★仏生山五重塔
仏生山法然寺は寛文8年(1668)、讃岐高松藩祖松平頼重(徳川頼房長子、徳川家康孫、養珠院孫)の中興と云う。
頼重は再興開基した仏生山に、仏舎利を安置する五重塔を発願するも、願いは成就せず逝去すると伝える。
今般法然上人の800年遠忌(頼重は300年遠忌)に閲し、頼重寄進の仏舎利を奉安する五重塔建立を企画し、頼重の発願が2011年遂に成就する。
※建永2年(1207)法然上人小松庄生福寺に配流、生福寺跡を高松藩祖松平頼重が再興、代々の菩提寺とする。
※小松庄生福寺は現在の仲多度郡まんのう町羽間2655にあった。(現在は西福寺がある。)
2015/06/21撮影:
2017/12/17撮影:
●五重塔関連情報
◇大成建設のサイトより
・その1
初重内部には四天柱が立ち、頼重奉納の仏舎利は、心柱の手前に安置されると云う。
初重平面図・立面図 五重塔初重完成図
五重塔模型(雛形):スケール1/40が存在すると思われる。
法然寺五重塔模型
◇大成建設のサイトより
・その2
仏生山五重塔正面図
仏生山五重塔立断面図
仏生山五重塔心礎礎石:2011/05/06追加
◇大成建設のサイトより
・その3:2011/05/06追加
ここには五重塔施工の写真がある。その中から以下十数点をピックアップする。
初重全景 肘木取付 鬼枓取付 軒支輪取付
木負・地垂木取付 茅負・飛簷垂木取付 茅負継手 茅負反り
桔木取付 五重椽取付 隅鬼瓦取付 相輪取付
◇過去の掲載情報
讃岐法然寺五重塔立面図1:大成建設のサイトより
讃岐法然寺五重塔立面図2:仏生山法然寺のサイトより
★仏生山法然寺概要
写真は2015/06/21撮影:
◇仏生山伽藍
○法然寺発行「リーフレット」 より
法然寺境内図
○YahooMap より
法然寺空撮Yahoo:二尊堂がまだ写る。二尊堂は2014/01/13火災焼失する。
○GoogleMap より
法然寺空撮Google;二尊堂は既に焼失し、礎石や基壇が露出する。
仏生山伽藍1 仏生山伽藍2 仏生山伽藍3
◇地蔵堂:総門前にあり、見返地蔵堂と称する。
3間四方の妻入り寄棟造。本瓦葺き。建物自体はそんなに古いものではないであろう。石造地蔵尊を祀る。
地蔵堂 地蔵堂地蔵菩薩
◇総門:柵門
総門1 総門2
◇十王堂:桁行11間(庇7間)、梁間4間、入母屋造、本瓦葺き。寛文10年(1670)建立。
十王:秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・
泰山王(四十九日)・平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)を祀る。
十王堂1 十王堂2 十王堂3 十王堂閻魔王 十王堂十王1 十王堂十王2
◇黒門:大門、昭和62年事故によって倒壊、平成2年再建。但し建物自体は寛文年中のものと推定される。1間高麗門、切妻造、本瓦葺き。
ここから仁王門を経て般若台に至る路、涅槃門を経て三佛堂に至る路、本堂門を経て本堂に至る路に分岐する。
黒門1 黒門2
◇仁王門:三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺き。安置する仁王像は延宝2年(1674)京都大仏師赤尾兵部らによって造立(銘文)という。
仁王門1 仁王門2
◇唐門(四天王門)・四天王堂:今は礎石のみ残る。退転時期・理由などは不明。
今正面1間側面2間で石敷土間と思われる遺構が残る。この遺構は唐門跡であるが、四天王堂跡は探究せず、遺構の残存は不明。
四天王堂安置四天王像4躯は今三佛堂庇部に安置される。
唐門跡1 唐門跡2
旧四天王堂安置持国天立像 旧四天王堂安置多聞天立像 旧四天王堂安置広目天立像 旧四天王堂安置増長天立像
◎唐門・四天王堂旧状
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「仏生山」昭和11年 より
仏生山唐門:左図拡大図
昭和11年以前の写真、唐門は一間一戸の四脚門で、屋根は切妻造、千鳥破風及び軒唐破風を付設する。この千鳥及び軒唐破風が後にも付設していたのかどうかは不明。向かって左は判然とはしないが右前方には四天王堂が写る。
法然寺之図
向かって左側に手前より黒門・仁王門・四天王堂/唐門、二尊堂、文殊楼・来迎堂・般若台が一直線に描かれる。
やや絵図は判然とはしないが、唐門の手前左右に四天王堂2棟が建っていたように見える。 |
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「最新讃岐遊覧案内」森一紅、大正14年 より
仏生山唐門/四天王堂:
左図拡大図
唐門の前左右に入母屋造の四天王堂2棟が写る。 |
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◇二尊堂:2014/01/13火災焼失、今は礎石などの遺構のみ残る。
二尊堂跡1 二尊堂跡2 二尊堂跡3
◎二尊堂旧状については、以下のような情報がある。
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○ブログ:法然寺二尊堂の全焼について―まとめ―
に二尊堂及その焼失写真がある。(寫眞及び記事転載)
法然寺二尊堂21
法然寺二尊堂22
二尊堂釣仏壇:左図拡大図
二尊堂釣仏壇天井画
焼失二尊堂23 焼失二尊堂24 焼失二尊堂25
焼失二尊堂26 焼失二尊堂27
焼失二尊堂28:この写真は釣仏壇の焼失部分である。
焼失二尊堂29 |
二尊堂はいわゆる割拝殿形式をとり、中央が通路である。
通路の土間部分に切石を敷きつめ、周囲を円柱で囲み仏堂風に作り、その奥に釣仏壇をしつらえて、阿弥陀・釈迦の二尊を祀る。
円柱には粽を付け、大虹梁を梁行に架け、大瓶束で母屋桁を受けて二尊の前の空間を確保する。
土間部分両側は一段高くして拭板敷とし、仏像等を安置する。
(かつては祖師像が安置されていたが、三仏堂に場所を移動している。火災当時は、中央南側の間に十王像等、北側の間に箱を置いていたとの情報あり。)
正面中央部には桟唐戸を吊り、両脇間は花頭窓とするなど禅宗様の造作である。
正面三間には向拝を付設するが、中央の手挾みは新しく、当初は軒唐破風を付けていたものと思われる。
側回りの柱間は蔀・格子・板壁などで閉ざし、外観は古風である。 |
◇文殊楼(鐘楼門):三間一戸楼門、入母屋造、屋根本瓦葺き。寛文10年(1670)建立。
下層正面天井近くに仏壇を設け文殊菩薩を祀っていたことに由来する。また上層には梵鐘を吊る。また下層両脇には梵天・帝釈天を祀る。
文殊楼1 文殊楼2 文殊楼3 文殊楼4 帝釈天立像 梵天立像
◇来迎堂:方3間宝形造、一重裳階付設、裳階正面屋根は唐破風付、屋根銅板葺き。寛文10年(1670)建立。意匠は禅宗様を用いる。
阿弥陀如来及び二十五菩薩を祀る。
来迎堂1 来迎堂2 来迎堂3 来迎堂4 来迎堂5
来迎堂向かって右に納骨堂がある。
納骨堂
◇般若台;高松藩主松平氏一門の墓所である。
般若台門1 般若台門2 般若台門内
◇校倉:古寶蔵、校倉式建築で俗に釘なし堂と云ひ堂内に 宗祖法然上人及び親鸞上人の御影を秘蔵す。
校倉1 校倉2
◇涅槃門:八脚門、切妻造。寛文年中(1611-73)の建築と推定される。
涅槃門
◇三仏堂:涅槃堂、正面3間側面4間の宝形造、一重裳階付設、向拝1間向唐破風造、身舎屋根銅板葺き、裳階本瓦葺き、向拝銅板葺き。
寛文10年(1670)建立。
阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒菩薩の三仏と釈迦涅槃像及び十大弟子などを祀る。
三仏堂1 三仏堂2 三仏堂3
三尊像・涅槃像 涅槃像1 涅槃像2 涅槃像3 涅槃像4 涅槃像5
◇祖師堂
祖師堂
◇良忠院:安産守護
良忠院
◇宝蔵か
宝蔵か
◇本堂門:四脚門、本瓦葺。寛文年中(1611-73)の建築と推定される。
本堂門1 本堂門2
◇弘法大師堂
弘法大師堂
◇本堂:明治40年再建、平成3年改修。法然上人自作という阿弥陀如来立像を祀る。本像は生福寺から伝来したと云われる。
本堂1 本堂2 本堂内部 阿弥陀如来立像
◇大庫裡:寛文年中(1611-73)の建築と推定される。
大庫裡
◇玄関・書院:寛文年中(1611-73)の建築と推定される。
玄関 玄関・書院
◇御霊屋
御霊屋
2011/05/05作成:2018/01/08更新:ホームページ、日本の塔婆
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