丹  後  金  剛  院  三  重  塔

丹後金剛院三重塔

丹後金剛院三重塔(重文)

2007/10/20追加:「O」氏ご提供画像:2006/02/10撮影
 

丹後金剛院三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4:左図拡大図
  同        5

様式上、室町中期再建とされる。
一辺4.63m、高さ24.6m。
基本的に純和様を用いる。

金剛院は天長6年(829)高丘親王(平城天皇第3皇子・弘法大師10大弟子の一人・真如上人)によって創建。
白河天皇が当山を復興し、勅願寺(慈恩寺と号す)として、三重塔を建立したと伝える。
また美福門院も平忠盛を造営奉行に任じ、阿弥陀堂・食堂・浴室なども整備されたとする。
往時は金剛院ほか12坊があったが、現在は金剛院1坊が護持する。

2006/01/29追加:
 ◇丹後金剛院三重塔11:2005/12月初旬撮影

2002/01/17撮影画像:
 丹後金剛院三重塔1
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5:左図拡大図
   同        6
   同        7
   同        8

2000/01/07撮影画像:
 丹後金剛院三重塔1
 丹後金剛院三重塔2
 丹後金剛院三重塔3
 丹後金剛院三重塔4
 丹後金剛院三重塔5
 丹後金剛院三重塔6
 丹後金剛院本堂

2010/03/23撮影:使い捨てカメラにて撮影
 丹後金剛院堂塔11
   同       12
   同       13
   同   三重塔14
   同   三重塔15
   同   三重塔16
   同   三重塔17
   同   三重塔18
   同   三重塔19
   同   三重塔20
2010/03/23撮影:同行者撮影(デジタル一眼レフ)
 丹後金剛院堂塔31
   同       32
   同   三重塔33
   同   三重塔34
   同   三重塔35
   同   三重塔36
   同   三重塔37
   同   三重塔38

2010/04/06追加:
 丹後金剛院三重塔41     丹後金剛院三重塔42:いずれも金剛院発行リーフレット  より
2010/03/23撮影:使い捨てカメラにて撮影
 丹後金剛院本堂・石階       同    本堂22       同    雲山閣       同    鐘楼
2010/03/23撮影:同行者撮影(デジタル一眼レフ)
 丹後金剛院本堂・石階     丹後金剛院本堂39

2009/07/18追加:
◆「京都府四百年前社寺建物取調書」明治15年内務卿調査命令
 三重塔:
  本尊:大日如来并真如法親王尊像安置
  由緒:永保年間 白河天皇勅命に因って真如法親王御遺骨の古跡御追慕御菩提のため勅営ありしと伝説す
  建物:桁行・梁行 弐間弐尺、素木造屋根瓦葺、縁 四間弐尺四方、雨落 五間四尺四方、右修繕正徳4年6月当院の支出費額金員不詳
 丹後金剛院境内図1:貼紙表
   同        2:貼紙裏
 丹後金剛院三重塔図:この当時は相輪は欠落していたのであろう。
※昭和24年解体修理され、相輪を新補し完全に修理・復旧される。

2009/07/18追加:
◆サイト:「丹後の地名・資料編」に以下の資料の掲載がある。(転載)
◇「丹哥府志」
 (宮津藩の儒者小林玄章・之保<玄章子>・之原<玄章孫>の著、宝暦13年・1763-天保12年・1841)
【鹿原山慈恩寺金剛院】(真言宗無本尊末寺四ケ寺寺領廿三石)
鹿原山慈恩寺金剛心院は真如親王の開基なり
 (真如親王は平城帝の皇子なり、始め高岡親王と称す、嵯峨帝の位に即くに及び立ちて太子となる、平城帝既に位を譲りて後奈良の故宮を修理して妃薬子と居焉、薬子の人となり恣にして奸なり、其兄仲成勢を恃みて頗る暴戻なり、遂に薬子と重祚を謀る、事露はれて皆誅に伏す、此時太子も亦廃せられて僧となり名を真如と改む(日本後記三代実録)後に入唐して遂に返らず)
、天長二年真如親王諸国巡遊して志楽の庄に来り
 (在昔高岳親王京にあるの日鳳凰来り鳴く其肇善哉善哉と呼ぶ、高岳親王之を追ふて丹後に来り其鳥鹿原山に来り七日七夜鳴く、於是高岳親王其地を卜して伽藍を建立すといま人語り伝ふ、奇怪の説なれども、仲成の事露るるに及びて、高岳親王鳥に托して丹後に遁るにも斗りがたし)
堂宇を建立す、號して金剛院といふ。
後二百余年を経て白川帝の御宇に至る永保二年夏四月より雨ふらず七月に至る、於是新たに不動明王を勧請して請雨経法を修す、蓋勅に応ずるなり(日本史請雨経法を神泉苑に修する事を挙げて他の寺院を挙げず)、其請雨の験ありて慈雨の澤天下に及ぶ、よって慈恩寺の勅號を賜はる、是年重修の勅ありて伽藍を再建す、後六十年を経て近衛帝の御宇に至る、久安二年美福門院大伽藍を増立して三重の塔を造る(日本史曰后嘗金剛勝)是時平忠盛普請奉行となる。先是永保年中以来永く勅願所となりぬ、勅書勅願今に存す、皆以て徴とするに足る、後世に至りては元弘三年の制札、其文に云、
  丹後国志楽庄内鹿原金剛院  美福門院御願所  判
  右至于当庄内地領下司以上人々等任自由彼等山木切取輩背勅制顕然者可處重科之状如件
    元弘三年六月 日
 愚按ずるに、丹後より御願所に至る凡廿字是を本文とす、勅封の處は今冨御紋の在る處なり、右至て以下月日に至る四十六字は即ち宮司の付録なり、元弘年中既に一色氏丹後の国司なり、恐らくは一色氏前司に継ぎて月日を改め故の如く建る所ならん、此後細川氏二代の制札あり今此を用ゆ。辛丑夏余其寺に遊びて堂宇及仏像尽く是を観るに昔の如く壮なる事なしといへども、本堂の傍に鎮守社ありて天照、熊野権現を合せ祭る、其社の前に拝殿あり、所謂かけ作りなり、懸崖の下に柱を建つ凡二丈余り、本堂の前に護摩堂あり、護摩堂の前より石階六、七十段を下りて右の方に三重の塔あり、塔の前に大日堂地蔵堂あり、又楼門の内に十二坊今左右に連り、鐘楼塔堂悉く備はる、其門の前に下乗の札あり。本堂に安置し奉る不動明王は相応和尚の作なり、本堂の脇士多門天持国天は運慶の作なり、阿弥陀如来は行基菩薩の作なり、永保以前は是を以て本尊とすといふ、六臂如意輪観音は安阿弥の作なり、愛染明王は弘法大師の作なり、金胎大日如来は仁和寺智証大師の御作なり、弘法大師の木像は真雅の作なり、護摩堂に安置する不動明王は智証大師の作なり、塔の内にある大日如来は安阿弥の作なり、地蔵堂の地蔵は津志王丸の身代り地蔵なりと称す。
蔵宝目録
一、眞如親王肯像(御自製)  一、種字曼荼羅(仝上)  一、五色佛舎利(開山貫如親王手附の存する所)   一、鬼形仮面 (仝上)
一、五種鈴杵(仝上)  一、弘法大師袈裟 (仝土)  一、弘法大師肖像(仝上)  一、勅札(美福門院より賜る)  一、普賢菩薩(弘法大師)
一、星曼荼羅 (仝上)  一、不動明王(仝)  一、不動明王 (妙沢)  一、青面金剛(唐絵)  一、虚室蔵 (仝上)
一、薬師十二神(宅摩法師)  一、雨宝童子(仝上)  一、賀利帝母(互勢金岡)  一、不動明王(鳥羽僧正)  一、薬師十二神(唐顔輝)
一、十六善神 (恵心僧都)  一、愛染明王(伝教大師)  一、八組各図 (古図)  一、五大尊 (古図)  一、倶楽像 (宋人絵)
一、金迦羅制多迦(浮絵又兵衝)  一、卅三所観音 (僧慈覚)  一、列僧(古図凡卅五軸)  一、十二天 (古図)  一、三千仏(古図)
・・・以下略・・・

◇「丹後旧事記」
 (小松国康撰、成稿年不明、文化2年1805発刊)
慈恩寺、鹿原山、金剛院  寺領弐拾弐石八斗七升八合  境内千八百弐拾五坪 其外山林
縁起紙面
 人王五十一代平城天皇王子高岡親王、法名真如法師、出家廻国此山ニ至草創也。于時淳和天皇御宇天長六己酉年建立号金剛院九百六十年ニ及
 寺之境ママ節云 高岡親王京都ニ御座時鳳凰鳴其声善哉々々ト鳴飛行跡ヲ慕ヒ給ふニ丹後国鹿原山ニ至山ニ宿ス。七日七夜鳴昼ハ善哉夜ハ怪云々々ト鳴依是相応之勝地トテ開給フ鳴声薫甚敷由
 弁財天、高野山ヨリ勧請開基相継之所山上ニ有リ
  此外中興建立   当時ニ楓多シ色ハ不勝黄葉多シ
 大日堂 三間四面、 地蔵堂
 高岡親王戒名真如法師初ハ東大寺ニ居給ヒ後高野山ニ住シ給ヒ其後入唐
 人王七十二代白河院永保二壬戌年高岡親王創建ノ跡ヲ尋神社仏閣荒タルヲ修補シ給フ是中興開山也
此年大旱也。四月ヨリ七月迄雨不降諸事雨ヲ祈レトモ不降。当寺ニ詔シ給ヒ雨ヲ祈ル七日間祈結願ノ日大雨天下ヲ潤ス。亦同年御悩有諸寺諸山丹誠ヲ尽して験ナシ亦当寺ニテ祈之其験無ニヨリ衆僧相議シ若州辺ニ有不動明王勧請シ祈祷ス。于時永保二壬戌年九月廿八日明王ヲ鹿原ニ移ス。此作無動寺ノ相応和尚彫刻三体ノ内也。悪魔退治ノ法ヲ祈ル御悩忽平癒シ給フ依而新ニ不動ヲ安置ス
 本堂 本尊阿弥陀 安阿弥ノ作 不動明王 相応和尚作 五間四面  往古阿弥陀ヲ本尊トス 白河天皇勅願以後不動ヲ本尊トス
 護麻堂 三間四面、二階鐘楼 二間四方  鐘ハ金崎ノ海ヨリ上リタリシ由金崎ノ銘有り
   金崎ノ海底ニ今モ鐘有由地ニ耳ヲ当テ聞ケハ鐘ノ響有由。長浜ノ沖ニモ鐘有テ夜更ケテ海上ニ灯火見ユル村ノ者是ヲ灯明ト云
 拝殿 掛作 鎮守拝殿也 三間四方、回廊 五間ニ一間、会堂 廃ス、浴堂 廃ス
 荒神社 時代不知 三尺ニ一尺、熊野権現 同   三間ニ二間、伊勢大神宮 同  五尺ニ三尺
 三重素塔  同  三間四面
 二王門   三間ニ二間 二王門ヨリ本堂迄二丁半 二王ハ安阿弥作
 方丈 九間ニ六間 今七間半ニ五間、庫裏 七間ニ五間 今六間四方
 塔頭 今無之 十二坊舎
此時寺号ヲ慈恩寺ト名付慈悲ノ恩沢故亦諸堂修理衆僧供領ハ志楽ノ荘ニ於被為寄付御祈願ノ勅書勅願明白也。是中興開山也。亦次ニ近衛院御宇久安二丙寅年、五百八十九年ニ及、美福門院霊仏奇瑞ノ事被及聞召高岡親王ノ草創白河帝ノ中興有由所トテ新ニ弥陀ノ像ヲ安鎮シ造営有シ。平忠盛奉行タリ。今本堂也  考巌院御宇
 制札
   禁 制
丹後国志楽庄内鹿原山    金剛院 美福門院御願所    右至于当庄内地頭下司以下人々等
任自由彼寺山木切取輩背勅制    然者可処重科之状如件
 元弘三年六月 日
 昔境内湯舟山城ケ尾山ヲ限ル近年細川家山門切ニ仕給。城ケ尾古城小松殿嫡子三位中将惟盛爰ニ居給ふ
細川家之時下馬札給ル于今在之
  宝 物
 一 五色仏舎利 三粒   一 五葦不動専 一軸   一 鳥羽僧正不動専   一 氏信筆薬師十二神   一 大師御袈裟
 一 後鳥羽院勅額 建久戊午年被為掛  五百四十九年ニ及     一光厳院御于 元弘年中山林制札 四百四年 此年正慶 改元
 一 唐筆数多有之    一 藤孝卿 忠興卿御自筆制札
    寺中 福寺院 周快 藤ノ坊 橋本坊
       医王山 多祢寺 西蔵院
     末寺由良山 如意寺 油良ケ嶽 虚空蔵別当虚空蔵嶽トモ云昔長福寺ト云
       笠松山 泉源寺 智性院 愛宕山
  松尾村ヨリ市場迄志楽荘ト云 元来日下部村卜云
 古来奈良西大寺領地也 収納物相滞ニ付一色左京太夫ヲ頼田中ノ大島但馬ヲ頓テ納米取立奈良ニ送ル然所労而無功故後ハ但馬押領ス 其後大島御家人卜成故領地替ル
  一 高岡親王貞観三年上表奏事渡海入唐羅越国逆旅遷化
    高野山宿坊 西谷院 報恩寺
  荒神社
  山神社


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