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「沖縄を鏡に日本を相対化する思想」をどう越えるか
――国家の臨界を射程に入れた沖縄の未来

仲里効(『EDGE』編集長)インタビュー


――『EDGE』創刊から5年くらいたつと思います。創刊当時、沖縄では少女暴行事件をきっかけにした一連の動きがありました。創刊に際して、仲里さんご自身何らかの思いがあったのではないかとおもいます。また、『EDGE』という雑誌の性格づけなども伺いたいのですが。

仲里 『EDGE』を創刊したのは、95年の米兵による少女暴行事件のあった翌年の1月です。その前から準備は進めていましたが、偶然に創刊とあの事件がシンクロする形になった。勿論『EDGE』を立ち上げるときに私なりの雑誌づくりへの思いがあったことはいうまでもありません。沖縄の「日本復帰」をはさむ60年代後半から70年代はじめの経験を後遺症のように引きずっていたのですが、そのときやり残したことがある、それに対してどうにか解答を与えたいという、ほとんど強迫観念に近いこだわりがありました。私の中で、反復帰論も含めた沖縄の思想とは一体何だったのか、あの時のツケが、その後の沖縄の現実や表現を深いところで規定しているのではないかというわだかまりがあったこともたしかです。創刊のときは、いわば「時熟」のときだったのですね。ツケを決済すべき時が熟したという思いと同時に、やるからには新しい切り口をもった雑誌にしたいという思いがありました。

 創刊当時の沖縄の活字メディア状況といえば、『新沖縄文学』が実質的な廃刊となり、年1回、年鑑は出しているのですが、かつてのようにアクチュアルに時代と並走していくというようなことができなくなったときでした。今考えれば、時代がそうさせたのかなとも思います。その後新沖縄フォーラムが『けーし風』を創刊し、若者たちのポップ・カルチャー誌としての『ワンダー』という雑誌も出てきました。

 『新沖縄文字』の廃刊は、時代の読み方がかつてのような視点や方法では不可能になったことを意識させました。沖縄の状況が復帰を境に80年代を経て大きく変容していく、この変容そのものをどのように捉えていくかが問われていたということでしょう。そうしたメディア状況の間隙をぬうようにして創刊されたのが『EDGE』です。

 『EDGE』というネーミングについてですが、この名付けには私たちのポジショニングと思想性が込められています。「エッジ」には「縁」あるいは「鋭さ」、「ナイフ」という意味があります。『EDGE』はこれまでの沖縄の雑誌媒体にはない新しい別の〈切り口〉を介在させ、「縁」であると同時に「ナイフ」でもあろうとする、実に不遜なメディアです(笑)。それに日本との関係や、アジア的スケールで見た場合、沖縄の空間的・地政学的なポジションはまさに「エッジ」だといえます。創刊まもなく『インディペンデント映画祭』を開催したのですが、ニューヨークからジョナス・メカスを招き、彼の映像作品を中心にしながら、台湾の若い作家の作品と沖縄の二人の映画監督の作品をジョイントさせました。そこでのコンセプトとは、〈表現としてのエッジ〉です。メカスはリトアニア出身で、後にナチから逃れてニューヨークに亡命しますが、彼の映像にはリトアニアというヨーロッパの「エッジ」を強く意識させるものがあり、台湾は大陸との関係で、そして沖縄は日本との関係で、というようにそれぞれのエッジ性に拠り、映像表現を行っている者たちが、戦後50年の沖縄という場で出会うことによって、どのようなシーンを創出できるのかという試みでした。

 『EDGE』は沖縄のもつ空間的な読み取りであると同時に、沖縄の歴史的経験の時間的な名付けでもあります。

――「70年代にやり残した問題がある」と仲里さんはいろいろなところでお書きになっています。これまで復帰思想を越える思想を模索してこられたと思うのですが、仲里さんは70年代当時、沖縄の日本への「復帰」をどのように見て、どのように批判してきたのでしょうか。

仲里 60年代後半から70年代のはじめにかけて、沖縄の「復帰」や「返還」を巡って時代の声はまさに、「お前はどうなんだ」と問いつめてきました。その頃はちょうど高校を卒業して、大学進学のために東京に出てきた時期と重なります。沖縄の戦後的な抵抗が、「祖国復帰」という形でナショリスティックに回収されていくことにいらだちを感じていました。「そうではないのではないか」という違和感と「それとは、異なる沖縄の自己表出とは何か」ということをあれこれと考えていました。

 そんな時、森秀人の『甘藷伐採期の思想』を読み衝撃を受けました。「日本復帰」が絶対的な前提とされた時代に、その虚妄性を鋭く衝いていたからです。そして、新川明・川満信一・岡本恵徳らが沖縄の内部から復帰運動の思想と論理を批判し、それへのカウンターとしての「反復帰論」という言税が私たちの視界に見えはじめてきました。谷川健一が編集した『沖縄の思想』の中で新川明は「非国民の思想と論理」を、川満信一は「沖縄における天皇制思想」を、岡本恵徳は「太平軸からの発想」を書いています。私たちの一世代前の人たちが復帰運動の批判を自らの内部を抉るように導き出した「反復帰」の思想は啓示のように私たちをつかんだのです。それから、島尾敏雄の「ヤポネシア論」や吉本隆明の「異族論・南島論」等々を復帰運動とその論理を批判的に越えていく言説として受け止めたのです。どうにかしなければならないという内部からの声に思い迷っているときにそのような言葉と出会い、言葉を与えられ、自ら言葉を紡いでいくきっかけを与えられました。

 復帰思想を越えることの内実は、もちろん実践的な課題でもありましたが、沖縄と日本のあり方、明治の琉球処分に始まって沖縄戦からアメリカ統冶を経て、72年の日本復帰に至る過程での他者表象と自己表象のあり方を問題にせざるを得なかったということです。近代百年の構造の問題で、それは国家が介在した共同体間交通として問われる性質をもっていた。例えば、沖縄が国家への欲望や国家からの誘感に自己同一化し、時代の節目節目でエネルギーをせき止められ消費させられていく、この構造をどのように見定めていくかといえことでもあります。帝国としての日本が膨らんだり縮んだりしながらフレーミングする統合と分離の継ぎ目に沖縄があり、「復帰」の問題は、そうした国家の「フレーミング」と継ぎ目」に関わっていた。そのようなことをあらためて捉え返しながら、復帰思想を越えていくということが求められたのです。

 そして見逃せないのは、復帰運動の思想と論理には、戦前からの連続性、天皇制思想・皇民化教育によって植え込まれた負の遺産を内在化させていました。戦前からの遺制との密通を検証することを欠落させたまま展開されたということです。もちろん復帰運動の中には様々な戦後的文体が加わり、例えば全軍労の主張には沖縄の抵抗をアジアと接続させるトランスナショナルな声を含みもっていたのですが、結局、行きつくところが日本復帰だったことは、やはり沖縄の戦後抵抗における最大の不幸です。要するに「想像の共同体」としての日本への自己同一化に対してあまりにも無防備すぎたのですね。これは沖縄戦での集団自決をどう捉えるかということともつながっていると思います。そういうことを考えながら東京で沖縄出身の学生や集団就職で来た人たちを集め、組織を作って運動らしきことに手をそめていった。ある意味で反復帰・沖縄自立論の実践例の一つだったといえます。

――当時の運動を語っていただく前に仲里さんが反復帰論に引き寄せられていく思想のバックボーンについて、お話していただけますか。

仲里 個人的な話をすることになりますが、私は南大東島で生まれました。地図で見れば、沖縄本島からはるか東の洋上に浮かぶケシ粒ほどの孤島です。よく天気予報で耳にする名前だと思いますが、両親は沖縄島の北部、伊是名島の出身で、戦前に南大東島移民として渡っています。南大東島は北大東島や沖大東島とともに、明治になってはじめて開拓された移民の島です。日清戦争を経て、日本が帝国として外に向かって拡張していく1900年に、大東諸島は帝国の版図に組み込まれていきます。ちょうど2000年は開拓百周年にあたり、いろいろな記念イヴェントが取り組まれたようです。近代日本の歴史で無人島を開拓したのは他に例がありません。

 八丈島出身の玉置半右衛門という「冒険王」と呼ばれた人が開拓団を募って初めて足を踏み入れ、その後沖縄各地からも開拓民やサトウキビ労働者として多くの人たちが渡島しています。沖縄自体たいへん移民を輩出したところですが、大東島は「小さなハワイ」といわれるぐらい多くの移動民を吸収していったところです。これまでの開拓史研究や植民地史研究のなかではまだ光は当てられていませんが、大東島は日本と沖縄の関係史をみる上で、避けては通れないエリアだとみています。台湾に複数の工場を持つ東洋製糖という植民地糖業資本が島まるごとの占有権を引き継ぎ、島全体が一つの会社によって経営されるという珍しい歴史を大東島はもっています。製糖会社は島でしか流通しない貨幣を発行し、警察も病院も学校も会社によって経営され、市町村制が実施がされたのは戦後になってからで、島民に土地の所有権が与えられたのは1964年になってからです。東洋製糖が編纂した『大東島誌』や、大東島の占有権を東洋製糖から引き継いだ大日本製糖の社史として編まれた『日糖最近25年史』には、日本の植民地史上稀にみる実態が書き込まれています。それを見れば大東島が朝鮮から台湾を経てシャワまでのびる一大植民地ジュガーロードの一つの環として位置づけられ、大東島そのものは〈国内植民地〉であることがわかります。その植民地システムによってつくられたピラミッド構造に、日本本土や台湾から転任してきた製糖会社の社員を頂点にして、その下に、八丈島や「内地」からの開拓民、そのまた下に沖縄各地からの移民たちが振り分けられ、階層化されていきます。

 私はそうした出身地も言葉もそれぞれ異なる、しかも国内植民地的な痕跡をとどめた沖縄の東の孤島で少年期を送りました。今振り返ってみると、大東島のコロニアルな風土が私の反復帰論土壌を形成したのではないか、と思っています。島には高校はありませんので那覇に出てくるのですが、そこでベトナム戦争を挟んだ沖縄の激動の時代を体験することになります。65年に北爆が始まってアメリカがベトナム戦争に本格的に介入し、沖縄では基地建設が拡大強化されていきます。65年に佐藤総理が初めて来沖し、「沖縄の復帰が実現されなければ、日本の戦後は終わらない」という有名なフレーズをはき、沖縄占領政策がそれまでの分離から統合へとかじ取りをはじめる時期で、その頃はまた、「日本復帰」という形をとって大衆運動が最も昂揚していく時期でもありました。それでも「アメリカ」は沖縄の日常や風景のなかに、不条理な顔をみせていました。毎日、下宿から通学するバスの中から、たとえば那覇軍港の様子を目にします。今のように閑散としてはいない。原子力潜水艦が数隻停泊していたり、ベトナムから修理のために装甲車とか戦車の類が生々しくベトナムの戦場の土をつけながら金網の中に並べられていました。そんな様子を毎日通学しながら見ていました。それから大学入学のため上京するのですが、パスポートが必要とされた。東京までは船で3日間くらいかかります。この時の体験は、後々大きな意味をもってきます。

 パスポートの存在は、沖縄がアメリカの占領下であったということですが、ひとつの擬以的な国家というか、ひとつの独立体としての政治形態をとっていたということでもあります。パスポートを持って海を越える体験は、アメリカと日本の狭間に生きる沖縄の存在をいやでも考えさせられた。実際パスポートには出入国のスタンプが押されていましたから、上京するには国と国の〈境界〉を渡らなければならない。当時、沖縄と日本を隔てる象徴であったパスポートを焼き捨てる行動に出た同世代の人もいました。厳密にいえば私のスタンスとは異なるのですが、ただ、ここで指摘できることは、沖縄の若い世代の思想形成に大きな影を落としたのは〈国家〉の存在だったということです。いわば沖縄の〈問題〉のどこを切っても〈国家〉が顔をのぞかせるようになっている。

 もうひとつ、私たちの世代は沖縄の先生たちがたいへんな情熱を傾けて「日本人教育」をした世代に属します。『沖縄の子ら』『沖縄の先生たち』『沖縄の母親たち』という教職員会が作った〈復帰3部作〉ともいえる文集がありましたが、『沖縄の子ら』は教育という司祭型権力によって、いかにより「よき日本人」となるかを自覚させられ、意識と身体を改造させられた。かつて「沖縄の子ら」の一人であった私にとっては、沖縄の言葉を捨てさせられ、日本人=国民意識の刷り込みをどう剥いでいくかということが、反復帰・自立論に至る内的な作業でもあったわけです。

――ちょうど仲里さんの世代だと思いますが、沖縄では五十代の自殺が多いと聞いています。その日本人意識の刷り込みとどう関係しているのでしょうか。

仲里 沖縄の五十代の自殺率が全国で二位という記事を新聞で目にしたときは、鈍いショックのようなものを受けました。身近にいた友人が自殺したということもありましたが、沖縄のこの世代に固有な経験と価値が、何か深いところで揺さぶられ、壊れていく予兆を感じたからです。一般的に言えば、沖縄の人は南国的で時間にも頓着せず、大らかで自殺にはおおよそ無縁だと見られているし、事実、沖縄の女性の自殺は最下位です。
 五十代の男性の自殺を説明する常識的な言い方としては、不況になると真っ先にこの世代がリストラの対象になり、ストレスもこの年齢層に最も強くかかる、ということになる。だが、なぜ、沖縄の五十代なのかはそれでは説明したことにはならない。もう少し細かく見ていかなければなりませんが、わたしたち沖縄のミドルたちの世代体験と価値形成に関係しているように思えてなりません。つまり、この世代は先程も触れたように、かつて「沖縄の子ら」として、「沖縄の先生たち」によってよき日本人になるよう教え込まれてきた。要するに「桃太郎」になることを強要されてきたのです。と同時に、一方では桃太郎になれない(ならない)「鬼子たち」を産み落としもした。桃太郎にしても鬼子にしても、いずれも、植民地的な身体を生かされたのですね。沖縄の戦後体験を考える上で、復帰運動と連帯しながら学校空間でさかんに実践された日本人=国民教育の意味は、もっと突っ込んで論じられるべきで、『EDGE』12号でも特集を組んで検証しています。
 沖縄の五十代の自殺率の際立った高さには、この桃太郎になれなかった(ならなかった)鬼子たちが、現在感じている時代の奇妙な息苦しさというか、ストレスの大きさに起因しているのではないかと見ることができるように思えます。これは私の確信に近い直感です。
 自殺した友人がまだ二十代の頃、沖縄の「戦後世代と天皇制」について書いた論考がありますが、そこでいみじくも戦後的な出自と履歴について言及しながら、自らを桃太郎にならなかった(なれなかった)鬼子と見ていました。彼の世代論と視点は、この世代のその後の生の歩みのある困難性を予測するものであり、この世代の固有時と身体性が現在、臨界を巡ったことを感じ取らせるものがあります。このことは現在沖縄論としてもっと踏み込んで論じる必要があると思っています。

――運動に直接関わり始めたのは東京に出たきてからですか。

仲里 そうです。沖縄では高校生も何かと復帰運動にかり出されたりしていましたが、私はどちらかといえば、そうした日本へ帰ることに対して冷ややかなまなざしを向けていた方に属します。もちろん時代の熱に接し、高校生なりに何かを感じていたこともたしかです。しかし圧倒的な復帰運動の浮力や刷り込みのせいで自分の思いをうまく表現できないでいた。東京に出てきて、沖縄があれだけ熱くなって帰ろうとする日本は幻想であり、復帰運動のうそっぽさもはっきり見えてくるようになりました。

――その刷り込みを払拭するきっかけが、大学に入って先ほどあげた文章や思想に出会ったことだったのですね。ところで、仲里さんは当時の沖青同(沖縄青年同盟の略称)にも関わっておられたようですが。

仲里 沖青同は様々な思想の履歴を持った人たちが集まった沖縄出身者の集団であり、混沌をそのまま組織にしたようなものでした。そうしたアモルフな集団であるにもかかわらず、一つにまとまった。一つにまとまったのは、アンチ復帰・アンチ国家と沖縄人自らの主体創出の思想化への構えといえます。当時は「沖縄人」という言葉を口にすること自体がはばかれた時代です。「復帰」という形をとった国家統合と領土化の過程を批判し、反復帰と沖縄自立を明確にすることによって、状況に切断面を入れ、主体の回路を切り開いていこうとしたのです。そして、「在日」という言葉を復帰幻想からの離脱と可能なる空間への名付けとして使ったのも、沖青同がはじめてではないでしょうか。

 「在日」や「沖縄人」を明言することは〈われ〉と〈われわれ〉のポジションの政治化ということです。つまり国家論を欠いたまま「幻想の日本」へ自己同一化し、〈われ〉と〈われわれ〉を忘却するのでなく、〈主体〉を昂然と立たしめる意志的な表象だったといえるのではないでしょうか。今思うと多少稚拙なところはありましたけど、政治的な根拠地探しの〈旅の形〉だったのです。

――71年に国会での爆竹闘争がありましたね。

仲里 あの行動には沖青同の実践のオリジナリティを汲み取ることができるはずです。佐藤・ニクソン共同声明で沖縄の「返還」が決まって、国会で批准されようとしていたことに対しての異議を申し立てたということにとどまりません。行動を際立たせたメッセージは復帰幻想を断ち切った「沖縄人」マニフェストにあったのです。あの行動とメッセージは本土に在住する沖縄出身者にショックを与えたようです。そしてもう一つ注目すべきことは、その後の裁判において沖縄の言葉(うちなーぐち)での陳述を試みたことです。おそらく日本の裁判史上初めのことだったのではないでしょうか。なぜそのようなことをしたのかというと、言葉も含め、沖縄の隠蔽され、忘却された時間を想起させ、そのことによって思想と志向のヴェクトルを変容させようとしたのです。

 日琉同祖論とその戦後的な再生ともいえる日本復帰運動が隠蔽しタブーとした〈声〉を転換期の状況に接続すると同時に、「可能なる時空」への命名の試みだったともいえます。沖縄語の〈声〉による陳述が禁じられ、裁かれるとするならば、〈裁く/裁かれる〉関係を通して沖縄と日本の関係の構造を問いにかけ、そこから未成の主体を立ち上げようとする運動だった、ということができます。

――当時ヤマトの左翼党派もそれぞれの形で沖縄闘争に3加していましたが、そういう新左翼に対してはどのように考えられていましたか。

仲里 当時の新左翼諸党派はそれぞれの沖縄論を持っており、沖縄論の百家争鳴の時代でした。なかには共鳴するものもありました。ただ、日本の左翼の沖縄表象の行きつくところは、沖縄をテコにして日本を変えていくという物語です。その極端なものは「沖縄奪還論」だと思うのですが、それは復帰論をラディカルにしたにせよ、決して復帰を越えるものではなかった。その他「沖縄自治政府論」だとか「人民政府論」とかありましたが、結局のところそこでの沖縄は、自らの欠如の代理表象でしかなかった、ということがいえます。それは日本民俗学が沖縄を鏡にしたこと、つまり沖縄には非常に古い「原日本」が残っており、それによって日本を相対化したり、日本が失ったものを埋めようとしたことと似ています。つまり、日本の起原や欠如をフィクショナルに作為することとどこかでつながっているのではないか、「古い鏡」や「原日本」が「変革の鏡」や「テコ」に代わったにすぎません。ほんとうは左右を問わず、沖縄表象そのものが問われたということです。

――私たちもよく「沖縄から見ると日本がよく見える」という言い方を今でもしてしまいます。それも今おっしゃったことに近いところから発想しているのかも知れません。ヤマトの側の運動でも、それを越える思想をなかなかつかめないでいるのが現実だと思います。
 話は変わりますが、95年からの沖縄でのうねりは、「復帰」のときの動員型の運動とは少々異なり、ある種自発的なものによって行われたように見受けられますが、一つの事件をきっかけにしたとしても、その背景には70年代から残してしまった問題があるだろうし、他方では大田政権8年というものも大きかったと思います。95年以降の運動についてどのように評価されますか。

仲里 95年以来の沖縄のムーブメントは、たしかに大田県政によってリードされていた側面がありました。米兵による少女暴行事件に対して大田さんが「一人の少女を救うことができなかったわれわれ大人たち」というようなことを言って謝ったのですが、その言葉は保革を越え、共鳴できる言葉でしたが、それだけあやうさも持っていました。その後軍用地収用の代理署名の拒否や、基地の整理縮小と日米地位協定の見直しを問う県民投票は、予定調和的な「おとしどころ」を見え隠れさせつつも、沖縄問題が〈国家〉のあり方に関わることを改めて教えてくれた、といってもいいでしょう。「基地をカード」に日米両政府を揺さぶったといわれもしましたが、結局国家のグラフト機能に回収されていかざるを得なかった。特に県民投票のすぐ後に代理署名を受け入れたとき、大田革新県政型抵抗は終わったとみていいでしょう。その時、「苦渋の選択」という言う方をしたのですが、それは沖縄のムーブメントが盾を収めるときに反復された最も巧妙な言い訳です。

 かつて屋良朝苗琉球政府主席がB52戦略爆撃機の撤去を求める二・四ゼネストを流産させたときも同じ言葉が吐かれました。その言葉が反復されるたびに、何か決定的なものが失われていくような気にさせられました。沖縄の運動がある程度のところまで上り詰めたとき、突き当たるのは国家の壁です。しかも日本のどこにもないようなぶつかり方をする。「苦渋の選択」は、沖縄の主張や実践が突き当たったバリアーを涙腺でボカす退行行為といえます。

――そうする中、「沖縄の独立」という議論が再び浮上してきました。ここでの独立議論をどのようにお考えになりますか。

仲里 島尾敏雄さんは、日本が変わろうとする節目にたえず南島からざわめいてくると言っていました。そのざわめきは同時に沖縄の内部から自立・独立論が誘発されてくることも意味しています。72年の「復帰」のときも「反復帰論」と「自立」がセットになって出てきたし、戦後サンフランシスコ条約が締結され沖縄の帰属が決定されようとしたときも、「帰属論争」という形で「独立」「信託」「日本復帰」を巡って論議された。琉球処分当時にさかのぼって見れば「シルークルー」論争という形で、主に支配層のなかであったにせよ、ヤマトにつくか清につくかで割れた。つまり、こういうことが言えるのではないでしょうか。沖縄の変わり目にきまって「自立・独立論」が出てくるということは、それが沖縄の人々の潜在意識の最も繊細な部分と関係しているということです。もっと言えば、マイノリティの記憶の問題として見なければならないということです。

 95年以降出てきた自立・独立論をどのように見えるかは、そうした歴史的に備蓄された潜在意識や記憶を抜きにすると、問題の核心を読み誤ることになる。ただ問題は60年代から70代の反復帰論の〈その後〉に何を加えるかにかかっています。

――たとえば新川さんと新崎さんの論争がありましたが、あの論争は両者のそれぞれの傾向を表していると思うのですが。

仲里 新崎さんは「居酒屋独立論」と揶揄していますが、好意的に受け止めれば、独立論には実践論がない、もっと実践的な契機を組み込むべきだということでしょうが、その程度の言い方では、問題を状況へ力学的に還元するだけで、何の回答にもなっていません。自立・独立論は、先ほども触れたように、沖縄の人々の最も繊細な歴史意識や記憶まで想像力を伸ばして論じられなければならないでしょう。新崎さんの論理的射程はそこまでは届いていません。一見フットワークのよい彼の状況論に、浅を感じてしまうのはそういうところでしょう。新川さんがいらだつのも多分、新崎さんの「もう一つの現実主義」を感じ取っているからだと思います。

 新崎さんは、比嘉春潮が言った沖縄人の〈愚直さ〉をほんとうは分かっていないのではないでしょうか。比嘉春潮が〈愚直〉というとき、そこには、沖縄の人たちの生き方や物の考え方が含意させられています。「独立論」はその〈愚直なるもの〉と交渉しているからこそ、無視できないのです。

――大田県政が敗れて稲嶺県政が成立し、その中で「沖縄イニシアティブ」が出てくるといったように、一つの揺り戻しが起こっています。

仲里  「沖縄イニシアティブ」が出てくる背景には、稲嶺県政の誕生ということもありますが、やはりその根源にあるのは、大田の乱≠フ終息のあり方に関係していると見たほうがよいでしょう。つまり、「基地をカード」にしての異議申し立ては、あるところまでは有効に機能したが、政府がその機能をうまくグラフト化することによって、「継ぎ目」をあいまいにし、「基地カード」のヴェクトルを変容させていった。そのため「基地」と「振興策」がいつの間にかイーコールで結ばれる奇妙な現象が出現している。沖縄では、時計の揺り子のように振り戻しが起こっていますが、しばらくこの状態が続くでしょう。私が一番懸念していることは、価値の荒廃です。基地をカードにして振興策を引き出していく手法が、抵抗力をなくし今の沖縄のかなりの市町村で反復されている。

 かつて「基地作物論」というのがありましたが、要するに、基地を使用価値として考える経済政策です。ところが現在、政府から投下される大量の金を地域振興のうたい文句として基地建設を合理化していく姿勢は、これまでなかったような価値観の変容をもたらしています。そこで何が起こっているかと言えば、奇妙な言い方になりますが、基地が使用価値から交換価値にまで成り上る(成り下る?)ことであり、そのことが沖縄の人たちの基地感情や姿勢に影響を及ぼいているということです。それに対して歯止めをかけることはなかなか難しくなっている。
「沖縄イニシアティブ」はこうした軍事基地の使用価値から交換価値への成り上り=成り下りを追認し、合理化するきわめてイデオロギッシュな提言とみていいでしょう。提言者たちは日米安保の重要な役割を担う沖縄基地は、問うものではなく存在していることを前提にしています。ここで巧妙な論理の転倒がなされています。「歴史問題」の扱い方を見ても隠蔽と合理化の見本のようなものです。

 沖縄を編入するときグラフト国家が「継ぎ目」をうまく隠したように「沖縄イニシアティブ」は沖縄の歴史と経験を「幻想の共同体としての日本」へ接木し、その「継ぎ目」を隠す。要するに「沖縄イニシアティブ」と「グラフト国家」は相い補う関係にあると見ていいでしょう。インテレクチュアルな装いをこらしたソフトインペリアリズムの一つとみなしても間違いありません。結局のところ、日本の国家像を一緒に担っていくために「沖縄イニシアティブ」という「ソフト権力」を発揮していくということが彼らの言いたいことでしょうが、そこには国家に対する隠微な欲望と楽観がない混ぜにされています。

――95年以降、沖縄全体がうねりとして動いていたのですが、大田県政が敗れてからは全体の運動が崩れはじめ、革新市政が次々と消滅しているわけです。その一方で新川さんらが長年にわたり発言なさっている自立・独立論が、革新を支えていた層の受皿になりうるのでしょうか。

仲里 旧来の保守対革新という構図はすでに失効しています。新川さんの反復帰・反国家論はもともと沖縄革新の国家・国民幻想という形をとった同化思想の批判的な乗り越えでした。ただ、95年以降の沖縄の実践は、いわゆる「革新」という括り方には収まらない考え方や運動の幅をもっていることもたしかです。自立・独立論がそれらの新しい層も含めて「革新」の受け皿になり得るかと問われれば、私はまだ悲観的です。もし結びつく契機があるとすれば、それは国民・国家の臨界を双方が意識化した時でしょう。

――保革体制が崩れているというのは日本(ヤマト)においても見られる現象です。それに対して旧来の動員型の政治ではない、自発的な運動が環境や女性などを中心にして作られてきましたが、それもまた苦しい状況にある。

仲里 沖縄の第三の可能性があるとするならば、国家論を射程に入れることができるかどうか、いや、国民国家の臨界を、境界としての沖縄の位置から見定めることができるかどうかにかかっているのではないでしょうか。そうすることができれば、浸透する価値の荒廃や液状化した状況に句読点を打ってもう一つの流れを作り出すことができると思います。エコロジーやフェミニズムの理論と実践は、旧来にはない視界を広げ、関係のあり方を更新したことは否めません。問題はそれらのカウンター性が国民化の圧力にどれだけ抗し得るかでしょう。そのためには国家のグラフト性に敗れた敗北の構造を越えるものを手にすることができるかが問われます。言葉を換えて言えば、あらゆる領土的思考や国民的囲い込みから離れて、トランスナショナルな沖縄を理念として持ち得るかどうかです。飛躍した言い方になるかもしれませんが、例えばそれは沖縄の五十代の男性の自殺率が高いということをどう見るか、そこにどのような解答を与えるかということとも関わると思います。

――ところで、沖縄における政党はどのような役割を努めているのでしょうか。

仲里 その辺は私もよく分からないところです。沖縄社会大衆党が唯一土着政党として存在しますが、「復帰」前と後という区切り方をすると、沖縄社会大衆党はこれまで「革新共闘」のかすがいの役割を果たしてきたのですが、今や機能不全に陥りつつある。沖縄の政党も、72年の「復帰」によって本土との系列化が進んでしまった。私は既存の政党や組織に対してはほとんど絶望的な見方しかしていません。

――政党と政治的な知識人や政治思想を語る人が分離していることによって踏み込めなくなっているようにみえるのですが。

仲里 というよりは、政党地図に航海を託せないということでしょう。政党は政党指南する力を失っている。要するに<言葉>がないということです。「踏み込めなくなっている」ように見えるとすれば、地図を書き変える<言葉の力>が未だ生まれていない、ということでしょう。

**沖縄の唄者たちのしたたかさと、音楽・芸能文化の力**

――90年代は沖縄音楽ブームといわれました。沖縄でも自らのアイデンティティを次の世代に伝えていこうということで沖縄の音楽が盛んになりましたが、そういうことの背景をうかがいたい。また昨年の沖縄サミット時には、芸能人の役割についても議論がありました。サミットに迎合する芸能人はけしからんという意見もありました。でも、政治的スタンスとは別に、沖縄のアイデンティティを音楽によって表現することにたいへん真面目にとりくんでこられた方々はたくさんいると思うのですが。

仲里 戦後の沖縄の音楽シーンを私なりにおさらいすると、庶民の喜びや哀しみ、情愛を的確につかんだのが、民謡と沖縄芝居です。戦後間もない50年代から60年代にかけての民謡ブームは沖縄芝居と持ちつ持たれつの関係で受け入れられていきます。この期をリードしたのは、嘉手苅林昌・登川誠仁・喜納昌求・知名定繁・照屋林助などです。彼らの音楽には、復帰幻想に骨抜きにされた教職員など、当時のエリート層のブッキッシッュなこわばりにはない柔らかさがあった。その声と耳はしたたかです。
 60年代後半から70年代にかけては、テレビの普及や音楽の多様化、それは戦後世代の台頭によって、一時沈滞していくのですが、彼らの子の世代にリレーされることによって新しいスタイルを獲得していきます。この世代は親世代の音楽を新しく解釈することによって音楽のスタイルを確立していったことです。これが俗にいわれるオキナワン・ポップスです。彼らの音楽性が親の民謡と違うところは、アメリカ文化と出会い、それを確実にくぐったところで結晶化されているということです。嘉納昌吉は民謡をロック的に解釈しながら、あるいはロックを民謡にコンバインさせながら島唄を土着的なものから解放したといえます。その代表作が『ハイサイおじさん』です。知名定男の場合も、レゲエのリズムを取り入れながら響きを更新していった。その代表作が『バイバイ沖縄』です。照屋林賢もシンセサイザーや電気的な音源をうまく翻訳したりんけんスタイルというものを確立していきます。

 80年代に入って、さらに若い世代の台頭によって幅を広げ、90年代は、より多様な展開をみせている。こうした沖縄音楽の様相は実に興味深いものです。例えばそれは、音の世代間交通の問題としてだけではなく、引用と創造、融合と越境など、音楽におけるクリエーションのあり方としても一考に値します。トライデナショナルな音がちっとも古さを感じさせず、逆にフラッシュバック現象を起こしながら、新しい結晶体を生んでいく。沖縄音楽とアイデンティティの関係を論じるとすれば、そうしたクリエーションや運動する音の交通の問題としてみていかなければ、エキゾチシズムやブームとして消費されるだけでしょう。

 沖縄においては、ある意味では、言葉以上に音の力の方が強いと言えるかもしれません。

 サミット時の音楽イベントで問題になったことですが、あれをプロデュースしたのは『ナビィの恋』の監督です。そこに出演した沖縄の芸人たちもサミット賛歌のステージに立ったという意味で批判されなければならない面をもっていますが、もう少し細かく見ることも必要ではないでしょうか。一見するとサミットに取り込まれているように見せながら、それをずらしたり笑い飛ばす芸道を本能的に身につけている。彼らの唄には笑いや風刺の「毒」がある。もちろん消費はそれなりにされますが、しかし消費され切れないものを持っている。この「毒」に対して沖縄のインテレクチュアルなものはまともに渉りあうことができなかった。本当は、そういった「毒」を言葉の人たちがきちんと論じきればいいと思うのですが。

――映像の世界でも優れた作品が次々と登場していますね。

仲里 沖縄の芸能や音楽の力を映像に取り込んでいったのが高嶺剛です。その前に『ウルトラマン』を作った金城哲夫の試みがありますが、高嶺剛は、より踏み込んだ形で映画的に表現していきます。『ウンタマギルー』や『バライダスビュー』、最近の『夢幻琉球・つるヘンリー』などを見ればわかりますが、沖縄の芸や音楽が映像に異形の力を与えているのが分かります。その表現力の豊かさが硬直した<知>をはるかに凌いでいくものを引き出している。例えば『ウンタマギルー』の中で「インターナショナル」をウチナーグチで歌うシーンがありますよね。ああいう脱構築的な試みがなぜ沖縄の大衆運動の中で積極的に取り入れられないのか、『沖縄を返せ』などというくだらない唄ではなく(笑)、出てこなかったのか。あるいは沖縄の民謡のもつしたたかさの「毒」を実践の中にうまくトランスファーできなかったのか。そうなったらもっと変わったかもしれない。

 こういう言い方は、ないものねだりの感は否めませんが、復帰運動を担った教職員層や、いわゆる沖縄の「桃太郎」たちは、そうした沖縄の音楽や言葉や身体表現をむしろ抑圧する側にまわった。今ごろになって沖縄のアイデンティティだの、方言の普及だの、沖縄喪失の危機だのと声高に言い出すあたりは、茶番を通り越して愚劣である。戦争責任も、戦後責任も、そして復帰後責任も問わず、国家、国民化幻想に身を染めてきた彼等の責任は重いといわなければなりません。沖縄の島唄の歌い手や芸人たちは、そうした<政治>から遠く離れて、ただ身ひとつ、芸ひとつでこの世界と渡りあってきたのです。

――70年代では民謡など、沖縄独自の伝統的な芸能文化はあまりは表面に出ていませんでしたね。やはりそれも復帰後運動に関わることなのでしょうか。「よりよき日本人になるため」には民謡などは歌わない方がよいとされていたのでしょうか。90年代から民謡が表面的に出てきて、こんなに沖縄は豊かなところだったのかと目からうろこでした。
 ところで沖縄の唄者の方たちが竹中労のことを「労先生、労先生」と尊敬的に言うのを耳にしますが、竹中労は沖縄ではどのように語られているのですか。

仲里 大城美佐子さんも竹中さんの話題になると「労さんの恩を忘れてはいけないよ」と言いますね。沖縄の島唄が今ほどポピュラリティを持っていない時代に、竹中労は「風狂」や「情民」の世界に光を当てたのです。下積みで苦労してきた民謡歌手たちの生きざまとその唄の魅力をプロデュースし引き出したのです。そういう彼の眼力や果たした役割は無視出来ないものがあるといえます。

 ところで、沖縄では、『民謡の花束』(ラジオ沖縄)や『民謡で今日拝なびら』(琉球放送)というラジオ番組が、50年代からロングランで続いています。余談になりますが、私がまだ幼少の頃、島では夜になるとラジオの電波の状態が悪く、ノイズが多くなり、台湾放送や北京放送が入ってきますが、チューナーをゆっくりひねりながらノイズをかき分け島唄に耳を傾けていた親の姿が思い出されます。それだけ人々のハートをつかむものがあったということでしょう。飛躍した言い方になるかもしれませんが、沖縄の表現論も、そのようなところまで降りていくのでなければ本物ではないのかもしれません。

 新川明さんは、60年代に組合を作ったために、大阪支社に飛ばされたようですが、そのときウチナーグチをいっしょうけんめい学習したようです。親が教員だったせいでそれまで共通日本語しか使えなかったのです。今はなかなかのものです(笑)。それに民謡を聴いたようです。新川「反復帰・反国家論」にはそれまでの自己を解体構築し、沖縄の言葉や音のなかに織り込まれた<理>や<情>を迂回した自分史があったことは注目してもよいと思います。

−−沖縄の芸能表現のしたたかさが理解できたように思えます。今日はどうもありがとうございました。今後も幅広いご活躍に期待します。

[編集部注]
(注1)『甘蔗伐採期の思想』森秀人/現代思潮社63年(復刻・現代企画社90年)60年代の復帰運動の頽廃をすばやく見抜き、当時としては数少ない反復帰の思想を提起した秀作。当時、「沖縄奪還論」への痛烈な批判的武器となった。90年復刻版が登場し、あらためてその先見性を評価されている。
(注2)島尾敏雄 「死の棘」「島の果て」などで知られる小説家。「純文学の極北」とも評される、氏の作品世界は難解だが、「ヤポネシア」や「琉球弧」をはじめ氏の提起した概念は、今でも議論の対象となり、現代日本の文学・思想界に与えた影響はきわめて大きい。
(注3)『EDGE』12号 2001年春季号「想像の共同体……日本・<沖縄の子ら>はどのように日本人になったか/されたか!?」を特集、「復帰」前の教職員会による同化教育の実態を生々しく抉り出すとともに、当時の「沖縄の子ら」などの作文による貴重な「証言」を掲載している。
(注4)沖縄青年同盟 1971年10月、国会爆竹闘争やうちなーぐち裁判を闘った沖縄青年同盟は、沖縄出身労働者・学生によって「復帰」直前に組織された。70年に結成された沖縄青年委員会のメンバーのうち沖縄返還・奪還ではなく「返還粉砕・沖縄の自立解放」を掲げるグループが、沖青委海邦派となり、そして71年10月16日に沖縄青年同盟と改称した。来年5月15日に、沖青同の思想と実践に注目した沖縄の若い世代と元沖青同メンバーが共同で「資料集」を刊行する計画が進められている。
(注5)グラフト国家 吉本隆明が「南島論」で展開する国家論。グラフトとは接木のことで、まったく元の木とは関係なく、横あいからきて、元の木の群れを掌握し、統一させることが可能であり、種族が異なり、言語が異なり、風俗、習慣が異なるものが横あいからきて国家を掌握し統一する、そういう接木でできあがった国家をグラフト国家と呼ぶ。
(注6)沖縄イニシアティブ 昨年の三月、那覇市内で開かれた「沖縄フォーラム」(主催・日本国際交流センター)で、琉球大学の高良倉吉、大城常夫、真栄城守定の三教授が提唱し、その後沖縄タイムスで7回にわたって連載された沖縄の将来をめぐってのレポート。これをきっかけに、沖縄の知識人を広範に巻き込む大論争となった。仲里氏は高良氏を「沖縄の歴史と経験とは逆立した『新しい日本』へ亡命した国家主義者」と批判している。
(注7)嘉手苅林昌「島唄の神様」。竹中労にこういわしめた天才的唄者。戦後第一期の民謡ブームでは、早や弾きの達人、登川誠仁、知名定繁、嘉納昌永などと共にラジオやレコーダーを通じて大活躍した。99年10月没。
(注8)知名定男 知名定繁の息子でネーネーズのプロデューサー。第二期琉球フェスティバル再開の立役者でもある。宜野湾のライブハウス『島唄』で月一度程度ステージに立つ。
(注9)大城美佐子 62年「片思い」でデビュー。嘉手苅林昌の相方を長年務め、独特なハスキーな声で情唄を歌う。高嶺剛監督『夢幻琉球・つるヘンリー』では主演も果たしている。現在、那覇の民謡スナック『島思い』でステージに立つ。
(注10)竹中労 沖縄の民謡レコードを大量に東京にもちかえり、大島渚など映画関係者、音楽評論家などに沖縄民謡を紹介、74年8月の第一期琉球フェスティバルを立ち上げる。

なかざと・いさお 1996年1月、沖縄の文化情報誌『EDGE』を創刊。沖縄の思想・文化・歴史・映像・音楽などディープで多様な情報発信を続ける。1947年、沖縄・南大東島生まれ。
『月刊・情況』2001年11月号:特集−『自由論』と『「帝国」の文字』を考える−より


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