★陸奥横手廃寺発掘調査情報
2013/08/30追加:
○「福島民報」「福島民友新聞」の記事概要:
現地は「日ノ丸石」と称される円形の礎石が存在する。周辺から古瓦が出土したことから昭和33年に県史跡に指定される。
今般の発掘は、礎石がある農業折笠家の建替工事を契機とし、2013/06より実施され、2013/08/10に現地説明会が実施される運びとなる。
発掘調査では、礎石がある土壇様の高まりは一辺約14.4mの正方形基壇であると確認され、塔跡であるとほぼ断定される。さらに今まで心礎の可能性があるとされた礎石(「日ノ丸石」)も塔心柱の位置にあると確認され、この礎石が原位置を保つならば、心礎であるとほぼ断定される。また周囲には溝跡や杭の痕跡などが発掘され、このことより、基壇は側面を木材によって覆う「木装基壇」であろうと推定されるに至る。
横手廃寺塔跡遺構:福島民報掲載写真
横手廃寺現地説明会:福島民友新聞掲載写真
横手廃寺推定心礎:南相馬市教育委員会報道写真か:礎石下に写るのは据付用の礫であろうか。
2013/09/05追加:
○「横手廃寺跡 現地説明会」平成25年8月10日、南相馬市教育委員会 現地説明会資料より
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この地は「日の丸石」と通称される円形造出のある大きな礎石が存在し、周囲から古瓦が出土することから古代寺院跡と推定されていた。
横手廃寺心礎:日の丸石
今般、個人住宅の立替に伴い、南相馬市教育院会が発掘調査を実施し、その結果以下の成果を得る。
即ち、古くから知られた礎石がある遺構は、寺院の塔跡であると確認される。
横手廃寺塔跡空撮:塔跡の向かって右辺が南である。
調査区全景(空撮):1T〜7Tのトレンチを設定
発掘調査平面説明図:左図拡大図
:1T、5T、7Tで塔と判断される遺構を発掘
横手廃寺1TSD4:溝跡、1Tでは竪穴式住居跡とともに、塔基壇を巡ると推定される基壇の溝を発掘
横手廃寺5TSD2:
溝跡、5Tでは塔跡の北東隅部を検出
横手廃寺7TSD5:
溝跡、7Tでは塔跡の南西隅部を検出
以上からSD2、SD5、SD4の溝は一連の溝で、この溝は一辺約14.4mの正方形であると推定される。さらに正方形の対角線の交点に古くから知られた礎石があることが判明する。従って、従前よりの推定の通り、この地は塔跡であり、礎石は心礎であると考えられる。
なお、SD2、SD5、SD4の溝は基壇外装である木材を抜き取った際に出来たもので、基壇外装は木製であったと推定される。
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◆塔基壇の外装施設
塔基壇の周囲を廻る溝跡は、底面に杭を立てた痕跡が見られ、また杭を立てるために埋められた土も確認される。
溝跡は、この杭を抜き取る為に掘りこまれたものと考えられる。これ等の痕跡から、木材によって基壇の側面を覆った「木装基壇」と推定される。
溝跡の西南部(7T) 溝跡の土層断面 基壇外装施設想像図
さらには、基壇は地業の掘り込みを伴わず、地山を削り出し盛土して構築したと推定される。
※溝の底部に杭の痕跡が遺構として残り、かつ基壇側面の外装材料として礫や切石/切石片や瓦などの遺物の検出を見ないようであるので、本塔の基壇側面の外装は「木製」であったと推測される。
その様子は上に掲載の基壇外装施設想像図の通りで
あり、横板を渡しそれを杭で支えるような構造と推測される。
そして、この「木装基壇」の材料は、おそらくは塔が廃絶した後に、再利用等の目的で、抜き取られたものと想定される。
溝跡の溝跡の土層断面(上に掲載)はそれを示すものである。
なお、南相馬市教育院会文化財課ご担当者より以下のご教示を頂く。
「付近では白河借宿廃寺、須賀川上人壇廃寺などで基壇周囲に溝状の痕跡や、溝底面で杭跡とみられるピットが確認されており、
このことは、これ等の廃寺の基壇外装は木装基壇であったと強く示唆するものである。」
※2013/09/05:現地説明会資料に記載の要旨及び画像について、南相馬市教育委員会より使用許諾を得る。
★発掘調査前陸奥横手廃寺
○陸奥横手廃寺推定心礎写真
陸奥横手廃寺塔心礎:1982年
「N]氏撮影・提供。塔心礎と云う。
2010/05/09追加:
○横手廃寺概要
1)現地に「福島県教育委員会設置現地説明板」があり、以下のように述べる。(要旨)
「この遺跡は東西145m、南北91mで、水田となった堀跡がある。堀跡は中世に岩松氏が館を構え、その堀跡と推定される。現地からは布目瓦が多く出土し、その瓦から
遺跡は平安期のものと推定される。本格調査は未実施のため、伽藍配置などは不詳。現在小祠のあるところは土壇様の高まりが残り、傍らには円形造出を持つ礎石と多くの礎石を思われる石を残す。」
2)推定心礎・推定塔跡などの概要
現地には土壇と思われる高まりと心礎と推定される礎石および数点の礎石を残し、古瓦の出土を見る。
現在この土壇及び礎石は個人邸(折笠家)内にある(見学には配慮が必要)。
礎石の大きさ(実測)は140×140cm(最大の差渡し寸法は170cm)。高さはかなり土中に埋没している様子であり不明であるが、
上記の写真では140cm内外と推定されるくらいの高さがあるように見える。
礎石上面には、明らかに柱座の痕跡を残すも、磨耗あるいは削平されている様子であり、高さははっきりしない。
柱座の大きさは、磨耗及び礎石が割れているため判然とはしないが、径はおよそ100cm内外を測る。さらに出枘もしくは枘孔についても磨耗・削平のため不明である。
折笠家の家人(婦人)によれば、「嫁いで来た時には礎石は割れていなかった。」と云うから、ご婦人の年齢から察して、30〜40年前頃には礎石は割れていなかったものと思われる。さらに「今も付近から古瓦(布目瓦)が出る。」「礎石は庭石に転用されたものもあると思う。」との談も聞く。
未調査かつ詳細不詳のため、残存する土壇が塔土壇かどうかは不明、また残存礎石が心礎かどうかも不明。しかしもし塔があったとすれば、この礎石は大きさ及び柱座の大きさから見て、心礎である可能性はかなり高いと思われる。
◎2010/04/28撮影:
2010/05/09作成:2013/09/05更新:ホームページ、日本の塔婆
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