山瀧寺跡および山瀧寺塔心礎(大宮神社手水鉢)

山瀧寺跡および山瀧寺塔心礎(大宮神社手水鉢) /三瀧寺・三滝寺・山滝寺

山瀧寺の遺構

2006/01/14追加:
◆山瀧寺跡第5次調査・現地説明会

発掘調査範囲:

第5次調査(平成17年度):
5ヵ年計画の最終年度の発掘である。
第1トレンチで大量の瓦を伴う遺構が初めて発見される。
瓦溜まりからは奈良期及び平安期の瓦片に混ざり、一部白鳳期(山田寺式軒丸瓦、五重弧文軒平瓦)も発見される。
 なお白鳳期瓦は過去調査でも発見され、また遺構内には焼けた痕跡のある石や土が出土する。
西側(道路及びl公民館)には両者の遺構がある可能性が強いと思われる。
第2トレンチでは特に遺構は発見されず。

 発掘調査範囲図:左図拡大図

 第1トレンチ全容:東から撮影:瓦溜まりを南北に分断する溝があるが、近世の溝で暗渠であったと判断される。発掘ではこの暗渠部分からも多くの瓦・石材が発掘される。写真はそれらを除去した状態である。
 第1トレンチ瓦溜まり1:南東から撮影
 第1トレンチ瓦溜まり2:西から撮影
 第1トレンチ遺構:東から撮影
 第1トレンチ瓦溜まり3:南から撮影

第1次調査(平成11年)から第4次調査(平成14年)の調査地は図の通り(公民館周辺)であるが、特に山瀧寺の遺構は発見されなかったが、瓦は創建時と思われる白鳳期を含む各種が発見される。

◆発掘瓦:
 山田寺式軒丸瓦:小さな破片である。     五重弧文軒平瓦     平安期軒丸瓦 

山瀧寺(大御堂)概要

「拾遺都名所圖圖會」 より
 田原 
大御堂:
・・・萱葺の堂にして・・・本尊は十一面観音。立象。五尺計。この堂の形東西に亘って広し。土人大御堂と号す。又傍に一小寺あり。三瀧寺と号す。この寺主大御堂を守る。いにしえは堂舎巍巍たるか。今なほ土中より古代の瓦石出づるとぞ。
 
大宮明神:
郷口の艮にありて、この郷内の産沙神とす。・・祭る所未詳ならず。
2020/04/21画像入替:
 拾遺都名所圖圖會「田原」
繪圖の上部、向かって左から三瀧寺・大御堂、天神があり、中央に大宮、さらに右(東)に真言院がある。

上記の図と現在の景観とを対比すると、この附近の景観は現在も基本的に江戸期後半のそれと変わらない。
江戸末期にも現在と同様に、大御堂は健在であり、さらには三瀧寺と号する小寺が残っていたのである。

○「宇治田原町史・第1巻」など より
光土山日王院山瀧寺(三瀧寺)
 宝亀2年(771)大和興福寺・善珠上人は、ここ荒木の里の広大な丘に大寺院を建立する。これが山瀧寺の開基である。
そしてこの荒木の里の背後は山の峰が連なり、ここには谷水が湧き出て瀧となって奔流する裾野であった。
本尊は、樵の翁が瀧に映える不思議な光に導かれ、山中にて感得した一体の観音像であり、それを安置したものであるという。(創建については、その他の諸説もあり)
 創建時の伽藍については、文献もなく、発掘調査もなされていない現状では良く分からないが、金堂・講堂・大塔・小塔・楼門・鐘楼・仁王門・その他の堂宇が甍を並べていたと伝えられる。
付近には近世まで大御堂と称される堂宇が残り、この付近からは遺瓦が発見されている。
その遺瓦は、報告書によれば、奈良前期から平安期・鎌倉期のものも発見されているという。
時代は下り、平安期には宇治平等院あるいは禅定寺の支配下に入ったという。
 平治元年(1159)平治の乱で藤原信西の所領が大道寺に在った関係で、宇治田原の地が焼亡し、その時に三瀧寺も炎上したものと推測される。
しかし焼亡の後、おそらく荒木一族の手で三瀧寺は再建され、保護されたものと考えられる。
元和6年(1620)再び、悉く焼亡したという。
寛永元年(1624)茅葺の大御堂が再建。焼亡を免れた本尊十一面観音立象が安置される。
(現在、この像は寺跡の東南すみに後世に設けられた小堂に安置されている)
享保8年(1722)類焼により焼失。享保11年(1726)再建。
享保13年(1728)再建直後、雷火により焼失。寛延2年(1749)大御堂のみを瓦葺で再建。
明治初頭、維孝館(学校)として使用。この7間四面の大堂は昭和初期まで存続。
(土地の人の話によると堂は老朽による自然崩壊という。大御堂は現在の公民館の前あたりにあり、その東には樹齢千年の巨大な老松2本があったともいう。その古木も今は無く枯れてしまったという。)
 山瀧寺跡の現状      山瀧寺跡石碑

2005/08/28追加:
「京都府史蹟勝地調査会報告」第13冊より:
 山城山瀧寺大御堂:左図拡大図
 ※大御堂は昭和初頭まで存在する。
 山城山瀧寺懸仏:大御堂に懸けられていたものと思われる。

2006/01/14: 追加:
額に入り写真で、恐らく公民館か観音堂に掲げられている写真と思われる。上記の写真も額装されている。
 大御堂の松:明治40年初夏撮影
 大正4年8月御大典御用材運搬風景:背後の堂が大御堂

2006/01/14現地説明会配布資料 より:
「山瀧寺の歴史」〜宇治田原町史・参考資料と調査成果から〜:
「宮座配置図」寛永元年(1624)では大御堂11×4間、三滝寺は6×1間半(2間半とも)の小堂とされる。。
「寺社改」享保10年(1725)では大御堂は東西20間南北24間の土地を持つ。
「寺社調」明治元年では智積院末、東西8間南北7間の敷地に5×3間の堂があった。三滝寺は無住でまもなく廃寺。
但し大御堂は江戸期のまま維持される。
明治6年三滝寺の跡地は荒木小学校として転用、舞殿などが取り払われ、東側建物は大師堂跡に建てられ、郷之口の十王堂が移築され小学校校舎に転用されたと云う。
明治26年荒木小学校は廃校(郷之口の田原小学校に統合)
昭和24年頃大御堂解体。

岩井隆次「日本の木造塔跡」:
 大宮神社手水鉢は山瀧寺塔心礎であるという。

大宮神社

正安3年(1301)の創祀とも宝亀元年(770)に岩本の双栗天神社の分祀ともいわれる。
いずれにしろ中世から御栗栖神社(一宮)・三宮とともに田原三社祭りを構成する神社の一つであり、当地で重要な地位を占め続けている神社の一つという。近世まで大御堂は田原三社祭りの「お旅所」とされ、そのために「大御堂」は焼亡のつど再建維持された側面もあるという。
現在の社殿は江戸初・中期の建築で、本殿は三間流造りである。(10月17日の祭礼を前にして、訪問時は雨中にも係わらず、神輿蔵から拝殿に神輿を出し、地区の男性が10数人神輿の飾りつけの準備をしていた。)
 大宮神社社殿・・・写真手前の切妻が手水所です。
2006/01/14撮影:
 大宮神社社殿

この風景も社殿等の造替は別にして、現在の姿は江戸期の姿と基本的に同一と思われる。
山裾の鳥居から参道(石段)を直線に登ると拝殿に至る。拝殿を潜るとすぐに本殿がある。
その右手に手水舎があり手水石が置かれる。今なお清冽な水が不断に導入され、汚泥一つ無いように清められている。
(もっとも訪問時は、祭礼前で神輿の手入れの最中だったので、特別に清掃し、導入水の手入れも行われたためなのか
それとも、いつでも清冽な水が補給されているのかはどうかは不明。)
この手水石が「山瀧寺塔心礎」とされる石である。(岩井隆次「日本の木造塔跡」)
同著によると、大きさは1.5×1.03×0.7mで、中央に径60cm・深さ13cmの円穴を穿つ。
この穴の中央部はきれいに半円状である。もし心礎が手水石に転用されたとすれば、その時に掘り下げ、半円状に加工されたのであろうと推測される。
なお 背後の左に陰刻があり明瞭(写真は不鮮明であるが)に「大同ニ丁亥年秋九月置之」と読み取ることが出来る。
しかし大同2年は809年であり、この時代に設置したとは考え難く、また書体も新しいので「偽刻」あろうと「日本の木造塔跡」では推測する。
2001/09/30撮影:
 山瀧寺推定心礎陰刻
 山瀧寺推定心礎1     山瀧寺推定心礎2     山瀧寺推定心礎3
 山瀧寺推定心礎4     山瀧寺推定心礎5
2006/01/14撮影:
 山瀧寺推定心礎11     山瀧寺推定心礎12     山瀧寺推定心礎13     山瀧寺推定心礎14
 山瀧寺推定心礎15     山瀧寺推定心礎16     山瀧寺推定心礎17
 しかしながら、この「石」が本当に塔心礎であるのかどうか、あるいは山滝寺のものであるかどうかについてはは確たる根拠があるわけだはない。
前述の「都名所圖圖會」「宇治田原町史」また昭和40年の「新撰京都名所圖會」・1989年の「昭和京都名所圖會」(いずれも竹村俊則著)では、いずれも、この手水鉢が山瀧寺の心礎である認識は皆無(記事が皆無)であり、大宮神社の現地の案内も「大同ニ丁亥年秋九月置之」の「陰刻」が背後にあると触れているだけで、塔心礎であるとの認識は全く無いようである。
さらに寺伝などでは、山瀧寺に塔があったとするが、現段階では塔の遺構は未確認である。

2002/3/24追加:
○京都府宇治田原町埋蔵文化財調査報告書●第1集「宇治田原町遺跡地図」 1999年・宇治田原町教育委員会 より:

▲山瀧寺跡
 概要:台地 白鳳寺院 瓦多数出土 大宮神社手水鉢は塔心礎? 飛鳥〜江戸 現状:半壊
との記載がある。
▲田原図(模写)
図中に三瀧寺の説明がある。
記事:三宮別当三瀧寺
 双栗寺大聖堂 小御堂三重塔 在之 平治元年12月28日焼失 始真福寺 善珠僧正開基 宝亀ニ年也
原図は湯屋谷高田国太郎氏蔵で約400年前のものと推定され、昭和27年中森平治氏が模写したとある。

2002/11/18:
○「宇治田原町埋蔵文化財発掘調査概報−第3集− 山瀧寺跡V」、宇治田原町教育委員会、平成14年 より
飛鳥時代:創建?。7世紀後半の瓦出土(第2次調査)
奈良時代:伽藍の再整備?。8世紀の瓦出土。
平安時代:延久3年(1071)平等院末となる。(第1次調査で平等院と同一瓦を出土)、平治元年(1159)平治の乱で焼失と云う。
鎌倉時代:「山城国山滝寺雑掌訴状」(禅定寺文書−文久9年<1272>)に初出。十一面観音立像作成。
江戸時代:元和6年(1620)悉く焼亡。寛永元年(1624)茅葺の大御堂が再建。
      享保8年(1722)類焼による焼失(大御堂、舞堂、山滝寺の3棟)。
      享保11年(1726)再建。(大御堂依類火 作事出入付一件 覚書−享保11年)
      享保13年(1728)雷火によりすぐに焼失。寛延2年(1749)大御堂のみを瓦葺で再建。
      明治6年維孝館(学校)として使用。
      昭和24年大御堂廃絶。
これまでの発掘調査では、残念ながら、伽藍の全容を明確に解明できる段階には至っていない。
 山滝寺周辺図


2006年以前作成:2020/04/21更新:ホームページ日本の塔婆