くのド・マン擁護論者は考えたように見える。そこから、話はもう少し複雑な方向に進んでいくことになる。
次のAも、主張としては比較的単純なものである。ある人がある一つの論文ないし記事を書き、その中に非難に値する文章が含まれていたとしても、ただそれだけでもって、その人の仕事全体を否定するのは飛躍だ。これは一般論としては妥当な主張である。ただ、問題なのは、ここで取り上げられているのは、「ただ一つ」の文章ではなく、「まる二年以上かかって書かれた膨大なテキスト群」(エヴァンズの言葉)であり、全部で一八〇編にものぼるということである。私自身はそれらを直接点検したわけではないが、もしエヴァンズの紹介が正しいならば、これを「たった一つ」といって片づけるわけにはいかなくなる(5)。
Bも一応耳を傾けるに値する議論である。ある人がある時期に書いた一連の文章の中に、政治的観点から見て感心しない要素が大量に含まれていたとしても、そのことがその人の文学理論なりその他の理論(ハイデッガーでいえば哲学)とどのように関係するかは、一足飛びに結論できるものではない。ド・マン批判者の側がどのような議論をしていたのかは知らないが、もし「ド・マンが反ユダヤ的な文章を書いていたことが暴露された以上、ポストモダニズムも脱構築文芸批評もみな無価値と断定できる」などと主張していたなら、それは論理の飛躍だろう。だが、そのことはド・マン擁護者の側の正しさを直ちに意味するものではない。ド・マンが問題の文章を書いてからどのような知的遍歴と変化を経験したにしても、とにかくも文筆家として新聞に掲載される論文ないし記事を多数書いていたのであるなら、それが後年の彼の考えと完全に無縁だとするのも、十分な根拠なしに結論づけられることではない。もちろん政治論と文芸論とは直接に重なり合うものではないが、同じ人がそれなりに頭を絞って書いて公表したものである以上、どこかに接点があるのではないかと想定するのもあながち無理ではない。要するに、単純に直結するのでもなければ、完全に無縁とするのでもなく、その間の複雑微妙な関係を丹念に解きほぐしていく粘り強い作業が必要だろう。だが、少なくとも紹介されている限りでは、そうした作業は――ド・マン批判者の側からも擁護者の側からも――あまりなされた形跡がない。
Cもそれなりに成り立つ反論である。批判者の側が具体的にどういうことを言っていたのかは知らないが、こうした論争が起きると、往々にして一部の人が行き過ぎをおかして、「検閲、焚書」に近い雰囲気を醸し出すということはあり得ることである。だが、それに反論しようと思うなら、そうした一部の行き過ぎに狙いを絞って批判すれば済むことであり、ド・マン批判を全体として否定するには及ばないはずである。一方の側が一種の勇み足で「検閲、焚書」に近い行き過ぎた議論を提出し、他方の側がそれに反撥して、相手方の議論を全否定するといった形で論争が進むのは、よくあることではあるが、不毛だといわねばならない。どちらの側にも行き過ぎや勇み足はあり得るが、それはいってみれば泡沫・バブルのような現象であり、それだけに目を奪われていても議論は一歩も前進しない。
最後に挙げたDはどうだろうか。私はデリダのド・マン擁護論を直接読んだわけではないので、とりあえずエヴァンズの紹介に沿って考えるしかないが、その限りでいえば、エヴァンズのデリダ批判は明快なもののように見える。その一つの要点は、もしド・マンが問題のテキストにナチズムへの抵抗の意図を込めていたのなら、戦後の彼はそのことを隠すことなく、公表した上で解説していたはずなのに、むしろそれをひた隠しにしていたのは、やはり疚しいところがあったからではないかということである。またもう一つには、次の点が指摘されている。デリダに代表される脱構築論者は、テキストの意味は作者によって特権的に決定されるものではなく、一旦書かれたテキストは作者の手を離れ、読者による自由な解釈に開かれていると論じているはずなのに、ここでは、ド・マンのテキストの特定の解釈が「正しい」とされ、そうでない解釈は「誤解」だと決めつけられている。どちらが「正しい」かをいう以前に、そもそもテキストの「正しい」意味というものがあり、その特権的な決定者は作者(ド・マン)の盟友(デリダ)だという言い方自体がポストモダニストにとって自己破壊的ではないか(ここでも前注4参照)。
このようにみてくると、先に挙げた様々な論拠は部分的に当たっている面があるにしても、全体としてみるとき、少なくとも十分に説得的とは言い難い。だからといって、戦後のド・マンの業績やその後継者たちの仕事が全否定されることになるかはもちろん別問題だが、ともかく一つの重大な汚点が暴露され、彼の擁護者たちが苦しい立場に追い込まれたことは否定しがたいように見える。
二
さて、この論争が、ジャンルや具体的争点の違いにもかかわらず、ソーカルをめぐる一連の論争とある種の類似性をもっていることは明らかだろう。どちらにおいても、ポストモダニズムの系列に属する有力な論者がある深刻な汚点をもっていることが、かなり否定しにくい形で提示されたという点で共通する。ソーカル論争の場合には、『ソーシャル・テキスト』誌の編集部や一部のポストモダン派哲学者たちが、あたかも自然科学に一家言あるかの如くに振る舞っていながら、実は自らの使っている用語や概念の意味を正しく理解していないことが暴露された。そして、ド・マンの場合には、脱構築文芸批評の開祖ともいうべき人がかつてナチにおもねり、反ユダヤ的文章を書き連ねていたことが暴露された。これらの汚点が彼らの威信を強烈に落としたことはいうまでもない。
だが、そのことがある流派の業績の全否定につながるかといえば、それは別問題である。ポストモダニズムに反感を抱いていた人たちは、相手方にこうした汚点が見つかったことに快哉を叫び、「そら見たことか」と凱歌をあげたようだが、ある流派に属するある人たちにある種の汚点が見出されたということと、その流派の仕事の全体的な評価とは、論理的にいえば直結するとは限らないから、これらのことだけから直ちにある種の結論を引き出すのは論理の飛躍である。他面、「直結するとは限らない」ということは、「全く無縁だ」ということでもなく、「ひょっとしたら何かのつながりがあるのではないか」という疑惑が生まれるのも当然である。攻撃する側が十分な根拠なしに全否定の態度をとり、防御する側は無理な弁護論に固執するというのは不毛な構図であり、むしろ擁護論者こそが汚点についての深刻な反省をして、それを自己の議論の深化の糧にして然るべきではないかという気がするのだが、なかなか論争はそういう方向には進まないようである(6)。
ここで観点を変えて、ある仮想の事例を考えてみよう。ある男性の自然科学者X氏がいて、彼は近代合理主義を奉じ、反ポストモダン的な立場に立っているとしよう。彼の仕事は優れた業績と広くみなされ、弟子も多く、学界に大きな影響力をもっている。ところが、そのX氏が、実は、女性の若手研究者や補助作業者たちに対して度重なるセクシュアル・ハラスメントを行なっていたことが暴露されたとしよう。当然スキャンダルとなり、X氏ばかりかその学派全体が大きく威信を傷つけられる。そこで、X氏を擁護するために様々な議論が提出される。それを先のド・マン擁護論に対応する形で書き並べるなら、次のようになる。
@多くの男性が同じようなことをしてきたではないか。
AX氏は一つの落ち度だけで非難されるべきではない。
B彼のセクハラ行為はX氏の学問の内容とは無縁である。
Cちょっとした逸話をもとにX氏の業績やX学派を裁き、糾弾し、その成果を閉め出す、つまり比喩的にいえば、検閲し、焚書処分にするというのは、皆殺しの気配を再現することではないか。
DX氏はセクハラを行なってなどいなかった。「X氏がセクハラをした」というのは一つの言説に過ぎず、その言説を「客観的真実」と等置するのは認識論的にいって誤りである。
これらの論拠のうちのいくつかはド・マン論争の場合とほぼ同様の性格を帯びており、それへの評価も同様になる。たとえば、最初の@(他の人たちだって同罪じゃないか)は、「有罪だが情状酌量の余地あり」という趣旨ならばある程度の説得力をもちうるが、無罪を結論づける議論としては使えない。次のAは、もし本当に「一つの落ち度」だけだったのなら、これも「有罪だが情状酌量の余地あり」という議論になるが、もし「たった一つ」ではなく度重なる行為だったとするなら、立論不可能となる(ド・マンの場合に「たった一つの論文」だったのか、「膨大なテキスト群」だったのかが問題になるのと同様である)。Cについても、ド・マンの場合と同様のことがいえる。もしX批判派が行き過ぎや勇み足をおかし、「検閲、焚書」の雰囲気をつくりだしたのなら、それは反論されて然るべきだが、そのことは「だからXは正しい」という結論の正当化につながるわけではない。それに、行き過ぎや勇み足、「検閲、焚書」的発想は、X批判派だけのものではなく、X支持派の側にもあるはずである。
こうして@ACは比較的簡単に片づけられるが、BDについてはやや話が複雑になるので、もう少し丁寧に考える必要がある。Dの方から先に取り上げてみよう。
セクハラ行為が本当にあったかどうかを確定するのは、往々にしてなかなか難しい。物的証拠がない場合も多いだろうし、証言というものは、たとえ意識的な虚偽を含まないにしても、それぞれの立場からの偏りや記憶の変容を含むので、そこから「客観的真実」を再構成するのは相当困難なことである。その意味では、「セクハラがあった」という言説を単純に鵜呑みにすべきでないというのは正論であり、錯覚・誤解・誇張・冤罪などの可能性がないかどうか――ひょっとしたら、X氏のライヴァル学派による陰謀ではないかという疑惑さえ、ないとはいえない――の慎重な検討が必要不可欠である。しかし、だからといって、「およそ客観的真実など存在しない。セクハラも言説空間以外の事実としては存在しない」などということになるだろうか。フェミニストの一部にはポストモダン的傾向の人がいて、脱構築論を説いていたりするようだが、そうした人も、「セクハラがあったというのは一つの言説に過ぎない。言説の外に事実というものは存在しない。従って、セクハラも事実としては存在しない」などと主張はしないだろう。個々の具体的ケースについては確定が難しいにしても、各種の証拠・証言を丁寧に集め、それらを慎重に検討していく中で、何とかして「恐らくこれが真実なのだろう」という感触を大多数の人が共有できるような結論を探り当てていく作業が必要だというのは常識である。もちろん、懐疑論をとことん推し進めるなら、そのような「大多数の人が共有する感触」「常識」も怪しいと言って言えなくはないが、それを言い出すなら日常の社会生活は成立不可能となり、一切の議論は無用となる。ここでの例に戻るなら、慎重な調査・検討なしに単なる噂だけでX氏を糾弾するのは軽率だが、たとえばX氏の属する大学のハラスメント対策委員会のようなところで慎重な調査を重ねた上で、「セクハラがあった」という結論が出たなら、やはりそれを尊重すべきだということになるだろう。もう一つ付け加えるなら、反ポストモダニスト的な合理主義者であるX学派の人たちがDのように論じるならば、それはポストモダニスト的論法の借用ということになり、その限りで「敵陣営」の議論の妥当性を部分的にもせよ認めることになるのではないかという問題もある。
Bもなかなか微妙な問題を含んでいる。セクハラ行為は非難されるべきことだが、だからといってX氏やX学派の学問的業績の評価まで揺らぐことになるかといえば、少なくとも簡単に直結するとはいえない。人文社会系の学者がかつてナチ擁護の政治評論を書いたことがあるというような場合には、その政治評論と学問との間の関連が疑われやすいのに対し、自然科学ではそうした関係が薄いのではないかとも考えられる。だが、何の関連もないと言い切ってしまうのも早計だろう。自然科学にもいろいろな領域があるが、たとえばX氏が人間の性差と関わりのある領域を研究していたとするなら、彼の分析には女性差別的な偏見が含まれてはいないかという疑惑が持ち上がるかもしれない。あるいはまた、X氏が男性の弟子ばかりを熱心に教育し、女性の弟子は「研究室の花」的扱いをしていたとするなら、そのことによって、潜在的に新しい方向を切り拓こうとしていた芽がつぶされ、学問の発展方向が歪んだものになったのではないかという疑惑をかけることもできる。要するに、ある学者の持っていたある汚点がその学問とどう関係するかは、多面的に立ち入って分析しなくては何ともいうことができず、検討抜きに直結するのも、完全に無縁と断言するのも、ともに性急である。個々の具体的な事例にはいろいろな差異があるだろうが、ともかくそうした丹念な検討抜きの性急な議論が不当だという程度の抽象のレヴェルでいう限りは、自然科学であろうと人文社会系であろうと、原則的には同じである。
やや長くなってしまったが、このように考えるなら、このX氏論争はド・マン論争と、いろいろな違いはあるにしても、全体的構図としては非常によく似ているということができる。ただ一つ、明確に違うのは、誰が攻撃側で誰が守勢に立たされているかである。ド・マン論争やソーカル論争ではポストモダニストたちの失態が暴露され、反ポストモダン的な合理主義者たちからの猛攻撃にさらされたが、このX氏論争では、合理主義的な自然科学者の方が汚点を暴かれて、守勢に回っており、いわば攻守ところを変えた形になっている。
では、ド・マン論争やソーカル論争でポストモダニスト攻撃に熱心だった合理主義的自然科学者は、このX氏論争に対しては、どういう態度をとるだろうか。事件の衝撃を真剣に受けとめ、X氏およびその学派の仕事についての批判的点検作業に取りかかる人もいるかもれないが、むしろ、「身内」の汚点暴露にあわてふためいて、苦しい弁護論を繰り広げたり、「トカゲのしっぽ切り」的な対応で学派の権威を守ろうとしたり――先の論拠のうち、特にBなどはそうした風に使われやすい――する人もいるだろう。仮想の事例である以上、どちらの反応が多いかは何ともいえないが、論理一貫性よりも党派性を優先する後者のタイプの反応が多数を占めるのではないかという気がしてならない。
ある学者なり文化人なりがかつてナチに協力していたとか、スターリニストに協力的だったとか、セクハラをしていた等々が暴露された場合、そのスキャンダルへの反応は、立場によって異なる傾向がある。攻撃にさらされた学者・文化人を敬愛していた人は、まず「まさか。そんなことがあるはずがない。多分、何かの間違いだろう」と反応し、次いで、「仮にそれが事実だったとしても、それはあの人やその周辺の人たちの仕事の質とは関わりのない、純粋に個人的な事柄に過ぎない」などといって、その流派を守ろうとする。これに対し、かねてよりその流派に反感をいだいていた人は、「やっぱりね。あいつは前々からうさんくさいやつだと思っていたら、その通りだった」と凱歌をあげ、更に勢いづいて「だから、あの流派は全体としてインチキなのだ」という結論を引き出そうとする。そのような党派的立場に基づく反応は、ある程度までは自然な性向なのかもしれない。だが、よく考えるなら、その学者や文化人を敬愛していた人たちこそ、突きつけられた疑惑を正面から深刻に受けとめ、その反省と自己解体の作業をくぐり抜ける中から、何らかの新しい方向性を模索すべきではないだろうか。そのような営為が少ないかに見えるのは残念である。
(1)『サイエンス・ウォーズ』および『知の欺瞞』へのそれぞれの読書ノート参照(いずれも、http://www.j.u-tokyo.ac.jp~shiokawa/ongoing/books/に収録)。
(2)リチャード・J・エヴァンズ『歴史学の擁護』晃洋書房、一九九九年、一八五‐一八八頁。
(3)エヴァンズは、「このスキャンダル〔ド・マン論争のこと〕ほど脚光をあびたわけではない別な事例」としてソーカル事件に軽く言及している。同上書、「文献解題」、逆ノンブル一五頁。
(4)本文ではエヴァンズの紹介に沿ってデリダのド・マン擁護論をまとめたが、高橋哲哉の叙述はこれとはかなりニュアンスを異にする。高橋によれば、デリダはド・マンの当時のテキストに一部「赦しがたい」反ユダヤ主義が存在することを基本的に承認し、「苦痛に満ちた驚き」を味わったとしながらも、ド・マンのテキストは単純に等質ではなく、反ユダヤ・親ナチの要素を裏切るような諸契機も同様に存在すると主張したのだという。高橋哲哉『デリダ』講談社、一九九八年、四七‐四八頁。私はここでデリダ論を展開しようというのではなく(そのような課題は私の手には余る)、エヴァンズの著作に触発された思いつきを書き留めるだけなので、エヴァンズと高橋のどちらのデリダ紹介が正しいのかという問題には立ち入らない(本注および以下の注5・6に関連して、末尾の追記2も参照)。
(5)ここでも、高橋哲哉の叙述はエヴァンズとは異なり、反ユダヤ主義的主張が含まれていたのは、「記事の一つ」だとされている。
(6)高橋哲哉の前掲の文章は、デリダがド・マンの「赦しがたい」誤りを正面から受けとめたかに示唆している。しかしこれはごく短い紹介であり、しかもデリダ批判派への反論(本文に挙げた例でいえばCの議論に近い)に重点がおかれているため、「苦痛に満ちた驚き」を味わったデリダが、その経験を通してどのように自己の考えを深化させたかを明らかにするものにはなっていない。
(二〇〇四年一一月)
〔追記1〕
この小文は二〇〇四年一一月に書いたものだが、それからあまり時間が経たないうちに、後半に書いた仮想の事例によく似た現実の事件が表沙汰となって世間を騒がせ、私も一驚を喫した。実在の事件への処分が公表されたのは二〇〇五年一月のこと(処分自体の決定は〇四年一二月末)だが、おそらくその調査作業はそれよりも前にかなりの期間をかけて行なわれていたのだろうから、私が仮想の事例を書いた時期にはまさしく実在の事件が調査中だったことになる。そうしたタイミングから、私が実在の事件を予め知っていて、それを念頭におきながらこれを書いたのではないかと想像する読者がいるかもしれない。しかし、私はその事件の調査に関与してもいなければ、特殊な情報入手ルートをもっていたわけでもなく、当時は何も知らずに、純粋に仮想のことを書いたのだということを、念のためお断わりしておく。
実在の事件については、インターネット上などで各種の情報・意見・感想などが飛び交っているようである。それらを網羅的にみたわけではないが、この種の事件のときによくあるように、比較的傾聴に値する意見から無責任なデマに至るまで、雑多なものが入り混じり、一種の泥仕合的な状況が生まれているように見える。私としては、そうした泥仕合に参加するつもりはないし、もともとこの小文の狙いは、ド・マン論争と仮想の事例の比較を通じて一般論を考えることにあった。そうした一般論は実在の事件についても原則的に当てはまるはずだが、「原則的に」ということはそれ以上でも以下でもないという当たり前のことを確認しておく。(二〇〇五年二月)
〔追記2〕
本文に記したように、この小文は、ド・マン自身の文章もデリダのド・マン論も直接には読まずに、エヴァンズの紹介を手がかりとして感想を述べたものである。私の関心は、「ド・マンの本当の意図はどうだったのか」という点にはなく、論争のあり方という一般論にあったから、「真意」の確定はそもそもの課題ではなかった。注に挙げた高橋哲哉の文章は異なった解釈の余地を示唆していたが、短文であるため、それをどのように受けとめるべきかは留保しておいた。
それから大分経って、ド・マンの問題の文章が土田知則の解説付きで翻訳されているのを読むことができた*。土田の解説によるなら、ド・マンのドイツ占領下時代の多数の文章のうち、反ユダヤ的と解釈される余地のある文章は一つだけのようであり、そうだとするなら、本文のAとして挙げた論点はド・マン擁護派の側に軍配が上がるということになりそうである。土田はその他にも、ド・マンおよびデリダの考えについて多面的に解説していて、参考になる。ただ、ド・マンを批判者たちから擁護しようという情熱が露わになりすぎている観があり、そのためもあって、これで十分な解明となっているのかには多少の疑問が残る**。いずれにせよ、私の主たる関心事は、この種の論争に際して、レッテル貼りにとどまらない粘り強い究明がどこまで行なわれるかという点にあるので、遅きに失したにせよ、こうした議論が現われたことは歓迎したい。(二〇〇六年一二月)
*土田知則「『卑俗な』という危うげな一語に託して――ポール・ド・マンの選択」、およびポール・ド・マン「ドイツ占領下時代の新聞記事 四編」いずれも『思想』二〇〇六年一二月号に掲載。
**たとえば、「卑俗な反ユダヤ主義」という表現について、デリダによりつつ、二通りの解釈が可能だとし、「どちらがより正当な解釈であるかを判断するための決定的な根拠はどこにもない」と述べた個所がある(八九‐九〇頁)。だが、元の文章を素直に読むなら、第一の解釈の方が自然であり、第二の解釈は、「強いて好意的に読もうと思うなら、そう言って言えなくもない」という類のもののように感じられる。敢えて推測するなら、ド・マンは第一の意味を表に出すことで当時の政治情勢での生き延びを図り、第二の意味をその裏に忍び込ませることで自己の良心を辛うじて慰めようとしたという風にでも解釈できるかもしれない。そのことは、厳しい情勢の中で生きていかなくてはならなかった人――それも、当時わずか二一歳の青年――の言動として、あながち非難しきれないものともいえる。しかし、それにしても、後年のド・マンがこれについての説明をすることなく、秘匿し続けたという事実をどう考えるのかという問題はやはり残る。
〔追記3〕
最初の文章および二つの追記を書いてから大分経ったが、このほど新しい関連情報に接した。アメリカ滞在中にド・マンの友人となった柄谷行人の回想(朝日新聞二〇二四年二月二八日)によれば、柄谷はこの問題についてド・マンとかなり詳しく話しあったことがあるという。「ベルギーの知識人が占領下でどんな問題を抱えていたか、米国やフランスでは誰も関心すら持っていなかった。だから誰も僕のように尋ねることもなかった。聞かれればきちんと答えたと思う。現に僕にはそうしていた」とある。そうだとすると、ド・ マンはこの問題をひた隠しにしていたというエヴァンズの非難は当たらないということになりそうである。柄谷は晩年のド・マンにまとまったインタビューの依頼をしていたのだが、その直後に彼が死去して実現できなかったというのは残念な話である。(二〇二四年二月二九日)