近 江 長 寿 寺 三 重 塔 ・ 近 江 総 見 寺 三 重 塔

近江長寿寺・近江總見寺三重塔(近江長寿寺三重塔跡)

亨徳3年(1454)長寿寺三重塔建立
天正4年(1576)頃織田信長、長寿寺三重塔を近江總見寺に移建
 (楼門は栗東蓮台寺に移建・現存する。・・・但し蓮台寺の実態が良く分からない、既に廃寺か?)

近江長寿寺三重塔跡

近江長寿寺三重塔跡

三重塔跡は本堂背後の左奥の上の林中にある。
立て札と柵で囲って印としている。
ブッシュの中に礎石を若干観察することができる。
三重塔跡は昭和31年発掘調査され、その結果若干礎石は失われていたが、ほぼ旧塔の規模が分かる礎石配置が検出された。塔跡中央地下30cmのところで室町期と推定され る素焼壷とその中に収められた鏡を発掘する。
この塔跡の礎石配置と規模は総見寺塔のそれと一致すると云う。

近江長寿寺三重塔跡(左図拡大図)
三重塔跡礎石

2008/10/04追加:
「忘れられた霊場をさぐる[1]」栗東市文化体育振興事業団、平成17年より
  近江長寿寺遺構図:本堂南方に三重塔跡がある。
 近江長寿寺塔跡平面図


2009/11/08撮影:

近江長寿寺三重塔跡1:左図拡大図
  同        跡2
  同        跡3
  同        跡4

○長寿寺概要
天台阿星山5千坊の一つであるとされる。
但し5千坊とは不明であるが、天平期、良弁が聖武天皇の勅を奉じ、紫香楽宮の鬼門鎮護のために建立した阿星寺の後身とする。
良弁は阿星山東谷・西谷に各々49院を建立と云い、各々の寺坊は東寺(長寿寺)西寺(常楽寺)となる。
平安期には天台化する。当時には24坊があったとされ、近江長寿寺遺構図(上掲載)の南側にある平坦地(一部には石垣を伴う)がその跡とも推定される。白山権現 (白山社)、十王寺(行基開基と伝える、長寿寺本坊か?)が現存する。

・近江長寿寺本堂
  近江長寿寺本堂:国宝・鎌倉初期 、寄棟造桧皮葺、桁行5間、梁間5間。
 2008/10/04追加:
 「忘れられた霊場をさぐる[1]」栗東市文化体育振興事業団、平成17年より
  長寿寺本堂正面・側面図

2009/11/08撮影:
  近江長寿寺本堂1     近江長寿寺本堂2      近江長寿寺本堂3      近江長寿寺本堂4
 ・弁天堂 :文明16年(1484)頃の建築と推定。1×1間、入母屋造(正面唐破風)、屋根檜皮葺。
  近江長寿寺弁天堂1     近江長寿寺弁天堂2
 ・白山権現拝殿:重文、室町後期の建築と推定。3×3間、妻入入母屋造、組物舟肘木、屋根檜皮葺。
  長寿寺白山権現拝殿
  ※白山権現は元々長寿寺鎮守と云う。白山権現本殿・拝殿は本堂の南の一段上檀に位置する。
  即ち近江長寿寺遺構図(上掲載)に見られるように、長寿寺山門から本堂には南北方向直線的な参道があり、本堂から白山権現には
  本堂横の石階を上り、至ったものと推定される。(そこから、さらには三重塔に至る。)
  然るに、推測すれば明治の神仏分離の処置で白山権現は神社と改号、長寿寺より分離独立したと思われる。
  そのため、独立した神社に至る参道が捏造されたものと推定され、それは今も本堂への参道途中から斜めに分岐する神社参道として
  不自然にかつ取って付けたような参道が今も残る。
  「神社に至るには左の参道を」と気楽に述べる向きもあるが、これは決して「気楽」なことではなく、深刻な問題を示唆する問題であろう。
 ・近江長寿寺山門
  近江長寿寺山門
 ・長寿寺十王寺
  長寿寺十王寺
本堂内には以下の什宝がある;
 本堂内陣春日厨子(国宝)     木造阿弥陀如来坐像(重文、藤原)     木造丈六阿弥陀如来坐像(重文、藤原)
 木造釈迦如来坐像(重文、藤原)

近江總見寺三重塔

總見寺三重塔

一辺3.89m、総高19.7m。
和様を基本とする。

近江總見寺三重塔1(左図拡大図)
同          2
同          3
同          4
同          5
同          6
同          7
同          8
同          9

總見寺は天正年中に安土城築城に伴って、織田信長によって安土城の一郭を割いて創建 される。
2015/03/24追加
 信長は近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したようである。現存する二王門や三重塔などがそうである。
 また、天正13年(1585)秀吉が和泉紀州を攻め、勝利するが、紀州根来寺の焼失を免れた大伝法院伝法堂を解体、
 総見寺用材として持ち帰るという。(「根来寺を解く」)しかし、どの建築に充当するのか充当しようとしたのかは不明。
 規模からいえば、本堂でなどであろうか。
 江戸期寺領は227石5斗余りであったという。
安政元年(1854)の大火で楼門・塔を残し壊滅。本堂などは未だ再建に至らず、礎石のみを残す。
本坊ははるか離れて大手の方にある。(徳川家康邸跡に仮本堂を再建)
安土城跡は現在発掘調査中で、全山壮大な石組の山の様相を呈する。

 近江総見寺仁王門     仁王門中央間蟇股
  (仁王門は元亀2年<1951>甲賀より移築する。仁王像とともに重文)

東海道名所圖會・巻之1に見る總見寺

遠景山總見寺:總  見 寺(部分図)
記事:「三層塔(大日如来、脇士毘沙門天・不動明王。荘厳美麗なり。豊臣秀頼公の建立)」

2009/01/10追加:
 安土山及総見寺之図:年代・出所不明なるも、出典は「名蹟圖誌近江寳鑑」名古屋光彰舘、明治30年 と思われる。
  ※であるならば、明治後期の景観であろう。


2006年以前作成:2015/03/24更新:ホームページ日本の塔婆