日什門流本山妙泉寺
★日什門流本山妙泉寺概要
永享3年(1431)妙満寺5世日舜上人が綾小路に創建。(寺地は三条油小路とも云う)
塔頭は34ヶ坊と云い、京洛法華宗21箇本山に列する。
寛正年中(1460-65)河内に逃れ、応仁(1467-68)帰洛、応仁の乱で焼失、明応4年(1495)復興。
天文法華の乱(天文5年<1536>)で焼失。
帰洛(三条坊門室町)して京洛法華宗16箇本山の一つとして再興。しかし教勢振るわず、
天正19年頃顕本法華宗寂光寺の寺中13間四方(寺町竹屋町東)に移転。
宝永5年(1708)の大火(宝永の大火)で類焼し、寂光寺とともに川東に移転。
現在は廃絶(恐らく近年廃絶と思われる)。
※寂光寺を参照。
大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第ニ十八學區之部) より
寂光寺中の西北にあり、一本山なり。本堂東面す。
永享3年5月妙満寺の僧日舜分派し、綾小路に一寺を建立し、本尊法華題目釈迦多宝佛を安置す。
宗風盛に塔中34ヶ院の多きに及べり。
檀越畠山義就、寛正中反逆の意あり、河内に追却せらる。時に当寺に加勢を求む。寺僧応せず、応仁元年赦免を得て上洛し、権威忽ち四方に振う。当寺嚮に加援に応せざりしを憤り、偶々兵火に罹るも救援せず、遂に為有に帰す。
明応4年再興せしが、天文5年7月法乱の為に焚かれて離散す。同10年三条坊門室町の地に堂宇を再建せしが、其規模往年の十分の一にも及ばず。
天正18年命に依り寂光寺内に移る。豊臣氏より寺禄4石を附す。宝永5年3月類焼し、寂光寺と共に今の地に移る。
旧境内208坪、今176坪。
2003/8/3追加
○寂光寺古絵図写(天明8年<1788>)
より
寂光字境内北西隅が妙泉寺寺地
○妙泉寺古絵図写(天明8年<1788>)
佛蔵・拝殿は東面し、その南に番神、北に台所・座敷を配し、南西に墓地がある。
○妙泉寺建物図(天保14年<1843>)
天明8年の絵図と基本的には同じであるが、番神は既にない。
2003/8/18追加
「雍州府志」黒川道祐撰、天和2年(1682)草稿、貞享3年(1686)刊 より
京極大炊御門に在り、日舜上人開基、日蓮宗21箇寺の一、寺産少しばかり在り。
2007/03/16追加:
「花洛名勝図会」元治元年(1864)、挿絵:暁鐘成、四方義休、楳川重寛、京都神光向松堂刊
妙泉寺:
法華宗勝劣派本涌山と号し開基は日舜僧都、其始めは綾小路にあり後京極大炊御門に移りまたここに転じ
日蓮宗32箇寺の一員なり。
寺内三十番神鬼子母神の社あり又佐渡国袈裟うけ松出現の日蓮大士の像を安置の堂あり。
2011/08/21追加:
○京都市明細図:昭和2年頃、「大日本聯合火災保険協会」が作成、昭和26年頃まで加筆・修正がなされる。
京都市明細図寂光寺:北西に妙泉寺があり、戦後暫くは妙泉寺堂舎は存在したことが分かる。
★妙泉寺現況
現寂光寺の山門(北側)を入った西の空き地(妙泉寺報恩塔がある一画)が近世後期の妙泉寺跡である。
現在は堂宇はすべて退転し、駐車場となる。
2007/03/10撮影:差替
妙泉寺報恩塔:寂光寺内妙泉寺跡に建つ。:年紀は昭和56年建立
2017/09/03撮影: 妙泉寺報恩塔2
寂光寺々中妙泉寺跡:この区画の前に「妙泉寺報恩塔」がある。
2014/05/01撮影:
妙泉寺旧境内か:寂光寺山門西側は現在民家であるが、かっては近世後期の妙泉寺境内の一部であったと推定される。
2022/05/17撮影: 妙泉寺報恩塔 寂光寺中妙泉寺跡
廃寺の裏(西側)に狭い墓地があり、その更に狭いほんの一画に妙泉寺歴代墓所がある。
その墓所に以下のささやかな墓碑が残される。
妙泉寺歴代墓所
2014/05/01撮影;
妙泉歴代墓所:中央は題目碑(正面・左面・背面には題目<南無妙法蓮華経>を刻む、右面は題目以外の文字を刻むが判読できない)、左は歴代碑、右は十二祖碑、向かって左端は歴代とは無関係の碑と思われる。
2007/03/10撮影:
歴 代 墓 碑;背面には享保5年6月立之
※歴代墓碑に刻まれた歴代:
日遷?、日真、日顕、日貞、日信、日運?、日誠、日盛、日春、日円?、日感、日照、日永、日亮、日性、日護? とある。
日遷?が2世で、以下続く・・・日感は12世・・・と思われる。
十二祖日感上人墓碑;背面には享保5年4月・・とある。
二十世日必贈上人碑
2022/05/17撮影:
妙泉寺墓地題目碑1
妙泉寺墓地題目碑2:右側面は相変わらず判読できず。 妙泉寺開山日舜の墓碑が妙泉寺墓地に見当たらず、また上掲(2007年)の「妙泉歴代墓所」の中央の石塔であり、日舜の墓碑あるいは供養塔と推測するも、確証はない。
2006年以前作成:2022/10/25更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮上人の正系
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