建 仁 寺

○天明年間刊「都名所圖會」巻2の建仁寺(部分) より

2022/05/24画像入替:


山城建仁寺:左図拡大図

本文より:
安国寺塔〔方丈の庭にあり〕織田有楽塔〔正伝院にあり、則有楽翁の数寄屋あり〕

安国寺塔婆が存在していたと思われるも、資料としては以下しかない。

○大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事 より(下京第二十學區之部)
建仁寺・三重塔の址
南谷にあり。今詳ならす。梶原景時の妻、鹿野尼の建立なり。天文11年火災に罹る。爾後再建に及ばす。
方丈の項から
・・・天文の兵火に罹る。今の方丈は安国寺から移す所。・・・

以上の記事によると、「都名所圖會」の時代に三重塔が現存したことは疑わしいと思われる。
方丈は安国寺から移され、また古は安国寺には塔婆が造営されていたということから、いわば「復原図」とも思われる。

○「佛教考古学論攷」石田茂:
 「建仁寺三重塔、天文11年(1542)火亡」とある。

○2022/05/24追加:
「建仁寺方丈(重文)」:
慶長4年(1599)恵瓊が安芸安国寺から移建したと伝える。
安国寺塔(三重塔)も恵瓊が安芸安国寺から方丈とともに移建したものとも考えられるが、何の情報もないので、よく分からない。
ただ、天文11年(1542)火亡とあり、爾後再建されずともあるので、そうであるならば、安国寺恵瓊が安芸安国寺から移建ということはないと思われる。
「織田有楽塔」:
有楽斎は織田信秀の十一男で、信長(二男)の実弟である。
元和4年(1618)豊臣家家臣織田有楽斎は引退し、正伝院を借用し、再興される。この時、隠居所と茶室「如庵」が建てられる。
明治維新によって、細川家菩提寺は無住のため廃寺、正伝院と永源庵は合併し、正伝院は永源院の故地に移転する。
明治42年頃、正伝院の旧地の伽藍(書院、庫裏、総門、唐門、二重閣門、長好閣)は売却され、移転となる。この時、書院、茶室「如庵」、露地も東京に移建される。
いうような略歴は分かるが、「織田有楽塔」とは不詳。


2022/05/24追加:
参考:
東山安井観勝寺・鎮守金比羅権現

東山建仁寺東に隣接してかっては光明院観勝寺とその鎮守金比羅権現があり、神仏分離の処置で金比羅宮のみ残る。

本記事の掲載の直接の契機は「oshiro tennsyukaku」氏から、「東山安井金比羅権現にある『縁切り縁び結碑』が、何か芯礎にも見えるようです」として、紹介されたからである。
勿論、知り得た諸情報から心礎である可能性は皆無であったが、確認のため、現地を訪れる。
予想のとおり、心礎であるはずも無かったということであるが、安井金比羅権現にも意外な歴史がありかつ明治の神仏分離の影響を深く受けており、掲載することにする。

 →讃岐白峯寺:崇徳上皇の讃岐での配流先である。

○東山安井金比羅権現のHPでは「由緒」を次のように云う。
藤原鎌足、一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まる。
久安2年(1146)崇徳天皇、特にこの藤を好み、堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍(あわのないし)を囲い女とする。
保元元年(1156)崇徳上皇、保元の乱に敗れて讃岐に流罪、崩御した時に、阿波内侍は上皇自筆の御尊影を寺中の観音堂に祀る。
治承元年(1177)、大円法師、御堂に籠りし時、崇徳上皇が現れ往時の盛況を示す。このことは直ちに後白河法皇に奏上され、法皇の命にて光明院観勝寺建立される。
応仁の乱(1467〜1477)にて光明院観勝寺は兵火により焼亡する。
元禄8年(1695)太秦安井にあった蓮華光院が当地に移され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。
明治維新の神仏分離の処置で、蓮華光院を廃し、「安井神社」と改号し、更に「安井金比羅宮」と改号しする。
※現在では「海上安全」などでは商売にならず、「縁切り・縁結び」で時流に乗り商売になっているようである。

○Wikipedia では次のように云う。
天智天皇の時代に藤原鎌足が当地に藤原家一門の繁栄を祈願した仏堂を建立し、藤を植樹して藤寺と号した(「安井金比羅宮|略縁起」)のがそもそもの始まりである。
平安期、崇徳上皇は藤寺の藤を愛でると共に、寵愛している阿波内侍を住まわせて、たびたび御幸し(同上)、久安2年(1146)には堂塔を修理する。
崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐国に流罪となった際、阿波内侍に自筆の尊影を下賜する。そして上皇が讃岐国で崩御すると、悲嘆にくれた阿波内侍は出家して尼になり、崇徳上皇の自筆の尊影を藤寺観音堂に奉納し、塚を築いて遺髪を埋めて日夜ひたすら勤行する。
治承元年(1177)崇徳上皇の自筆の尊影が奉納された藤寺観音堂に大円法師が参拝した際、上皇の霊が現れたことから、後白河法皇の詔によって建治年間(1275-77)に崇徳上皇を祀る光明院観勝寺が建立された。これが当社の起こりとされる(同上)。阿波内侍が築いた塚は整備されて御影堂(現・崇徳天皇御廟(現存)が建てられる。
光明院観勝寺は応仁の乱の戦禍で荒廃したが、明応6年(1497)住持の幸盛が御影堂を再興し、崇徳上皇を慰霊した。
元禄8年(1695年)に太秦安井(現・京都市右京区太秦安井)の蓮華光院(安井門跡)が移建されると、光明院観勝寺はその管下になり、後代になって光明院観勝寺は廃絶した。
なお、近年において崇徳上皇を慰霊した光明院・観勝寺、通説では観勝寺の別名とされていた東岩蔵寺は元は全て別の寺院で、光明院・観勝寺が東岩蔵寺の末寺であったものが応仁の乱による東岩蔵寺の廃絶などによって最終的には光明院を経て蓮華光院に統合され、その過程で東岩蔵寺・光明院・観勝寺の寺伝が混同されるようになったとする指摘がなされている<「東岩蔵寺と室町幕府-尊氏像を安置した寺院の実態-」細川武稔(「京都の寺社と室町幕府」、吉川弘文館、2010 所収)>。
「都名所図会」巻之三「安井光明院観勝寺」によれば、真言宗の僧侶の大円法師が参籠した際に崇徳上皇の尊霊が現れて往時の趣を示したので、後白河法皇に奏達したところ、詔が下って崇徳上皇の尊霊の鎮魂のために堂塔を建立して、仏堂に准胝観音を本尊として祀った。奥の社には崇徳天皇を祀るとともに、金毘羅権現・源三位頼政を合祀し、安井の金毘羅と称したとあり、「崇徳帝・金毘羅は一体にして和光の塵は同じうして擁護の明眸を…利生霊験いちじるし」と記されている。
源頼政が合祀されたのは、蓮華光院(安井門跡)の初代道尊僧正が、平氏政権打倒のため頼政に補佐されて挙兵した高倉宮以仁王の遺児であったためと考えられている。
明治維新による神仏分離(神仏判然令)により、蓮華光院(安井門跡)は廃され、安井神社に改組された。併せて祭神の金毘羅権現は、大物主神に改められた。明治6年には村社に列し、更には明治15年に郷社へ昇格した。
戦後、「安井金比羅宮」の名称となり現在に至る(「安井金比羅宮|略縁起」)。

○「都名所図会」巻之三「安井光明院観勝寺」 より
安井感勝寺光明院は安井御門跡前大僧正性演再興し給ふ。古より藤の名所にて、崇徳天皇の后妃阿波内侍此所に住せ給ふ。
天皇保元の乱に讃岐国へうつりましくて、御形見に束帯の尊影御随身二人の像を画て、かの地より皇后に送り給へり。
其後天皇〔讃岐院とも申す〕配所松山に於て大乗経を書写し、和歌一首を添給ひて都の内に納めんとて送り給ふ。
千鳥跡は都にかよへども身は松山にねをのみぞなく讃岐院
然るを少納言入道信西奏しけるは、若咒咀の御心にやとて御経をば返しければ、帝大に憤り給ひて、大魔王となつて天下を朕がはからひになさんと誓ひて、御指の血を以て願文を書給ひ、かの経の箱に奉納龍宮城と記し、堆途といふ海底にしづめ給ふに、海上に火燃て童子出て舞踏す。是を御覧じて所願成就すと宣へり。夫より爪髪を截給はず、六年を経て長寛二年八月廿六日に崩御し給ふ、御年四十六、讃州松山の白峯に葬り奉る。〔以上保元記に見えたり〕
夫より御霊此地に来て夜々光を放つ、故に光堂ともいふ。然るに大円法師といふ真言の名僧、此所へ来つて参籠す。崇徳帝尊体を現じ往事の趣を示給へり。大円これを奏達し、詔を蒙りて堂塔を建立し、かの尊霊を鎮め奉り、光明院と号しける。
仏殿の本尊は准胝観音なり。御影殿には後水尾院の宸影、明正院並に東福門院の尊牌を安置し奉る。又弘法大師像あり。
奥の社は崇徳天皇、北の方金比羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし。崇徳帝金比羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ、利生霊験いちじるしとぞ見えにける。
当寺の門前を新更科と号し、中秋には洛陽の騒客こゝに集りて東山の月を賞す。今は家居繁く建ならびて風景を喪ふ。
 都名所圖繪・安井観勝寺
※本図によれば、安井観勝寺は明治維新までかなりの寺観を具備していたようである。
寺門を入り、右手に御影堂・阿弥陀・毘沙門や諸社を配し、正面参道奥に本堂を構え、左手に唐門及び壮麗な御殿(安井門跡)がある。さらに本堂左即ち御殿裏手には金比羅社・本地堂・歓喜天・諸社などもあり、結構な伽藍を有していたことが分かる。明治の神仏分離の処置で金比羅社以外は廃されたものと思われる。

○「新撰京都名所圖繪 巻4」竹村俊則、白川書院、昭和37年 より
当社は、もとこの地にあった安井門跡(蓮華光院)が讃岐の金比羅宮の祭神おうものぬしを勧請し、鎮守社としたもので、明治維新に際し、寺は嵯峨の大覚寺に吸収され、神社のみが残る。この時御影堂に祀られていた崇徳天皇を配祀し、安井神社と称したのが当社の起りである。
また、祭神に高倉宮以仁王を配祀しているのは、安井門跡道尊僧正が以仁王の遺児であるところから祀られたものであろう。
安井旅館街:金比羅宮周辺の連れ込み旅館街を云う。・・・以前から席貸旅館が多かったが近年はこれらが一勢にアベック旅館に転向し、何々温泉・ホテルと化し・・・いかがわしい営業を続けているのも、近年の安井風景である。・・元来この地は崇徳天皇の籠妃や白川法王が祇園女御を囲っていたところであり、昔からこの付近は妾宅地であった。この伝統の遺風が千年近い今日まで受け継がれているのはただただ感嘆の至りである。

2022/02/21撮影:
 縁切り縁び結碑1     縁切り縁び結碑2     縁切り縁び結碑3     縁切り縁び結碑4


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