杉尾明神・椙尾山神宮寺大明神

杉尾明神・椙尾山神宮寺大明神

杉尾明神・椙尾山神宮寺大明神

社伝では欽明天皇代に北東面野山に創建、養老3年現在地に移転。近世には杉尾明神、椙尾山神宮寺大明神などと称した。
慶長16年大山城主下秀実・家老原頼秀寄進の石鳥居が現存する。
慶長17年最上義光から黒印170石余の寄進がある。
麓には学頭永福寺のほか金勝寺、少勧寺、吉祥寺、金光坊、地蔵院、神宮寺の六供があった。
社家8家、神子2軒、承仕、輿舁役、宮大工などの世襲の組織があった。
社家修理太夫(菅原大和守)は72石余、永福寺29石余、神宮寺4石余、少勧寺4石余、吉祥寺3石余、金光坊10石余、地蔵院4石余・・の配分であった。
 →注1):寛永5年の「羽州庄内藩寺社領控え」があり、椙尾明神の社領とその配分が記されている。
境内には本地堂(薬師堂)、牛頭天王(現存)、山神社、八幡宮、地蔵堂、天満宮があった。
明治の神仏分離で本地堂薬師如来像は永福寺に遷座する。

現在、学頭永福寺(現真言宗豊山派)が現存する。麓の参道両脇に六供(おそらく山伏)があったものと推測され、その地割を残す。
 ※明治の神仏分離で破壊などは行われたもしくは還俗などの処置が採られたと推測されます。
  椙尾明神本殿   椙尾明神学頭永福寺
また周囲には社家・社人などの家が残るようです。
旧六供の地蔵院(現真言宗智山派)が(おそらく寺地を替えて)附近に残る。椙尾山と号する。現在無住。
なお本堂は高橋兼吉の建築とも云う。

注1)
「井岡寺の歴史散歩」
「羽州庄内寺社領控え」寛永5年より転載。
               ※井岡寺に於ける明治の神仏分分離の詳細はこちら
寛永5年羽州庄内寺社領控え
    
馬町宮ノ下村 椙尾山 神宮寺 椙尾大明神 社領 170 5 2 2
内訳
  地方馬町村 17     .
  宮ノ下村 20     .
  野興屋村 20 6 9 .
  湯沢浜村 20 1   .
  面野山村 8     .
  下川村 84 7 3 2
配分
   1  神主修理大夫 70 2   2
   2  学頭永福寺 29 1 8 .
   3  神宮寺 4 5 3 .
   4  金輪寺(金勝寺?) 4 5 5 .
   5  小勧進(少勧寺?) 4 5   .
   6  吉祥寺 3 7 9 .
   7  金光寺 10 7 2 .
   8  地蔵院 4 7 3 .
   9  渡會大夫 9 8   .
 10  兵部大夫 4 1   .
 11  八幡大夫   (阿部氏) 2 1 2 .
 12  左近大夫 1 6   .
 13  獅子役式部大夫 3 5 2 .
 14  笛吹役□部大夫 3 9 7 .
 15  太鼓役民部大夫 3 3   .
 16  伊勢神子 2     .
 17  中里神子 1 7 6 .
 18  輿被免三郎左ヱ門  地方境興屋村 3 2   .
 19  大工 2 9 5 .

2006年以前作成:2007/04/15更新:ホームページ日本の塔婆