★三島明神塔婆
2010/07/08追加:「三島大社宝物館」三島大社、1998 より
◆三島明神境内図
○一遍聖絵:正安元年(1299)・国宝
弘安5年(1282)一遍上人三島社参詣、この絵から中世の三島社の盛観が分かる。塔婆については描かれず、当時にはなかったのであろう。
「三島大明神宮社間数目録」大永6年(1526)・・・後北条氏の造営の記録・・・では、楼門、総門、塔、護摩堂などの堂塔があると云う。
※少なくとも中世末期には佛教の支配をうけ、寺院化していったものと推定される。
即ち、上の資料によれば、創建時期は不明ながら、中世には「塔婆」の造立を見たものと推定される。
そして、この中世の「塔婆」は、慶長の造営図に塔は描かれていないので、永禄年中の信玄の侵攻で退転したものと推定される。
永禄12年(1569)武田信玄の侵攻を受け、大破する。その後の復興は慶長年中の家康の造営によって本格化する。
○慶長9年造営絵図:三島大社蔵・重文、慶長9年(1604)、「権現様御造営図」
◇慶長9年造営絵図;松林の中に、社殿、園池、反橋などが散在するだけで、塔婆の建立は見ない。
○寛永11年造営絵図:三島大社蔵・重文、寛永11年(1634)、「大猷院様御造営図」
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寛永11年造営絵図:左図拡大図
徳川家光の造営で「五重塔」が造営される。
楼門(南大門)を入り右に五重塔、経蔵、飯酒社、左に八幡社、鐘楼、小楠社、見目社があり、廻廊を従えた中門に至る。
中門内中央に舞殿、拝殿、本殿が描かれる。
以上のほか東方に護摩堂・西方に心経寺・愛染院(神仏分離で廃寺)、観音堂、光明院、文徹院、宝国院などが存在したことが窺える。
徳川家光による本格的な造営が行われ、慶長絵図と比べて多くの社殿・堂塔が造営された様子が窺える。
三島明神の最盛期の境内図というべきであろう。
この造営の社殿・堂塔は承応3年までには火災焼失するものと推定される。
(五重塔は姿を消す。) |
○承応3年造営絵図:三島大社蔵・重文、承応3年(1654)、厳有院(東川家綱)造営図
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承応3年造営絵図:左図拡大図
三重塔が造営される。(あるいは社東の塔ノ森廃寺<伊豆国分寺>からの移建か?)
この三重塔は幕末まで維持されたと思われる。
寛永の造営の後、境内一円は焼け落ちたと推測される。
そのため、この絵図には焼け焦げた大木が数箇所描かれる。
再興にあたり、既に幕府財力には陰りが見えてきたのであろうか、
塔は五重塔から三重塔に代替、南大門は再興されず、園池北に再興、楼門が単層になり、透塀・玉垣・仏堂などが簡素になる。 |
○江戸後期境内絵図:三島大社蔵・重文
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江戸後期境内絵図:左図拡大図 ほぼ承応期の境内景観を維持する。三重塔も存在する。
本社北・東・西には寺家・社家その他多くの屋敷の存在を窺うことが出来る。
北西にあるのが別当愛染院屋敷であり、愛染院西南の鳥居・社は二宮浅間社である。 |
◆「東海道名所圖會・巻之5」寛政9年(1797)刊 に見る三島社
塔婆に関する記事は「三層塔(仁王門の東にあり)」とあるだけであり、詳細は不明。
◆三島図(屏風絵):下図拡大図・・小沼満英の落款があり、江戸末期の作であろうとされる。・・に見る三島社
★概 要 古代は式内社
(伊豆三嶋神)にその名があるが現在の三嶋明神と等しいのかどうかは良く分からない、中世は北条氏をはじめとする武将の崇敬を受ける。伊豆一宮の地位にあった。
近世は東海道三島の鎮守として庶民信仰を集める。
別当心経寺・愛染院のほか護摩堂・本地堂(本地仏は薬師如来)などがあった。
近世には社領330石(文禄3年)および200石(慶長9年追加)を有する。
寛永11年(1634)徳川家光造営の大社境内図には楼門(南大門)を入り右に三重塔、経蔵、飯酒社、左に八幡社、鐘楼、小楠社、見目社があり、廻廊を従えた中門に至る、中門内中央に舞殿、拝殿、本殿が描かれる。以上のほか東方に護摩堂・西方に心経寺・愛染院(神仏分離で廃寺)、観音堂、光明院、文徹院、宝国院などが存在した。(「大猷院様御造営図」)
嘉永7年(1854・・安政元年)安政の地震で社殿・三重塔などが倒壊。社殿は慶応3年(1867)年再興される。
2004/07/31追加:
★三重塔礎石 三島社宝物館係員談:三重塔の痕跡は何もない。唯一塔跡から掘り出したと云う礎石が残る。
塔のあった位置は宝物館の西南すぐ参道の東(古図のとおり)であった。
三重塔は安政の地震で社殿とともに倒壊する。社殿などは復興したが、仏教関係の堂塔は再興されず、明治維新に至る。
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伊豆三島大明神三重塔礎石1
同
2(左図拡大図)
同
3
この礎石は三重塔跡から掘り出されたと云う。
大きさは100×100×65cmで、中央に径13×3.5cmの円孔がある。
円孔の周囲は荒れ、径45cmくらいの柱座があったが削り取られた可能性がある。(柱座の痕跡は見てとれる。)
この塔の創建が古代に遡るという情報は無く、常識的に塔建立が近世初頭とすると、確かに、この礎石は近世の関東風塔婆に見られる枘孔を持つ脇柱などの礎石の特徴を備える。この地方での例示を上げれば、重須本門寺五重塔礎石に類似する。
しかし、なぜ僅か1個のみ残されているのかなどについては、情報が無く不明。
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伊豆三嶋大明神三重塔想定地;
写真中央赤円付近に三重塔はあったと思われる。なお上記礎石は赤←の位置に放置
される。
伊豆三嶋大明神拝殿:重文・慶応3年(1867)年再興
2006/12/27追加:
「木片勧進」によれば「三島神社三重塔扉」が「草の舎」<松浦武四郎が部材を勧進し建立>の部材(二つに切南窓の扉其の外処々に用ゆ。)として転用されたと云う。
三島神社三重塔扉。長7尺8寸。幅3尺。常憲公御造営の由。明治元廃仏の時神官波多野氏家に其一枚を蔵められしを此度贈り呉らる。
※「木片勧進・草の舎(一畳敷)」(第53番)のページを参照
※三重塔は地震による倒壊ということであれば、塔の扉が当時残存していたことは大いに有り得ることであろう。
2011/06/14追加:「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」 より
※「三島神社三重塔扉。・・・」と云う。
三島社三重塔扉部材
木片勧進東面図:左端に「コ」とあり、
「コ」は「コ 五十三」とある。
「一畳敷」南窓扉:左図拡大図
:三島社三重塔扉
写真左の南窓扉が三島社三重塔扉である。
伊豆三島社三重塔は嘉永7年(1854・・安政元年)安政の地震で倒壊と伝える。
「一畳敷」南窓扉2:三島社三重塔扉
「一畳敷」廊下北端鴨居:三島社三重塔扉と云う。
但し、「木片勧進」ではその根拠は見出せない。
(辛うじて「二つに切南窓の扉其外処々に用ゆ。」とあることだけである。)
従って、現在その根拠は不明とせざるを得ない。
2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
現在の一畳敷南側外:
「53A」が三島大明神三重塔扉である。
現在の一畳敷脇棚:
「53B」が三島大明神三重塔扉で廊下の鴨居に使用される。
なお寄進者の秋山光條は幕府御家人であったが神祇官の官吏となり、相模寒川神社、出雲大社(杵築大社)、三島社、八坂神社(山城祇園社)など高名な神社の宮司を務める。国学者であり、相川景見、矢野玄道、師岡正胤、権田直助、角田忠行、本居豊頴、井上頼國、久保季玆、青柳高鞆、落合直亮と交流す。
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
2003/6/27追加
★「伊豆三島神社調査報告」、明治維新神仏分離史料、鷲尾順敬
1.幕府時代の状況及び仏教関係の建造物 三島神社の常職の名称
・・・別当:愛染院・・・・
愛染院は高野山金剛峰寺末寺。昔は大いに勢力があったが、寛政の頃神主等が別当以下社僧の横暴を懲さんと幕府に出訴、その後は別当社僧はようやく屏息。
大徳院、龍宝院、法正院の3院があったがいづれも修験であり、神社での役目はなく、仏堂の管理にあたった。
仏教関係の建造物
寛永造営図では薬師堂(大徳院管理)、弁天堂、護摩堂、三重塔(龍宝院管理・大日如来安置)、鐘楼、仁王門があった。幕府時代の末期までこれ等の建造があった。*1
愛染院は15間四面の大建築であったが安政の地震に倒壊した。この時に神社の神殿も倒壊したのであった。その後神殿は再建されたが、愛染院は仮建築のままであった。本尊は愛染明王であった。
2.維新時代の状況 明治3年社領530石を返上。神主以下方向に迷い、皆困窮した。
明治4年神社に奉仕の常職を罷め、帰農することを願い出、明治5年教部省より許可され、編籍する。
明治13年配当俸禄証書及び利子が交付せられ少し意を安した。
愛染院等の建築物は破壊*1、図像器具類は愛染院の末寺に運搬せられたというが、混乱の際であったので乱暴に処せられたものもあった。愛染院住持定弁は・・復飾隠居、・・社家の後に加わり、・・まもなく没した。相続人定富の後は今大阪に住していると聞くが三島には知るものもいない。
*1三重塔の処分もしくは破壊などについては触れられず。
但し、三重塔の消亡時期については、上記★三重塔礎石の項:宝物館係員の談を参照。(安政の地震で倒壊、その後再興には至らず)
★楊林山薬師院(高野山真言宗)
明治の神仏分離で愛染院が廃寺になった後、愛染院は愛染院末寺であった楊林山竹林寺薬師院に継承されたという。
大正初期、薬師院は西隣の虎住山観法寺を合併。そのため、薬師院本尊薬師如来、観法寺本尊観世音菩薩、三嶋大明神護摩堂本尊不動明王を祀る。
なお三島駅すぐ南に愛染院跡として熔岩塚・愛染の滝(人工)があると云う。これは愛染院の庭園の一部といわれる。
泉福寺観音堂(三島市長伏)
泉福寺境内左側に観音堂があり、この本尊千手観音は愛染院の本尊という。
2009/05/06追加:
★三嶋大明神祭神:
○三島大社公式ページでは
「大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)の二柱の神を総じて三嶋大明神と称する」とする。
2柱となる経緯は以下の通りと云われる。
元来、三嶋大明神の祭神は大山祇神とされてきたが、平田篤胤によって事代主神との説が唱えられた。(「二十二社本縁」賀茂社条)
明治6年、上記の平田説に基づき、祭神を事代主神に改める。
しかし、大山祇神説、事代主神説も所詮形而上学の話であり、昭和27年に現在の2柱に変更されると云う。
(神社の由緒などとは実にいい加減なものであると云う証左であろう。)
○2010/07/08追加:「三島大社宝物館」三島大社、1998 より
「釈日本紀」卜部兼方、鎌倉末期では「『伊予国風土記』に曰く、乎知郡御島(越智郡三島)に坐す神の御名は大山積神、またの名は和多古志大神(わたしのおおかみ)なり。」・・・といい、三嶋神とは大山祇神とする説が主流であった。
しかし、南北朝期の「二十一社記」北畠親房では三嶋神は山城賀茂社(上賀茂)・伊予三嶋神と同体の天神とする説が唱えられる。
さらに「古史伝」平田篤胤では三島神は事代主神とする説を立てる。
※いずれにせよ、三島明神は伊豆国内で北遷したとされ、その上元々は摂津三島郡に居た大山積神が伊豆・伊予に遷座する、あるいは伊予の大山積神が伊豆に遷座する、またあるいは伊豆賀茂郡の大山積神が摂津三島郡・伊予に遷座するなその諸説があり、真相は藪の中であるというのが正直なところであろう。
宮司矢田部氏(と推定)は当書の巻頭で縷々三島明神の祭神・由緒などについて述べるも、特に国家神道的な祭神・由緒の真偽について全く分からないし、了解は不能であろう。
なお、御島神の御(み)は島神の美称であり、大山積神の大は美称、山積神は山ツ神(ミ)で海(ワタ)ツ神(ミ)と対をなすと云う。
(しばしば言及される説ではあるが、不勉強ながら、そもそもどういう文献を典拠し、どういった研究に基ずく説なのであろうか?)
2009/05/06追加:
★伊豆塔ノ森廃寺
「増訂伊豆志稿」昭和42年 では
○三島神社:
正殿、拝殿、幣殿、随身門(今の唐門)、金剛門(今の総門)、門前鑿沼池石祠門、鐘楼、庖厨所、薬師堂、護摩堂、三層浮屠(昔は祠東、塔ノ森と云所にありき蓋国分寺の塔也と云う)(薬師堂以下明治初年に取除く・・・)
○廃国分寺:
・・・延喜式に曰く山興寺為国分寺・・・・此寺往古三島大社の東にありて神宮寺とも称したり。
(三島大社暦応元年・・文書に伊豆國三島社神宮寺号国分寺云々とあり・・・)此地今国分と称す・・・・・此寺往昔田方郡田中郷より三島に移転すと云説あり。三級浮屠は大社境内に移し現存す又薬師堂あり今国分寺と呼ぶ社北の大徳院を国分寺別當と云う(三級浮屠以下明治初年廃す)
以上によれば、三島社に明治初年まであった三重塔は国分寺の塔であり、この塔は社の東側の塔ノ森にあったと云う。
◇浮屠:1.仏陀・ほとけ(梵語Buddha)、2.塔・卒塔婆(梵語Stupa)、3.仏寺・僧侶 とある。(「広辞苑」)
三嶋大明神境内絵図のうち「権現様御造営図」には塔は無く、「大猷院様御造営図」には五重塔が描かれ、さらに「承応3年絵図」以降には三重塔が描かれる。
以上ことから類推すると、まず徳川家光造営の時に五重塔が移建された可能性が考えられるが、塔は五重であり、この塔は新造の可能性が高いであろう。
その後、社殿堂塔は焼失し、徳川家綱による造営がなされるが、この造営は家光の造営よりかなり内容的に簡素であり、この造営時に、「増訂伊豆志稿」
の述べるように、塔ノ森廃寺から移された可能性が高いと推測される。
さらに推測すれば、伊豆国分寺は衰退の後、その名跡を三嶋大明神神宮寺に移し、寺地は三嶋明神の東の塔ノ森に構える。ここには三重塔が営まれていたが、江戸
前期にこの三重塔は三嶋明神境内に移されたとも推測される。
現在塔ノ森廃寺は三嶋大明神の東に位置したというだけで、全くその跡は分からないという。
2010/07/08追加:
伊豆三島には古代寺院5ヶ寺の存在が知られる。大興寺(市ヶ原廃寺)、山興寺、天神原廃寺、伊豆国分寺、伊豆国分尼寺である。
山興寺は三島社の東に位置し、出土瓦から奈良期の創建とされる。この寺は三島社の神宮寺として創建されたのか、後に三島社の神宮寺となったのかは分からないが、ともかく三島社の神宮寺の地位にあったのであろう。
平安期には国分寺が衰退し、国分寺に充てられる。(大興寺は国分尼寺に充てられる。)
その後も、大興寺は国分寺後身たる薬師堂および三重塔の伽藍を伝えてきたと推定される。そして、おそらく、このことにより、この地はいつの頃か不明ながら「塔の森」と呼ばれるようになったのであろうか。
承応年中、家綱による三島社の造営が行われ、塔ノの森三重塔は三島社に移建されたということであろうか。
塔の移建後も、北側にある大徳院が別当を務めたと云うから、薬師堂は国分寺として存在したものと推定される。
2006年以前作成:2011/11/06更新:ホームページ、日本の塔婆
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