越  前  川  島  蓮  華  寺  塔  跡

越前川島蓮華寺塔跡

越前川島蓮華寺塔跡の呼称と越前今立郡加多志波神社の虚妄

2017/06/20追加:
従来「越前加多志波神社三重塔跡(仮称)」:鯖江市川島町 と呼称していたのを改め、「越前蓮華寺三重塔婆跡」と改称する。
それは、「2017/05/14撮影」の項で述べるように、間違いなく加多志波神社は復古神道の近世・近代のでっち上げであり、史実は蓮華寺の塔婆であったことが判明したからである。但し、塔婆が三重塔であったかどうかは確証がない。

2010/09/12:
加多志波神社なるものの実態が不明のため、当面「加多志波神社三重塔」とは仮称ということにせざるを得ない。
この三重塔跡については鯖江市教委の解説がWebにある。要旨は以下の通り。
 現在は11個の礎石が残る。もとは一辺3,5mの三重塔であったと推定できる。時代は鎌倉中期〜江戸前期であろう。
 「越前地理指南」貞享2年(1685)では、三重塔があったことが確認できる。
 「鯖江藩寺社改牒」<享保6年(1721)では、鎌倉中期、洛陽深草の隠士・覚念が建立し、寛文2年(1662)の地震により大破したと云う。

また
加多志波神社のWeb上の情報では、延喜式内社加多志波神社は「論社」であると知れる。つまりは式内加多志波神社などと云うのは早い段階で廃絶し、近世から近代にかけて復古神道が適当にかつ無理やり付会したという代物であると知れる。
更に別のWeb情報では拝殿・本殿のほかに観音堂が残り、塔跡に建つ建物は塔佛堂と称すると云う。
要するに加多志波神社などと云う名称は眉唾もので、寺院なのか社なのかは調査を要するため、「仮称」とせざるを得ない。
 ※礎石11個残存とは、写真で判断すれば、塔佛堂正面と背面は2間、両側面には3間の礎石が置かれているのであろう。
(現地未見のため、推定)であるならば、塔の礎石は動かされていると判断される。
また塔佛堂に使われる柱・長押は正規の仏堂に使用された材のように見えるが、もしそうであれば、寛文年中に大破した塔の残材で建立されたことも考えられる。(斗栱は良く分からない。)
 越前加多志波神社三重塔跡:「X」氏ご提供画像、2010/09/12撮影
 越前加多志波神社三重塔跡2鯖江市教委のサイトから転載

2017/05/14撮影:
1)蓮華寺の概要
○サイト:DonPAncho>「己のルーツを探る旅の果てに分かったことは・・・・」のページ より
本ページは筆者(「應請」氏・・そう、筆者の姓は蓮華寺及び浄願寺の山号である。)がそのルーツを探った過程を纏めたものである。
勿論、s_minagaの意図は筆者のルーツ探る旅をなぞることではないので、記されている事象や資料だけを引用させていただく。
 加多志波神社境内の右手奥に下堂様(しもどさま)と呼ばれている観音堂がある。そこには平安前期の趣を残す聖観音立像が祀られる。
さらに、観音堂には父鬼面、母鬼面、子鬼面の三面一具も追儺面(ついなめん)として祀られる。この父・子・母の三鬼面は鎌倉後期の秀作であるとして、昭和47年重文となる。但し、母鬼面は、後世に大幅な補修がなされる。
という。
 ※現在、加多志波神社と称する社には、上述の観音堂、本社(本殿・拝殿)と塔佛堂(層塔跡)の3棟からなる。
要するに、加多志波神社は元来寺院であったのである。現在の配置からすると、観音堂の位置に本堂、塔佛堂の位置に層塔、本社の位置に八幡宮、少なくとも真宗浄願寺の位置に坊舎あるいは参道の左右に数ヶ坊が展開していたものと思われる。
下の述べる蓮華寺蔵鬼面箱の墨書には蓮華寺と寺僧衆として三光坊・慶祐坊・式部卿・二位の名称がある。式部卿や二位とは不明であるが、僧侶とともに蓮華寺に奉仕した役職であったのであろうか。これらの坊や役宅が参道の左右に展開していた可能性は高いであろう。
  蓮華寺蔵追儺面箱墨書1
 では、いかなる寺院であったのであろうか。
筆者の家には「川島邑応請山蓮華寺略縁記」という古文書が残っているという。この古文書は筆者の三代前の祖先が独立した時に持ち題したものと推定される。三代前の祖先は加多志波神社々頭にある真宗本願寺派応請山浄願寺に入夫婚姻して住職を継いだ人物という。
  川島邑応請山蓮華寺略縁記
翻刻文の掲載があるので転載する。
 抑(そもそも)応請山蓮華寺は、人王四十四代元正天皇の養老二年、神融禅師泰澄(1)が越知の絶頂にして東南を観見し給へば、一ツの光りあり。慕ふて此の地に来たり、霊木を以て聖観音・千手・十一面の三体彫刻ましまし、折りしも御手洗の池中より白蓮華一茎生ず。大師自ら手折し給ふ。故に応請山蓮花寺と号し給ふ。夫よりこのかた三体光りを並べて利益を施し給ふ。
 然るに、天正年中、長谷川秀一(2)が右三観音を三所に分け奉る事は世に知る処なり。そもそも観音大士の慈悲は方便三十三身にして、感達は爰(ここ)に応じ応ずれば彼しこに現す。是を万水一月にたとへて、この薩埵のおわします処を、水月の道場といふなるべし。
 或いは千手の誓の綱を■け、或は千眼に法の燈火を輝かす都では、百千の形を現し百千の衆生を導きたまへば、観自在菩薩とも円通大士とも申奉る。正観音と聞こえさせ給ふは、さして邪正のさかひにあらず、空仮中のうちに立せ給へ権実の其間に顕はれ給ふ。
 本より此の姿婆界は、この大士の領せさせ給ふて世にいふ奉行頭人よりも信不信の人を見透させ給へば、実(まこと)におそるべきは、大士の霊験なり。一念さらに三十三念の掌をあわさば福聚海無量如是応頂礼の誓い空しからざる結縁のため開扉せしむるものなり。
(1) 泰澄(682 - 767)は、奈良時代の修験道の僧。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられる。越の大徳と称された。
(2) 長谷川秀一は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。天正13年(1585年)8月、領地を加増され越前東郷15万石の領主となる。

 ※現在の加多志波神社一帯は蓮華寺跡と伝える。
蓮華寺は養老2年泰澄の開創と云い、後には真言宗に変わるが、天正初年の兵乱で堂宇は焼失、聖観音像一体、五重塔一基、観音堂一宇のみが残る。現在は、観音堂は神社の下堂様として残り、聖観音像は観音堂に安置され、五重塔跡も礎石が現存する。さらに蓮華寺の修正会で用いられたとされる追儺面が観音堂に残される。
まさに、蓮華寺は現在の加多志波神社一帯に展開していたのである。
 追儺面は次のように評価される。
○サイト:鯖江市内・指定登録文化財>木造追儺面(3面) より
 加多志波神社に奉納される追儺面は、父、母、子鬼の3面で、国の重要文化財に指定されている。これらの面は、3面で一具のものである。
母鬼面は、後世に大幅な補修がなされ同等には扱えないが、父および子鬼面の制作は、鎌倉時代に溯る珍しい遺品である。
いずれも裏面にほぼ同文の朱漆銘があり、全文が残る子鬼面には、
「越前国今北西郡成得保日吉別所 蓮華寺修正常住子鬼面也 (梵字ウン) 貞和二年歳次丙戌正月十三日修補之」
と記される。
つまり、これらの面は蓮華寺の修正会所用のものであり、南北朝時代の貞和2年(1346)に修理されたということである。
蓮華寺という寺は残っていないが、加多志波神社の観音堂がこの寺の後身と伝えられる。
 
 蓮華寺蔵追儺面箱墨書1
 木造聖観音立像は次のように評価される。
○サイト:鯖江市内・指定登録文化財>木造聖観音菩薩立像(1躯) より
 加多志波神社の前身は蓮華寺という寺院であり、そこの聖観音像が災禍を免れ、現在に伝えられたという。
蓮華寺壊滅後、里人が現在の場所にお堂を建立、観音堂と称し、その本尊として崇められたものである。
 像高104.0cm、桧の一木造である。
 裳裾の両端に翻りをみせる衣文の刻まれ方には、平安時代前期の趣が残る。しかし、全体的に表現は穏やかであり、衣文の彫り出しもかなり形式化されているので、11世紀頃の地方作と推定される。なお、像の背面には、火災の際の痕跡が残る。

 蓮華寺聖観音立像1     蓮華寺聖観音立像2 /    蓮華寺聖観音立像3
 2017/07/09追加:
  ※上記の木造聖観音菩薩立像(1躯)の向かって左の全身写真、つまり上記の蓮華寺聖観音立像1はミラーであると思われる。
  正しくは蓮華寺聖観音立像(正)あるいは上記の蓮華寺聖観音立像3のような写真が正しいものと思われる。

 最後に加多志波神社とは次のように評価される。
○サイト:鯖江市内・指定登録文化財>蓮華寺旧蔵鬼面箱(四脚唐櫃)(1個) より
 重文・木造追儺面が収蔵されていた唐櫃である。4面はそれぞれ1枚板で、底板は2枚の板からなっている。4面には脚が付いており、底を床から浮かせて風通しを良くし、湿気を防ぐ構造となっている。箱の4面と4脚はスギ材で、底板はヒノキ材であり、箱の4面の内側には墨書銘文が見られる。銘文には、朝倉家3代当主・貞景の子で、敦賀郡司であった朝倉景紀の晩年についての記述があり、数少ない戦国期の資料として重要といえる。
 制作年代は、年輪年代測定法により、1400年頃(室町時代初期)と推定される。

  蓮華寺蔵追儺面箱墨書1:上に掲載      蓮華寺蔵追儺面箱墨書2
○サイト:鯖江市内・指定登録文化財>旧八幡神社鳥居台石(1対) より
 大きな山石に方形の穴を開け、鳥居に直交するように台石の長径を配置している。鳥居の形式は明神鳥居である。
 この鳥居は蓮華寺旧蔵鬼面箱(四脚唐櫃)[前出]の記述により、元亀元年(1570)1月26日に、朝倉景紀が敦賀の5人の大工に命じて建立したものであることがわかる。
 朝倉景紀は、朝倉家3代当主・貞景の子で、敦賀郡司・朝倉宗滴の養子となり、後に郡司職を継承した人物である。景紀は、永禄8年(1565)に孫の七郎と自領である川島庄に隠居し、元亀3年(1572)に没した。

現地案内板(駒札)には次のように云う。
 鳥居の木造部分が失われ台石だけが残ったもので、枘穴間の距離は380cmである。加多志波神社に伝来する「鬼面箱」の墨書によると、敦賀郡司であった朝倉九郎左衛門景紀が孫の七郎とともに、自領の川島庄蓮華寺の奥坊光厳寺に居住していた元亀元年(1570)正月26日に、(敦)賀の5人の大工に命じて建立した「八幡神社」の鳥居であることが分かる。
  蓮華寺蔵追儺面墨書2・その2
  蓮華寺蔵追儺面墨書2・翻刻:元亀元年八幡鳥居(八幡社の鳥居)立候 とあり、古は八幡社が勧請されていたことが分かる。
○「三里山を取りまく泰澄開創社寺について(下)」池田正男(「若越郷土研究」58巻2号、福井県郷土誌懇談会、2014 所収) より
 次の資料の紹介がある。
『越前誌』には今立郷川嶋村氏神八幡観音を勧請す、堂之内に鬼の面三つ有、内黒塗にして蓮華寺と記せり、雨乞に此面を洗ふと云へり正月十八日莱祀祭也、此観音開基泰澄往生山蓮華寺の跡と云へり
 ※以上で明確になったと思われるが、現在、延喜式内加多志波神社と称する社は蓮華寺内八幡社を近世・近代の復古神道が改竄したもので間違いないようである。 そういった意味で、現・加多志波神社は復古神道加多志波神社というべきであろう。
2)復古神道加多志波神社現況
 復古神道加多志波神社鳥居・社殿:現鳥居の前に、下に示す中世末期の鳥居台石が2基残る。
 八幡社鳥居台石
 復古神道加多志波神社社殿1     復古神道加多志波神社社殿2     復古神道加多志波神社社殿3
3)旧蓮華寺観音堂
 旧蓮華寺観音堂1     旧蓮華寺観音堂扁額     旧蓮華寺観音堂2
 旧蓮華寺観音堂3:背後に付設するのは宝物庫       旧蓮華寺観音堂3
4)旧蓮華寺塔婆部材及び塔礎石
 現地説明板 より
塔佛堂には古い建築部材が再利用されている。
また、建築規模の割には大きな礎石が据えられている。
貞享2年(1685)の「越前地理指南」では三重塔塔婆があったという。
享保6年(1721)の「鯖江藩寺社改牒」には鎌倉期覺念によって建立された五重塔が寛文2年(1662)の地震の後に取り毀されるという。
現状の礎石配置に着目すれば、初重の四天柱がない構造であり、これは現存する塔においては平安末期から室町期に認められる特徴である。よって多重塔は三重塔の可能性が高いと思われる。
 
※塔佛堂に使用されている柱・長押・斗栱などの部材は古い建物の部材が転用されている。
塔の倒壊原因は寛文2年の地震であり、それによって大きな被害を受け、解体されたと推定される。塔跡に塔堂を建築するにあたり、使用可能な部材を寄せ集め塔佛堂を建立したのであろう。それ故、少々塔佛堂は不格好な体裁となる。
 ※断片的な資料から推測すれば、鎌倉期五重塔が覺念(僧侶か)によって建立される。
寛文2年(1662)地震により、大きな被害を受け、五重塔は応急的に三重塔の改造されたのであろうか。
貞享2年(1685)には三重塔があるというから、その頃までは三重塔は立っていたのであろう。
そして、その後間もなく、応急的に修理された三重塔は腐朽し、取り壊されることとなる。
そして、使える部材は方2間の塔佛堂の部材として転用されたのであろう。

 旧蓮華寺塔佛堂1:左図拡大図
 旧蓮華寺塔佛堂2
 旧蓮華寺塔佛堂3
 旧蓮華寺塔佛堂扁額:白川資長の 揮毫。白川資長は舊神祇伯王家
 (但し資長にて神祇伯王家は断絶する)、正三位勲四等子爵
 旧蓮華寺塔佛堂内部:破損佛が安置されているようである。
 (Webサイトよりの転用写真)
 塔佛堂東面1
 塔佛堂東面2
 塔佛堂北面
 塔佛堂西南面
 塔佛堂南面1
 塔佛堂南面2

塔佛堂斗栱は旧塔婆の残材が転用されてものと思われる。
 塔佛堂斗栱1     塔佛堂斗栱2     塔佛堂斗栱3    塔佛堂斗栱4     塔佛堂斗栱5

側柱礎は120cm×120cm×120cm(4尺)の等間を示す。一辺は360cm(12尺)を測る。:実測値

 塔佛堂礎石配置図:現説明板より
 塔佛堂東面礎石列1
 塔佛堂東面礎石列2
 塔佛堂北面礎石列1:左図拡大図
 塔佛堂北面礎石列2
 塔佛堂北面礎石列3
 塔佛堂北面礎石列4
 塔佛堂北面東端礎石:中心を起点とする。
 塔佛堂北面東2礎石:中心は120cmを示す。
 塔佛堂北面西2礎石:中心は240cmを示す。
 塔佛堂北面西端礎石:中心は360cmを示す。
 塔佛堂西面礎石列1
 塔佛堂西面礎石列2
 塔佛堂西南礎石列
 塔佛堂南面礎石列1
 塔佛堂南面礎石列2

2017/07/09追加:
○「日本歴史地名大系 福井県の地名」平凡社、1979〜2003 より
<蓮華寺跡>
中世の寺院跡。観音堂にある鬼面には次のような朱漆銘がある。
「越前国今北西郡成得保日吉別所 蓮華寺修正常住子鬼面也 (梵字ウン) 貞和二年歳次丙戌正月十三日修補之」
これによれば、蓮華寺は南北朝以前からあった古寺で、当地・川島の専立寺・浄願寺(何れも一向宗)はともに蓮華寺の末流と伝える。
 両寺の寺伝によれば、蓮華寺は應請山と號し、養老2年(718)泰澄の草創、聖観音・千手観音・十一面観音を安置し、後に真言宗となるという。その後、天正の兵乱で焼亡し、金堂正観音像一躯・五重塔一基・奥坊一宇のみ残るという。しかし観音堂が現在下堂(しもど)様として残り、五重塔跡も残るから、当寺はかって八幡宮(加多志波神社に合祀)に隣接した別當寺であったと考えられる。
 ※蓮華寺は八幡宮の別当ということではなく、泰澄の開山という伝承をもつ、白山権現系の寺院であり、八幡社は単に鎮守として勧請されたものであろう。そして、近世末の復古神道によって、八幡社を加多志波神社に換骨奪胎(八幡大菩薩を合祀)したということであろう。
<加多志波神社>
八幡宮を合祀する。延喜式神名帳の今立郡14座中に加多志波神社がある。
享保6年(1721)「鯖江藩寺社改牒」では宮殿2間・3間、境内2反2畝歩、・・・八幡宮為修理料分米5石、・・・・とある。
当社の右手奥に観音堂(下堂様しもどさまと呼ばれる)があり、塔佛堂もある。「越前地理指南」にも「堂アリ、八幡・観音、堂の内に鬼面三アリ、裏黒漆にて蓮華寺と朱書アリ、・・」と記す。
 ※要するに、現在加多志波神社と称する神社は蓮華寺であり、その堂塔および鎮守八幡の遺構が残ることを述べている。では、どうして、この蓮華寺が加多志波神社なのかは皆目わからない記述である。
2017/07/09追加:
○「鯖江市史 通史編 上巻」鯖江市史編さん委員会、1973-1999 より
川島の専立寺・浄願寺の二寺はいずれも泰澄開創の應請山蓮華寺の流れであるという。
(示される資料関係は上記の「日本歴史地名大系」とほぼ同じであるので割愛する。但し「市史」と「体系」の前後関係は良く分からない。)
中世のこの地は成得保と呼ばれ、蓮華寺は日吉別所であった。おそらく中世は比叡山系の別所であったのであろう。
2017/07/09追加:
○「式内社調査報告 第15巻(北陸道1)」皇學館大學出版部、1976- より
今立郡川島に加多志波神社は鎮座するも、近世の郷土史書にはこの加多志波神社の記述はない。
即ち、貞享2年(1685)の「越前地理指南」、正徳2年(1712)の「歸鴈記」 、享保6年(1721)の「鯖江藩寺社改牒」、寛保3年(1743)の「越藩拾遺録」、文化16年(1816)の「越前國名蹟考」などでは、何れも川島には八幡宮あり、観音を勧請す とある。
 ※この復古神道系の「式内社調査報告」は、加多志波神社に関する比定にかんしては、ほぼ否定である。正直というべきであろう。
では、加多志波神社はどこに比定すべきなのか。有力なのは吉谷の春日神社(復古神道加多志波神社の北方約3km)である。
「大日本史」では「國内帳・・片島神は、今片島荘吉谷村片島の地に在、春日神と曰」とあり、
「特選神名牒」では「今按ずるに明細帳に川島村とあれど確証なし、覈録に引ける官社考に片山荘(昔は片島荘と云う)吉谷村に春日社ありてそこを片島と云う、総神分に片島神ありて加多志波神なし、恐らくは志波の波は満の誤ならんかと云る加多志波神社なるべし」と記述され、「神祇志料」もほぼ同じ意味の記載がある。
 ※春日社にしても、牽強付会の典型であろう。所詮式内社の比定とはこの程度のものであろう。

○「蓮華寺の層塔について(上)(下)」青木豊昭(「鯖江郷土史懇談会・会報」第4号、1996 及 第5号、1997 所収)
蓮華寺には塔跡が残るが、そこに建っていたのは層塔であることは間違いないが、五重塔なのか三重塔なのかについては見解が分かれる。
では、蓮華寺塔婆について、文献資料はどのように記録されているのか。
近世文献資料は次のように記録される。
◆「越前地理指南」貞享2年(1685)
 森の中に往昔三重の塔婆ありし由、跡あり
◆「鯖江藩寺社改牒」享保6年(1721)
    今立郡川嶋村
   浄土真宗西本願寺 ○専立寺
     縁起
 ・・・専立寺は・・・養老2年泰澄大師所創而蜜宗大道場也。本號應請山蓮華寺・・・
暦応年中・・・源高経と新田義貞合戦時、仏閣・僧舎灰燼と為す。只大師所作の本尊(正・千手・十一面の三観音)并鬼頭三面あり。塔頭・三光坊・奥坊・鐘楼等存する。
天正年中加越両国戦闘の時、将軍平朝臣織田信長公軍士此処にて数戦う、寺また兵燹を蒙る。
然りと雖も・・・就中洛陽深草の穏士覺念居士所建の五重塔已に四百年経ち寛文地震の後破宇。(以下略)
    同 村
   浄土真宗西本願寺末 ○浄願寺
 ・・・・
一、本尊正観音 長三尺五寸 泰澄大師作
    鬼面三面 正観音・千手観音・十一面観音と称し申候て、右同作
一、往古は五重塔有之節之。塔の本尊釈迦。その他古佛多し堂の内に有之。塔屋舗今境内に有之。
 (略)
一、寺號 古は應請山蓮華寺と申候。禅宗にて有之候。・・・・
 (略)
一、九条様御墓所有之。往古當村にて御逝去有之。蓮華寺葬り申之由。・・・・
 (以下略)
◆「越前往来」文化7年(1810)
 ・・・・蓮華寺舊墟寶塔跡あり。河嶋左近蔵人惟頼勅許を蒙り造立せられし處、長谷川秀一逮廢頽為す。然りと雖もその霊佛礎石楹柱所現残なり。(以下略)
◆「今立郡川嶋邑八幡宮縁起」慶応4年(1868)
 ・・・天正三年乙亥、織田上総介信長の破却を逃れんため、威験蕩々たる八幡大菩薩を相殿となしたてまつる。これ聖徳太子の御作にて・・・爰に・・後醍醐天皇の御宇、川島蔵人惟頼宿願の仔細これあるの處に、あらたにその験をうるの間信仰少なからず、因って茲に五層の寶塔一躯造立あって寄附せらる。その典麗なり事殆ど北陸道随一の美観なり。
文禄元年壬辰長谷川秀一朝鮮征伐の加勢を承る砌、軍用乏しくして金銀珠玉の餝(かざり)を奪ふ。然るより永く荒廃に逮ぶ、去りながら、寶塔佛曁び(および)楹柱、礎石現に存して世にしる處顕然なり・・・・・・・

 以上のように、近世文献では、蓮華寺塔婆については、次のような知見が得られる。
塔婆を三重塔とするのは近世前期の「越前地理指南」のみであり、「鯖江藩寺社改牒」に収録の「専立寺及び浄願寺の寺伝」並びに「今立郡川嶋邑八幡宮縁起」では五重塔とし、「越前往来」では単に層塔の美称である「寶塔」とする。
なお、塔佛堂斜め背後に昭和13年建立された「塔佛堂碑」があるが、ここでは五層塔とする。この碑文は明らかに「越前往来」と「今立郡川嶋邑八幡宮縁起」に負う。
 旧蓮華寺塔佛堂1:塔佛堂碑は堂の右手後に写る。<写真は上に既出>
また「福井県の伝説」河合千秋編、昭和11年所収の「五重塔」もその表題のとおり五重塔という。
以上の資料から、総合的に推測するに、おそらく、塔は元三重塔であったのであろう。しかし、三重塔より五重塔が格上であり、後世には誇張され、五重塔とされたのではないだろうか。
 次に塔を誰が建立したかということであるが、それは、「専立寺及び浄願寺の寺伝」でいう洛陽深草の覺念であろう。
寛文地震の時、「已に四百年経ち」とあり、寛文二年の地震より400年前とは弘長2年(1262)頃であり、覺念の生存時期に合致する。また覺念は今立郡内に所領を持ち、塔婆と建立したという事実もあり、当地も覺念の所領の一つであった可能性が高い。さらに、蓮華寺の後身という浄願寺が古は禅宗というのは唐突であるが、逆に、覺念の関与があったとすれば、整合することとなる。
 しかし、覺念が塔婆を建立したのは「川島」の地ではなく、「別院」の地であり、川島に塔婆を建立したという資料はない。さらに、川島も覺念の所領であったという資料もなく、このような点は覺念説の弱点である。
 一方、「越前往来」・「今立郡川嶋邑八幡宮縁起」では建立は川島蔵人惟頼とするが、蔵人惟頼は川島の地名を冠している地元の豪族であったので、後に覺念にとって替ったのであろう。
 なお、鬼頭三面(専立寺伝)と鬼面三面(浄願寺伝)は同じもので、現在は観音堂に収納されている。近年、上述のように重文指定される。

覺念について(概要)
では、覺念とはどのような人物であったのかについて、「建撕記」(けんぜいき)永平寺14世建撕著<住持は1468〜74年>からの抜粋がある。
◇寛元元年(1243)
雲州大守并に今の南東郡の左金吾禅門覺念相共に寺を建立せんと欲す。
荘内にて山林の便宜の處を尋ぬ。即ち市野山の東、笠松の西に寺庵相應の地を得て歓喜す。
 ※雲州大守:波多野義重、出雲守、越前志比庄地頭、一説に覺念は波多野義重の従兄弟という。
 ※今立郡は、中世以降、今北東郡・今北西郡・今南東郡・今南西郡の四郡に分割されていたが、寛文4年(1664)に今立郡として統一される。
◇寛元2年(1244)
同年霜月3日僧堂の上棟あり。・・・建立信心檀那左金吾禅門覺念は、庫下の南簷の下に鹿革を令敷て行事す。子息左兵衛尉藤原時澄も、庫下西簷下に在って行事す。師は庫下の前に在って上棟を見たまふ。
◇建長5年(1253)
御入洛ありては、高辻西洞院俗弟子覺念が宅に先ず宿し玉ふ。御違例。無増減。
◇建長5年8月28日子の刻道元入寂
雲州義重仰天伏地54年の早逝をヲしみたること比類なし。覺念その他僧俗等悲嘆の声不絶。懐奘和尚は肝潰し半時計死入玉ふ。
◇慶長5年以降
覺念その後、妙法蓮華経庵とあそばしたる柱を揀抜取て、越州へ下り、越國の今の南東郡月尾山の下に初めて塔婆を建立し、この柱を以って即ち中心の柱として、日々供養すと云。今の別院是也。覺念は今は北村真柄の先祖なり。
 ※道元は遷化する前に、覚念の邸宅の壁に「妙法蓮華経/如来神力品」の一節を書き付ける。そして、この庵を「妙法蓮華経庵」と名付けると云う。覺念は後に、その「妙法蓮華経庵」の書き付けられた柱を越前国今南東郡月尾の下に運び、この柱を心柱として塔婆を建立し、道元を供養したという。
これらの記事から覺念は次のような存在であった。
 覺念は京洛と越前(今南東郡)との邸宅を持ち、義重と並ぶ大仏寺(後の永平寺)の大檀越であり、道元の俗弟子でもあった。そして道元は建長5年覺念の京洛深草の邸宅で示寂する。その後覺念は今南東郡の所領月尾山の麓(別院)に塔婆を建立し、道元の供養をするという。なお覺念の子息は藤原時澄である。

 以上は文献などからの検討であるが、中世の文献ましてや同時代史料などが全くなく、近世の文献および伝承のみに頼るしかなく、確たることは判明しないのが実情である。
◇塔婆跡の検討
初めに蓮華寺跡概要図を示す。
 蓮華寺跡概要図
では、塔婆跡(塔佛堂)の現状を検討すればどうなるか。
 塔佛堂には舊塔の建築部材(柱・大斗・秤肘木・巻斗・実肘木)が転用され、その一部には赤や黒の顔料が見られもとは彩色してあったことが分かる。また柱には古い枘孔がいくつも見られる。
礎石は、塔佛堂正面である東面の礎石が一部原位置を保たない可能性があるが、ほぼ原位置を保つものと推定される。そして、ほぼ完存する側柱礎の中には四天柱礎4個と心礎1個を配置する余地はほぼなく、元から、それらは無かったのであろう。
 塔佛堂礎石配置図:上に掲載
以上の建物構造から、塔婆は三重塔で、時代は平安末期から室町期の建立と考えて良いといえるであろう。
なお、この付近では瓦は全く採取されず、屋根は檜皮葺と推定される。
◇鬼面箱の墨書
もう一つの資料として鬼面箱の墨書がある。
墨書中に「當地頭朝倉九郎左衛門尉 伽藍如形修理等再興」とあり、元亀2年(1571)頃蓮華寺伽藍は再興されたといい、これに従えば、塔婆もこの頃再興あるいは修理された可能性があることが分かる。
 ---「蓮華寺の層塔について(上)(下)」終---


2010/09/12作成:2017/07/09更新:ホームページ日本の塔婆