★文献に見る書写山円教寺塔婆
2007/09/21追加:
◆「播州書写山円教寺古今略記」僧快倫誌、慶長12年(1607)
(「書写山円教寺」兵庫県立歴史博物館、兵庫県立歴史博物館総合調査報告書 3、1988 所収)
塔に関する記録の全容は以下の通り:
一、開山性空聖人御行迹之事
永延元年(987)<開山性空上人代>講堂供養、其後常行堂多宝塔真言堂大経所経蔵鐘楼等上人御建立也
一、五重大塔者、後嵯峨院御願、九条禅定殿下為藻壁門院御菩提御建立也、女院ハ四条院御母、禅定殿下道家公御女也、四条院御宇、嘉禎元年文暦2年(1235)事始、心柱為大日四方四仏安ス、建長2年(1250)供養・・・
一、右之大塔三堂并経蔵五宇同時炎焼事、古記ニ云、去元徳3年(1331、今元弘元年)・・五重塔婆ニ懸雷火ニ、講堂・食堂・常行堂・大経蔵五宇一時ニ令炯燼畢・・・・
(崋山院勅願寺7間二階大講堂[号円教寺]・五重大塔并15間二階三宝院・5間四面常行堂三昧堂・12間楽屋・3間経蔵等・・・)
一、同時五重塔婆造立事
右の三堂(講堂・常行堂・食堂)上棟貞和4年(1348)・・・手斧始・・・地曳・・・文和元年(1352)柱立・・同2年心柱立・・延文5年(1360)・・造畢、首尾12年也。
一、右ノ三堂大塔経蔵五宇供養之事
・・古伝云、五重塔婆并諸堂供養応安3年(1370)・・・・
一、多宝塔者、上人之時治部少丞阿部有重建立也、本ハ辻ニ在之、文暦2年(1235)俊源如意輪堂ノ上ニ被移、辻ニ為造立大塔也、其後嘉元元年(1303)、自見鏡房火出、宝塔炎焼ナリ、・・・(如意輪堂も延焼)・・・
其後亦造立也(失年序)、延徳4年(1492)如意輪堂炎焼ノ時回録す、・・至当年・・宝塔退転スル也
一、五重塔婆重而炎焼之事
右最初ノ塔ハ辻ニ在之、而ルニ塔ニ雷火懸ル事及三度ニ、二度ハ免角ノ打消シ、三度目ニ塔ノミナラズ五宇焼失ス、後之を畏怖することすくなからず、塔婆ノ所在ヲ可替之旨、内外ノ沙汰ありといえども、(実現せず)、今ノ塔ノ元地ヲ曳造之、塔作事ノ半、延文2年(1357)・・・、三重ノ南ノ方ヨリ雷電如烟シテ入ル、番匠折節有此重、雖消肝尤恙、心柱少々雖破裂不苦ヲ、・・・
仍三堂モ塔モ、初は檜皮葺也、・・・
その後は災もなく塔婆成就し(塔婆造は延文5年)、始上記厳重に供養する、・・・
(延文5年より120年経て)文明11年(1479)正月、重而懸雷火五重ノ塔焼失す、三堂ハ尤恙千今相残レリ、塔婆ノ所在ヲ可替トノ御鬮(籤・くじ)照覧有類(たぐい)者也、其後永正10年(1513)ニ又催シ勧進、大永之比大塔土台雖造之ヲ、不成立シテ朽果、今、?(石編に桑の字、礫であろう)而已残レリ・・・
以上を要約・整理すれば、
永延元年(987)より後、性空上人によって、多宝塔が建立される。
建立場所は「辻」(大講堂・食堂・常行堂の東、今の本多家廟所<書写山五重塔跡(大講堂横)>)であった。
文暦2年(1235)多宝塔、如意輪堂の上に移築、「辻」に五重大塔を造立するためがその理由であった。
文暦2年(1235)五重塔上棟、建長2年(1250)五重塔供養。
建立場所は「辻」(大講堂・食堂・常行堂の東、多宝塔建立の建立場所)であった。
※建長2年の供養は正信上人(二尊院上人)を導師とする。
嘉元元年(1303)見鏡房より出火、多宝塔焼失。
→その後多宝塔は「亦造立也」建立年代失念
元弘元年(1331)五重塔焼失(雷火による、大講堂・食堂・常行堂なども焼失)
文和元年(1352)五重塔柱立、延文5年(1360)五重塔完工、応安3年(1370)五重塔・三堂(大講堂・食堂・常行堂)供養
文明11年(1479)五重塔焼失(雷火)、三堂は無事であった。
延徳4年(1492)多宝塔、如意輪堂炎焼ノ時回録す(宝塔退転スル)
永正10年(1513)五重塔再興勧進、大永(1521-)年中に建立場所を替え土台造営、建立は不成就、礎石のみ残る。
※五重塔は多宝塔を移建させた地(今の本多家廟所の位置)に建立され、一度焼失・再興される。
再興塔は文明11年焼失、その後の再興は今の五重塔跡に建立場所を替え、土壇を造営するも、塔再興は成らなかった。
おそらく、現在、寿量院西側の五重塔跡はこの時(大永年中の土壇造成)の塔跡と推測される。 |
2014/01/31追加:
◆「峯相記」(貞和4年/1348頃成立):
文歴元年(1234)五層五間の塔上棟。
建長2年(1250)10月29日五重塔二尊院湛然上人によって供養。
元弘元年(1331)3月5日円教寺に落雷、講堂、食堂、常行堂、楽屋、経蔵、五重塔焼失。
◆播州書写山円教寺縁起(寛永21年<1644>、書写山理教房前住内供奉快倫)
「・・(性空)上人住山久しくなりて、常行堂、多宝堂(塔)、鐘楼、経蔵、真言堂等を造立したまひ、台教の霊寺として・・・・
二百年の後、真覚上人俊源といふ人あり、・・・大講堂を七間桁二階に造替し、其の外食堂、五重の大塔等大興隆の人也。・・・中にも五重の塔は、九条禅定殿下、光明峰寺藻壁門院御菩提のために御建立のゆへに、本尊等もたぶん九条殿より造らせたまひけり。・・・」
※多宝塔は性空上人の代、「安部有重が建立にかかり大日院日照が完成、本尊五智如来」と云う。
※二百年の後、五重塔が大講堂横の地に建立される。
◆播州書写山円教寺略記(宝暦5年)
「・・・元徳3年(1331)三月五日五重塔婆に雷火かかり、講堂、食堂、常行堂、大経蔵、已上五宇一時にくわいじんせしむ。・・・・
首終十八年の間に講堂以下三宇造畢。同五重塔、延文5年(1360)に造り畢ぬ。応安3年(1370)に供養後百十年を経て、文明11年(1479)正月1日に又雷火にかかって五重塔ことごとく焼失、永正年中勧進を促すといへどもなりたたず空く畢ぬ。・・・」
○播州書写山一見記(宝暦6年 桑原東野誌)
「五重塔 文明11年焼失。干今不造立名塔庭。今だ造立かなわず塔庭と名す。」
諸記録によれば
多宝塔:在裳階四面ニ高覧アリ、五智ノ如来五体 四面ノ扉ニ図会ス四天王八部衆ヲ
とある。
★絵図に見る書写山塔婆
※2007/03/10:「書写山」寺林峻ほか、神戸新聞総合出版センター、1991 より
五重塔は藤原(九条)道家(鎌倉初期)が四条院生母藻壁門院(道家娘)の菩提のために建立、
本尊は五智如来、そのうちの1体である大日如来坐像は搬出され現存する。
塔本尊大日如来坐像(後出)
◆一遍上人絵伝:
一遍上人絵伝書写山 同 五重塔部分
※一遍上人絵伝は正安元年(1299)頃成立と云われる。従って、この絵伝の塔婆は創建時の五重塔であろう。
2007/03/21追加:
◆「播州書写山縁起絵巻」:部分:奥書の年紀は寛永21年
※摩尼殿のかなり後方の谷あい?(位置は不自然なところ)に多宝塔が描かれる。
2010/11/29追加:「1000年の歴史を秘める書写山円教寺」兵庫県立歴史博物館、1998 より
◆「播州書写山縁起絵巻」:部分
※五重塔は「辻」(大講堂・食堂・常行堂の東)に描かれ、多宝塔は摩尼殿後方付近(同上)に描かれる。
2007/03/10:「書写山」寺林峻ほか、神戸新聞総合出版センター、1991 より
☆書写山参詣図:江戸中期、
書写山蔵:
※但し当時、図中の五重塔・多宝塔は既に焼失し存在はしない。図右端中央が五重塔、摩尼殿後方に多宝塔がある。
この図の五重塔は「塔の庭」(寿量院西)にあり、記録では塔は再興されなったはずである。
2010/11/29追加:「1000年の歴史を秘める書写山円教寺」兵庫県立歴史博物館、1998 より
書写山参詣図:上図と同一であるが、多少鮮明か。
2006/04/07追加:
◆播州書寫山之図:江戸末期:「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図」より
◆ 同 2:上記の拡大図
※五重塔は仁王門を入り、おそらく「塔の庭」(現五重塔跡)に描かれているも、記録ではこの場所での再興は成らなかった。
※多宝塔は摩尼殿(如意輪堂)の北方に描かれている。絵では一見三層塔のように描かれているが、多宝塔の描写であろう。
2007/03/21追加:
◆「播磨国書写山伽藍之図」
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播磨国書写山伽藍之図:左図拡大図
同 部分図・拡大図1
同 部分図・拡大図2:何れも摩尼殿後方(北側)に塔が描かれている。
これは多宝塔と推定されるが、
絵では三重塔とも多宝塔の描き損ないとも見える描画になる。
※上記の「慶応義塾図書館所蔵・播州書写山之図」とほぼ同一構図。「播磨国書写山伽藍之図」(版画)は円教寺より入手。
版木は江戸期のものと推定。 |
★書写山塔婆跡
◆寿量院横五重塔跡:
この塔跡は「永正10年(1513)五重塔再興勧進、大永(1521-)年中に建立場所を替え土台造営、建立は成らず、礎石のみ残る」と云う
大永再興工事中の塔跡と推定される。
◆三堂脇五重塔跡:大講堂横:
記録によると三堂(大講堂・食堂・常行堂)横に多宝塔が建立され、次いで五重塔建立が計画され、多宝塔は摩尼殿後方に移築され、その多宝塔跡に五重塔が建立されると云う。
また、円教寺の説明も「現在本多家廟所のある位置に五重塔があった」という。
書写山五重塔跡(大講堂横):本多家廟所
(前出)
塔本尊大日如来坐像:大講堂横五重塔本尊と伝えられる。
(前出)
元徳3年(1331)五重塔に落雷。塔をはじめ大講堂・食堂・常行堂を焼失。大日如来・釈迦三尊・四天王等搬出。
※五重塔跡の現地説明板には、以下の見解が書かれている。(意味の解釈)
五重塔は大講堂横にあったと思われ、この元徳3年の火災・焼失は大講堂横の五重塔焼失と考えられる。
なぜならば、雷火で、(五重塔跡がある)寿量院西側から、大講堂まで延焼することは考え難いからである。
一方では
「書写山円教寺参詣図」「播州書写山縁起絵巻」「播磨書写山伽藍之図」では全て寿量院横に五重塔が描かれている。
従って大講堂横と寿量院横に東西の2塔があったと考えられる。
→この見解は記録上からは不正確な表現であろう。2塔が併存したとも取られかねない表現であるが、
五重塔は元は西(大講堂横)にあったが、焼失後東(寿量院西側)へ位置を替えて建立が勧進されたというのが正確な表現であろう。
2007/09/21追加:
◆摩尼殿後方多宝塔跡
この多宝塔跡については未確認。
但し、「兵庫の塔」寺師義正、光村推古書院、1994.3 に以下の記事・写真がある。
摩尼殿後方に移築された多宝塔跡については良く分からないが、よく探して見ると塔の縁の束石とも思われる、中央に丸い穴を穿った
四角な台石がある。多宝塔移築跡はこの辺りであろう。(大意)
☆円教寺移築後多宝塔跡
2009/09/29追加:
摩尼殿後方(東奥)を探すも、上記写真のような「縁の束石」様の礎石は発見できず。
場所を間違えているか、有るのに探し方が悪く発見できないのか、既に亡失か(現地にはセメントが流されたような形跡がある)の
いずれかであろう。
★円教寺略歴:
書写山と号す。康保3年(966)性空上人の開基とする。本尊如意輪観音。
天禄元年(970)如意輪堂(摩尼殿・本堂)造立。順次法華堂、講堂、薬師堂、常行堂、多宝塔(安部有重が建立にかかり大日院日照が完成、本尊五智如来)、真言堂、往生院、大経所、経蔵、鐘楼、湯屋、山王院宝殿などが整備される。
天台の巨刹として栄え、後白河法皇・後醍醐天皇の行幸を始め、多くの皇族・貴族・武将の崇敬を受ける。
元徳3年(1331)五重塔に雷火があり大半の堂塔を焼失。その後五重塔再興・
文明11年(1479)五重塔が再度雷火により焼失、その後五重塔は再興途中で頓挫、ついに再興には至らずと云う。
近世には姫路藩より833石を安堵される。日光門跡支配、寺務は梶井門跡、衆徒30ヶ寺、末寺18という。
現在、大講堂、食堂、常行堂、鐘楼、金剛堂、護法堂、寿量院などの建築は国重文。
仁王門、薬師堂、護法堂拝殿、開山堂、十妙院、本多家廟所などの建築は県重文、如意輪堂(摩尼殿・本堂)、本坊、三十三所堂、天神堂、法華堂、妙光院、瑞光院、仙岳院、十地院、榊原家廟所、松平家廟所などの伽藍が現存する。
そのほか仏像など多くの什宝を有する。
播磨天台六山(書写山圓教寺、増位山随願寺、法華山一乗寺、八徳山八葉寺、妙徳山神積寺、蓬莱山普光寺)の一つ
★書写山円教寺現況:写真は2007/03/17撮影
2007/03/10:「書写山」寺林峻ほか、神戸新聞総合出版センター、1991
2007/03/21:「書写山円教寺」書写山円教寺発行
2007/03/21:「BanCul(バンカル)bT8/書写山円教寺と性空のドラマ」姫路市文化振興財団、2006年冬号(2005.12)
2009/10/05:写真(リンク文字列)の△印は2009/09/29撮影
仁王門:寛文5年(1665)あるいは元和3年(1617)再興、3間1戸の三脚門
仁王門 △仁王門
摩尼殿:昭和再興・西国33所第27番札所
摩尼殿
大講堂:重文・室町 :7間×6間、重層、入母屋造、本瓦葺き。
大講堂1
大講堂2
大講堂3 △大講堂4 △大講堂5 △大講堂6
食 堂:重文・室町 15間×4間、一重二階、入母屋造、本瓦葺き。
食 堂 △食 堂
常行堂:重文、室町 :方5間・一重・入母屋造・本瓦葺きの堂の;北に東西10間・南北2間の吹抜切妻の建物が附属する。
中央2間には北に張出す舞台があり屋根は破風を用いる。
常行堂1
常行堂2 常行堂3 △常行堂4 △常行堂5
本多家廟屋:江戸:本多忠勝以下の墓碑(五輪塔)の覆屋(方2間宝形造本瓦葺)5棟がある。
本多家廟所が書写山五重塔跡(大講堂横)と伝える。
書写山奥の院
開山堂:江戸:正面中央が開山堂、左は護法堂拝殿(天正12年/1598)、右は護法堂若天社、護法堂乙天社
開山堂(延宝元年/1673建立・宝形造)
護法堂:重文・永禄2年(1559):何れも1間社隅木入春日造
護法堂乙天社 護法堂若天社
※2013/10/19追加:開山堂と護法堂拝殿が重要文化財追加指定の答申を受ける。
奥の院は開山堂、護法堂拝殿、護法堂(2棟)の堂で構成され、本殿と拝殿は広場を隔てて相対する。
金剛堂:重文・天文13年(1544)・ 元は普賢院持仏堂
なお普賢院は永観2年(984)創建で性空上人住坊であったと伝える。
明治40年明石長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却(戦災で焼失)したと云う。
金剛堂
金剛堂蟇股 △金剛堂
薬師堂:元応元年(1319)
薬師堂
鐘 楼:重文・鎌倉、元弘3年(1333)再興と伝える
鐘 楼 △鐘楼2 △鐘楼3
法華堂など
法華堂・十地院:右が法華堂、左が十地院、十地院はもと奥之院西にあり、名跡のみであったが勧請殿跡に再興する。
△法華堂
その他に白山権現、榊原家廟所、松平家廟所、不動堂などを有する。
本 坊のほか、以下の坊舎が現存する。
寿量院:重文・江戸初期の坊舎建築とされる。
寿量院
※2013/10/19追加:江戸中期の来客用の門である棟門が重要文化財(追加)にと答申される。
十妙院:江戸初期の坊舎建築とされる。
十妙院 △十妙院
2013/10/19:十妙院客殿及び庫裏(何れも元禄4年/1691建立)と唐門(享保9年/1724建立)が重要文化財指定にと答申される。
妙光院:安養院跡地に再興、元は寿量院北にあった。創建は不詳、明応4年(1495)再興、享和年中再建、明治末年廃寺。
妙光院
瑞光院:創建などは不明。
瑞光院 △瑞光院
仙岳院:長和年中(1012-11)創建、大日院と称するも、宝永年中、快周が再興、仙泉院と改称する。
仙岳院
現在の円教寺会館は元金輪院と云う。明治には妙覚院実秀の名が知られるも、退転か?
明治25年金山院、真乗院など廃寺とする。(仏像は仙岳院に遷座)
2006/12/27追加:
●書写山円教寺宝塔組物
「木片勧進」では:
「播磨書写山圓教寺宝塔組物」が「草の舎」<松浦武四郎が部材を勧進し建立した>の部材(廂柱下受石の代に用ゆ)として用いられると記録する。
2011/06/15修正:
※「永延年中(987-)のもの」と云う。
永延元年開山性空聖人が堂塔を建立し、塔は多宝塔と伝える。
一方、五重塔は後嵯峨院御願、九条禅定殿下為藻壁門院御菩提御建立也、・・建長2年(1250)供養とある。
従って、宝塔とは五重塔ではなく、多宝塔を指すものであろう。
その後、多宝塔(五重塔も)は中世に数回焼失・再興を繰り返す。しかし中世末期の焼失の後、再興に至らず。
即ち、塔創建の時である永延年中の部材が伝わるとは俄かには信じ難いが、焼け残りなどの部材が什宝として伝来した可能性を
全く排除は出来ないであろう。
※「廂柱(に一)下受石の代に用ゆ」と云う。
木片勧進東面図中の(エ)が書写山圓教寺宝塔組物升である。
柱(に一)は「大和春日社朱玉垣格子地覆」:に■(「一」か)柱并東口敷居下蹴込脚絆に用ゆ。
木片勧進平面図:柱(に一)は【47番】
※屋外で使用(廂柱下受石の代に用ゆ)されたため、おそらく腐朽・取替されたと推定され、現存せずと思われる。
●松浦武四郎記念館資料では「取替え」と注記がある。
○2011/10/05追加:「泰山荘 松浦武四郎の一畳敷の世界」 より
ここで云う「宝塔」とはどの建物を指すのか判断が難しい。多宝塔は嘉禎元年(1235)建立され、嘉元元年(1303)に壊されると伝える.
五重塔は延文(北朝)5年(1360)に建立され、文明11年(147)に焼失、そして両塔とも再興されずと云う。
※中世には両塔とも退転したのは確かのようで、何れの宝塔なのかは不明であろう。
そして「受石の代用」とされた宝塔組物枡形は現存しない。
当初は上掲の木片勧進東面図中の(エ)・・・・拡大図「木片17番」のように用いられる。
大正2年(1913)の写真「南葵文庫時代の一畳敷東面」に写り、
また明治43年(1910)の「南葵文庫の見取図」(イ二)にも示され、麻布の南葵文庫時代には現存したのは確かであろう。
現在、柱の根元には別の木材が継がれると云う。(現存せず)
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
廂柱(に一)下受石の代1 廂柱(に一)下受石の代2
既に「書写山圓教寺宝塔組物升形」は存在せず、柱には別の木材が継がれるのが見て取れる。
→木片勧進の概要は「木片勧進・草の舎(一畳敷)」を参照。
2007/03/XX作成:2014/01/31更新:ホームページ、日本の塔婆
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