★2013/05/07再訪・下君山廃寺現況
以前と変らず、現状廃寺跡は荒れ放題である。竹林の中に心礎及び石製露盤の残置、その他の石造品2個を認めるのみで、表面観察ではこれ以上のことは分からない。
下君山廃寺遠望1 下君山廃寺遠望2:何れも写真中央の竹林中が廃寺跡である。
●下君山廃寺心礎
2016/06/05追加:
○「下君山廃寺跡」斉藤弘道(「茨城県史料 考古資料編 奈良・平安時代」茨木県、1995 所収) より
「心礎の大きさは一辺1.35〜1.45m方形で厚さ24〜27cm。中央に径25.5〜26.5cm深さ15cmの穴あり」という。
●下君山廃寺石製露盤
下君山廃寺石製露盤
●その他の遺物
下君山廃寺巨石
下君山廃寺石碑:長方形の基礎石2枚を並べ、その上に台石を置き、石碑を建てる。現在石碑は台石から転落する。
但し、何の石碑か何時の時代のものか廃寺との関係の有無などは不明。
●寺屋敷・元薬師堂
下君山公民館:この建物は下君山廃寺のある段丘の東南下付近にある下君山公民館であるが、土地の古老の話では、元は薬師堂と云う。そしてこの土地及び東側の一筆は寺屋敷と通称すると云う。(仏像は今は無いと云うからどこかに遷されたのであろうか。)
但し、この薬師堂と下君山廃寺を結びつける話は出てこないので、全く無関係の薬師堂なのであろう。
★2013/05/07再訪以前の記述
現状は、「古天宮」と称する土壇状の藪に廃寺が忘れられたようにあり、心礎・石製露盤が放置される。
また附近には布目瓦の散乱を見ると云う。
下君山廃寺位置図
下君山廃寺遠望:北東から撮影、写真中央付近の藪中に心礎・露盤がある。
出土した金銅仏は銅造誕生釈迦仏立像(茨城県立歴史館所蔵)と云う。
心礎・露盤については以下の情報がある。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、145cm×138cm×24/27cm、径25.5×15cmの円孔がある。雲母片岩、奈良後期。
露盤は一辺100cmの正方形、厚さ45cm、貫通孔径36cm、花崗岩製、中台廃寺と形は全く同じ。
○「日本古代地方寺院の成立」;石造露盤が現存、出土瓦は白鳳期か?、周囲から8世紀の金銅仏が出土。
○2005/03/13撮影:「X」氏ご提供:
常陸下君山廃寺心礎
11
同 12 露盤:
同 露盤11
○2007/09/26追加:
・心礎は「幻の塔を求めて西東」では一重円孔式とするも、円孔中央にさらに小孔(舎利孔か)があり、二重円孔式と思われる。(やぶ蚊がひどく、
この場に居ることが出来ず、採寸は断念)
常陸下君山廃寺心礎1 同
2 同
3 同
4
同
5 同
6
・露盤は今回は実見できず、心礎東側のやや下がったブッシュ(竹薮)中にあると思われる。
・心礎の数m附近に写真の方形加工石(材質は心礎と同じ・大きさの現状は215×145cm)が約45度に傾いて有り、方形加工されたものと思われるも、用途は不明。
同
方形加工石1 同
2
・現状では夏場の見学は外から見えず、鎌・鉈・長袖・長ズボン・軍手などの装備が必要。冬場が好ましい。
2008/09/07追加:
○「茨城県史 原始古代編」1985
フルテンと称する藪地が土壇状に小高くなり、ここに心礎・露盤がある。
下君山廃寺心礎13 下君山廃寺露盤12
2008/09/07追加:
○「茨城県史料 考古資料編〔4〕」1995 より
塔心礎は台地下に持ち出されたことがあったが、石の祟りを懼れ原位置に戻されたと云う。
心礎は一辺1.35〜1.40mの方形で、厚さ24〜27cm、径25.5〜25.5cm深さ15cmの穴があけられる。
○2011/09/04追加:「古代の石造相輪についての一考察」:
石製露盤の法量は「幻の塔と求めて西東」と同一の記載。
これは「茨城の古瓦について」高井悌三郎(「茨城県歴史館報5」1978 所収)に基ずくものと思われる。
○2011/11/26追加:「茨城の古瓦について」高井悌三郎(「茨城県歴史館報5」1978 所収) より
藪の中に四角の大きい花崗岩製の石材がある。方1m、厚さ40〜50cm、中央に径36cmの貫通円孔を有する。これは石造露盤であろう。
また学校の校長先生のお話では、孔のあいた石なら、今下の道の橋石になっていると云う。そこで、そこに行くと平沢石の心礎が確かにある。
一辺は1.4m、厚さは薄く25cmほど、真中に径70〜80cm(ママ)の孔がある。
(この橋石に転用とは、「茨城県史料」に云う「台地下に持ち出されたことがあった」ということに照応するものと推測される。)
下君山廃寺心礎14
下君山廃寺石造路盤13
◎参考:常陸稲敷郡大杉明神:現稲敷市---下君山廃寺とは全くの無関係であるが、この地方の著名な明神であるため収録する。
下君山廃寺東北東およそ10kmに鎮座する。
社伝では景雲元年(767)勝道上人の創建で、三輪明神を勧請とか、仁治2年(1241)に京都今宮社から祭神を勧請合祀とか云うも、真偽のほどは良く分からない。現在の祭神については記紀神話の祭神となり例によって国家神道の配神と思われるも、本来は境内にある(あった)大杉を神格化したというのが本当のところなのであろう。
社殿は文化13年(1816)再建、本殿は三間社流造、屋根銅瓦棒葺、極彩色の彫刻で飾られる。
近世では正徳年中(1711-)社殿の造営、享保13年(1728)に焼失。宝暦4年(1754)再建。
寛政10年(1798)再び焼失。文化13年再建、現社殿はこの時のものである。
宝暦年中の再建では楼門(麒麟門)も建立され、別当安穏寺(西隣に現存)には本堂のほかに弥勒堂、護摩堂、仁王門などの存在が知られると云う。明治維新の神仏分離の処置で別当安穏寺と大杉明神とは分離されたのであろう。
安穏寺は延暦24年(805)の創建と伝え、近世初頭には天海僧正が住職となると云う。天台宗。
なお、楼門(麒麟門)は寛政10年の焼失以来そのままであったが、平成22年に再建される。(この楼門の再建に当たっては、某資金からの潤沢な環流があると推測される。)
常陸大杉明神楼門 常陸大杉明神本殿
2013/05/08撮影:
◎参考:羽賀城址/羽賀神社/東耀寺/法華宗陣門流誠諦寺
常陸旧江戸崎町羽賀字根小屋に羽賀城址があり、字堀ノ内は亀谷城址の比定地の一つとされる。
羽賀城(臼田城)及び亀谷城(亀谷城の址は諸説があるといい、羽賀誠諦寺付近が亀谷城址との説もあると云う)については多くのサイトに解説がある。
ページ:羽賀城(稲敷市(旧江戸崎町)羽賀字根小屋)、羽賀城(稲敷市羽賀字根古屋)と亀谷城(稲敷市羽賀字堀ノ内)、羽賀城 などに詳しい。
情報を総合すると、現在、羽賀神社及び東耀寺は羽賀城の一郭に所在するようで、主郭は羽賀神社及び東耀寺の西側一帯であると云う。
江戸崎土岐氏の臣臼田勘解由左衛門尉の居城であったことから別名臼田城ともいう。現在も子孫が在住し、臼田文書を保管する。
臼田氏の先祖は、鎌倉期に信濃佐久の海野荘・佐久の臼田郷を領する。その後、室町に至り、江戸崎の土岐氏に従い、この地を領する。
秀吉の小田原の役で江戸崎土岐氏が滅亡、それにともない臼田氏は帰農・土着したと云う。
一方、南北朝期に亀谷城という城が登場するが、この亀谷城の比定地の一つが誠諦寺の東の台地であると云う。
※羽賀神社:名称から判断して明治維新後の国家神道により名称と思われるも、旧名称の情報がないので羽賀神社の名称を使用する。
※東耀寺の宗旨(単立とも云う)・由緒などは全く不明であるが、推測すれば、この立地から、羽賀神社の別当もしくは羽賀神社が東耀寺の鎮守であった可能性が高いと思われる。
※誠諦寺:由緒など全く情報なし。唯一法華宗陣門流の寺院であることのみ分かる。→越後本成寺
根小屋羽賀神社拝殿:寺院建築そのものの外観を呈する。
根小屋英賀神社本殿1 根小屋羽賀神社本殿2:近世終末期の建築とおもわれるがどうであろうか。
根小屋東耀寺山門 根小屋東耀寺本堂 根小屋東耀寺如来像:本堂向かって右端の軒下にある小宇に安置する。
堀ノ内誠諦寺
羽賀城縄張図:上記ページ「羽賀城」より転載。
2006年以前作成:2016/06/06更新:ホームページ、日本の塔婆
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