野間大御堂寺にはかって五重塔が存在した。しかし創建・再建などの詳細は必ずしも詳らかでない。
五重塔および野間大御堂寺の概要については、文政年中の「五重大塔再建寄附物勧進帳」(以下に掲載)がある。
★文政七年九月「野間大御堂寺境内 五重大塔再建寄附物勧進帳」:「知多半島収集研究室・竹内 進 所有」
「五重大塔再建寄附物勧進帳」:下図拡大図:文政7年は1824年
(容量;469KB)
当勧進帳の法量、体裁(最後の頁に紙綴の形跡がある)などは不明、掲載画像は右からページを継いで作成。
2009/08/06追加:
◆「五重大塔再建寄附物勧進帳」テキスト
※◆は判読できない文字を示す、また素人の作業につき、誤読・誤謬などあればご教示を乞う。
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○「五重大塔再建寄附物勧進帳
・部分図」:下図拡大図
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「勧進帳」では大御堂寺の由来として以下が語られる。
当寺は白河天皇勅願にして承暦年中(1077-)七堂伽藍を草創、本尊阿弥陀三尊を安置する。
その後平康頼が当国守護の時、伽藍を修補する。
平治元年(1159)源義朝、長田父子により弑され、
文治年中(1185-)源頼朝、父義朝の菩提のため七堂伽藍を再建す。
享禄4年(1531)兵火のため、伽藍諸堂悉灰燼に帰す。
天文年中本堂鐘楼別当客殿方丈大門を修営、成就といへども開山堂鼓楼五重の塔未だ修造ならず、塔中に安置の本尊大日如来は今大坊内殿に安座したまま星霜を経る。
大坊八世先住良圓法印これを深く悲嘆し再建を発起し、広く有縁無縁の懇志の清財寄進を勧進する。
附:大御堂寺中興開山長圓法印は東照大神君母方の従弟であり、その縁で国主及び水野氏と大御堂寺大坊とは多くの因縁がある。
第8世良圓:文政6年(1823)没と伝える。 |
※天保12年(1842)成稿といわれる「尾張名所圖會」を始め、諸資料に江戸末期での再建の資料が全く出てこないことから、
文政年中のこの五重塔勧進については、終に成就しなかったものと推定される。
◎「五重大塔再建寄附物勧進帳」は「知多半島収集研究室・竹内 進 所有」
※上記資料は竹内進氏より送呈を受ける。
※竹内進氏サイト:○「竹ちゃんのホームニュース」
2009/09/10追加:2009/09/06撮影
◆大御堂寺五重塔跡
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大御堂寺五重塔跡1:本堂西の稲荷の鳥居のすぐ東に塔跡がある。
同 2:左図拡大図
同 3
五重塔跡は本堂西側・大坊に至る叢林にある。しかし、この塔跡は地表には何も遺物を残さず、ただ一柱の木標を建ててその標とするのみである。 |
下に掲載の尾張名所圖會・大御堂寺に見られるように、五重塔跡は、本堂から大坊に至る途中にある稲荷の鳥居に向かってすぐ右の松林?中にある。しかしこの絵図には塔土壇あるいは礎石に類する遺物などは描かれてはいず、この時代既に塔の遺物はなかったものと思われる。五重塔跡との明示も絵図にはない。
江戸後期の頃にも塔跡の様子は現在と変わらない状態であったと思われる。
★尾張野間大御堂寺(野間大坊)概要
野間大御堂寺にはかって五重塔が存在した。しかし創建・再建などの詳細は不詳(詳細情報未入手)。
※上記「勧進帳」によれば、文治年中(一一八五 〜 八九)源頼朝のよって建立、享禄4年(一五三一)兵火により焼失、
その後江戸期には再興の勧進が試みられるも、現在まで成就せず。
野間大御堂寺の略歴はおおよそ以下の通り。
◎「野間町史」山本豊治郎編纂、野間町、昭和30年 では以下と云う。
建久元年(1190)源頼朝当寺に墓参、ついで本堂・講堂・食堂・経堂・開山堂・鐘楼・浴室・五重塔・相輪塔・仁王門・客殿などを再建する。
◎「尾張名所圖會」巻之6:天保12年(1842) より
大御堂寺:
記事:真言宗、長野万徳寺末。天文3年(1534)の勧進状に、白河院の建立、承暦年中(1077-)草創と見え・・・平康頼・・一堂を建つるといへり。享禄4年(1531)の兵火に焼失し、大御堂、楼門のみ存せり。
天文3年(1534)伽藍を再修せしも、慶長5年(1600)九鬼大隈守坊舎を焼き払ふ。近年重修し旧に復す。
本尊(三尊の阿弥陀如来)、源義朝の墓(大御堂の東にあり・・・)、織田三七信孝の墓(義朝の墓の南にあり・・)、平判官康頼の墓(山門の西にあり・・・)、池禅尼の墓(義朝の墓の東にあり・・・)
大坊(大御堂寺一山中、六院の巨擘<きょはく>たり・・・)、安養院(織田三七信孝の位牌あり・・)、円明院・蜜蔵院・龍松院・慈雲院(以上六坊なり)
◆尾張名所圖會・大御堂寺:
※五重塔跡:本堂から大坊に至る途中に稲荷の鳥居・小祠があるが、その鳥居に向かってすぐ右の松林?中が五重塔跡である。
※本堂背後の円明院、鐘楼南の龍松院・慈雲院は退転、大坊の堂舎は少々威容を減ずるも現存、安養院は現存、
安養院南の門前の路を東に2町ほどで密蔵院(現存)に至る、法山寺は大御堂寺北東10町余に現存する。
◎大御堂寺略歴
鶴林山と号する。真言宗豊山派。
建久元年(1190)源頼朝、上洛の帰途に当寺に詣で、義朝家臣鎌田正清・平康頼・池禪尼の墓を建て、長田父子(義朝を謀殺)を誅し、大伽藍を寄進と云う(「吾妻鏡」)。
天正11年(1583)織田信孝、安養院で自害。文禄年中(1592-)豊臣秀吉、250石寄進。慶長5年(1600)九鬼嘉隆の兵火で焼失。
慶長16年徳川家康、250石寄進。徳川直義が伽藍修復。
明治の廃仏を経て、本堂・大坊・密蔵院・安養院・法山寺が残る。(明治8年竜松院・慈雲院・円明院を安養院に合併)
◎「尾張国知多郡誌」田中重策編輯・山口平之助校訂、明治26年 より
中世には12坊を有す。大坊・執行坊・南ノ坊(安養院)・円通寺・法山寺(元他宗であったが当寺の支配に服す)・蜜蔵院・浄蔵院・常楽坊(円明院)・中ノ坊(慈雲院)・
西ノ坊(龍松院)・文教坊・北ノ坊(一説には円明院)
寛永16年徳川直義、250石を寄進し、大坊(161石余)、学頭蜜蔵院并に他の四院(56石余)、田上法山寺(21石余)に配当する。
以上などから推測するに、五重塔は源頼朝によって再興され、中世にはその姿があった。
しかし、享禄4年(1531)の兵火で当寺は焼失し、もしこの時まで五重塔が健在であったとすると、この時焼失したものと推定される。
さらに、文政年中、大坊第8世良圓により「五重塔再興勧進」が成されるも、成就しなかったものと推定される。
2009/09/10追加:2009/09/06撮影
尾張大御堂寺本堂:宝暦4年(1754)再建
尾張大御堂寺大門:建築としては近年のものと思われる。
尾張大御堂寺鐘楼:建長2年(1250)銘の梵鐘が架かる、鎌倉5代将軍藤原頼嗣の寄進。
尾張野間大坊本殿:江戸初期の建築
野間大坊信徒会館
源義朝廟所・義朝廟 織田三七信孝墳墓 平康頼墳墓 血の池・義朝公首洗池
大御堂寺密蔵院 大御堂寺安養院 法山寺:御湯殿観音堂 湯殿跡(法山寺)
2006年以前作成:2009/09/10更新:ホームページ、日本の塔婆
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