和 泉 禅 興 寺 心 礎 (長 滝 喜 多 邸 心 礎)

和泉禅興寺心礎(長滝喜多邸心礎)

和泉禅興寺心礎(長滝喜多邸心礎)

2011/06/28追加・加筆・修正:
和泉禅興寺心礎は長滝喜多邸庭石として池中に裏返しに置かれ現存する。
 (従って、心礎は禅興寺跡から西北西方向に直線で1km許移動していることになる。)
平成7年の阪神淡路大震災にて庭園の池の水が涸れ、今は池底から裏返しになった心礎の表面(柱穴)を見ることが出来る。
 ※喜多家は長滝西番の庄屋の家柄と云う、また喜多邸の北やや西方向に接して熊野古道が通ると云う。当時、庄屋は本陣も兼ねることが一般的であり、喜多家も熊野古道を往来した 大名小名などの休息の場となったとも云う。

○「日本の木造塔跡」の「付表・古代主要木造塔跡一覧」では「所在:和泉佐野市長滝」、「心礎の様式:川原寺式(倒置して庭石となる)とある。
しかしながら同著の「付表・心礎の計測」と云う一覧表には禅興寺心礎の掲載は無い。
 ※以上から推測できるのは、著者・岩井氏は喜多邸に心礎が所在することは掌握していたが、心礎は実見せずもしくは実見したとしてもかなりの広さと深さの池のため、計測が出来なかったものと思われる。
○「幻の塔を求めて西東」では「大きさは210×160×80cm、66×13cmの円孔。近くの池の中に逆さになっている。奈良後期。」とある。
 ※この情報は同著の本文には無く、天理図書館蔵本中に挟まれた著者・小堀氏の直筆と思われる2ページの手書き「塔心礎の追加表」中にある。 この「追加表」は大友氏(不詳)の「ご好意」によるものが大半と注釈され、禅興寺心礎情報も大友氏の好意によると明記される。
この2ページの手書き資料「塔心礎の追加表」は、刊本後の「補遺」の意図を持って寄贈図書館に送付したものなのであろう。
 ※小堀氏が心礎を実見したかどうかは不明、さらに実見したとしても、上と同じ理由で計測は困難であったと思われる。
何れにしろ、上記の計測値は今般の実測値にほぼ見合うもので、計測が困難であるとするならば、喜多邸に倒置される前に実測した何かの文献 <大友氏のメモあるいは大友氏の文献>があり、小堀氏は大友氏のメモあるいは文献から計測値を引用したものと推測できる。
○禅興寺心礎について言及した文献は管見にして上記の2例しか知らず。
また喜多邸の現当主は長期間現邸宅を離れていたこともあり、心礎の移設・設置時期および心礎の由来などを殆ど承知をしないと云う。
従って、現時点では、喜多邸に移される前の心礎の状況あるいは移設の様子などは全く分からないのが実情である。
何かのメモ・文献が残っている可能性が高いが、その手掛かりは今のところ全くないのが実情である。

和泉禅興寺心礎(長滝喜多邸心礎):2011/06/25撮影:



和泉禅興寺心礎11:喜多邸庭園:部分、中央右の小丘は島で
周囲は池水が廻る。中央左の巨石が心礎、奥には茶室を設える。
和泉禅興寺心礎12
和泉禅興寺心礎13
和泉禅興寺心礎14
和泉禅興寺心礎15
和泉禅興寺心礎16
和泉禅興寺心礎17
和泉禅興寺心礎18:左図拡大図
和泉禅興寺心礎19
和泉禅興寺心礎20
和泉禅興寺心礎21
和泉禅興寺心礎22



和泉禅興寺心礎円穴1:「X」氏撮影画像:左図拡大図
和泉禅興寺心礎円穴2
和泉禅興寺心礎円穴3

喜多邸飛石:中央右の一番大きい正円の飛び石は柱座を造出し、ほぼ礎石と断定出来る。(外にも同様の礎石がある)また写真に写る外の飛石もあるいは礎石があるのかも知れないが、伝承などを欠き確証がない。

●180度回転写真:現在心礎は倒置される。
 それを180度回転させた写真が以下である。
 倒置されなければ、心礎は下の写真のように見えるであろう。
禅興寺心礎18・180度回転写真:下図拡大図
  上記「和泉禅興寺心礎18」の180度回転写真
禅興寺心礎円穴1・180度回転写真:下図拡大図
  上記「和泉禅興寺心礎円穴1」の180度回転写真

●和泉禅興寺心礎実測値:
心礎は一重円穴式で、円穴の周囲を削平する以外には顕著な加工の形跡は見当たらない。
大きさは220×170cm高さ90cm、径63cm深さ11cmの円穴を穿つ。(計測は概要)花崗岩製。

和泉禅興寺概要

2011/06以前作成、2011/06/28一部追加修正:

1)禅興寺古絵図
「日根荘日根野村荒野開拓絵図」(宮内庁書陵部所蔵)が中世<正和5年(1316)>のものであるが、唯一視覚的に禅興寺伽藍を示す。
 日根荘日根野村荒野開拓絵図:全図、2011/06/25撮影 :日根野駅前に設置案内板
 日根荘日根野村荒野開拓絵図2:禅興寺部分図 、2011/06/25撮影:同上
大門(重層南大門)・堂(金堂)・三重塔・重層堂(講堂)が描かれる。
※「行基年譜」の文武天皇8年に「新羅国大臣恵基・・・今日禅興寺本願・・・」とあり、古代 には既に存在したことが知られる。

2)禅興寺記録
○禅興寺は以下のような伽藍配置と云う。(出典未確認)
境内地:東西一町半 (90間) 、南北二町 (120間) 、周囲は堀を廻らす。
推古17年(609)金麻蘇邇(新羅僧) の創建と云う。重層瓦葺南大門、瓦葺金堂、瓦葺三重塔、瓦葺重層講堂が一直線上に並ぶ。
 (ただし金堂・塔の位置が不自然ではある。)
寺領は800石(中世の頃?)。僧83名。天正5年(1577)織田信長の紀伊根来寺・雑賀攻めで焼失。
○2007/03/05「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
この(日根野)周囲は平安中期以降開墾され、天福2年(1234)九条家の荘園となる。荘園化に関し、禅興寺領家前大僧正円忠の引渡状の存在が知られる。禅興寺は九条家の直接支配をうけていたとされる。
○2007/03/16追加:「行基と律令国家」より
 (上記の「行基年譜」への言及があるものと思われるも、転載するのを忘れる。)
○「泉州志 巻5」:禅興寺旧跡は長滝村にある、新羅の金麻蘇邇が草創した、昌泰元年(898)伽藍焼失し、残余の財産を別紙に記録する。
○「大阪府全史」:跡は長滝村寺前であり、寺跡は現在水田になる。
○2008/09/12追加:
「新修泉佐野市史 巻次 13-[2]  絵図地図編」泉佐野市史編さん委員会、1999.3
明福寺附近に「大門」「寺前」の字名を残し、これ等を含め100m四方の方形地割の痕跡が残る。この地から白鳳期の瓦の発見も伝えられる。また奈良〜平安期〜中世の瓦も出土し寺院は古代に創建され中世まで維持されたことが裏づけられる。
 長滝村絵図:和泉禅興寺跡部分図:天保8年(1837)、河内長野角谷氏蔵
 長滝村絵図(トレース):明福寺南東に禅興寺跡がある。

3)禅興寺遺物
○現在、寺跡については必ずしも明確ではない。
明福寺境内に「史蹟禅興寺金堂跡」と刻んだ石碑(昭和61年建立)が建つも、明福寺様談によれば、この石碑は某大学教授の「建てる場所がないので 境内に建てさせて欲しい」との依頼で境内に場所を提供したもので、この場所は金堂跡とは関係がないとのこと。
 石     碑
○禅興寺金堂本尊「木造阿弥陀如来立像」(高さ1m)は永福寺に秘仏として伝来すると云う。
○附近の地蔵堂(辻堂)には旧禅興寺地蔵尊を祀ると云う。
 地  蔵  堂
○「五畿内志」:禅興廃寺に「建武2年」銘の釈迦石像がある。

4)その他の参考文献・・・但し、以下での実見した文献で禅興寺心礎に触れたものはない。
「禅興寺跡の調査」広瀬和雄 (「昭和56年度泉佐野市埋蔵文化財発掘調査概要U」泉佐野市教育委員会、1982 所収)
「三軒屋遺跡出土の川原寺式軒丸瓦について」梅本康広(「泉佐野市埋蔵文化財発掘調査概要 平成3年度」泉佐野市教委、1992 所収)
「禅興寺遺跡」豊福孝(「泉佐野市埋蔵文化財発掘調査概要 平成4年度」泉佐野市教育委員会、1993 所収)
「禅興寺跡」豊福孝(「泉佐野市埋蔵文化財発掘調査概要 平成6年度」泉佐野市教育委員会、1995 所収)
「禅興寺跡」中岡勝(「泉佐野市埋蔵文化財発掘調査概要 平成9年度」泉佐野市教育委員会、1998 所収)
「泉佐野の飛鳥文化」泉佐野市教育委員会(「泉佐野の歴史と文化財 第2集 泉佐野の遺跡−原始・古代編−」、1993 所収)
「泉南の古代寺院」城野博文(「和泉市史紀要 第11集 古代和泉郡の歴史的展開」和泉市史編さん委員会、2006 所収)
  ・・・緊急・小規模の発掘調査報告があるが、いずれも確たる成果を得られず。また心礎の言及もない。
「長滝の民俗」(「泉佐野市史資料 第3集」泉佐野市史編さん委員会、2001
  ・・・禅興寺に関する目新しい記載は特になし。
「新修泉佐野市史 13巻-1、-2」
「新修泉佐野市史 4巻」(史料編 古代・中世1 )・・・未見
「長滝村西番庄屋喜多家に伝わる「解体史料」について」井出努(「泉佐野市史研究 第4号 所収)・・・未見
「熊野街道沿いの民家と景観―泉佐野市長滝における遺構と家相図―」松岡利郎(「泉佐野市史研究 第4号 所収)・・・未見


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