粟 生 光 明 寺 縁 起 絵 巻 に 見 る 三 重 塔 ★「粟生光明寺絵縁起」
:(総本山光明寺開創八百年記念)平成10年・西山浄土宗発行に光明寺三重塔が描かれる。
当絵巻の成立年代は不詳とされるが、中興とされる光明寺第32世倍山無壁の頃におそらく成立したものと推定されている。
なお絵師は土佐派の絵師になるとされる。
※倍山は慶安4年(1651)−延宝2年(1674)まで住山し、山崎の合戦で灰燼に帰した光明寺を再興した師とされる。
倍山の再興はこの再興図のように、なされたのかどうかは不明であり、證空上人再興伽藍にある三重塔も再興されたかどうか不明。
光明寺は宗祖源空(法然)、第3代を熊谷蓮生房、第4代を證空(西山浄土宗派祖)とし、熊谷蓮生房が営んだ念仏三昧院を始まりとする。
證空により再興図のような大伽藍が整えられたと云う。
倍山の復興の後も、伽藍は興亡を繰り返すが、現在も西山浄土宗の本山として現地には基本的に再興図を偲ばせる大伽藍を維持しています。
塔婆跡については、江戸期の都名所圖會にも、現地にも、偲ばせる形跡はないと思われる。
今のところ、粟生光明寺三重塔についての情報は、「粟生光明寺絵縁起」に絵が有るだけで、それ以外の情報は全く見当たらない。
※「長岡京市史 本文編1」にも塔婆に関する情報は全くなし。
2006年以前作成:2008/10/27更新:ホームページ、日本の塔婆
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