★陸奥孝勝寺五重塔
青森ひばの純木造塔。総高31.9m、相輪部8.5m、初重柱間4.7m、五重約3m、軒出は全層共2.88m。
設計:(株)鹿野設計事務所鹿野克己氏。
施工は(株)モトタテ。
部材総数:約16,100、斗総数:1,852個という。心柱は二重目から立つ。基礎:鉄筋コンクリート造べた基礎で相当な耐震性を持つという。
完工は平成14年末、落慶は平成15年秋を予定。
2010/04/29撮影:
★陸奥孝勝寺
光明山と号する。永仁3年(1295)日門上人の開山と伝える。寺号は大仙寺(大泉寺)と号する。
伊達政宗が度々戦勝祈願をし、正宗に庇護される。(寺号を全勝寺と改号する。)
寛永19年(1649)伊達忠宗は寺号を善勝寺と改号する。
※忠宗室振姫の養母英勝院が寛永19年没し、忠宗は英勝院の菩提所となす。
英勝院は忠宗室振姫の保母、太田道灌四代の孫・太田康資の娘、徳川家康の側室であり家康の五女市姫の生母、法華経信者。
家康の五女市姫は英勝院の娘、伊達忠宗の婚約者であったが夭折。
振姫は忠宗室、家康の娘督姫の娘、父は池田輝政、徳川秀忠養女、英勝院を保母とする。
慶安2年(1649)火災焼失、忠宗が直ちに再興、寺領100石を寄進。
万治2年(1659)忠宗室振姫(孝勝院)没、当寺に埋葬する。伊達綱宗は寺号を孝勝寺と改号する。
万治3年、孝勝院1周忌にあたり、綱宗は妙音院(現存)、法輪院(現存)、蓮香院(現存)、華香院(大正元年廃寺・法輪院に合併)、経王院(廃寺)の5院を創建する。
寛文元年(1661)亀千代(後の綱村、当時3歳、母は三沢初子)は初子の意思で、寺領500石、20余町歩を寄進、堂宇を増築。
享保3年(1686)初子逝去、当寺に葬り、さらに230石を加増する。
5代藩主吉村も法華経信者で、さらに寺領200石を加増、題目堂・鐘楼などを改築。
その後数次に渡り、回禄の厄にあい、旧観を失う。
明治維新後、多少の堂宇を修理・新築するも、昭和35年放火により、全焼。
現在は本堂・釈迦堂・書院・庫裏などが再興される。
江戸初期の敷地:7万坪、現在は約7千坪。
2008/03/31撮影:
陸奥孝勝寺本堂
陸奥孝勝寺妙音院
陸奥孝勝寺法輪院
陸奥孝勝寺蓮香院
2010/04/29撮影:
陸奥孝勝寺門前 陸奥考勝寺山門
陸奥考勝寺本堂2
孝勝寺釈迦堂1 同 2
:元禄8年(1695)伊達綱村、三沢初子の菩提のために榴ヶ岡(考勝寺の北方すぐ)に持仏堂として建立。昭和48年現地に移建される。
孝勝寺妙音院2 孝勝寺蓮香院2
法輪院鬼子母神堂:考勝寺華香院(大正元年廃寺)本尊を祀ると云う。
2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像
★日蓮大菩薩舎利宝塔
絵葉書:
日蓮大菩薩舎利宝塔:この宝塔についての詳細は全く不詳。
絵葉書は大正4年9月発行との「Y」氏の解説がある。おそらく絵葉書表面に発行年月の記載があるのであろう。
絵葉書の説明には「日蓮大菩薩尊舎利 五粒ヲ奉安セル御宝塔(大阪市大和家奉納)」とある。
本葉書には、「伊達政宗烏帽子、支倉常長ローマ行刀大小、俵藤太瀬田の唐橋百足退治名笛及添書」も写る。
宝塔を安置する堂名は不明、昭和35年伽藍全焼と云うから、その折に焼失した可能性も高いと思われるも、不明。
★陸奥の日蓮宗寺院
◆会津若松法華寺:隆国山と号し、身延派に属する。(陸奥孝勝寺とは直接の関係はないものと思われる。)
寛永4年(1627)加藤嘉明会津若松鶴ヶ城に入府、伊予松山法華寺を移す。
開基は教法院日栄上人、日栄上人は小湊誕生寺日尊の法弟という。
加藤氏廃絶の後、会津松平家3代正容が帰依、命により原田氏が壇越となり、山容を整えるという。
戊辰戦争で烏有に帰す。従って現伽藍はその後の再建であろう。
2014/04/09撮影:
会津法華寺山門 会津法華寺本堂 会津法華寺歴代墓碑:開基日栄上人墓碑は見当たらず。
会津法華寺題目碑1:享保16年銘
会津法華寺題目碑2:文政7年銘
会津法華寺題目碑3 会津法華寺題目碑4
2008/04/09作成:2014/05/14更新:ホームページ、日本の塔婆
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