上  野  貫  前  社  三  重  塔

上野貫前社三重塔(抜鉾神社)

「大日本沿海輿地全図」に見る「上野貫前社三重塔」

大日本沿海輿地全図:富岡町・一宮町附近

「大日本沿海輿地全図」:
文政4年(1821)幕府上呈、伊能忠敬測量・製作
明治6年頃の複写図

図の中央・やや左の附近一宮町に貫前社三重塔が
描かれている。

三 重 塔 跡

三重塔跡には、礎石16個が完存する。

柱間は芯芯間で5尺2寸(約160〜155cm)。
<一辺約4,7m>
礎石大きさは70/90×70/90cmで、全部の礎石に円の枘孔を持つ。
礎石の(残存)状況については山城離宮八幡宮多宝塔跡礎石と良く類似する。但し離宮八幡宮礎石は枘孔を持たず、周りに縁礎石を持つ。

上野貫前社塔跡:2004/8/5「X」氏撮影

「日本塔総鑑」;「一辺4.95m」


  上野貫前社三重塔礎石1
    同           2:上図拡大図
    同           3
    同           4
    同           5
    同           6
上野貫前社三重塔礎石7:北列
  同           8:中間北列
  同           9:中間南列
  同          10:南列

三重塔は天保12年(1841)に火災焼亡という。(あるいは元禄年中とも云う。)
薬師堂、観音堂、六角堂、鐘楼なども類焼と思われる。
弘化年中(1844)に再興が企てられたが、再興されず。
本尊は慈覚大師と伝える。

礎石のある三重塔阯付近は現在宝物館の敷地となるが、本来は三重塔・薬師堂・観音堂・六角堂・鐘楼などを備えた神宮寺の地と思われる。
現状では三重塔礎石が現存するのみ。宝物館建設などで、その他の堂宇跡は完全に破壊されたと思われ何の痕跡も残さず。

神仏分離

近世には三会寺、光明院、大乗院、神宮寺があった。
三会寺:一宮山と号す。天正7年、一宮氏友の開基と伝える。曹洞宗。
光明寺:尾崎山阿弥陀寺と号す。天元4年(981)尾崎光明の開基。天台宗。貫前社の別当。天正19年朱印30石を受く。
大乗院、神宮寺:光明院被官である栗木坊・大坊という修験が神社に勤役し、後に大坊は大乗院、栗木坊は神宮寺の寺号を付すと云う。
 ※三会寺以外は明治の神仏分離で廃寺となったと思われる。  三会寺は参道左手の谷を隔てて、現存する。
 ※尾崎家は鎮座以来の神職の家柄と云う。別当光明院を創建。
 ※一宮家は中世→戦国期の武将小幡氏の一族で、中世末には権神主、近世には大宮司となり、尾崎家との争いがあったと云う。

 「天保巡見日記」:「・・本社・楼門・三重塔・鐘楼・諸末社にいたるまで残らす御造営の霊社にして、彫鏤粉色荘厳いふへからす。しかしなから星霜已に久しく甚たしく損壊す、・・・・」
近世には三重塔、観音堂、薬師堂、不動堂、鐘楼(以上東門内にあった)、護摩堂(神楽殿附近)、経蔵(本殿西)、仁王門(総門西の高台)、弥勒堂(仁王門奥)の諸堂宇があったとされる。
  (神社西方にあった弥勒堂と、東方の観音堂はともに二神の本地堂であった。)
以上の諸堂宇及び梵鐘は明治維新の神仏分離で破壊、多くの経典は焼却されたと伝える。

2006/09/02追加:
「貫前神社の本殿と仮殿(前編)」井上充夫(「日本建築学会論文報告集」第203号、昭和48年 所収)
 ●貫前神社境内図:「貫前神社社誌」昭和9年版より
 東門内の三重塔、観音堂、薬師堂、不動堂、鐘楼、神楽殿附近の護摩堂、本殿西の経蔵、惣門内の弥勒堂などの堂宇位置が知られる。
 但し、仁王門位置は明示されていないが、西門の南東すぐにあったと思われる。

 現 境 内 図

経蔵跡は現存する。明治の神仏分離で破壊される。鎌倉以降伝来の経典・普賢菩薩像・脇童子像等は北側の高田川河原で焼却されると云う。堂の建立時期は不明、礎石より5間×5間半くらいの大きさと推定される。

 上野貫前社経蔵跡:写真手前及び立て札後方にも礎石列が写る。
   同  経蔵礎石1:礎石は立柱枘孔及び地覆の枘孔が加工された精巧なものである。
   同  経蔵礎石2        同  経蔵礎石3

「和漢三才図会」:抜鉾大明神・・・称貫前神社、神主民部、別当光明寺」
天徳4年(960)抜鉾神社祠官尾崎志摩守光明の開基で、中興は正暦年間(990-95)とする。
慶安4年(1651)朱印30石を与えられる。
享保2年(1717)門徒分限帳:寺域は東西120間余、南北80間余、本堂・弥陀堂・閻魔堂・鐘楼・山王・天神など、及び末寺20(古くは末寺36)を有する。
明治初年10寺が離末・廃寺となる。廃寺となった神宮寺は修験栗木坊で、大乗院は修験大坊であった。
別当光明寺は神仏分離後荒廃し、明治15年無住となる。現在は上州一宮駅前に移転している。
  天台宗尾崎山光明寺:移転再興されている光明寺

略  歴

天正19年徳川家康より176石余の朱印を受ける。
配分は一宮家より尾崎家へ40石、神宮寺へ4石、大乗院へ2石、三会寺へ5石という。
その後も徳川家の手厚い保護を受ける。
 (家康の社殿改築、寛永12年(1635)家光の社殿造営、元禄11年(1698)綱吉社殿改修。)
この社殿は現存する。
本殿(入母屋造・妻入・檜皮葺き・向拝付き)、拝殿(入母屋造・平入・檜皮葺き・唐破風)、楼門(入母屋造・銅板葺・桁行3間・梁間2間)はいずれも重文指定、要するに典型的な江戸初期の江戸趣味風の建築で あろう。

貫前社楼門拝殿本殿
  同      楼門1:殆ど寺院楼門と称しても通用する佛教建築と思われる。     同      楼門2       同      楼門3
  同      拝殿       同      本殿
  同    旧牛王堂:維新前までは牛王堂であったという。

付録;上州一宮駅に入構する上信電気鉄道電車


2006年以前作成:2007/09/02更新:ホームページ日本の塔婆