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シーサー

シーサーハー

 4月3日は「シーサーの日」だそうです。ちなみに、3月4日は「サンシン(三線)の日」、5月8日は「ゴーヤーの日」
 さて、そのシーサーですが、「石敢(厳)当」とか、赤瓦の屋根とか、そしてもう少なくなりましたが「ひんぷん(屏風)」とか、と並んで沖縄を代表する風物です。今では、屋根の上や門柱だけでなく、それ自体一つのオブジェとして、至るところで見受けられるシーサーは「お土産品」としても、沖縄のマスコット扱いといっても過言ではありません。
 ところが、ここに「路傍のシーサー」に嵌った一人のヤマトンチュがいます。権威の象徴から、共同体・村落の守り神となった「石獅子」に惹かれ、沖縄に行くたびに乏しい時間を工面して、巻き尺と磁石を両手に持ち、町々村々を歩き回り始めました。それこそ、「路傍」を探し歩き、有名無名を問わず、訪ね歩いています。もちろん、なんの変哲もない門柱のシーサーをじっと眺めては、「素晴らしい!」と涙ぐまんばかりの入れ込みようです。こうした情熱に引きずられ「シーサーハー」なるグループ?が誕生しました。決して分派ではありません、まさにアソシエーションです。

 ということで、少し私もシーサー巡り(ネットサーフィンですが)をしました。いやー、沢山いますね、シーサーハーが。くだんの「シーサーの日」の推進者とおぼしき那覇市立壺屋焼物博物館の館長、渡名喜明さんの「シーサーの日は壺屋へ」を紹介します。この小文の末尾に、参考にさせて頂いたサイトをご紹介します。

 シーサー。もちろん「獅子」の沖縄語(ウチナーグチ)です。中国から伝わったとされますが、沖縄はもとより中国にも獅子(ライオン)はおりません。
 で、「シーサーのルーツはオリエント」(エジプトのスフィンクス?)というのが、定説になっています。そこからシルクロードを経て、中国に至り、さらに琉球に伝わったものと考えられています。時代は、あの「大交易時代」の13〜15世紀の頃とか。ヤマトの神社などの狛犬も、同様に「中国から伝わった獅子」の変形でしょうか。こちらは「高麗(こま)犬」ということで、朝鮮半島経由とも考えられます。
 龍・虎・獅子みな、権威の象徴です。中国・琉球にとって全くの「想像上の動物」でしかない「龍」とは違って、どう見てもネコ科で、せいぜい虎程度。何十メートルもありそうな龍よりよりも小さいし、「獅子」の方が親しみやすかったのでしょうか。それに、ある書物で「龍は(中国)皇帝が独占した」という記述を読んだ記憶があります。首里城などで、龍と獅子の分布・割合はどのようなものなのでしょうか。これも調べる必要がありますね。

 それはともかく、シーサーは、「権威」の象徴から「魔除け」を経て、「除災招福」の象徴となり、庶民化していったようです。魔除け・悪霊返しや、火難・水難(これは台風?)からの共同体・集落の防衛のために、「獅子」は「路傍のシーサー」(村落獅子)となったのではないでしょうか。

東風平・富盛のシーサー 沖縄島南部・東風平町の富盛の「シーサー」の由来(縁起?)が最も有名です。それによると、たびたび起こる火事に悩まされていた富森集落で、石造りのシーサーを作り、火難の元凶である八重瀬岳に向け安置したところ、火難から逃れること(「火伏せ」また「火返し」とも)が出来たのです。ここから、シーサーの魔除けとしての力を持つことが他の集落にも伝播し、さらに島々へと広まっていったそうです。ですから、路傍のシーサーは、どちらかと言うと、沖縄島南部に数多く見られます。
 そして、それがいつの間にか、家々の護り神となって、屋根の上のシーサーとなり、さらに門柱のシーサーとなっていったようです。もっとも、屋根の上にシーサーを置いて魔除けとすることは、一般にはそんなに古くない風習のようです。よく言われる話は、屋根職人が瓦を葺き、余った漆喰で「除災招福」を願って「おまけ」として作った物にどうやら起源がありそうです。ですから、平民に瓦葺きの家が認められるようになった「琉球処分」の10年後の1889年(明治22年)以降のことでしょう。さらに、ある人は門柱などにシーサーが設置されるようになるのは、1960年代あたりだとも言っています。

 さて、権威の象徴としてのシーサーは「一対の獅子像」でしたが、村落の守り神としての「路傍のシーサーは「単体」です。屋根の上のシーサーも「単体」(もっとも、何体も載せている場合がありますが、それは「ペア」ではなさそうです。)それ以降は、限りなく「狛犬」化した、と考えています。(雄雌一対の方が、なじみやすいのでしょうかね。)

 「日本全国こま犬ライブラリ」というサイトでは「那覇のようなメジャーな観光地では『こま犬化』して阿吽のペアになっていることの多いシーサーですが、本来はこのように、単独で赤瓦の屋根に立ち、周囲を見張る守り神。右のシーサーなんて、全身黒くて赤い目といういかにも強力な守り神的な風貌。すばらしい。」という一文が、「オキナワン スタイル」というサイトでは「屋根の上のシーサーは元来、屋根瓦職人が、余った瓦やしっくいで伊達や酔狂?で作ったもののようです。ですから、狛犬のように対のものでは無く一体です。座ったもの、立っているもの、這いつくばっているもの、と様々です。一つ一つが個性のある人相(シーサー相)で、素人っぽい雰囲気のものが多いのもそのためでしょう。」とありました。

 共同体・村落の「路傍のシーサー」の主たる役目である火難・水難から防備ということは、いわゆる「風水」と深く関わっているようです。つまり、シーサーと同様、それを根拠づける思想も中国からもたらされたのではないでしょうか。18世紀以降、民衆レベルでも「風水思想」がかなり広がっていたようです。
 火難ということで、「午(うま)」、つまり南向き、水難ということで、「鬼門」である「丑寅(うしとら)」、つまり北東向きということですが、前述の「富盛のシーサー」は八重瀬嶽に向けるという伝承と南向き(やや西南?)とが合致しています。
 歴史書「球陽」によると1689年の項に次のようなことが書かれています。「富盛の集落で頻繁に火事が起こるため、村人たちが風水師である久米村の蔡応瑞(大田親雲上)に村の『風水』を見てもらうと、村の南の方角にある八重瀬嶽に火性が現れているのがわかった。それで富盛集落の小高い丘の勢理城(ジリグスク)に、八重瀬嶽に向けて石獅子を立てると、村に火事が起こらなくなった。」

御茶屋御殿のシーサー 首里城のすぐ下、金城の石畳道のそばの崎山町にある「お茶屋御殿(うちゃやうどん)」のシーサーは、Emigrant【2004.8.16】でも書きましたが、それは立派なシーサーで、これも「南向き」でした。そうでしたね、アキヨシさん。この辺から「権威の象徴」から、「魔除け」としてシーサーがはじまったとも言われています。このシーサーは「単体」ですし。

 北中城(キタナカグスク)村の「中村家」は、琉球王国時代の豪農の邸宅として有名ですが、母屋の屋根に漆喰で作られた見事なシーサーが乗っています。これはいつ頃の作なんでしょう。


 重引ですが、長嶺操著「沖縄の魔除け獅子 写真集」での分類を紹介します。
1.宮獅子(a 寺社附属の獅子 b 城郭附属の獅子 c 墳墓附属の獅子)
2.御殿獅子(御殿獅子は単独で置かれ南向きでもあることから宮獅子から村落獅子へ広がっていく途中経過という位置づけが妥当と思われる。)
3.村落獅子(だいたいが村落の入り口にあり村落に入ってくる悪霊を退治するためのもので村落の守り神となっている。)
4.家獅子(a 屋敷獅子 b 屋根獅子 c 門獅子)
5.木製彫像獅子(a 神像獅子 b 獅子舞の獅子 c 舞踊の獅子)

参考させて頂いたサイト一覧
OKINAWA学習素材集メニュー・シーサー
沖縄シーサー紀行[シーサーのルーツを訪ねる旅/シーサー探究の旅 他]
沖縄シーサー図鑑[シーサーが買えるシーサーショップ 他]
しーさー(魔除けの獅子)[しーさー豆知識 他]
竹富島閑話・竹富シーサー探検隊[シーサーとは何者なのでしょうか 他]
美ら島・文化財のシーサー図鑑
宮城光男・沖縄シーサーと民藝術[正統派・伝統的シーサー 他]


[村落・石獅子]




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