過去の訪問塔婆・ご提供画像(2002/04/29〜2002/06/29 ) |
2002/06/29 | 山城金戒光明寺遠望1 同 2 |
金戒光明寺遠望です。蹴上から遠望。路上からでは、一昔前に比べてビルが建ったためほんの少ししか望めません。画像1の左は黒谷本堂、楼門の屋根と思います。 |
2002/06/16 | 備前真光寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 本堂 同 仁王門 |
室町中期あるいは初期の建立とされ、慶長15年(1610)牛窓蓮華頂寺(廃寺)の塔を移築と伝える。塔は本堂の西の一段上の基壇に立つ。本尊:大日如来。一辺3.8M、総高18.24M。
御瀧山と号す。報恩大師開基とする。本堂(重文)は応永年間再建の三間堂を、永正13年(1516)五間堂に拡張したとされる。室町期の密教本堂の典型として有名。文化年間には平等院、華蔵院(現存)、成就院、西福院、松寿院、自性院(現存)、心王院などの存在が知られる。現在塔頭は2院に減じ、境内をJR赤穂線と国道2号線で分断され、仁王門は線路、国道の南方に取り残されている。 |
備前福生寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 本堂 同 坊舎跡 |
嘉吉元年(1441)足利義教の再興。一辺3,8M、総高19.72M。昭和27年解体修理。ただし相当新材が目に付き残念な気がします。塔の全景を写真に撮ることは難しい位置(本堂から相当上がった急斜面の尾根?上)に建っています。
大滝山と号する。報恩大師開基とする(鑑真の開基とも云う)。感応年中足利尊氏が再興。応永年中足利義満が本堂を再興、33坊を数える。康正年中の戦乱で塔婆・仁王門を除き焼失。文化年間には本坊西明院、円蔵院、本命院、大聖院、西法院、円光院、吉祥院、宝光院、宝生院、中道院、実相院、福寿院、宝寿院の13坊があった。現在も多くの坊跡を見て取ることが出来ます、現在は福寿院、西法院、実相院が存在する。 |
|
備前余慶寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 塔本尊 同 本堂 同 坊舎 同 境内図 |
天保12年(1815)建立。典型的な近世風な塔婆です。本尊大日如来は盗難に遭ったそうですが、現在は新しい(稚拙な)大日如来尊がポツリと安置されているようです。
報恩大師開基。江戸期前期に7院7坊、正徳4年(1714)に5院3坊、現在は塔頭6院(本乗院・明王院・定光院・円乗院・恵亮院・吉祥院)によって維持されている大寺院です。山門は失われていますが、今なお1山多院制の中世寺院の姿を伝えています。吉井川河口東側の丘上にあり、西からは塔の姿が遠くから見えます。丘上で四方から風雨を受ける位置にありますが、良く現在まで伝えられたものと思います。本堂(室町期、桁行5間・梁間5間。重文)は近年重文に指定されたようです。そのほか薬師堂、地蔵堂、開山堂、十王堂、鐘楼などを有する、 |
|
備前幡多廃寺心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 |
住宅化している水田中に塔の土壇および心礎、その北方に堂名不明の土壇がある。 「日本の木造塔跡」によると、心礎はおおむ六角形に加工された(対辺長2.6から2,1M)の巨石に浅い柱穴(六角形とは断定は出来ないし丸とも断定できない微妙な六角形・径は90-95Cm)とその中心に臍穴(径44Cm内外、深さ17Cm内外)が穿孔されている。弓削廃寺心礎の柱穴も六角形もどきであり、この地方では六角形の心柱が流行?したと推論が可能のようです。 昭和47-48年の発掘調査で寺域は方1町以上で、諸堂門などの遺構を検出したとされるが、正確な伽藍配置は分からないようです。地名から見て秦氏の寺のようで、出土瓦から7世紀末(白鳳期末)の創建とされ、平安後期に廃絶したとされる。なお北方土壇には4−5個の礎石と思われる石が残されています。 |
|
備前千光寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 塔本尊 |
明和2年(1765)建立。棟梁は邑久郡の尾形庄助とされる。寺は西北西に向き、塔は本堂の南西の本堂を見下ろす斜面に立つ。一辺3.5M、総高18.5M。平成12年大修理が完工し、面目を一新したようです。本尊は大日如来。江戸期塔婆の典型ですが、極めてシンプルな感じの塔婆です。 石井原山と号する。報恩大師開基とする。南の竜王山上に創建。天正18年(1590)現在地に再興。元禄年中には金蔵院、西明院、玉泉院があった。享保20年(1735)火災にあい、本堂は延享元年(1744)の再建とする。現在は本堂の約500M下の田中にポツリと建つ仁王門と本坊ほか数棟の堂宇を残す。 |
|
2002/06/20 (X氏ご提供画像) |
備前八塔寺三重塔跡1 同 2 |
「X」氏より心礎および説明板の写真を頂きました。宝永3年再興、寛政2年焼失塔跡のようです。 寺伝によると、神亀5年(728)聖武天皇の勅願で、道鏡が創建したという。中世には、十三重塔を初めとする堂塔と、72坊を数えたとされる。しかし南北朝以降、たびたび兵火に焼かれて衰退する。 池田光政は、梵鐘を寄進、次の池田綱政は、宝永3年(1706)八塔寺本堂と三重塔を再建した。この堂塔は寛政2年(1790)の大火で焼失。その後本堂は再建されたが、三重塔の再興はならず、四天柱の礎石が元の位置に残っているようです。礎石間隔は、1.6Mで、これから1辺約4Mの三重塔だったようです。礎石は花崗岩製で、中央に方3寸深さ2寸の臍穴が穿孔されているようです。 寛永6年には宝生院(高照院)、明王院、真言院(宝寿院)の3院があり、のち本坊高照院は天台宗に転宗し、紛糾した。明王院、宝寿院は離山し高顕寺と改称し高野山真言宗を奉じ現在に至る。 |
2002/06/20 (X氏ご提供画像) |
美濃笠松連台寺(東流廃寺)心礎 笠松別院所在 白髭神社所在 |
「X」氏より心礎および説明板の写真を頂きました。 心礎が2個に割れ、各々が別々の場所に保存されている珍しいケースのようです。1個は東本願寺派笠松別院、もう1個は白髭神社境内に保存されているようです。 「X」氏から頂いた説明板写真の説明を要約すると、 笠松別院:明治初めに経蔵を建立するときに、長池の信者が土台石にと寄進したもののようです。この心礎は田中から出土したようです。 白髭神社境内:昭和32年の土地改良事業で、長池東流の地下から多くの布目瓦とともに塔心礎の半分が出土。寺院は奈良前期のものと推定されているようです。 昭和32年の発掘調査では、上記心礎と心礎右位置に礎石1ヶが出土。但し塔基壇など他の遺構は発見されていないようです。心礎硬質砂岩製で円形柱座に円孔を持つ。大きさは現在のところ情報がありません。 |
石川心蓮社多宝塔 | 画像は「X」氏ご提供です。平成元年完成。小型塔のようです。なお心蓮社は寺院のようです。金沢市。 | |
真和園三重塔 | 画像は「X」氏ご提供です。平成5年完成。大きさもかなり大きく本格的な塔婆のようです。ご覧のとおり均整もとれているようです。真和園は宗教施設のようでもあり、遊興施設のようでもあり実態は良く分からないようです。穴水町。 | |
2002/05/25 | 阿波鶴林寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 |
三重塔:本堂の右上位置する。文政6年(1823)再建。和様、唐様とが入り混じっているようです。多少彫刻が「うるさい」感じですが、かなりの大型塔で、均整もとれている塔です。 当寺は霊鷲山と号する。四国88所20番札所。延暦年間、桓武天皇の勅願という。また弘法大師の巡錫をみ、その折、大師は雌雄2羽の鶴が、黄金の地蔵菩薩を互いに守護しながら老杉に舞い下りるのを見たという。大師は自らも地蔵菩薩を刻んで小さい地蔵菩薩を胎内に納め本尊とし、堂宇を建立したという。寺は歴代天皇、武将の信仰を得、近世には阿液藩主の祈願所となり、山林、寺領が寄進されたようです。寺は標高570Mの頂上にあり、ドライヴウエイがなければ相当の難所のようです。 |
阿波太龍寺多宝塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 三重塔跡1 同 2 同 3 同 4 同 境内図 |
多宝塔は本堂のすぐ裏右手奥の高所にあり、文久3年(1863)の落慶とされる。極めて近世風な印象ですが、一辺6.3Mを越える相当な大型塔です。写真は撮影し難いです。 かって三重塔が本堂右手の平坦地にあったようです、現在跡地には礎石(整形されているようですが)が残され、その上に相輪塔が建立されています。塔は貞亨元年(1684)建立(棟札)とされ、老朽化のため荒廃していたが、伊予興願寺の住職が同窓で親友とのよしみで、興願寺に譲渡(昭和28年解体〜34年移築復元)される。現在塔婆は伊予の地で美しく修復され、健在です。 「阿波名所圖會」に見る太竜寺三重塔 太竜寺部分図(三重塔) 当寺は舎心山と号する。四国88所21番札所。延暦年間、桓武天皇の勅命により、弘法大師が開基したという。大師19歳の時、太龍ヶ獄に登り、南舎心獄で求聞特法を修したとされる。(「三教指帰」)標高618mの太龍寺山のほぼ頂上に位置する。中世には歴代天皇の信仰を集め、近世には阿波藩主の保護で伽藍を維持したようです、現在はロープウエイ(絶景です)が完成して容易に山頂にいけますが、ここも相当な難所だったようです。 |
|
阿波薬王寺瑜祇塔1 同 2 同 3 同 4 同 二層塔1 同 2 同 3 同 4 |
瑜祇塔:本堂右手を上がった中腹に位置する。昭和39年建立。鉄筋コンクリート。高さ約35Mを測る大型塔です。基壇部分に本尊五智如来を安置し、内部は宝物館を兼ねるようです。 当寺は医王山と号する。四国88所23番札所。神亀3年(726)、行基聖武天皇の勅願により行基が建立したという、あるいは平城天皇の勅令により、弘法大師がこの地を巡錫し弘仁6年(815)、本尊薬師如来を刻んで開基したとも云う。以後厄除祈願所として歴代天皇の信仰を集めたという。その後、文治4年(1188)の火災の折、本尊は自ら西の玉厨子山へとび、後醍醐天皇が堂塔を再建して新しい薬師如来を安置したところ、薬師仏は再び戻って来、後ろ向きに本堂に入ったという。従って現在、本堂には、二体の薬師如来が奉られていて、後ろ向き薬師は本堂の裏から拝することができるという。 現在本堂裏手におそらく二層塔(と思われる。あるいは入母屋造りに方形一層塔を載せた形式直かも分かりませんが)が建立されています。これも推測ですが、おそらく「後ろ向き薬師」を安ず堂塔なのかも分かりません。 |
|
2002/05/05 | 但馬名草神社三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 同 14 同 15 同 16 同 本殿 同 拝殿 |
妙見山の8合目(標高800M)に本殿・拝殿とともにある。 塔婆は一段下の塔平(広場)にある。 この塔は大永7年(1527)尼子経久が出雲大社に建立。妙見社が出雲大社の本殿の材木として妙見杉を提供した縁で塔婆を譲渡されたとする。寛文5年(1665)1月に解体、4月に宇龍港を出航し、5月に3500人によって妙見山に運ばれ、9月に完工したという。以来数Mの積雪のある山中にも係わらずまた明治の廃仏毀釈も乗り越え、現在にその姿を伝え、一種の感動を覚える塔婆です。 昭和59年雪で屋根が落下したため、昭和62年大修理完工。 一辺4.6M、総高23.9M、こけら葺。おそらく近世のものと思われますが、初層に稚拙ではあるが、四隅に隅垂木を担ぐ力士像と上層の尾垂木にはそれぞれ猿が乗り、面白いものです。 当宮の祭神は主神を名草彦命(実態は良く分かりません)とする。平安末期より妙見大菩薩を本尊とする妙見山帝釈寺との関係を深め、妙見信仰の場として栄えたようです。 帝釈寺には多くの武将の寄進状が残されているようです。 寛永9年(1632)本坊の日光院を奥院の現名草神社地に移し、同社の別当の地位を固めた。明治の神仏分離で妙見社は名草神社となり、日光院ははるか山麓の支坊成就院の地に戻り現存し、当地の信仰を集めているようです。 なお神社には本殿(向拝付入母屋造・千鳥破風軒唐破風付・桁行9間、梁間5間、宝歴4年(1754))、拝殿(割拝殿、桁行5間・梁間2間、元禄元年(1688))の少し重たい感じですが、ユニークな建築も残されています。 |
但馬赤淵神社心礎1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 別当 |
赤淵神社楼門から勅旨門を過ぎ、本殿・拝殿に至る参道右脇に塔の心礎が1個残されている。大きさは目測ですが、約1.4M×1.2Mを2辺とする四角形の一隅が欠けたような石で、中央に径約33Cmの穴が穿孔されている。 この時は聞き取りもせずまた現在も資料が全くなく、また穴の深さおよび底の形状などの確認をしていません。従ってどういう経緯(元の場所なのか、どこからか移転されたのかあるいは神宮寺の塔婆の心礎として転用されたのか・・)の心礎なのかは全く不明です。立て札には三重塔心礎としているようですが。 当社は「延喜式」神名帳に記載される「赤淵神社」に比定される。本殿(三間社流造杮葺・重文)は様式上、室町前期の建築とされるが、現状は覆屋に覆われほとんど覗うことは出来ません。 なお現在も旧の別当・神淵寺の堂宇(本地堂?本尊阿弥陀如来)が楼門左手に残されています。 なおこの心礎は「X」氏から教えていただいたものです。 写真の心礎1の正面石灯篭の向こうが心礎のある場所です。 心礎5は心礎のある場所の現状ですが、塔婆建立のスペースとしては無理な感じを受けます。(心礎の位置は原位置なのか、あるいは後世にスペースが変更されたか?) |
|
丹波高源寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 本尊 |
塔は天明年間(1780年頃)弘厳禅師の建立によるとされる。初層は輪蔵の形式で、5.045巻の経文が収められているようです。本尊は開運毘沙門天とする。相輪を上げ、三層建築であるので三重塔ではあるが、伝統的な塔婆建築とは云いがたく、組物もなく相当程度、高さに対する底面積は広いようです。 当寺は西天目瑞巌山と号する(甲斐の栖雲寺が東天目)。臨済宗妙心寺派。寺伝では僧・遠谿(えんけい)が中国抗州天目山で中峰明本禅師に師事し、帰朝して正中2年(1325)に後醍醐天皇より号を得て開山。創建地は現在地東方3kmの岩屋山であり、禅宗24流派中の中峰派の根本道場として、岩屋千坊といわれたとする。明智光秀の丹波攻めによりことごとく焼亡。江戸期に弘巌禅師が現在地に仏殿、三重塔、庫裡、方丈、山門などを再興。天目かえでの名勝としても有名のようです。 |
|
2002/04/29 | 大和久米寺多宝塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 |
2000/9/20撮影画像に追加 多宝塔は江戸初期建立。東塔跡に仁和寺五智山から移設(万治2年<1659>)したとされる。東塔は元七重塔があり天慶5年(942)焼失。その後は大塔があったようです。東塔は延暦年間空海が初めて大日経を感得したところとされる。現在多宝塔の南には一辺10.7Mに及ぶ礎石が残されている。大塔礎石は心礎を含め17個が完存し、その巨大さは国分寺を除けば、最大のものといわれる。心礎は3,9M×2.9M、径93Cm、深さ29.7Cmの孔がある。他の礎石も含めその巨大さには驚かされます。 近年解体修理がなされたようで、以前は巨大な大塔跡の礎石四天柱礎上に立っていたが、礎石は多宝塔のすぐ南に移設(昭和62年)されたようで、前とは雰囲気が違ってします。塔そのものは軒の支柱も取り払われて、立派になりました。 寺は推古天皇勅願で来目皇子が建立したとされる(久米寺略記)。また久米仙人の伝説でも有名。なお創建時の伽藍配置は不明のようです。 大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:久米寺多宝塔(部分図) 記事:「・・・多宝塔は、養老年中に善無畏三蔵来朝し、当寺に2年住みて南天の鉄塔の半分の写しなり。・・・その後延暦14年、弘法大師夢の告を蒙りて、久米の道場東塔の下にして、かの七軸の経を得られたまふ。・・・今の多宝塔は、近頃京師仁和寺の塔をここに移すといふ。いにしへの礎石なほ遺れり。・・・」 西国三十三所名所圖會:巻之8:霊禅山東塔院久米寺 多宝塔(本堂の向かふ、右の傍にあり。往古の大塔の礎石四面にならぶ。数十二あり。大日如来を安ず。) 久米寺全図 久米寺部分図 |
大和大窪寺心礎1 同 2 同 3 同 4 |
現国源寺境内付近が大窪寺跡と伝える、江戸後期には東西金堂の礎石が残っていたようです。(江戸末期「卯花日記」)現在は僅かに心礎のみが残されている。この付近から抜き取り穴が確認されているため、心礎は大体原位置と推定されている。(現位置ではないという説もある)創建は出土瓦から飛鳥とされるが、伽藍配置は不明のようです。幸運にも大正元年に発掘されたため、橿原神宮等の造営に転用されずに残ったものと思います。「日本の木造塔跡」によると、心礎は2.27M×1.34Mの茄子形で、穴の径54Cm、深さ6Cm、さらに径13Cm、深さ3Cmの蓋受孔と一辺8Cm、深さ7Cmの方形舎利孔を持つ。 | |
大和南法華寺三重塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 同 14 同 15 大和南法華寺多宝塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 礼堂 同 本堂 |
壷阪寺と通称される。壷坂山の山中に位置している。現三重塔は室町期明応年間(1492-1500)の建立で、数回目の再建とされる。数段ある高い石垣の上の八角円堂・礼堂(室町期・重文)の南に位置する。塔は高い基壇の上に建ち、近年の俗悪な堂宇のある中で、ひときわ風格ある姿です。 心礎について:「日本の木造塔跡」によると、大正年間の解体修理の時に西北隅の四天柱礎に舎利孔のある心礎が発見されたとする。(1.42M×1.5Mの石に径66Cm、深さ12Cm、舎利孔の径18Cm深さ17.2Cm)再建時に元の心礎を転用したと考えるより他の寺院の心礎を四天柱礎に転用したとするのが妥当のようです。 多宝塔は元の因幡堂があったと思われる石垣の中段に建立され、2002年4月28日落慶したようです。開創1300年記念で建立。高さ12.45M。若干禅宗様を採用しているようですが、全般的に伝統様の均整のとれた木造塔婆です。施工は竹中工務店とのことでした。本尊は大日如来(平安時代・木造)。なお、さらに下段に大講堂も同時に建立されたようで、こちらは柱間を数えるのを忘れましたが、大建築です。柱は鉄筋コンクリート、造作は木造のようで、外観は古式で内観は近代風ですす。資金は多くの信者の喜捨によって集められたようです。 創建は文武天皇大宝3年(703)元興寺の弁基上人の開基と伝える。その霊験は元正天皇に達し、養老元年(717)元正天皇は弁基上人が観世音を感得したという壷を安置する八角円堂(本堂)を建立、同時に礼堂、五大堂、宝塔、鐘楼、経蔵なども造営、「南法華寺」(山城清水寺が北法華寺)の寺号を送ったとする。その後観音霊場として栄え、36堂60余坊を有したとされる。現在の主要伽藍は文政10年(1827)に建立されたもののようです。発掘により、八角円堂の基壇石が確認され、大同3年建立時から本堂の位置は変わっていないとされる。西国六番の札所。 大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より;壷阪寺三重塔(部分図) |
|
大和檜隈寺跡1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 |
倭漢氏の氏寺とされ、創建は飛鳥期に遡るようです。発掘調査の結果、南門の北に塔、東に金堂。西に講堂の伽藍配置を採るようです。 塔土壇および礎石が残されていて、土壇の中心に地下式心礎があるとされる。その上には平安期の十三重塔(一部欠・重文)が建立されている。「日本の木造塔跡」によると、地下80Cmの所に、径1.8Mの心礎があり、中央の穴の径100Cm、深さ16Cmの柱穴があり、さらに中央に径12Cm、深さ9Cmの舎利孔があり、舎利孔の周りに環状溝があり、そこから1本の放射状溝があり、柱孔の径に沿う環状溝と合わされ、心礎を刳りぬいて、外部に達している。(巨勢寺心礎と同一の形状)現在この心礎の複製が塔跡すぐ南に設置されている。塔跡は土壇と四天柱礎全部と側柱礎11個(自然石)とが残されて、塔の一辺は7.6M、基壇の一辺は約12Mとされる。本来の寺名は道興寺と称したようです。 |
|
大和豊浦寺跡1 同 2 |
現在は広厳寺が法燈を伝えている。境内他に礎石が残されています。 豊浦宮跡の礎石が塔心礎とされるようですが、今回は勘違いをして実見はしていません。 |
|
大和和田廃寺1 同 2 同 3 |
水田中に「大野丘」と呼ばれる塔跡の土壇を残す。寺域は藤原京右京十一・十二条一坊に当たるとされる。トウノモト・堂の前の字名を残す。土壇は南北約14M、東西約9.5M、高さ約1.7Mで、発掘調査により、礎石抜き取り穴や根固め石が発見され、一辺が12.2Mに復元できる塔基壇の西半分が残在したものであるようです。この塔は、基壇の版築土中の出土瓦などから、7世紀後半に創建され8世紀後半まで存続していたとされる。なお土壇上には側柱礎2個が残されています。 大野丘北塔跡に疑せられている。ただし出土瓦が7世紀中葉のもので、時代が合わないということになっている。 西国三十三所名所圖會:巻之8:大野丘塔古跡 (和田村田圃の中にあり。今僅に小高く墳のごときもの存せり。この周の田の字を塔の田といふ。これにてその古跡なること明らかなり。昔は礎石ありしかども、田圃の普請に用ひし由聞こゆ。) |
|
大和田中廃寺 | 蘇我氏系田中氏の氏寺として建立されたとされる。現地の法満寺が田中宮・田中廃寺の推定地とされ、塔心礎とされる礎石があるようですが、今回は見過ごしました。 1990年(病院建設に伴う事前調査)からの数次の発掘調査で、伽藍中心は、「弁天の森」付近とされる説が有力なようです。病院の西南隅に、発掘成果を伝える碑があるようですが、現在は病院の改装中で見ることは出来ませんでした。 |
|
大和吉備池廃寺 | 百済大寺跡推定地。高さ約90Mの九重塔があったとされる。発掘調査により寺院は何面し、西に塔跡・東に金堂を配し、周りを回廊が廻り、北方に僧坊跡を検出。 特異なことは中門が金堂の前(中軸線の東より)で検出され、左右対象でない伽藍配置が確認されたことです。(2000年冬発掘調査) 画像は吉備池北の平坦地です。今回は南を探さなかったので失敗です。 |
|
大和膳夫寺跡礎石 | 談山神社蔵「膳夫庄差図」(永正12年)には、この一帯に「タウノダン、コウトウ、カワラカマ・・」と記された地名があるようです。何らかの塔婆の存在が予想されます。現状は現地の三柱神社の神宮寺のような位置に膳夫寺の後身といわれる保寿院1宇が残されたいるが、当境内に柱座を持つ礎石が2個残されているのみです。なお付近からは白鳳期の瓦が出土するようです。 | |
大和紀寺跡金堂方面 同 塔推測地 |
伽藍配置は南面し、南門・中門・金堂・講堂が一列に並び、塔は金堂前面東に配置、回廊は中門から講堂に取り付く。なお心礎は明治初頭まで残されていたようです。 現状は公園として残され、金堂・講堂(と思われ)土壇を明瞭に見て取ることができますが、素人には塔跡は判然としません。なお当寺は平城京移転とともに移転したとされる。 |
|
大和本薬師寺東塔跡1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 西塔跡1 同 2 同 3 同 金堂跡1 同 2 |
天武天皇の発願により起工し、持統天皇・文武天皇の時代に完成したとされる。完成から20年後には平城宮に寺籍を移す。一部堂塔は平安中期まで法燈を保っていたことが知られる。伽藍配置は平城京薬師寺と同一、同距離とされる。 現状は東西両塔跡土壇と金堂跡土壇と各々に心礎・礎石を残す。 東塔跡:心礎、四天柱礎全部、側柱礎9を残す。心礎は2.1M×1.8M、径96Cm・深さ18Cmの柱穴、蓋受孔(径43Cm・8.5Cm)、舎利孔(径30Cm・24Cm)の三段式のようです。塔の一辺は7.13Mとされる。 西塔跡:心礎のみ残る。2.1M×2.1Mの出臍式。 金堂跡:巨大なかつ精巧な礎石15個(7間4面堂)が整然と残されている。 |