★武蔵西福寺三重塔
元禄6年(1693)造立。一辺4.4m、総高 23m。和様を基本とする。初重中備の蟇股に十二支の彫刻を置く。
○2007/11/06追加:「(有)大熊板金」様ご提供(1997/12/28撮影)
武蔵西福寺三重塔1
同 2
同 3
同 4
同 5
○2011/08/11追加:「埼玉の瓦塔」資料館ガイドブックbP1、埼玉県立歴史資料館、平成6年 より
武蔵西福寺三重塔09
○2013/01/02追加:「O」氏ご提供:2012/11/20撮影と推定
武蔵西福寺三重塔10:2011/03/11の東日本大震災での損傷などはなかったようである。
なお、本塔の宝珠は、銅板打ち出しの半田付けのように見える。
★武蔵西福寺三重塔概要
参考文献:「埼玉県指定文化財西福寺三重塔修理工事報告書」荒木社寺設計/編、1986.3 (以下「西福寺修理報告書」) より
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塔露盤銘:左図 左図のように
元禄5年(1692)塔露盤が鋳造される。
鋳物師・野村宗右衛門信次は元禄頃活躍した佐野天命の鋳物師の一人として、知られる。 |
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棟札:左図 左図のように
元禄6年(1693)三重塔が造立される。
なお、この棟札には、左図に続けて
造塔一基勧進状、供養導師の記載があるが、破損し判読できないと云う。
従って、この造塔一基勧進状、供養導師の文は寺蔵の棟札写から転載する。
(下記の図) |
造塔一基勧進状など:右図
上述のように、棟札原本は破損し、造塔一基勧進状、供養導師の部分が判読できないが、寺蔵の棟札写しがあり、ここから転載する。
願主は徳川家光長女千代姫(尾張大納言光友室)と云う。
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○元禄5年(1692)
塔露盤が鋳造
○元禄6年(1693)
三重塔造立
○元禄11年(1698)
三重塔願主千代姫没(塔内位牌及び寺伝)
○享保4年(1719)
屋根葺替(寺蔵の棟札、
(「享保4年」の墨書を有する杮葺用の板の発見)
○寛保2年(1742)
小屋組修理
(初重・二重の母屋に「寛保2年」の墨書が発見される)
○寛保3年(1743)
屋根葺替(寺蔵の棟札)
○明和2年(1765)
屋根(杮葺から)銅板葺に変更
(三角形瓦棒に「明和2年」の墨書が発見される)
○安政3年(1856)
台風により銅板屋根飛散、修理(棟札に追記)
○明治25年、昭和23年
塔修理、なお明治25年、昭和22年「塔のぼせ」を実施。
○昭和41年
台風により三重屋根や軒が破損、昭和43年修理。
○昭和60年
屋根葺替など各種修理 |
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「日本の塔総観 東日本編」中西亨、昭和44年では
明和4年(1767)再興とする。
塔は元禄6年(1693)徳川家光長女千代姫(尾張大納言光友室)の発願により建立されるも、この塔はその後失われ、明和4年再興と云う。
※明和4年再興の根拠は「当時の勧進状が残る」というが不詳。
◇西福寺は真言宗豊山派、弘仁年中(810-)弘法大師創建と云う。
観音堂には西国・坂東・秩父の観音霊場「百観音」を安置、江戸期には江戸からの日帰りの距離であったとされる。
仁王門は退転(時期不詳)し、仁王像は昭和23年浅草寺に遷座。
その後、昭和33年頃、芝増上寺大徳院霊廟総門に遷されるが、その経緯は不明である。
2011/02/27追加:
◆武蔵西福寺仁王像:芝増上寺台徳院霊廟惣門(重文)の左右に安置され現存する。
平成16-17年の修理で、体内から修理銘札が発見される。これによれば、この像は西立野西福寺仁王門像で、寛政元年及び弘化3年の二度にわたり修理が行われたことが判明。さらに安政2年(1855)の暴風で破損、観音堂に置かれていたが、昭和23年三重塔の修理の時、三度目の修理が行われ、東京浅草寺へ移されたことも記載される。
その後の経緯は不明であるが、昭和33年頃までには台徳院霊廟惣門に安置されたと考えられると云う。
「西福寺修理報告書」 より(図版)
西福寺三重塔立面図 西福寺三重塔断面図
西福寺三重塔初重平面図 三重平面・二重屋根伏図(左)/二重平面・初重屋根伏図(右)
2006年以前作成:2013/01/02更新:ホームページ、日本の塔婆
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