◎多宝塔情報
万精院住職談(大意):2003/01/05聞取
住職は昭和10年生まれ。多宝塔は昭和20年7月9日の空襲で焼失、他の伽藍も全て焼失する。
写真については萬精院には残っていない。(「自分の所の写真は自分では案外待っていないものであろう。」)
知り合いの所には残っている。(しかし、すぐに拝見するという訳にはいかない。)
焼失した塔婆は多宝塔なのか単に二層塔なのかは記憶が定かでない。
(この塔婆が二層塔なのか多宝塔なのかは、住職の話では確認出来ない。
住職本人の記憶が定かでない。つまり上重に亀腹があり平面円形なのかそれとも平面方形なのかは記憶が定かでないと云う。)
相輪は確かにあった記憶がある。
塔の大きさは小さいもので、確か1間半四方であったと聞いている(あるいは思う)。
紀伊名所図会の図は存じている。それより実際の伽藍(諸堂宇)は絵図に描かれているよりもっと立派であり、敷地ももっと広大であった。
当院は和歌山城の鬼門にあたり寺門は隆盛であった。紀伊名所図会の著者高市氏の菩提寺の関係で、著者も遠慮して控えめに描いたのだろうと思っている。現在も境内地は千数百坪ある。梵鐘と金仏(塔婆の横にあった・江戸末期)は焼け残
る。
2015/10/08紀伊高野寺にて聞取:
同じ真言宗である高野寺ご住職の談によれば、聞取に応じて頂いた萬精院ご住職は既に遷化されたとの由である。
◎多宝塔跡の現状
住職の説明:本堂向かって右軽自動車の
止まっているあたりに多宝塔?があった。
推定多宝塔跡:下図拡大図:2003/01/05撮影
|
住職説明:多宝塔横の金仏(紀伊名所圖會には
描かれていないが)は焼け残る。
萬精院金仏:下図拡大図:2003/01/05撮影
|
原状、現地には多宝塔(塔婆)を偲ぶものは何もないと言わざる得ない。
2015/10/08撮影:
萬精院多宝塔についての情報は全く見出すことができない。
例えば、「和歌山史要」の萬精院の項には多宝塔には全く触れることがない。
また「紀伊続風土記 第一輯」巻之五<P117―118>の「萬精院」の項<未見>では多宝塔とあるが、その由緒などの記述はないという。
紀伊萬精院正面:未だ山門は再興に至らず。写真中央附近本堂向かって右手前に多宝塔はあったのであろう。
萬精院推定多宝塔跡:紀伊國名所圖繪との位置関係からいえば、現在金佛のある附近に多宝塔はあったのかも知れない。
萬精院金佛:紀伊國名所圖繪の記述のとおり、不動、大日、役行者の尊像であろう。
※「紀伊國名所圖繪」の記事:
東曜山萬精院鈴丸寺:
本尊薬師佛・・・、大師堂、行者堂、金佛の三尊(大日如来、不動明王、役行者)、阿弥陀堂、持仏堂、鐘楼堂
2006年以前作成:2015/10/17更新:ホームページ、日本の塔婆