遠  江  頭  陀  寺  三  重  塔

遠江頭陀寺三重塔

頭陀寺の古絵図

◆「東海道名所圖會「(挿絵はなし)
 遠江頭陀寺:
記事:「青林山と号す。古義真言宗、高野山法性院の末派なり)
本尊薬師仏、阿弥陀堂、三層塔(大日尊を安ず)、仁王門、勅額「頭陀寺」(この仁王門に掲くる。「三代実録」に曰く「貞観5年遠州頭陀寺を以って、定額に預かる」)護摩堂、僧院は千手院、実相院、円成院、安養院、東光院、成就院、往古坊舎あまたなり、今6坊存す。

◆「東海道分間延絵図」第十一巻より

東海道分間延絵図(頭陀寺)

薬師堂、阿弥陀堂、地蔵堂、三重塔、仁王門、大仏、弁天、三社などの堂塔と千手院、円成(乗)院、安養院、実惣(相)院の坊舎が描かれる。

2008/07/21追加:
御巡幸御道筋絵図」:明治帝の巡幸は明治11年:静岡県立中央図書館蔵

※頭花寺とあるが、頭陀寺の誤字であろう。

御巡幸御道筋絵図1:浜名の部分図、頭陀寺は中央の下にある。

御巡幸御道筋絵図2:浜名の部分図、上図の天地反転・拡大図
 左はその頭陀寺部分図

頭陀寺古写真

○「頭陀寺絵葉書」:勿論戦前のものであるが年代は不詳:本人(s_minaga)蔵:2012/01/25追加
 2016/09/05追加:本絵葉書の年代推定:
  公式に従えば、表面の通信欄の罫線がない。→ 明治6年(1873)〜明治40年(1910年)3月までの形式であり
  さらに表面の「きかは便郵」→ 明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月とされるので
  本絵葉書は公式に従えば、明治33年〜明治40年のものと推定される。

頭陀寺絵葉書(全体)

頭陀寺絵葉書(全体):上図拡大図
<浜松近郊 史跡頭陀寺>とある。
 

頭陀寺絵葉書(部分)

頭陀寺絵葉書(部分):左図拡大図
 :左図「頭陀寺絵葉書」
  の三重塔部分図

○「写真集 浜松今昔100景」羽衣出版、1998 より:2012/01/13追加

 遠江頭陀寺三重塔01:左図拡大図:昭和10年頃との注釈がある。

「図説ふるさとの歴史シリーズ1 浜松・浜名湖周辺 上巻」郷土出版社、1992 より
 遠江頭陀寺三重塔02:上の写真<01>と同一のものと思われる。
屋根杮葺。


○「曳馬野 第11号」静岡県立浜松北高等学校歴史クラブ、2003 より:2012/01/13追加


 遠江頭陀寺三重塔03:左図拡大図:上掲写真とほぼ同一アングルであるが、やや西よりからの撮影であろう。
また本堂の屋根形状が写る。これは「東海道分間延絵図」の形状を彷彿とさせる。

 頭陀寺仁王門01:屋根杮葺。二階には勾欄を付設した椽が廻る。門正面には「頭陀寺青林山」の金箔扁額を掲げる。


○「浜松古跡図絵」神谷昌志、明文出版社、1987 より:2012/01/13追加


 遠江頭陀寺三重塔04:左図拡大図
昭和初期の写真、屋根は杮葺、三河三明寺三重塔と形式が似る。

 頭陀寺楼門02:仁王門、昭和初期の写真、江戸中期(宝永年中1704-)再建のもの

頭陀寺概要

○「戦国時代における寺院の一例について-特に頭陀寺を中心としてー」佐藤行信(大正大学研究紀要61、1975 所収)
高野山真言宗、本尊薬師如来、開山は空海と伝えるも、創建は不明。
貞観5年(863)定額寺に列する。
戦国期初期には寺域を利用して城郭が構築されていたと云う。
 ※永禄7年(1564)、当時の曳馬城主飯尾連竜が家康に通じ、支城の頭陀寺城も今川氏真の攻撃を受け焼失、廃城になったと伝える。
 この乱で12坊が焼失し、堂宇が大破する。
天正18年(1590)豊臣秀吉朱印状:寺領は200石、その配分は院主領(20石)、東光坊、宝生坊、実惣坊(以上各坊20石)、宝蔵坊、永東坊、安養坊、蓮光坊、成就坊、中坊、円成坊、千手院(以上各坊9石)、本尊修理領(39石)であった。
坊屋敷は2500坪。また徳川期を通じて200石の寺領は安堵されると云う。
その後震災・水害で衰微し、明治11年再興されるも、昭和20年の空襲と艦砲射撃で全焼する。
 (三重塔・本堂・仁王門など、昭和20年の空襲で全て焼失する。)

○「日本社寺大観 寺院篇」昭和8年:
本堂、仏殿、三重塔、行者堂、庫裏、御影堂、仁王門などあり。

2006/07/27追加:
○「浜名之栞」斎藤源三郎、明44.9 より
頭陀寺
「・・・青林山と称す、文武天皇大宝3年、海底より薬師仏の像1躯を得、之を三方原の一部たる平間敷知に七堂伽藍を建立して安置したりしを、後今の地へ遷し奏上して勅領を賜はり、寺号を頭陀寺と称し、・・・兵火の災にかかり、千手院以下12の坊舎皆烏有に帰す、今の堂宇は其后の造営なり、即本堂、御影堂、大仏殿、三重塔、仁王門、行者堂、庫裏にして今川豊臣氏以下の判物数種を蔵す、・・・・」

2010/06/25追加:2012/01/13修正:
○Web情報より:現地(頭陀寺第一公園・松下屋敷跡)には次の「境内図」(ありし日の頭陀寺)の掲示がある。
 頭陀寺「古」境内図:中之坊南の城郭は松下屋敷であ る。
※頭陀寺諸堂配置、12坊配置が示される。なお掲載写真(原本)が不鮮明のため、文字は補正。

2012/01/13追加
○「青林山頭陀寺由来」川上秀治、1951 より
  ※原本は明治12年作成、昭和26年川上秀治筆写するものである。
「浜名郡芳川村都盛 高野山宝性院末 真言宗 青林山頭陀寺由来」
・・・大宝3年・・・海底を探索・・・薬師の像一躯を得たり、円空・・・是を安置し・・・天皇勅して仏閣を創し、・・・頭陀寺と云う。
・・・・・・・
明治4年寺社一般上地令あり・・・寺領及び伽藍地5360坪の内3311坪を・・・奉還す・・・
宝永7年・・・寺中合わせて11宇あり、千手院(院主兼学頭)実相院円成院安養院成就院東光院蓮光坊宝生坊宝蔵坊永東坊中之坊是なり。
蓮光以下5坊宝暦年中廃替し、円成・安養・成就・東光の4ヶ坊は嘉永7年震災に罹り、院宇悉く潰敗、以来唯寺名のみ存す。
明治5年・・寺中9ヶ坊名号(9ヶ坊寺名取消し坊跡土地)全廃寺とし・・院主千手院寺中実相院之に宇現存す、・・・
  頭陀寺大略図
○「芳川村教育会報」昭和8年度 より
  頭陀寺諸坊並に松下屋敷の圖:寛2年(寛政であろうか)寺社奉行に提出図とある。
○「曳馬野 第11号」静岡県立浜松北高等学校歴史クラブ、2003 より
寺伝では大宝3年(703)円空上人によって開創されると云う。(「遠淡海地誌」では行基の開基と云う)
「日本三代実録」では「貞観5年(863)定額寺に列する」と云う。
嘉応3年(1171)京都仁和寺観音陰末寺となり、川匂荘を領すると伝える。
中世には今川氏、豊臣氏の庇護を受け、戦禍からの復興が行われる。秀吉及び家康からの寺領安堵は上述のとおり。
近世に入り、元和年中(1615-)には戦火から復興し、伽藍が整えられる。
延宝年中(1673)本堂を除き、諸堂・諸坊を焼失。
宝永7年(1710)諸堂の復興を見る。
 薬師堂、阿弥陀堂、三重塔(大日尊)仁王門、護摩堂があった様子は上掲の「絵図類」などで見る通りである。
寺中は院主千手院・実相院・円成院・安養院・東光院・成就院(「地誌」には見えず)の5、6坊に減ずる。
やがて明治維新を向え、維新の仏教排斥で手中は全て廃寺となると推定される。
  頭陀寺諸坊并松下屋敷の図:頭陀寺諸坊並に松下屋敷の圖(「芳川村教育会報」所収)図が原典である。
  戦前の頭陀寺境内図:既に寺中の記載は一切見られない。
昭和21年仮本堂建立、昭和50年現本堂・大師堂竣工、昭和58年山門竣工。

2014/10/20追加:
○「静岡県史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第1集」静岡県、大正14年 より
 ※寺歴・縁起・由緒は既知の情報のため、省略する。
延宝年中亦祝融に災せられしを以て(本堂は焼失を免れたり)、宝永7年(1710)又改造せり。
本堂は桟瓦葺(元杮葺)宝形単層5間5面にして三手先唐様三斗組物を用ふ。・・・本堂の右に大師堂あり、その前に半宝形の大仏殿あり。・・
其の南に三重塔あり。3間3面下層は四柱を以て支え、中層より心柱を建て上層を貫きて九輪に及ぶ。組物は本堂に同じ。屋根は破損し僅かに杉皮を以て覆うにすぎず。下層に半丈六寄彫の胎蔵界大日如来の坐像を安んず。又四隅に四天王を配したるが如し。
本堂の左に書院庫裡あり、これ千手院を移建せしなり。・・南に山門あり。3間2面重層入母屋造桟瓦葺にして三手先唐様組物を用ふも、今や幾本の助木に辛うじて倒頽を支えるにすぎず。・・・・・

頭陀寺現状

戦後その規模を縮小し、現在は戦後の建立である本堂・山門・太子堂、庫裏その他数棟の堂宇で構成される。
また天文年間、頭陀寺城内の一画にあった松下加兵衛之綱の屋敷跡は発掘され、「頭陀寺第一公園」 として整備保存される。
 (2001年の発掘調査で公園の隣接地から松下屋敷と推定される遺構などが出土したとされる。)
 頭陀寺門前1:門前左右には寺中が並ぶ。      頭陀寺門前2:同上      頭陀寺門前3:左更地は古の千手院跡であろうか 。
 頭陀寺山門      頭陀寺本堂:左手には単層相輪堂が見える。
 単層相輪堂1      単層相輪堂2:堂名不詳      単層相輪堂3:古の三重塔を意識して、相輪を掲げるのであろうか。
 頭陀寺三重塔跡:推定、 絵図類から写真中央奥付近に三重塔はあったと思われるも良く分からない。


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