越  中  伝  真  興  寺  跡

越中伝真興寺跡/三重塔跡

1)越中伝真興寺跡概要

上市黒川遺跡群として、円念寺山経塚・黒川上山墓跡 ・伝真興寺跡がセットで史跡指定される。
 ※今般、上市黒川遺跡は史跡指定を受ける。(平成18年/2006史跡指定)
伝真興寺跡には本堂跡、石敷きのある池、塔跡、社殿跡の遺構を残す。この遺構は中世後期のものとされる。
いずれにしろ、中世の有力な密教寺院に塔があることは通例であるが、その通例として塔が建立されていたようである。

「X」氏撮影画像・情報:2006/10/29日撮影
四天柱礎石3個、側柱礎石6個の他、すぐ傍らに位置が特定できない礎石が数個残存する。

 越中伝真興寺塔跡1;左図拡大図
上方3個、左辺2個(上左隅礎石を含む)、下方2個の礎石が脇柱礎(ほぼ自然石)と推定され、これ等脇柱礎の中の自然石3個が四天柱礎石と思わる。
 越中伝真興寺塔跡2
上方3個、右辺2個(上右隅礎石を含む)、下方2個の礎石が脇柱礎と推定され、これ等脇柱礎の中の自然石3個が四天柱礎石と思われる。それ以外に原位置を動いている礎石と推定される石も散見される。さらに 、おそらく縁束石とも思われる礎石も残存するように思われる。

真興寺は小嶋真興僧都の開山と伝えられる、準山岳寺院のようである。
真興(しんぎょう);承平5年(935) − 寛弘元年(1004)<平安中期>、子嶋僧都・子嶋先徳とも称す。
興福寺仲算(法相)を師とし、吉野仁賀から密教の法を受ける。その後壺坂寺から子嶋寺に住し、東密子島流を開くと伝える。
また高野山南院の開基とも云う。

2006/12/17:以下のパンフレットを入手
○「上市黒川遺跡群 -よみがえる中世霊場- 円念寺経塚 黒川上山墓跡 伝真興寺跡」弓の里歴史文化館、平成18年
「黒川フェスティバル」上市町・上市町教育委員会・黒川フェスティバル実行委員会、2006 より
 この地は「フルテラ(古寺)」と呼ばれていて、東密小嶋流真興僧都が開基した真興寺跡と伝承されてきた。
   ※近年まで麓にあった本覚院(移転)の寺伝による。
発掘調査により、本堂跡(5間堂規模)・塔跡・堂跡と考えられる礎石建物、石段・石垣を伴う推定山門跡、庭園池跡などが確認される。
 伝真興寺塔跡遺構    伝真興寺塔跡遺構図
 伝真興寺遺構全図    伝真興寺本堂跡遺構    伝真興寺本堂基壇    伝真興寺山門石段
遺物では9世紀から江戸期までの多くのものが発掘されたが、中心は15〜16世紀のものが多いという。この頃この寺院は盛時を迎えたものと考えられる。
 塔跡出土鉄製風鐸
2016/06/10追加:
○「史跡上市黒川遺跡群保存管理計画策定報告書」上市町教育委員会、2009(転載の画像は上記と同版のものが多い。)
  上市黒川遺跡群は「円念寺山経塚」「黒川上山墓跡」「伝真興寺跡」の3遺跡からなる。
黒川上山墓跡は中世の良好な67基からなる墓跡であり、円念寺山経塚は24基からなり中世の経塚である。
伝真興寺跡においては、平成10年及び平成11年に、山中に人為的に造成された大小11箇所の平坦面群を対象として発掘調査を実施する。
この遺跡群は 近世以降とは異なった剱岳・立山を中心とする信仰の在り方を知る上で重要であり、平成18年史跡指定される。
 上市黒川遺跡群史跡図
  ところで、伝真興寺跡遺構に関わる伝承として、近年まで黒川にあった真言宗本覚院の寺伝がある。
それによれば、本院は寛弘5年(1008)に真言宗東密子島流の開祖・真興上人によって開かれた「花崗山真興寺」が富山に移転したため、その後を継ぐものとして享保7年(1722)に開かれたものであり、「真興寺」は寛和2年(896)に真興上人が弘法大師止錫の護摩堂村弘法堂を参拝した帰りに麓の黒川に立ち寄り、この地を八正道を宣布するにふさわしい地であるとして庵を結んだのが始まりとされている。また、これにより最盛期にはここを中心に、円念寺・浄土寺・正等寺、開谷には源内坊・奥野坊・作内坊・好田坊などができて、信仰の中心になったとのことである。
 伝真興寺跡発掘調査の成果
立地・眺望:黒川集落背後の山中、花岡谷の谷頭にある通称「フルデラ」と呼ばれる平坦面上に立地する。標高は120 〜 135m、麓の集落との比高差は90 〜 100mほどである。
 調査結果:  発掘調査では実際にこの地から堂塔跡が出土し、この遺構が伝承にある「真興寺」に比定できるものと判断され、この遺構は伝真興寺跡と命名される。
  伝真興寺跡全図     伝真興寺跡遺構全図2
 ・平坦面1 −Tは、本寺院の中枢となる本堂(ないし金堂)跡と考えられるもので、平坦面1の中央で周囲からは50cmほど高い基壇状の高まりを有している。その平面規模からは本堂は五間堂であったものと想定される。ほとんどの礎石は後世の畑作等で移動しているが、原位置を保つものや根石の痕跡等を検討した結果、3棟の礎石建物跡が復元され、少なくとも2度の建替えが行われたことが窺われる。なお、これらの礎石建物はいずれも南西方向を正面としており、現在の地形とも合致するものである。ただし、建物の復元に至らなかった一部の石列等にはほぼ正確に東西・南北方向に軸を持つものがあり、遺跡からの眺望がほぼ真西に向けて開けていることなどを考慮すると、西方を正面とする前身施設が存在した可能性が高い。出土土器などは9〜 19世紀という広い年代幅を持つ。
  伝真興寺本堂跡遺構2
  ・平坦面2:平坦面1−Wの南西下方に位置する平坦面で、山門の前庭部に相当する。この平坦面南端部分には尾根道から続く参道が接続し、入口部分の斜面には石段の痕跡が残っている。
  ・平坦面3:平坦面1の南東に位置する1段高い平坦面で、比高差は3mほどである。奥まった位置には縁石を痕跡的に残す基壇状の高まりが設けられており、その上面で3間×3間の礎石建物跡を検出した。礎石は一部移動してはいるものの概ね原位置を保っている。これはその規模から三重塔の跡と推定され、基壇状の高まりは亀腹とみられる。
礎石の軸方向は本堂と一致し、同時期のものと判断できる。なお、時期は不明ながらも鉄製風鐸の破片が出土しており、この遺構が塔跡であることを裏付けている。
  伝真興寺塔跡遺構全景     伝真興寺塔跡遺構2
  ・平坦面5:平坦面3の南東上方に位置する平坦面で、比高差は7mほどである。調査の対象とした平坦面の中では最高所に位置する。この平坦面上では南東側に寄った位置で1間×2間の礎石建物跡を検出した。春日造あるいは一間社流造の社殿と推定され、本寺院の鎮守社に相当するものであろう。なお、礎石の軸方向は本堂及び塔と一致する。
 ※なお、伝真興寺遺構図では、平坦面5には(塔?)との注釈が付くが、平坦面5の評価は以上の通りで、単に平坦面3の(塔?)の誤植であろうか。
20116/06/10追加:
○「富山県上市町黒川遺跡群発掘調査報告書」上市町教育委員会、2005 より
 塔跡の基壇は底面で6×6m、上面で約4.4×4.4mで、この上面に3×3間の方形の建物を想定できる。柱間は約1.0m+1.3m+1.0mで礎石に一部欠損が見られるものの 整然とした造りである。礎石の大きさは外柱が40cm前後、内柱が20cm前後の凝灰岩である。基壇の縁には上面の礎石に対応するように20cm前後の石が並べられており、これは椽の束石ないし庇の礎石などが考えられる。
 伝真興寺跡付近図:本覚院が明示されている。     遺構配置概念図
 伝真興寺塔跡遺構図     塔跡遺構:北西より     塔跡遺構:南東より

参考:
花岡山真興寺:上述のように真興寺は鎌倉期に富山に移転という。
現在は富山市梅沢町3丁目に所在する。真言宗。江戸期には富山藩祈願所であった。
寛和2年(986)真興僧都(934-1104)が上市黒川の花岡山に開山する。
鎌倉期には富山の八島に移転、寛文3年(1663)頃の「万治年間富山旧市街図」(富山県立図書館蔵)には、現在地の北約200mの現中央小学校に寺が描かれる。
明治3年の合寺令で現在地に移転、その後明治32年(1899)の大火で焼け残る。その時には富山市役所の仮庁舎として使用される。
上述のように、平成12年の発掘調査で、真興寺跡と推定される寺院跡が発掘される。

2)越中伝真興寺跡現況:2016/11/26訪問・撮影

1. 2016/11/26現在の真興寺跡への行き方

遺構を訪ねるには上掲の「伝真興寺跡付近図」が参考になる。
但し、上図は現在(2016年)から見れば、11年前の図であり、下に現在の状況に即して多少改変した図が下の図である。
伝真興寺跡付近図(改変)
  この図を一瞥すれば、黒川の集落に至り、石碑類(本覚院碑など種々の石碑類、石仏、弘法大師像)のある地点から、本覚院に詣で、その本覚院裏から真興寺道を辿れば、道なりに真興寺跡に達することができるように見える。 何の問題に無いように見える。
とこらが、ことはそう簡単ではない。
まず、本覚院は焼失し、今は無く、堂があった思われる平坦地のみ残り、その跡地はほぼ山林に還っている。
 ※地元民は以下のようにいう。
 15年ほど前に火災で全焼する。その後再興されず。梵鐘が残存し、○○資料館に保存される。
  (○○は失念するも、おそらくは「弓の里歴史文化館」と聞いたような気がする。)
 ※地元民のいう15年ほど前が正確とすれば、本覚院は2001年頃焼失したのであろう。
従って、本覚院裏から始まっているはずの真興寺道も完全にブッシュの中で、普通では、歩くことは困難である。
 更に悪いことに、仮に何とかして、上方の真興寺道に至ることができても、上方の真興寺道の南側に沿って、猪除けのフェンスが延々と続き、そのフェンスを乗り越えることは非常な危険が伴い、まず無理であり、従って、真興寺道に入ることができず、真興寺跡に行くことはできない。
 ではどうするのか。
石碑類の地点から西に144号線を進めば、消防分団器具庫(上市町消防団南加積分団積載車庫)がある。その横を山側に入れば、「A地点」に至る。
「A地点」は猪除けフェンスの出入口であり、出入の為にフェンスが開くようになっている。開閉は捻っている針金を解いて、可動できるフェンスを動かせばよい。入ってすぐ右にフェンス沿いに(踏み跡などはないが)強引に進めば、明瞭でしっかりとした真興寺道にでるので、それを登れば、真興寺跡に至る。途中「B地点」で、道が分岐するが、左手に(フェンスとは離れる方向)進めば、OKである。

2.真興寺跡現状

  真興寺跡は意外なことに、遺構は埋め戻されていると予想していたが、発掘調査後(現在は平成28年)17年を経過するも、発掘調査後の状態のまま残されている。遺構はほんの数年前に発掘調査が終わったばかりのような状態で残る。
(それは下に掲載する写真が示すとおりである。)
十数年も山中に放置すれば、普通はほぼ原野に帰るものであろうが、どうしたことであろうか、雑木はおろか雑草1本も生えていない状態である。定期的な保守管理が行われているのであろうか。
 以上に関しての直接の答ではないが、真興寺跡は黒川遺跡群の一つの遺跡として、整備の計画があり、あるいは既に整備に着手されているのかも知れないという事情があり、整備待ちの状態であるとも思われる。
それを示す資料の一つが
「史跡上市黒川遺跡群整備活用基本計画書」上市町教育委員会、2013 であろう。
この「計画書」は以下のように云う。
 「(伝真興寺跡は)鬱蒼とした山中に突然開けた空間が広がるという立地上の特徴を活かし、参道を利用した自然散 策ゾーンとして位置づける。
 寺院中心域についてはあえて建物復元等は行わず、盛土による遺構面保護にとどめて現在の雰囲 気を維持し、散策コース上の休憩・学習エリアとしての整備を行う。
また、現地へのアクセスは現時点では黒川集落からの参道(急坂を含む徒歩道)のみであること から、ふるさと林道からのアクセスルートを新規に設置するなど、散策コースの回遊化を図るとと もに資機材搬入・管理用車両進入路の確保を検討する。」
 「遺構保存:遺構の恒久的な保存のために盛土保存を原則とし、30cm以上の保護盛土層を確保する。盛土施工前には遺構面の 洗浄・殺菌・修復等を行い、また遺構面上には不織布・保護砂層等を設けて遺構面と保護盛土の境界を明示する。 遺構面上に生育する樹木については、倒木等による遺構の損傷のおそれがあるため伐採する。」
「整備工事に際して基本設計・実施設計を行うにあたっては、入念な測量や土質調査等によって現況を十分に把握する必要がある。」と。
遺体的なイメージとして次の図の掲載がある。(転載する。)
ゾーンニング計画図
真興寺跡整備井イメージ図

3.真興寺塔跡現状

○真興寺塔跡礎石配置図
 ◆は欠失四天柱礎、は原位置を保つ四天柱礎/は欠失側柱礎、は原位置を保つ側柱礎を示す。
    
四天柱礎石は3個が原位置を保つと思われる。四天柱礎石2は欠失。
側柱礎石12個の内、3・5・6・8・10・11・12の7個が原位置にあると思われる。
側柱礎石1・2・4・7・9の5個は欠失する。
但し、塔跡周辺には原位置を動いたと思われる礎石と思われる石が散見される。
また塔土壇からは転落するも、束石とも思われる石も1個見られるが、果たしてこれが束石かどうかは確認する術がない。

○2016/11/26撮影:
 伝真興寺塔跡遠望1     伝真興寺塔跡遠望2

南東から撮影:
 伝真興寺塔跡礎石11文字入り
 伝真興寺塔跡礎石11:左図拡大図
 伝真興寺塔跡礎石12文字入り
 伝真興寺塔跡礎石12

塔跡を 東から撮影:
 伝真興寺塔跡礎石13
南東から撮影:
 伝真興寺塔跡礎石14     伝真興寺塔跡礎石15     伝真興寺塔跡礎石16     伝真興寺塔跡礎石17:中央は四天柱礎
南から撮影:
 伝真興寺塔跡礎石18
南西から撮影:
 伝真興寺塔跡礎石19
西から撮影:
 伝真興寺塔跡礎石20
北西から撮影:
 伝真興寺塔跡礎石21     伝真興寺塔跡礎石22     伝真興寺塔跡礎石23     伝真興寺塔跡礎石24
束石か:
 伝真興寺塔跡束石?1     伝真興寺塔跡束石?2

本堂跡などのその他の遺構
 伝真興寺本堂跡1     伝真興寺本堂跡2     伝真興寺本堂跡3     伝真興寺本堂跡4
 本堂跡前石垣        本堂前石階1        本堂前石階2        本堂前石階3       伝真興寺山門跡
 本堂裏池1          本堂裏池2          塔下池
 本覚院前石碑類
 本覚院石碑:判読できない文字もあるが、大意は花岡山本覺院は聖観音菩薩を祀り、新四国(この地方の四国88所札所であろう)37番新田五社(現在の四国88所札所37番は岩本寺であるが、明治の神仏分離以前は五社大明神<仁井田五社>であったという)の札所である。願主などは判読できないが、この碑の年紀は文政13年(1830)である。
 本覚院前弘法大師像?:像の横手から裏を上がって行く道が本覚院参道である。
 本覚院参道     腐朽した本覚院跡木工五輪塔     本覚院跡


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