とうのはる はいじ
  48.塔原廃寺


  県道福岡−二日市線の塔原交差点の傍らに塔の心礎(しんそ)が残っています。塔心礎は塔の中心に立つ柱(心柱(しんばしら))がのる礎石で、中心に円形の抉り込みをもつのが特徴です。この塔心礎については古くから注目されており、江戸時代に貝原益軒(篤信)の著した『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』にもそのことが記されています。当時、原っぱのなかに此の心礎があったのでしょう。彼は「今に礎のこれり、其所を今も十王堂と言う。むかし此所に塔あり。遠くより能見ゆ。此塔ある故に塔の原といひしとかや。」と記しています。塔の建物には心礎を中心にして周囲に16個の礎石が必要であり、心礎は他の礎石より一回り大きく円形の抉り込みがあることから一目でそれと分かります。益軒が見たときには心礎のほかに幾つかの礎石が残っていたのかもしれません。10年頃前までは周囲は田んぼで、その中に心礎があり、塔原の地名の起こりともなった理由が偲ばれたのです

が、現在では建物が密集して昔の面影はなくなってしまいました。  心礎は、かつて此処に寺があり塔が建っていたことを証明する重要な資料の一つと言えます。廃寺となって、他の礎石は後世に持ち去られたりして失われる事がありますが、心礎だけはその場所に残される事が多いのです。それは心礎が他の礎石に比べて一回り大きく、運ぶのに困難であったことや宗教上の理由によるものと考えられます。塔原廃寺の調査は1966年に実施されており、その調査結果によると、この心礎は移動していることが判明しました。しかしながら、移動したにしてもそんなに遠くから運ばれたのではなく、この近くにあったことは確かでしょう。
  塔は古代の寺院の建物の中では最も大切な建物でした。塔には釈迦の遺骨(舎利(
しゃり))が納められていたからです。塔原の礎石には、中央に一辺19.7p、深さ1.8pの方形孔と、さらに13.9cm、深さ13.9cmの方形孔が設けられています。
  



 
  

 このような二段になった方形の舎利孔をもつものは九州ではこの塔原廃寺と上坂(かみさか)廃寺(福岡県豊前市)の二例しかなく、極めて珍しいものです。塔心礎とともに、この寺跡を特徴づけるものに出土した瓦があります。この瓦は奈良県の山田寺跡から出土した瓦に類似しており、九州では小郡市の井上廃寺から出土した瓦にこの系統のものがみられます。軒丸瓦は縁に三重の圏線を巡らし、また軒平瓦は三重ないし二重の弧文を施した古式の文様をもっています。

は塔心礎が残っており、1979年と1988年の発掘調査により塔の基壇とそれに先行する7世紀後半代の掘立柱建物が確認されている)説がだされました。その後、小田富士雄氏によって出土した瓦の年代や心礎の様式等から、この塔原廃寺は創建期の般若寺にあたり、その後太宰府市所在の般若寺に移転したとする説がだされました。そして蘇我臣身刺(ムサシ)=武蔵寺に通ずることから、字名を継承して再興されたと考えられています。
  因みに、山田寺は大化改新で中大兄皇子と共に力を尽くした蘇我倉山 

 
▲上坂廃寺心礎
 ▲塔原塔心礎    
▼塔原廃寺 軒丸瓦

▲山田寺  軒丸瓦
  塔原廃寺については以前より『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』(聖徳太子の伝記を書いたもの)の裏書きに筑紫大宰帥蘇我臣日向(ちくしだざいのそちそがのおみひむか)(身刺(むさし))が白雉(はくち)5年(654)に孝徳天皇の冥福を祈って「般若寺(はんにゃじ)」を建立したことが記されており、この「般若寺」との関連で注目されてきました。般若寺については江戸時代以来、奈良市所在の般若寺と考えられてきましたが、昭和8年に福山敏男・田中重久両氏によって太宰府所在の般若寺(現在、ここに 田石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)が建立したものです。日向身刺は石川麻呂の異母弟になりますが、石川麻呂を死に追いやった人物でした。身刺の讒言(ざんげん)はそれが間違いであったことが分かり、身刺は大宰府に左遷されました。先に述べたように般若寺跡の調査が実施されているのですが決定的な結論を得るまでには至っておりません。塔心礎や出土瓦は蘇我氏との関係の深さを物語っているようです。そして、塔原廃寺がその重要な鍵をもっていることは確かでしょう。
              (横田賢次郎)

註〉
   山田寺の軒丸瓦については『畿内と東国の瓦』京都国立博物館編より複写載
   上坂 廃寺の塔心礎の写真は故酒井仁夫撮影のものを借用した。  
〈参考文献〉
 小田富士雄他『塔原廃寺』福岡県文化財報告書35 福岡県教育委員会 1967
 小田富士雄「筑前塔原廃寺」『九州考古学研究−歴史時代篇』学生社 1977
 高倉洋彰他『般若寺跡』九州歴史資料館  1980.1988