★尾張七つ寺古絵図
◆尾張名所図会 :巻之1に見る七寺三重塔
七寺伽藍図:下図拡大図
:2022/09/07画像入替
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記事:(七ツ寺と通称す)
観音堂(正保2年の建立・・)、聖天堂、十王堂(延宝元年の建立・・)、影堂(慶長年中の建立・・)、輪蔵(・・貞享2年の再興・・)
三層塔(元禄年中住僧良快の造立。国君よりも資財を助力し給ひ、京都の仏師運長に命じ、五智如来と八大菩薩の像を彫らしめ、塔中に安置す。
因にいふ、享保年中この塔の九輪かたぶく事ありしに、折ふし長崎より、麒麟太夫といへる軽業師当地に来りしが、この事を聞き、我これを直さんとて、そのまま檐端に一本の竹をよせ、それをつたひて忽ち頂上に登り、好みのまま直したるよし)」
2007/06/22追加: 尾張名所図絵 巻之1:七寺
、同一絵図 |
◆尾張名陽圖會:巻之4に見る七寺三重塔
尾張名陽圖會:下図拡大図
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記事:「
○三重宝塔 元禄十年建立。相伝ふ、
この時の現住大僧都良快法印は幼年の時当寺の小僧なりしが、我成長してこの寺に塔を立てんとの志深かりし。
ついに当寺の住職となりて大望をとげられたりとぞ。」 |
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←軽業師長崎麒麟太夫 七寺の塔の九輪の傾直図:左図拡大図
記事:享保の頃にや有りけん、七つ寺の塔の九輪かたぶく事あり。
これを直さんとする。脚代を懸けるも大造なり。
いかがせんと評議まちまちなりける。
その折から長崎の麒麟太夫といへる軽業師を大須門前において観(みもの)とす。
この塔のことを聞きて、我これを直さんといふ。
すなわち寺中喜んで頼みしかば、欄干にたちて屋根うらに飛び付きと見えしが、忽ち頂上に登り立ちしさま鳥にも勝れりとぞ。
その時九輪に両手をかけ真直になして、一足そろえて飛び下り庭上に立つて笑ひ居たりしとかや。
八坂の塔の故事は権者の威力なれば同日の談にはあらず。」 |
◆美濃路見取絵図
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美濃路見取絵図:寛政年中(1789-1801)編修 美濃路見取
絵図・長福寺:左図拡大図
なお、絵図左下は宝生院(大須観音)と思われるも、五重塔は描かれない。 |
2008/08/03追加:
◆享元絵巻
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享元絵巻:元禄期:尾張7代徳川宗春の時代の景観を描く。
享元絵巻・七つ寺:
左図拡大図 |
2005/07/09追加:
◆「猿猴庵日記」に見る七つ寺:「文政3年2月22日:七ツ寺太子堂にて、聖徳太子1200年遠忌執行。21日夜より読経。堂前には、諸町の講中、揚張、或は幟を立。・・・・」
尾張七つ寺法会:「猿猴庵日記」尾張藩士高力種信(1756-1831)の日記
◆吉田初三郎の名古屋図(部分):1936年(パナロマ図)
★長福寺三重塔写真(七つ寺三重塔)
◇絵葉書
2006/07/27追加:
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名古屋市立博物館:ポストカードギャラリーより
七つ寺三重塔:左図拡大図
撮影時期不詳 |
2010/06/25追加:
「名古屋市博物館資料図版目録8 日本の絵葉書1900−1945」名古屋市立博物館、2009
七ツ寺三重塔など:明治〜大正頃撮影か
七ツ寺本堂など:大正〜昭和撮影か、写真の青銅大日如来坐像は現存する。
2010/09/19追加:「Y」氏ご提供
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絵葉書は明治40年〜大正6年のものと推定される。(「Y」氏見解)
上に掲載「名古屋市立博物館」写真と同一の絵葉書であろう。
七つ寺三重塔2:左図拡大図 |
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絵葉書は大正7年〜昭和7年のものと推定される。(「Y」氏見解)
七つ寺三重塔3:左図拡大図 |
2013/07/13追加:
七寺三重塔古写真2:絵葉書、向かって左は大須観音、大須観音五重塔は既に無いものと思われる。
2016/10/07追加:
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七つ寺三重塔絵葉書:s_minaga蔵
七つ寺三重塔4:左図拡大図
通信欄の罫線が3分の1であるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月まで
また
「きかは便郵」とあるので、明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月までの発行絵葉書。
従って、明治40年から大正7年に発行された絵葉書であろう。
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2017/01/09追加:
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七つ寺三重塔絵葉書:s_minaga蔵
七つ寺三重塔5:左図拡大図
絵葉書の発行年度は通信欄の状況が上記の「七つ寺三重塔4」の状況と同じであるので、明治40年から大正7年に発行された絵葉書であろう。 |
◇写真類
2005/04/0追加:
「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933)より
七寺本堂(国宝):昭和20年戦災で焼失。出版年から、昭和初頭の写真と思われる。
記事:「本堂、太子堂、聖天堂、十王堂、影堂、転法輪蔵、荼枳尼天堂、弁天堂、庫裏、三重塔などを具う。
本堂:方5間、単層、四柱造、本瓦葺、1間向拝付、室町末期〜桃山期の建築。智山派。」
典拠亡失:
2006/07/27追加:
2007/06/22追加:
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七寺境内:三重塔及び本堂
撮影時期不詳 |
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「写真に見る明治の名古屋」より転載
七寺本堂三重塔:左図拡大図
撮影時期不詳 |
2009/12/09追加:
七寺三重塔古写真:「名古屋名所図絵」鬼頭幸七編、名古屋いとう呉服店、大正2年
2010/06/25追加:
「大日本寺院総覧」寺院総覧編纂局/編、明治出版社、大正5年
七寺本堂2:5間四面単層屋根四注造本瓦葺
、三重塔:元禄年中尾張国主瑞龍院建立に係り、本尊は運慶作五智如来云々・・・
★現状および略歴
昭和20年名古屋空襲で三重塔・本堂など主要伽藍は焼失。
かっての境内の一部に若干の堂宇が再建されるが、境内は恐らく狭められ、その上駐車場と化し、塔跡は全く見当がつかない状態となる。
稲園山正覚院長福寺と号する。真言宗智山派。
天平7年(735)行基により尾張国中島郡萱津に開創されたと云う。
七寺とは、延暦6年(787)、紀是広が七堂伽藍を建立したことに由来する。
「河内権守紀是広は出羽国秋田城主として赴任。
天応元年(781)7年の任期を終了して帰国の途中、中島郡萱津の里に着いたところ、
郷里に残した愛児光麿が父のあとを慕って萱津まで来て病死したのに出会う。
是広の悲嘆はいかばかりか、正覚院に詣で正覚院智光上人に亡児の蘇生を祈願した。
上人はこれを聞き、憐れみ祈祷壇を築き、薬師如来を壇上に安じて、却死反魂香を焚き医王の密法を修する。
香煙が遺児の面を覆った途端に遺児は蘇生し、漸次の父子の対面が叶い、そののち、息をひきとったと云う。
是広はこの地に亡児を埋葬し、延暦6年12月7歳で亡失した遺児の追善のため
7区の仏閣と12僧坊を建立した。」七寺の呼称はそれ故と云う。
その後、仁和3年(887)水害・天慶4年(941)の兵火に罹る。
仁安2年(1167)勝幡城主尾張権守大中臣朝臣安長・その婿豊後守親実が寺地を稲沢に移転、再興。
南北朝の動乱で焼亡。
天正19年(1591)清洲の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が寺地を清洲に転じ、本堂を再興し、
大塚性海寺良圓を住持とし、中興開山とする。
慶長16年(1611)徳川家康の命により寺域を現在の地に移転する。
本堂は清洲から移築、諸堂整備。
元禄13年(1790)徳川光友が三重塔を再建。
享保15年(1730)には尾張徳川家の祈願所となる。
昭和20年3月19日、空襲により経蔵、観音・勢至の両菩薩、唐枢入一切経のみを残し、灰燼に帰す。
2006年以前作成:2022/09/07更新:ホームページ、日本の塔婆
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