播  磨  鶴  林  寺

播磨鶴林寺三重塔

播磨鶴林寺三重塔

室町時代再建塔とされる。
文政10年(1827)大改修が行われ、初重はほとんど新材で補強されると云う。
一辺3.92m、高さ18m。
2、3重は室町期の特色が残されているとされ、特に外観では大きな逓減・軒の反り等が古式を伝え、堂々と安定している印象がある。
初重四天柱内に須弥壇を置き、大日如来を安置する。

2010/11/14撮影:
播磨鶴林寺三重塔11
播磨鶴林寺三重塔12:左図拡大図
播磨鶴林寺三重塔13
播磨鶴林寺三重塔14
播磨鶴林寺三重塔15
播磨鶴林寺三重塔16
播磨鶴林寺三重塔17
播磨鶴林寺三重塔18:相輪

先年火災で一部焼失(下に掲載)、昭和55年解体復元工事。

2001/09/01撮影:
 播磨鶴林寺三重塔1     播磨鶴林寺三重塔2    播磨鶴林寺三重塔3    播磨鶴林寺三重塔4    播磨鶴林寺三重塔5
2004/09/18撮影;
 播磨鶴林寺三重塔1     同          2     同          3    同          4     同          5
    同        6     同          7     同          8    同          9     同         10
2010/11/01追加:
 昭和33年鶴林寺三重塔:新聞写真
  ※2010/11/26追加:既に塔を取り巻く金属柵が取り付けられていることが分かる。

2010/11/25追加
◆昭和57年三重塔半焼:鶴林寺様ご提供情報
昭和57年8月夜半、放火により初重より出火、三重目屋根に穴があくほどの炎勢であった。
幸いにして塔の倒壊には至らず。火災報知器は作動するも、初期消火には間に合わず。しかし本尊大日如来は無事に搬出す。
当時、廻りに塀は無く、夜間の立入も可能であったが、その後文化財保護の観点から周囲に塀を廻らす処置をとる。
◆相輪改鋳
昭和25年相輪改鋳と云う。改鋳理由及び改鋳方針は不詳。
 ※2010/11/26追加:「日本の塔総観 近畿地方編増補改定版」より
   相輪は文政10年のものがつけられていたが、昭和22年突然折れ、昭和25年新鋳のものがつけられた。
旧相輪の一部が宝物館に残る。
 播磨鶴林寺旧相輪:水煙の一部と九輪の1個が展示される。
 

2010/11/25追加
鶴林寺古写真:古写真を除き写真は2010/11/14撮影:

1)「Y」氏ご提供古写真(絵葉書)

【1】明治30年代後半古写真

「Y」氏より、左の写真(絵葉書)の提供を受ける。
しかし、この三重塔がどこの寺院(社)の所蔵なのか不明であった。

まず現存する古三重塔で、この写真の境内雰囲気の中でかつ左に堂宇がある三重塔の例は殆ど見当たらない。
次に三重塔の立ち姿(注1)であるが播磨鶴林寺の塔に良く似ている。
しかし、左にある堂宇は不明である。播磨鶴林寺ならば左にあるのは土壌造の経蔵であり、写真とは全く異なる建物である。

ところで、この絵葉書の作成年はいつであろうか。
「Y」氏の絵葉書作成年の推定は以下のとおりである。
それは「明治33〜39年」であろう。
ただし、明治33年は私製絵葉書発行が許可された年でもあり、33年発行の絵葉書は非常に稀であることから、33年の可能性は非常に低い。
さらに絵葉書宛名面の書式から、上記の年と推定した訳であるが、まれには絵葉書製作社(者)の無知または法令無視により正規の形式を採らない絵葉書もあるため、絶対とはいえない可能性もある。
しかしながら、手彩色であること、全体的な雰囲気などから総合判断して、
まず「明治34〜39年」と判断して大過はないであろう と。

 (注1)直感的に、全体の印象・相輪の印象(注1-1)・本瓦葺きの屋根の印象は鶴林寺塔婆に似ている印象である。
初重切れ目縁、東正面の石階、石積と思われる基壇、2重及び3重の縁下の組物の形状、初重東正面及び南面の各間の構成などまず鶴林寺三重塔と同一と判断できる。
 (注1-1)相輪は前述のように、後年改鋳される。(改鋳の方針 ・・古いものと同型にするのかなど・・は情報が無いため分からない。)

2)【1】写真の左右反転

三重塔の立ち姿が播磨鶴林寺塔婆に似ていることと鶴林寺には塔右(北)に常行堂があることから、
上記写真を左右反転させたものが次の写真である。

【2】三重塔左右反転写真:下図拡大図

  【3】鶴林寺三重塔同一構図1:下図拡大図
       :左図とほぼ同一アングルの2010/10月撮影写真

 【4】鶴林寺三重塔同一構図2: 【3の写真と同様に【2】の写真とほぼ同一アングルの別の写真
  ※なお、上の写真には、手水舎が写るが、手水舎は平成11年の再建落慶、それまでは舎屋が無かったと云う。・・・鶴林寺様ご提供情報

三者の写真の樹木の状態(注2)が違うので見難いが、塔婆と参道及び一対の燈籠(注3)との位置関係はほぼ同一であると判断できる。
即ち、塔と参道及び一対の石燈籠との関係は、【2】の写真が鶴林寺であることを示している。

 (注2)【2】の写真の中央で塔の二重目まで被る若木があるが、それが【3】の写真の中央で塔の初重・二重を覆う樹木であろう。
この樹木は成長の遅い潅木類かも知れない。 (樹種の確認は失念)
また【3】の写真の石燈籠に被る樹木及びその背後の樹木は黒松で、黒松類の成長速度は一般的に早いと云われることを考慮すれば、【2】の写真の時代には全く無かった樹木 (黒松)でも、数十年の歳月があれば、十分写真に写るような樹高に成長するのであろう。
   (逆にこのことが【2】の写真の「古さ」を物語るのであろう。)
 (注3)仁王門から本堂に向かって、南北に一直線に参道がある。門・本堂の位置は建立年から見て、中世末から同一であろうから、参道も中世から現在までその位置は同一であろう。
石燈籠の年紀は探した限りでは見当たらない。しかしその磨耗具合などから見て、近世のものであることは間違いはないであろう。
因みに本堂直前の一対の石燈籠は昭和62年奉納であり、これと写真の石燈籠を見比べれば「古さ」はすぐに肯定できる。
つまり、古写真も最近の写真も、少なくとも近世以降不変と思われる参道・石燈籠が写っていると云うことになる。

以上の対比で、【2】の左右反転させた写真は播磨鶴林寺境内の三重塔であることはほぼ確定的であろう。

3)【2】写真三重塔右の堂宇について

【2】の写真の右(北)に堂宇が写るが、この堂宇は現在三重塔の北にある常行堂(重文)なのであろうか。
それは否である。
まず、【2】の写真の堂宇南面は5間であろう。ところが常行堂(播磨鶴林寺常行堂11)の南面は4間であり、 しかも柱間装置も明らかに違う。
さらに、【2】の写真では塔と堂宇は屋根を接するように見えるが、塔と常行堂の位置関係(注4)を考えれば、この撮影角度では、決してこれほど接近するように撮影はできない。 つまりは常行堂では有り得ない。
それでは、【2】の写真の右(北)に写る堂宇は一体何なのであろうか。

 (注4)塔と常行堂の現在の位置関係は以下を参照
  播磨鶴林寺伽藍俯瞰:「刀田山鶴林寺」刀田山鶴林寺、発行年記載なし より転載
  播磨鶴林寺伽藍空撮;Yahoo地図 より転載

ここに明治後半と推定される絵図(「播州刀田山鶴林寺略図」がある。

播州刀田山鶴林寺略図:左図拡大図
 :「刀田山鶴林寺」刀田山鶴林寺、発行年記載なし より転載
この図の作成年代(注5)は不明であるが、南から塔・新薬師堂・常行堂が軒を接するように南北に一直線に並んでいた時期があったことが推定される。

以上の当否を鶴林寺様に確認したところ以下の教示を得る。
即ち
新薬師堂はその創建の時から塔と常行堂の間にあったが、昭和27年防災上の理由で現在地に曳屋(移動)させた と。
2011/10/22追加:
「はりまの名刹−刀田山鶴林寺」兵庫県立歴史博物館、1991 より
 この「略図」は兵庫県立歴史博物館蔵、木版墨摺、37×51cm、明治後期(明治21年山陽鉄道開通以降)
 「新薬師堂は・・・・昭和27年に防災上の理由から現在地に移築された。」との記載がある。
 ※鶴林寺様ご教示と上記の記載の前後関係は不明である。

以上であるので、 この「略図」の推定作成年代=明治後期(注5)と【2】の写真の推定作成年(明治34〜39年) とを考慮すると、【2】の写真に写る堂宇は新薬師堂と断定できる。
つまりこの「略図」のような配置であれば、【2】の写真のような構図が撮影可能となる。

事実、【2】の写真の堂宇の南面は5間であり、新薬師堂南面(播磨鶴林寺新薬師堂2)も5間であり、柱間装置もほぼ同一と見て取れる。
ちなみに、【2】の写真とほぼ同一の角度で現在の新薬師堂を撮影した写真が(播磨鶴林寺新薬師堂3)である。
このことからも、この写真の堂宇は新薬師堂と断定できる。
 新薬師堂:巨大な薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将を祀る、津田三碩の寄進と云う。
  これ等諸仏安置のため、新薬師堂は延宝6年(1678)三碩による建立と伝える。
2013/09/10追加:
○「週刊 古寺をゆく 43 圓教寺・鶴林寺」小学館、2001 より
津田三碩は慶長17年(1612)武蔵府中の生まれで、大坂西成の名医で、茶人でもあった。
三碩は聖徳太子の寺である鶴林寺の本尊薬師如来に深く帰依し、鶴林寺本尊薬師如来が秘仏で60年に一度の開扉であることを残念に思い、毎日拝参できるように薬師如来像及び薬師堂を寄進する。これが現在の巨大な薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将及び新薬師堂である。
奉納されたのは延宝6年(1678)であるが、三碩はその4ヶ月前になくなると云う。

 (注5)「播州刀田山鶴林寺略図」の製作年は不明(年紀などが無い)であるが、以下のように推定できる。
上部左に加古川駅停車場が描かれる。下記の<年表>のように、加古川駅開業は明治21年であるから、この絵図の作成年の上限は明治21年前後であろう。
一方、この当時、鉄道の敷設は近代化の重大な出来事と推測されるが、もし下に示す<鉄道年表>にある播州鉄道線が開通していれば、はるか北方の加古川駅を描くくらいであるから、「重大な出来事」として、播州鉄道あるいは鶴林寺南に位置した「北在家駅」などを描いてしかるべきと推測される。
しかしながら、全くその形跡がないので、作成年の下限は、播州鉄道敷設前の大正3年であろう。
以上が正しいものとすれば、
奇しくも、この絵図の作成年代と【1】の「明治30年代後半古写真」の撮影時期は、ほぼ同時期のものと推定される。
 <加古川の鉄道年表>
  加古川駅は明治21年12月山陽鉄道加古川駅として開業。(明治39年山陽鉄道国有化。)
  大正2年播州鉄道加古川町駅開業。(加古川町駅は後に国鉄加古川駅に統合)
  大正3年播州鉄道加古川町駅 - 高砂口駅間が開業。(後の国鉄高砂線)
   ※播州鉄道(後の国鉄高砂線)は鶴林寺の南東を掠めるように線路が敷設される。
   ※鶴林寺駅開業は昭和30年、戦前には付近に北在家駅があった。

○2011/10/22追加:
「加古川市史 巻5」1987 より
下に掲載の寛文12年(1672)「浜宮・鶴林寺・尾上神社絵図」でも、常行堂・新薬師堂・三重塔が軒を接するように並んで建つ様が分かる。
上掲の明治末期「播州刀田山鶴林寺略図」と合せ考えると、少なくとも江戸初期から明治末期までは新薬師堂は常行堂と三重塔に軒を接するようにあったと推定できる。
 浜宮・鶴林寺・尾上神社絵図1:鶴林寺部分図
  本堂参道西側には北から常行堂・新薬師堂・三重塔が軒を接するように並んで建つ様子が描かれる。
 浜宮・鶴林寺・尾上神社絵図2:トレーズ鶴林寺部分図
  瑠璃殿(本堂)左右には廻楼が常行堂、法華三昧堂に延びる、常行堂は東照大権現、太子堂は法華三昧堂とある。

4)松岡青羅句碑・他

【2】の写真の左端に「石碑」らしきものが写る。
これは今も現地にある松岡青羅句碑とほぼ断定できる。
 松岡青羅句碑:右が松岡青羅句碑、中央は青羅句碑の顕彰碑?、左は鶴岡三二の墓碑
この特徴的な形から、【2】の写真の左端に写る「石碑」らしきものは、現存する青羅句碑であることはほぼ間違いないであろう。
当然この青羅句碑は【2】の写真で写る位置に今も存在する。
このことも【2】の写真が鶴林寺であることの有力な傍証となる。

  ●松岡青羅:
 元文5年(1740)〜寛政3年(1791)、姫路酒井家藩士であったが(勤務状況不良で)馘首され、俳人となり諸国を遍歴す。加古川にも住居す。
 この句碑には「春の海 鶴のあゆみに 動きけり」とある。
 青羅句碑の裏面には寛政壬子(4年)夏(1792)・・建立とあるので、歿後翌年に建立されたのであろうか?
  ●鶴岡三二墓;
 弘化3年(1846)の年紀がある。【2】の写真には写っていないが、弘化3年からこの場所にあったのであれば、
 たまたま樹木の陰になり、写らなかったように見える。
 鶴岡三二は浄瑠璃三味線方で鶴沢蟻鳳を名乗る、初代・2代が同名で襲名し、この墓の人物が初代なのか2代なのかよく分からない。
  ●中央の顕彰碑?:
 彫りが浅く十分な判読ができない、昭和三?の年紀があるので、明治末期の【2】の写真には当然写らない。

その他
【2】写真の塔東面石階は切れ目椽に達する6段のように見える。現在塔東面石階も切れ目椽に達する6段である。
これも傍証の一つになり得るであろう。

鶴林寺古絵図

○2011/10/22追加:
「加古川市史 巻5」1987 より
 浜宮・鶴林寺・尾上神社絵図1:鶴林寺部分図
  本堂参道西側には北から常行堂・新薬師堂・三重塔が軒を接するように並んで建つ様子が描かれる。
 浜宮・鶴林寺・尾上神社絵図2:トレーズ鶴林寺部分図
  瑠璃殿(本堂)左右には廻楼が常行堂、法華三昧堂に延びる、常行堂は東照大権現、太子堂は法華三昧堂とある。
 浜宮・鶴林寺・尾上神社絵図3:全図、新野辺町内会所蔵
  寛文拾弐年(1672)の年紀がある。なお浜宮は住吉明神を祀り、本地堂・釣鐘堂などがある、末社にも本地堂がある、
  尾上神社は尾上住吉大明神と呼ばれ、やはり本地堂・釣鐘堂などがある。
○播磨名所巡覧圖會:巻之2より:文化元年(1804)刊
 記事:「三層宝塔(高さ十三間半、東向きなり)」
  刀太山鶴林寺全図:2010/11/05画像入替           同    部分図
 2010/11/24追加;新薬師堂に注目すれば、本堂西に常行堂(宝形造として描かれる理由は不明)、その南にあるのが新薬師堂であろう。
  新薬師堂と大日塔との距離が随分あるように描かれるが、これはこの図の精度に問題があるのであろう。
○2010/11/05追加:
 鶴   林  寺:「摂播記」寛政元年(1789):
  2011/10/22追加:本堂の西に北から常行堂・新薬師堂・宝形小宇(堂名不明・下に掲載の「浜宮・鶴林寺・尾上神社絵図」で云う
   地蔵堂であろうか)・三重塔と並ぶが、堂宇の距離間隔の性格性には疑問がある。
 刀  田 晩 鐘:「十二景詞歌」文化11年(1814)
  2011/10/22追加:本堂の西に北から寄棟堂が1宇、三重塔が描かれる。新薬師堂の創建は延宝6年(1678)とされるので、
   常行堂・新薬師堂・三重塔と並ぶはずであるが、寄棟堂が1宇というのは不審である。
 刀田山鶴林寺:「日本真景・播磨・垂水名所図帖」大正〜昭和初期
○2010/11/25追加:
 播州刀田山鶴林寺略図:上に掲載:詳細は上述を参照、明治21年頃〜大正3年頃の間の製作か。
西に普賢院、光明院、北に浄心院(現存)、宝生院(現存)、慈恩院(跡地には宝物館が建つ)、真光院(現存)、持?院の7ヶ院が描かれるが、この当時の寺中の様子は情報が無く不明。
  2011/10/22追加:持?院は持善院である、現存する浄心院、宝生院、真光院以外は明治維新で廃絶と思われる。
経蔵の北に「塚」とあるのが、特徴的な形から、青羅句碑で、その左にある碑は鶴岡三二墓と推定できる。

鶴林寺概要

鶴林寺縁起では高句麗僧・恵便が物部守屋の迫害により播磨に身を隠していた時、聖徳太子が訪れ教えを受ける。
後に太子は秦川勝に命じて精舎を建立し、四天王寺聖霊院と号すと伝える。
養老2年(718)武蔵の国司「身人部春則」が太子の威徳顕彰の為七堂伽藍を建立する。
貞和5年(852)円仁、当寺に立ち寄り諸堂を修理する。この時以降天台宗を奉ずる。
 ※但し、古代の史料は伝来していないと云う。
天永3年(1112)鳥羽天皇の勅により「鶴林寺」と改号する。(この年に現存する太子堂が建立される。)
中世の最も盛んなときは寺坊30数ヶ院、寺領25,000石と伝える。
近世には8ヶ坊、117石になり、明治維新後は宝生院・浄心院・真光院の3ヶ院、15,000坪に減じた。
しかし現在も西国では屈指の古文化財を有する寺院である。
現伽藍として
本堂(応永4年<1397>・国宝・7×6間・折衷様の代表建築とされる)、太子堂(天永3年<1112>、1間四面堂正面庇付き・国宝)、
常行堂(平安・重文 ・3×4間・四注造)、鐘楼(応永14年<1407>・重文)、護摩堂(永禄6年<1462>・重文)、
行者堂(応永13年 <1406>・重文・明治維新前は山王権現社であった)、
仁王門(室町)、新薬師堂(延宝6年<1678>)、観音堂(宝永2年<1705>)、経蔵等を有する。
2001/09/01撮影:
 播磨鶴林寺本堂1     播磨鶴林寺本堂2     播磨鶴林寺本堂3     播磨鶴林寺太子堂1     播磨鶴林寺太子堂2
2004/09/18撮影;
   同     本堂1      同     本堂2      同      本堂3      同       本堂4
   同  本堂太子堂      同     太子堂1      同     太子堂2      同     太子堂3
   同     常行堂      同        鐘楼      同       護摩堂      同      行者堂

2010/11/14撮影:

播磨鶴林寺本堂11
播磨鶴林寺本堂12:左図拡大図
播磨鶴林寺本堂13
播磨鶴林寺本堂14
播磨鶴林寺本堂15
播磨鶴林寺本堂16
播磨鶴林寺本堂17
播磨鶴林寺本堂18
播磨鶴林寺太子堂11
播磨鶴林寺太子堂12
播磨鶴林寺太子堂13
播磨鶴林寺太子堂14

播磨鶴林寺常行堂11
播磨鶴林寺常行堂12

法華堂・常行堂が並び建つのは天台伽藍を特徴づける最も顕著なものの一つであるが、ここ鶴林寺にはその最古の例が残る。
※現在の太子堂は元の法華堂である。

 播磨鶴林寺行者堂11    播磨鶴林寺行者堂12    播磨鶴林寺行者堂13
 播磨鶴林寺鐘楼11       播磨鶴林寺鐘楼12       播磨鶴林寺鐘楼13
 播磨鶴林寺仁王門11     播磨鶴林寺観音堂11     播磨鶴林寺新薬師堂1     播磨鶴林寺新薬師堂2
 鶴林寺寺中浄心院        鶴林寺寺中宝生院       鶴林寺寺中真光院

参考文献:
「刀田山鶴林寺」島田清、平成7年
「刀田山鶴林寺」刀田山鶴林寺、発行年記載なし
「鶴林寺とその全盛時代」刀田山鶴林寺、法蔵館、2009


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