★江戸期(「播磨名所巡覧圖會」)の大塔
播磨名所巡覧圖會:巻之2 より:記事:「二層塔(本尊阿弥陀。祇園女御)」
創建は保元2年(1157)で、祇園女御(平清盛の生母)の建立と伝える。
※創建は保元2年(1157)であるが、明治40年焼失、塔は応永7年(1400)落慶の塔と推定される。
◇加東郡御嶽山清水寺記:「大塔(5間二重四面)本尊大日・・・五智如来」とある。
★応永7年(1400)落慶/明治40年焼失大塔か?
2016/10/07追加:
○絵葉書
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播磨清水寺大塔絵葉書:s_minaga蔵
播州清水寺大塔:左図拡大図通信欄の罫線が3分の1であるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月まで
「きかは便郵」と表記されるので、明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月まで
従って、明治40年から大正7年の間の絵葉書と推定される。
一方
大塔は明治40年焼失、大正12年再建というので、絵葉書の推定年代が正しいものとすれば、この絵葉書の大塔は明治40年焼失した大塔の可能性がある。
確かに、初重の檜皮の屋根の状態などは、下に示す大正12年再建塔と違って、新築の塔のようには見えない。
また、大正12年再建塔にはある初重の柱間の蟇股が無く、さらに床下にある亀腹も無く、大正12年再建塔とは違うようである。
しかし、この絵葉書の大塔の姿は、鮮明に写っている訳ではないのが、大正12年再建大塔と酷似し、明治40年の焼失大塔とするには、なお慎重な検討が必要である。 |
★大正12年再建大塔
2012/06/06追加
○絵葉書:
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絵葉書:「Y」氏ご提供画像:
西国25番札所清水寺の大塔:左図拡大図大正12年竣工とある。
また屋根及び軸部の色調からおそらく大正12年の竣工後程なく撮影されたものと推定される。
現在までに入手した画像中、本写真がもっとも詳細な画像である。
基本的に和様を用いる。当然ながら、下重は5間の方形、上重は円形の大塔形式である。
屋根は檜皮葺、白木造である。
初重組物は出組、中央の3間は板扉、両脇間は連子窓、柱間には蟇股を配置。
上重組物は和様の四手先であろう。 |
2017/01/16追加:
○s_minaga蔵絵葉書
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西国25番清水寺大寶塔(祇園女御創建、大正12年再建)
大正12年再建清水寺大塔:左図拡大図
通信欄の罫線が2分の1であるので、大正7年4月からの絵葉書であり、かつ
「きかは便郵」とあるので、明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月までの絵葉書であろう。
そしてはっきりと大正12年再建とあるので、大正12年から昭和8年2月までの絵葉書であろう。
写真の写りから見ても、大正12年竣工ほどなくの時期の写真であろう。
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播州清水寺大寶塔
播磨清水寺大塔:左図拡大図
「きがは便郵」と「はかき」に濁点がつくので、昭和8年2月以降の絵葉書であると同時に、「きがは便郵」と左書きであるので、戦前の絵葉書であろう。 |
○「日本の塔総観」増補改訂版・初和48年:昭和39年撮影
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播磨清水寺大塔:左図拡大図
一辺12.82m、高さ約36.4m。
この数字で比較すると、高野山西塔を一回り大きく・高くした規模であったと推測される。 |
○「日本塔総鑑」昭和53年:昭和39年撮影
○「西国巡礼」西国巡礼会、教養文庫、昭和45年 より
2014/12/14追加;
○「兵庫県史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8輯」兵庫県、昭和7年(1932) より
平清盛の母祇園女御がこの山の観音霊像に帰依して大宝塔を建て、後白河法皇は常行堂を、池の二位は薬師堂を、源頼朝は阿弥陀堂を寄進したことを伝える。
建武2年一山火災、千手堂、十一面堂、東堂、阿弥陀堂、多宝塔、鐘楼、経蔵、鎮守五社宮以下悉く烏有に帰す。
この再興にあたり、清水寺は足利直義・尊氏が利生塔の建立を企図するや、六十六基塔婆の一として建立せらるべきことを望み、これを機会として再興を図ったらしいのであるが、幕府は播磨利生塔は他に決したから、これとは関係なく復興を図るべきと通知する。
この復興は守護あるいは幕府の助力を得て、応安4年(1371)に至り、諸堂落慶法要の勅会が実施される。
但し大塔は少し遅れ、永徳2年(1382)上棟、至徳元年(1384)本尊成り、明徳元年(1390)塔九輪が上がり、応永7年(1400)塔供養が行われる。
また至徳元年京都相国寺春屋妙葩が大塔に法華経33部及び高麗物仏舎利宝器を奉納する。
春屋妙葩寄進状:播磨清水寺蔵
坊舎については、盛時には360坊とも称するが、次第に衰微し、江戸初期には65坊となる。
明治3年塔中11ヶ院焼失、24年には2ヶ院焼失、明治40年には大塔炎上、44年山門を焼き、大正2年山火事の延焼に遭い、諸堂伽藍を焼亡する。
この復興は大正期にほぼ完成する。大塔は大正12年落慶する。
2007/02/04追加:
○「古社寺の研究」(播磨清水寺文書に就いて)昭和6年3月
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播磨清水寺大塔:左図拡大図:根本中堂から大塔を望む
昭和6年発表論文に掲載、恐らく大正12年再興からしばらく後の塔婆と思われる。
播磨清水寺古図:清水寺蔵
ほぼ山頂に塔婆は描かれる。
なお本写真および播磨清水寺古図は
「兵庫県史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8輯」兵庫県、昭和7年 に掲載された図版と同一のものである。 |
2015/01/04追加:
○御嶽山全容;「東北芸術工科大学 東北文化研究センター アーカイブス」 より転載
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御嶽山全容:左図の拡大・全体画像
撮影時期は不詳、
山の様子は大正2年の山火事の傷跡を残していると思われる。従って大正12年の大塔再建の後ほどなくの撮影であろう。
稜線上にはいくつかの建物が写るが、向かって左から宝形造と思われる堂は講堂、その右は根本中堂であろう。山上には大塔が写る。 |
2010/11/05追加:
○「日本真景・播磨・垂水名所図帖」大正〜昭和初期より
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播磨清水寺大塔の図:左図拡大図
播磨清水寺根本中堂:大講堂より根本中堂及び大塔を望む
○戦前土木絵葉書ライブラリ:土木図書館蔵 より
東条川ダム:東條湖上より播州清水寺及丹波連峯を仰ぐ山紫水明の壮観
想定図であり、右上に清水寺大塔などが描かれる。
なお、東条川ダム着工は昭和22年、完工は26年
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○出所不明写真
2014/12/14現在、下記写真の出所が不明となる。(資料の管理不十分)(昭和7年頃撮影)か?
★大 塔 跡
大正12再興大塔は再び昭和40年の台風で大破・取壊。
現在は基壇および礎石が残る。・・・2001/11/3/撮影
いずれにせよ、大塔の遺構は少なく、その意味で近代の建築とはいえ、失われたままであるのは大変残念なことである。
2001/11/03/撮影:
大塔基壇:下図拡大図
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再建計画はあるが、
残念ながら、いまだ再建に至らず。 |
大塔基壇(2段基壇
を示す):下図拡大図
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大塔基壇(上方)
:下図拡大図
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大塔基壇(北西部)
:下図拡大図
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大塔礎石:下図拡大図
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塔址は根本中堂右側奥(北東)に、いささか荒れてはいるが、ニ重基壇と礎石をほぼ残す。
2007/09/21追加:「兵庫の塔」寺師義正、光村推古書院、1994.3 より
播磨清水寺大塔心礎
★御嶽山の山頂(600m位)付近に位置する。開基は法道上人と伝える。
中世には天台の巨刹として武威を振う。
建武2年(1335)千手堂、十一面堂、東堂、阿弥陀堂、多宝塔、鐘楼、経蔵、鎮守五社宮悉く烏有に帰す。
応安4年(1371)諸堂落慶。
大塔は永徳2年(1382)上棟、至徳元年(1384)塔本尊成り、明徳元年(1390)九輪が上り、応永7年(1400)落慶。
中世には坊舎は360、江戸初期に65坊と伝える。
現在も山上に多くの坊舎の跡を認めることが出来る。
明治以降も仁王門・講堂・根本中堂・大塔・護摩堂・法華堂等多くの伽藍があった。
大正2年(1913)火災でほぼ全山焼失する。
(明治3年11坊焼失、明治24年2坊焼失、明治40年大塔、同44年山門焼失、大正2年山火事で類焼・悉く焼失。)
ただちに復興にかかり、主要伽藍は大正年中に再建される。
しかし、再び昭和40年の台風で大塔と仁王門が倒壊する。(仁王門は場所を替えて昭和55年再建)
西国観音札所の25番札所であり、近年山麓から山頂まで自動車道が完備し、多くの参拝者があると思われる。
しかし自動車道完成の見返りは西国観音霊場中最も難所と言われた面影を失うということであり、これは致命的なことである可能性がある。
※この項「古社寺の研究」を参照する。
播磨清水寺大講堂:2001/11/03/撮影
2014/12/14追加:
「加東郡誌」加東郡教育会、大正12年(1923) より
法道仙人開基。御嶽山と号する。
天台宗。朱印寺領65石。根本堂(5間四面)・大講堂(7間四面)・大宝塔・鐘楼・薬師堂・本坊・茶寮・山門を有する。
大塔:二重5間四面、本尊五智如来、祇園女御御建立檀之後曼荼羅繪毎柱に十二天繪
その他、常行三昧堂、阿弥陀堂、不動堂、食堂、鎮守・拝殿、日吉、八幡、祇園、住吉、加茂上下、佐保三所を勧請、護法善神社、弁才天、仁王門などの堂宇の存在が知られる。
谷は東谷、西谷、南谷、北谷、中谷の5谷、坊は65坊。
塔中:古は47軒あり。
慈門院:大正2年焼失
運善院:本尊阿弥陀佛
瑞柳院:明治20年焼失
知足院:東阪へ里坊として移転、明治20年焼失。(現存する。)
※大塔については明治40年の焼失などについては記載がない、また大塔の写真の掲載もない。
2006年以前作成:2017/01/16更新:ホームページ、日本の塔婆
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