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★南宮社古絵図
2026/02/02追加:南宮社古図を入替
○「国立歴史民俗博物館資料調査報告 情報資料研究部 社寺境内図資料集成1 東北・関東・中部・中国・四国・九州」国立歴史民俗博物館、2001 より
南宮社古図:正規、画図サイズは約2MBである
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南宮社古図・正規:左図拡大図:画図サイズは約2MB
この絵図は手持ち図書では
・「国立歴史民俗博物館資料調査報告 情報資料研究部 社寺境内図資料集成1 東北・関東・中部・中国・四国・九州」国立歴史民俗博物館、2001(口絵と本文)
・「なにが分かるか、社寺境内図」国立歴史博物館、平成13年(2001)(本文)
・「神と仏のいる風景-社寺絵図を読み解く」国立歴史博物館、山川出版社、2003(口絵) に掲載されている。
また未見であるが 「第21回企画展 南宮大社 受け継がれた宝物」タルイピアセンター、2000年
に掲載という。
◇この絵図の所有者がはっきりしないが、「なにが分かるか、社寺境内図」では宇都宮宮司家とあるので、宇都宮宮司家蔵なのであろうと推測する。
宇都宮宮司家とは 昭和23年(1948)宇都宮敢、宮司就任
平成元年(1989年)南宮大社宮司就任、令和元年(2019)逝去とあるので、所有は「宇都宮宮司家」である事は確かと思われる。
また、下掲の「美濃国南宮社之図」では南宮社東側一帯には社家の屋敷が並びその中に「宇都宮右兵衛太夫」の屋敷が描かれているので、宇都宮氏の存在は確かであろう。
◇仏堂として、楼門を入って右手に鐘楼、正面廻廊の南端に本地堂、同じく北端に護摩堂・勅使殿、本社の塀の外左手に三重塔・釈迦堂が配置される。
この図(「南宮社古図」)、「木曽路名所圖會」、「美濃明細記」、「美濃國南宮社之圖」を対比して見ると、本社の諸社・仏堂を含めてほぼ各圖とも正確に描写されていると思われる。
ただ、「木曽路名所圖會」では三重塔に隣接して入母屋造の堂々たる「本地堂」が描かれるが、これは釈迦堂ではないかと思われる。堂宇も少々誇張して描かれているものと思われる。
なを、本地堂・三重塔・鐘楼の三棟は眞禪院が西方に再興され、眞禪院に移建され現存する。 |
○「国立歴史民俗博物館」本 より ◆南宮社古図:江戸期:上記画像に入替する前の画像である。
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南宮社古図

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南宮社古図部分図

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2012/01/01追加:
南宮社は東面する。三重塔は南宮社廻廊の西南隅南に描かれるも、実際の三重塔跡は廻廊の西南隅北に残る。
また、東照宮なども、実際は、南宮社南門を出てさらに西に進んだ、図で描かれるより、さらに西寄りの山麓に位置する。 2026/02/02追加:
諸絵図、特に「美濃國南宮社之圖」「南宮社古図」には多くの堂宇(元三大師・薬師堂・十一面・宝蔵院・高山社・隼人社・その他社など)が描かれているが、それらの実体の全てが幕末の頃あったかどうかは不明である。
しかし、慶應4年神仏分離の処置の過程で、神宮寺が社僧・眞禪院によって分離・独立したが、その独立した神宮寺(眞禪院)には、左記の絵図に描かれた堂宇の幾ばくかが移建されているので、ある程度の実体があったものと推定される。
現状は、南宮山々中に残るのは南宮社の奥宮として高山神社・椿姫宮の石垣と小祠のみのようである。
但し、東照権現その他の小祠は南宮社付近あるいは南宮山山麓に幾ばくかは残存する。
2026/02/02追加:木曽路名所圖會を入替 ◆木曽路名所圖會・南宮金山彦神社:下図拡大図

◆木曽路名所図会:文化2年(1805)刊:上記に入替する前の絵図
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巻之2:南宮金山彦神社:南宮山:左図拡大図
仏堂としては
護摩堂・本地堂(無量寿仏・勝軍地蔵・多聞天・十一面観音・不動尊を安ず。・・天平11年行基菩薩の草創なり、法体殿南神宮寺と号す)・元三大師堂・三重塔・釈迦堂・十王堂・地蔵堂・鐘楼等が存在する。 |
○2012/01/01追加:
三重塔・本地堂など諸伽藍は、南宮社に向かって左手(南奥)にあるように描かれるも、実際は南宮社の左手奥(西奥)にある。
廻廊の南門を出て、廻廊南に石階があるのは正確であるが、三重塔などは、石階の南ではなくて、西側に上り傾斜を持って配置される。
また三重塔の隣に本地堂が描かれるも、絵図に描かれているように実際の本地堂は南宮社内(廻廊の南端)にあり、三重塔横に描かれる本地堂は釈迦堂であろうと推定される。 |
2026/02/02追加:美濃国南宮社之図を入替 ◆美濃国南宮社之図
○サイト:垂井町文化財アーカイブ>デジタルミュージアム より 大きさ:392×555cm、幕末頃に作成された絵図
●美濃国南宮社之図・大:下図拡大図

この絵図を観察すれば、 山上(南宮山か)には、法華塔・石仏3体 その下には、奥宮・高宮社・隼人社・子■(子安)の奥宮?
さらにその下には、■■山祇神・■御前、少し外れて神明、
香取・賀茂?・春日・八幡・ス■・熊野・熱田・白山・日吉・祇園・北野・諏訪・住吉の13の小祠 愛宕・■■・三輪の小祠が並ぶ。
山道を下ると、千手堂・山上/千手院、さらに下ると十一面・山上/宝珠院、さらに下り薬師堂、その上には中殿高山
ほぼ下り切ると、氏神・荒神を過ぎて、柵門があり、その脇には元三大師
さらに南宮社に至るまでに、東照宮・山王・稲荷及び釈迦・大日塔があり、南宮社通用門(南門)に至る。
通用門(南門)から南に下れば、胡害社・弁天・鉄塔に至る。 南宮社については南宮社諸殿の項を参照。 南宮社南方(絵図の左)には、社僧正行院・同威徳院・同知足院・同元上院、大慈寺(社僧ではない)、大湯屋?があり、
南宮社東方には、宇■■■・空白・宇都宮右兵衛太夫、大庭神太夫・不破代官太■・大庭預太夫・西東左弓■・六地蔵 南宮社北方には、■生院(社僧利生院)・古宮・大羽■■・社僧常林坊・伊東■太夫・社僧眞禪院・江突き公太夫・(社僧?)最勝王寺
稲葉次太夫・杉■太夫・社僧十如院・社僧圓乗院などが描かれる。
※社家は宇都宮・大庭・不破の三家といい、宇■・宇都宮・大庭・不破・西東・稲葉・杉などは社家及び宮司・禰宜の諸氏の館であろう。
さらに北方には樽井駅や御旅所(美濃国府跡・南宮社古宮・美濃国総社跡といい、現在は南宮社お旅所・摂社南宮御旅神社という)が描かれる。 ※社僧については下掲の「美濃明細記」を参照。
2006/02/04追加:
◆美濃国南宮社之図:江戸後期:上記に入替する前の絵図
「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図 下」 より:絵図は江戸末期のものと推定される。
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美濃国南宮社之図:左図拡大図
:正行院蔵か
本社を中心に南側には南神宮寺、さらに多くの堂宇・坊舎が存在する。
ここでも、本社および神宮寺を中心にした一山多院制寺院が成立していた様子が覗える。
本社の南に大日塔(三重塔)があり、真禅院は本社北側にある。
美濃国南宮社之図(真禅院部分図)
本社北側道路沿いに真禅院が描かれる。
美濃国南宮社之図(大日塔部分図)
本社内に本地堂、すぐ外に三重塔があり、その他東照宮、元山大師、薬師堂、十一面観音堂、千手観音堂、宝珠院、鉄塔(本社南にある)、威徳院、正行院、知足院、大慈寺、元上院、
常林坊、その他の社僧、多くの堂宇が描かれる。 |
2012/01/01追加:
上図でも三重塔は南宮社廻廊の西南隅南に描かれるも、実際の三重塔跡は廻廊の西南隅北にあり、また、東照宮なども、実際は、南宮社南門を出てさらに西に進んだ、図で描かれるより、さらに西寄りの山麓に位置することは、上述のとおりである。
2026/02/02追加: ◆「宮代古図」
○「国立歴史民俗博物館資料調査報告 情報資料研究部 社寺境内図資料集成1 東北・関東・中部・中国・四国・九州」国立歴史民俗博物館、2001 より
江戸期のもの、左記以外の法量、所有者、由緒などの情報は一切なし。 美濃國宮代古図 少々、図版が不鮮明、記された文字も判読し難たいのが残念であるが、南宮社・三重塔、南宮山が強調されている。
◆美濃明細記
◎南宮社々僧 2008/03/12追加:
○「美濃明細記」伊東實臣著・宮勝光保[写] 、天明6年(1786)
美濃明細記・宮代社僧:宮代社僧 天台宗 東叡山末
利生院 十如院 真禅院 円乗院 常林坊 元上院 威徳院 知足院 (山上)千手院 (山上)宝珠院 (檀那寺)正行院 とある。
※正行院を除く十院を「南宮十坊」と称する。 2026/02/02追加: ○「美濃明細記」上記とは別の写本 不破郡
一宮代社僧 天台宗 神領御朱印地分配 一■執行也皆東叡山末寺也
利生院 十如院 眞禪院 圓乗院 常林院 元上院 威徳院 知足院 山上/千手院 山上/宝珠院 檀那寺/正行院
※但し、利生院、威徳院、千年院、宝珠院に代えて、花王院、南光院とする資料もある。 ※ 国立国会図書館の解説:
「美濃明細記」は写本として多く残されている。
その冒頭の言によると、原書は元文3年(1738)に伊藤実臣が著した『百茎根』(ももくきね:和歌の枕詞)であり、それを田中平氏信次が改題した
「美濃明細記 美濃雑事記 一信社版」(一信社出版部、昭和7年)の緒言で、編纂者・平塚正雄は「本書は美濃の記録中で一番組織立つてゐるものであり、この種の書としては一番古いものであり、美濃としては最も信頼されてゐるもの(後略)」と評している。本写本は、明治2年に大垣で売買されたもの。
2008/03/12追加:
◎南宮図:「美濃明細記」伊東實臣著・宮勝光保[写] 、天明6年(1786) より
南 宮 図:古代は山の麓今塔の有る所本社鎮座寛永以来山下遷座 とある。
本社左に本地堂、右に護摩堂などを配置する。 2026/02/02追加: 南 宮 図 2:「美濃明細記」上記とは別本 本地堂:5間1尺×4間、これは現・眞禪院に移築される。 護摩殿/勅使殿:7間×4間半、これの原型はこのまま現地に残る。
鐘楼:2間2尺四方、これは現・眞禪院に移築される。
★南宮山三重塔跡
2010/10/29追加:「重要文化財真禅院三重塔修理工事報告書」昭和59年 より
三重塔跡:明治の移建に際し、「礎石関係も全て運び出されたものと思われ、南宮社境内後方の旧所在地は跡形もなく整備され、今はかっての塔の所在を示すものとして石碑が建つのみとなっている。」
2011/12/24撮影:
南宮山山上への参道入口:南宮社南門(写真)を出て、西向きに石階があり、これが南宮山上への参道である。
石階を上り、向かって右すぐに南宮山三重塔跡がある。
現真禅院三重塔跡は上記の「・・・修理工事報告書」のとおりである。さらに悪いことに付近が工事中ということもあり、伐採した樹木が置かれ、全く打ち捨てられた状態である。
南宮山三重塔跡1 南宮山三重塔跡2 南宮山三重塔跡3 南宮山三重塔跡4
-----以下は2002/08/12訪問時の記事であるが、三重塔跡地を誤認している。-----
□三重塔跡:大社向かって左奥(南)に本地堂、三重塔があったと思われる。
現地は更地あるいは民家になり、全く痕跡、面影は全くない。
神宮寺想定地1 神宮寺想定地2
ただし、さらに奥に若干の平坦地をもつ社叢があり、今回は未探索であるが、あるいはこの場所が塔跡であった可能性もあるが、
塔の建っていた場所の特定は出来ず。
-----2001/01/13訪問時の記事 -------------------------
★真禅院三重塔
□三重塔
■真禅院:明治維新以降現在は、南宮社西方約400mのところにある。朝倉山(天台宗)と号する。
朝倉山は
天平11年(739)行基の開基と伝え、自刻の阿弥陀如来を本尊とし、象背山宮処寺と号したと伝える。
天平12年聖武天皇、不破頓宮より宮処寺及び曳常泉へ行幸と云う(続日本記・日本記略)。
※寺伝では宮処寺を開創の地とすると云う。
この宮処寺はおそらく南宮社と関係を深め、南宮社を本社とする一山多院制寺院へ発展していったものと思われる。
具体的には、延暦年中、伝教大師勅を奉じて、南宮社と宮処寺とを習合、寺号を南神宮寺する。
文亀元年(1501)全山炎上。永正8年(1511)美濃守護土岐政房による再興工事竣工。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で諸堂宇の大半が焼失。
戦後、南宮権現執行利生院橋本永純、寛永寺に再建を懇願、寛永16年(1639)徳川家光により、再建・造営が命ぜられ、同19年ほとんどの社殿・堂塔が復興される。
維新前には、真禅院をはじめ、南宮社を取り巻く多くの社僧があった。上掲「美濃国南宮社之図」など参照。
2008/03/12追加:「美濃明細記」伊東實臣著・宮勝光保[写] 、天明6年(1786)
美濃明細記・宮代社僧:宮代社僧 天台宗 東叡山末
利生院 十如院 真禅院 円乗院 常林坊 元上院 威徳院 知足院 (山上)千手院 (山上)宝珠院 (檀那寺)正行院 とある。
※正行院を除く十院を「南宮十坊」と称する。
◎明治の神仏分離:
南宮社執行真禅院秀覚法印が、村人の絶大な奉仕のもと、本地堂・三重塔・鐘楼等22棟の堂宇を統廃合して明治4年までに現在地に移建する。
蓋し明治の神仏分離(神仏判然)の時、自ら進んであるいは殆ど抵抗もせず還俗神勤し、堂塔や仏像・仏画・経典・仏器などを自ら進んであるいは手をこまねいて破壊あるいは売却に任せた寺院・僧侶が多い中で、
真禅院秀覚及び村人の「見識」には大いに敬意を払うべし。
現在以下の堂宇が移転・現存する。
○本地堂(重文):阿弥陀如来四十八願霊刹第34番札所、旧南宮大社本地堂、本尊無量寿如来(南宮神社本地仏)
※本地堂は、絵図類には、本殿左前に妻入の本地堂として描かれる。
○三重塔(重文):本尊大日如来、寛永19年9月11日再建
○観音堂:元宝珠院 明治維新までは南宮社奥之院 (宝珠院と号す)と称し、美濃中山(現南宮山)の山上にあった。
それ故、高山観音と通称される。本尊十一面観音。
※2026/02/02追加:「美濃国南宮社之図」には、山上の下「十一面(観音堂)」付近に宝珠院が描かれる。
また「南宮社古図」には「十一面堂」が描かれる。 ○薬師堂 ○護摩堂 ○弁才天堂 ○十王堂
※2026/02/02追加:「美濃国南宮社之図」などには薬師堂・弁才天・十王堂が描かれる。だとすればこれらの堂宇はこれらの絵図の描かれる堂宇が移建されたのであろう。
○鐘楼:寛永19年9月11日再建
○梵鐘(重文) ○鉄塔 ○法華塔:絵図の山上に法華塔描かれる。
2010/10/29追加:
◆真禅院境内図:明治期と思われる。
※南宮山の由緒が語られる。
※2011/12/08追加:推測であるが、本図は「大日本名蹟図誌」(未見)に掲載のものではないであろうか。
◆真禅院本地堂(重文・本尊南宮山本地阿弥陀如来)
◆真禅院高山観音堂 2011/12/24撮影:
高山観音堂・本地堂:右より高山観音堂、本地堂、護摩堂屋根、薬師堂屋根
真禅院高山観音堂1:明治維新までは南宮社奥之院
(宝珠院と号す)と称し、美濃中山(現南宮山)の山上にあった。
それ故、高山観音と通称される。本尊十一面観音。
※美濃国南宮社之図・大(上掲)の山上(左上方)に宝珠院(十一面)、高山社などが描かれる。
真禅院高山観音堂2:右に写る堂宇は聖天堂であろう。
◆鉄塔覆屋 2011/12/24撮影:
真禅院鉄塔覆屋:鉄塔(未見)を安置する。
鉄塔:北条政子寄進と云う。応永5年(1398)8月10日河内国高大路家久による鋳物とされる。
下幅百cm、鉄塔上層に菩提六体、下層に四天王像が鋳られていると云う。
◆2011/12/24現地にて
◎鉄塔レプリカ:
南宮社の元鉄塔位置に鉄塔レプリカが近年設置されたと思われる。
しかしながら、元鉄塔位置が判然とはせず、見つけることができず。(未見)神社職員に聞くも知らないと云う。
2012/01/25追加:
下掲「聖武天皇宮処寺境内碑2」のすぐ先に、「湖千海神社」の鳥居(背景の鳥居がそうであろう)があり、鳥居を少し上ると、湖千海神社の広場と小祠があり、その広場の一角に「曳常泉」の石碑が建つ。「曳常泉」は涸れているようであるが、その先に「鉄塔レプリカ」がある。
なお、湖千海神社の鳥居のちょっと先には「瓦塚」がある。
※この鉄塔レプリカのある位置は元鉄塔位置であると推定されるが、絵図類が大雑把で判然とはしない。
鉄塔レプリカの自前の写真がないので、右のサイトから転載する。 ※サイト:南宮大社 その7 湖千海(こせかい)神社
鉄塔レプリカ
南宮社鐵塔:「木曽路名所圖會 巻2」より
◆その他の諸堂 2011/12/24撮影:
真禅院境内1:左から最勝寺観音堂、釈迦堂、薬師堂、一番右は護摩堂が並ぶ。
真禅院境内2:左から最勝寺観音堂、釈迦堂、薬師堂がある。
真禅院護摩堂 真禅院薬師堂 真禅院薬師堂内部?
真禅院釈迦堂1 真禅院釈迦堂2 真禅院釈迦堂内部 最勝寺観音堂:由緒不明、近年の建築であろう。
真禅院十王堂
真禅院十王堂内部 真禅院庫裏
◆残存する南宮宮寺坊 2011/12/24撮影: ・宮代社僧大日山正行寺
南宮社南方に残る。※美濃明細記・宮代社僧(上掲)では(檀那寺)正行寺とあり、南宮山一山の葬儀を執行したのであろう。
宮代社僧正行院参道 正行院山門・鐘楼 社僧正行院本堂 社僧正行院小宇
・八華山大慈寺
「大慈寺及延命地蔵菩薩縁起」では、当寺は室町期南宮社神馬供養の寺として創建されると云う。 また南宮社十王堂(閻魔堂)・地藏堂の別当でもあった。 地藏堂は
十坊の一つであった知足院門前にあったが、明治の神仏分離によって、現在地(大慈寺寺門脇)に移される。地蔵堂は安政3、4年の再建と云う。(地蔵堂の写真は無し)
なお、十王堂は真禅院に現存する十王堂であろうか。
大慈寺全景 大慈寺本堂・鐘楼 大慈寺鐘楼
※美濃国南宮社之図(上掲)の左下付近に正行院、その北に知足院、さらに北に大慈寺が並んで描かれる。
■南宮社概要 2026/02/02追加: ○南宮社HP より
南宮大社は古く神話の時代、伊耶那美命が火之迦具土神(ひのかぐつち)を生み、その時に生まれた鉄鉱・鉱山を司る金山彦大神(かなやまひこ)を主祭神として、相殿神に彦火火出見尊(ひこほほでみ)、見野命(みの)を祀る。
○Wikipedia より 社伝では、崇神天皇の時代に創建されたとされる。 「延喜式神名帳」には「美濃国不破郡
仲山金山彦神社」とあり、名神大社である。また、美濃国一宮とされた。
文亀元年(1501)全焼、永正8年(1511)守護・土岐政房により復興される。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで焼失し、寛永19年(1642)徳川家光が岡田善政を奉行として再建する。
この時の造営文書が残存し、重文にしていされている。
この際に作成された文書が現在まで残されており、再建にかかった費用などが事細かに記された貴重な資料として国の重要文化財に指定されている[3]。
慶應4年(1868)神仏分離の処置が実施され、社僧・眞禪院は仏堂・仏塔・仏像などを引き取り、南宮社から分離移転する(現朝倉山真禅院)。
明治4年「南宮神社」として国幣中社、大正14年国幣大社として国家神道にどっぷり浸かる。戦後、「南宮大社」と改称する。 祭神
主祭神:金山彦命
配神:彦火火出見命:火折尊(ほのおり)、火遠理命(ほおり)ともいう、あるいは彦火火出見尊は、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子であり、神武の祖父といい、「山幸彦」として知られる。
見野命 ○神社庁の由緒・由来 気持ち悪いので割愛する。
2026/02/02追加: ■南宮社境内図:南宮社HPより転載し・一部加筆する。 ◎南宮社境内図:現在の境内図である:下記拡大図

南宮社の摂末社の多くは、明治維新の神仏判然令により、従前の仏教的な名称や神仏習合の神から、記紀神話(古事記・日本書紀)を経典とする復古神道・国家神道に基づく祭神・社名に改竄される。
判明している改竄は次の通りである。
社名 現在の祭神 明治維新前の通称・祭神 備考
落合社 スサノヲ 牛頭天王 落合とは南宮社を囲んで流れる2本の川が落合場所にある社との意という。
江戸末期の絵図も落合社とあるから明治維新前からの社号であろう。
南大神社 天火明命 五宮 太陽光や熱の神 隼人社 火須勢理命
四宮 本殿に祀られる神の兄神 樹下社 大山咋神 十禅師社(二宮)
比叡山の守護神である十禅師(樹下権現)に由来。 湖千海社 豊玉彦命 引常明神
潮の満ち引きを司る神。湖千海神社の由緒碑に「引常明神」の名が残る。 高山社 木花開耶姫命 高山権現
高山権現は南宮山の山頂付近(奥宮)の神 東照宮については、徳川氏との深い関係があるからであろうか、現在もそのまま存続するが、
社殿は江戸期のものは退転したと思われ、今は小祠があるのみである。 南宮山と奥宮
南宮山(標高419m)山頂付近に奥宮(高山神社)がある。 南宮山は古来から神体山として崇められてきたという。
また、南宮社は古宮から現在地である南宮山々麓に移ってきたともいい、
そのことによって南宮山は南宮社に取り込まれる形となり、南宮社の「奥宮」とされたのかも知れない。
奥宮(高山神社)の祭神 現在は木花開耶姫、山麓の「高山社」同神である。
古くは「高山権現」や「椿姫宮」と称されていた。 ※「椿姫宮」とは南宮社の神木が「白玉椿」に因むものなのであろうか。 奥宮の隣には子安社がある。
子安社の祭神は保食神であり、安産の神ともされる。
※現在南宮山山頂下には奥宮(高山神社)と子安社の2小祠のみが存在すると思われる。
■南宮社社殿
二層門あるいは舞台などの社殿は仏堂建築そのものの意匠を持つ。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の兵火で社殿は焼失。寛永19年(1642)春日局らが願主となり、徳川家光によって再建される。
2002/08/12撮影:
美濃南宮大社1
同
2
2011/12/24撮影:
美濃南宮社楼門1:重文 美濃南宮社楼門2 美濃南宮社楼門3 美濃南宮社楼門4 美濃南宮社楼門5
美濃南宮社楼門6
美濃南宮社舞殿1:重文 美濃南宮社舞殿2 美濃南宮社舞殿3 美濃南宮社舞殿4
※舞殿(高舞殿)は3間四方の建築で各間中備は十二支を彫刻した蟇股を配する。
美濃南宮社拝殿1:重文 美濃南宮社拝殿2
美濃南宮社本殿1:重文 美濃南宮社本殿2 美濃南宮社本殿3
十禅師社・隼人社:重文:向かって左が十禅師社
高山大神・南大神:重文:正面社殿が高山大神、南大神は
向かって左に微かに見える、向かって右は本殿
美濃南宮社廻廊1:重文、2棟 美濃南宮社廻廊2
2026/02/02追加: ◇勅使殿/護摩殿
○「重要文化財 南宮神社本殿外十四棟 修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、重要文化財南宮神社修理委員会、1973 より
本報告書には重文・南宮社の本殿外14棟の貴重な情報が報告されている。
拙ページにその全てを転載することができれば幸いであるが、機会があればそれを果たすということにして、今回は勅使殿/護摩殿のみの概要を転載する。
勅使殿/護摩殿 構造形式:7間×5間、一重入母屋造、妻入、屋根銅板葺き、東面建。
基礎・軸部・組物・軒廻・妻飾・椽廻・柱間装置・天井床などは省略。 明治9年に背面一室を増築。
解体時の桟瓦葺き(明治9年に桟瓦葺きに変更)を当初の木賊葺きに似せた杮葺き形式の銅板葺きに変更する。 これは火災を考慮した結果である。
後世における形式の変更
勅使殿は、当初護摩堂内後方の一室を勅使殿と称していたものであるが、神仏分離後に背面に一室を増設して以来全体を勅使殿としょうするようになったものである。
造営記録の桁行7間、梁間4間半、屋根木賊葺きとあり現在の旧部材の平面と一致する。 護摩堂現状・当初平面図
◇聖武天皇宮処寺境内碑:「日本書記」記事(天平12年(740)12月2日、 聖武天皇、不破頓宮より宮処寺及び 曳常泉へ行幸)の地は南宮社神宮寺の地であると云う説によって建立されたものと思われる。
建立の主体・年紀は未確認、本碑は「南宮山山上への参道入口」(上掲)の石階を上ったすぐの場所にある。
聖武天皇宮処寺境内碑1:天皇行幸元本殿・宮処寺・曳常泉・旧境内
聖武天皇宮処寺境内碑2:聖武天皇大仏建立勅願所
→美濃宮処寺(みやこてら)
なお、現南宮社には建造物として、上記以外に、以下の重文建造物があると云うも、未見もしくは写真なし。
幣殿(どの部分を云うのか良く分からない)、勅使殿、神輿舎、神官廊、輪橋、下向橋、石鳥居、七王子神社本殿(本殿の後にあり見えない)
2026/02/02加筆: ■南宮社東照宮 東照宮は現存するも、祠程度のものとなる。 創建などの情報はないが、徳川家光による南宮社の再興などの経緯から、江戸初期に建立されたものと思われる。
江戸後期の絵図類にはその姿が描かれる。但しどこまで実態を写してしるのかは不明である。
現地には枘孔を有する礎石・延石などが整然と残り、また東照大権現を祀る社であるので、小規模ではあっても、絢爛な社であったと推測される。 なお、明治維新の時の東照宮に対する処置の情報もないので、何時に現在の小祠となったのかは分からない。
◇江戸期の絵図に見る東照宮の姿を次に切抜きして示す。 南宮社古図の東照宮:中央やや左手にある
木曽路名所圖會の東照宮:中央やや左の「御社」が東照宮
美濃国南宮社之図の東照宮
2011/12/24撮影:
南宮山東照宮基壇 南宮山東照宮社殿跡1 南宮山東照宮社殿跡2 現南宮山東照宮社殿
2006年以前作成:2026/02/02更新:ホームページ、日本の塔婆
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