信 濃 小 菅 山 八 所 権 現 ・ 小 菅 山 元 隆 寺

信濃小菅山八所権現・小菅山元隆寺

小菅山八所権現元隆寺概要

2009/03/23追加:「中近世の地方山岳信仰に関する調査研究報告書」元興寺文化財研究所、2004 より
◎「信濃国高井郡小菅山八所権現并元隆寺由来記」天文11年(1542)

 夫當山者役行者之草創八所権現霊地也・・・・
行基菩薩・・・構一堂安泰之名目加耶吉和堂所謂八所本地者、第一熊野権現(伊弉冉尊)本地阿頭陀佛、第二金峯権現(安閑天王)本地鐸迦如来、第三白山権現(伊弉諾尊)本地十一面観音、第四立山権現(大國魂命)無量壽佛、第五山王権現(大己貴命)本地薬師如末、弟六走湯権現(瓊々杵尊)本地准胝観音、第七戸隠権現(太刀雄命)本地正観音、第八小菅権現(摩多羅神)本地馬頭観音是也、就中摩多羅神者相傅天竺霊鷲山地主而為佛法擁護所所垂跡富山具随一也(摩多羅神託宣行者)
爾後延暦十四乙亥年東夷反逆 延暦帝聞八所権現神威使富山第五世祖壽元上人祈逆徒對治伽藍造普御願感應如響逆徒伏誅王事無監
大同元年田村将軍奉之再建八所権現本宮并加耶吉利堂輪奐改観又新建元隆寺所謂金堂・講堂及舜臺・三重宝塔・荒神堂 ・鐘楼・大門(是則仁王門也弘法大師乃書元隆寺三大字以文具楯)等其荘厳美麗・・・・
・・・又衆徒僧房仁王門内大分為三上院内十六坊中院内十坊下院内十一坊是也
上院十六坊者本坊號發心坊大聖院也、日光坊・月光坊一山役寺也、奇霊坊・大来坊・西之坊・岩本坊・東光坊・浄池坊・杉本坊・櫻本坊・伊勢坊・西塔坊・桂本坊・南岳坊・林泉坊(已上)
中院十坊者池之坊・浄蓮坊・窪井干蔵坊・光圓坊・吉祥坊・正覺坊・行善坊・義蓮坊・松本坊(已上)
下院十一坊者井之坊・中之坊・嶋之坊・眞光坊・平等坊・正智坊・西光坊・梅本訪・雙圓坊・圓正坊・柳本坊(已上)右三院合三十七坊
分區接蔓締構盡美又神職四人修験四人神楽座八人各有所司又當山末院十箇寺所謂神戸村観音寺・内山村神宮寺・小見村浮陀寺・和栗村南光院・柏尾村道成寺・小倉崎村美妙寺・飯山村大岩寺・小境村薬王院・魂嶋村普明寺・犬飼村湯泉寺是也
此外門徒廿六箇寺(寺號及所住地名恐煩略之)又山麓有七村所謂小菅北渾針田前坂闘潭小見神戸是也右此七村結界神境殺生禁断之地也・・・・・

以上「由来記」によれば、白鳳8年(680)役小角の開創と云う。
小菅権現(摩多羅神・本地馬頭観音)の示現を見、さらに熊野、金峰、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七権現を勧請、八所権現と称する。
大同元年(806)坂上田村麻呂が八所権現本宮と加耶吉利堂を再建、元隆寺が創始される。
 ※この時、三重塔が造営されたと云う。
 その後の三重塔の沿革は不明、絵図には宝塔が描かれるので、中世には存続していたものと推定される。
 そして、おそらく中世末の戦国の混乱で、三重宝塔は焼失し、その後は再建されなかったものと推測される。
  ※加耶吉利とは馬頭観音の梵名がカヤグリパの表記で、従って加耶吉利堂とは馬頭観音堂と同義。
  ※加耶吉利堂本地仏は現存する(平安後期。宝物館収蔵)。
この頃 上・中・下の院37坊、修験者300人余と伝えられる。
久安6年(1160)京都禅林寺(今熊野若王子社)の庄園となる。(「足利義持御教書」)
建久8年(1197) 源頼朝が参拝。社領700貫文を寄進。

◎信濃小菅山元隆寺之図:永禄9年(1566)、飯山市教育委員会蔵

信濃小菅山元隆寺之図:左図拡大図

元隆寺伽藍並びに上之院・中之院・下之院に48坊を有する。

五重宝塔が描かれるも、不明。
 ※上記、天文11年「由来記」では三重塔とある。
 ※下記、延享3年「小菅山元隆寺絵図」では三重塔に描かれる。

中世には戦乱、火災などで焼失、再興があったとされる。
天文11年(1541)上杉謙信が再建。奥院本殿、付属宮殿(いずれも重文)はこの時の建造と云う。
 ※奥院本殿(重文、4間×4間、入母屋造、懸造、宮殿3基のうち2基は永正5年<1508>造立)
永禄10年(1567)川中島合戦、上杉勢敗退、武田勢によって、元隆寺は本堂を除く堂塔ことごとくを焼失する。
その後も度々兵火にさらされ、元隆寺は無住、慶長初頭には完全に廃墟と化し、田畑民家荒野に帰す。(「信州高井郡小菅山元隆寺略縁起」)
 ※以上とも伝えるが、しかし、実態は近世初頭には修験などの手で元隆寺は復興を遂げつつあったものと思われる。

2009/03/23追加:「中近世の地方山岳信仰に関する調査研究報告書」元興寺文化財研究所、2004 より
◎小菅山元隆寺絵図:延享3年(1746)

小菅山元隆寺絵図:(部分図):左図拡大図

小菅山元隆寺絵図:(全図)

37坊が確認される。

近世初頭、上杉景勝米沢転封、米沢に小菅山八所権現を勧請、別当元隆寺が米沢へ移転したと云う。しかし衆徒45坊と神主1軒は 残ると伝える。(「小菅山元隆寺来由記」貞享元年・1684)
天和2年(1682)小菅山八所権現は別當大聖院・衆徒33坊・社家・大工・庭掃などの組織であった。(「寺社領並由緒書」)

2009/03/23追加:「中近世の地方山岳信仰に関する調査研究報告書」元興寺文化財研究所、2004 より
明治の神仏分離

《神仏分離ニ付復飾関係書類》
---------------------------------------------------------------------------------
(表紙)「上」
  口上書を以御届奉申上奴
今般
王政復古御一新祭政一致之御制度ニ御廻復披為遊
 第一 神祇官御再興追々祭奠奥儀被仰出候ニ付 諸国大小之神社於憎形ニ別當或者社僧杯と称候輩可致
 復餝不相成者は速ニ退去可致旨被仰出誠以恐慎
(異筆)「節」「不用」
 奉敬承候即日上京可仕候処析節煩ニ付延引之段尾州御取締御役所江御届中上置奴処此度全快ニ付上京仕候間
 何卒復餝御聞済視成下置奴様奉願上候尚小菅山
  (異筆)「届」
 由緒書者別紙ニ相認奉差上候右御聞済被成下置候ハ、難有仕合ニ可奉存候以上
  明治二己年       信州高井郡
              小菅山元別當大聖院
              改名 武内大膳
              同愛染院改
                 高井外記
---------------------------------------------------------------------------------
  口上書ヲ以奉願上候
一小菅神社八所大神
 右之通神社読井犬神読奉願上候
一除地高七拾八石五斗四升四合
 右者先規之通御寄附披成下置候様奉願上候當社之儀者 往古産子七ケ村高千石も御座候処天正之度以来當国川
 中嶋合戦之節一山三拾七坊之処甲 勢ニ破焼彿拾年来 余亡所ニ相成居候をハ神袋与申者再興仕候ニ付追々百姓立帰り
 境内ニ住居仕候砌慶長八卯年大久保石見守殿巡検之節 由緒申立候ニ付前粂之通除地破下置其後飯山城主代々
 寄附致之候引付を以於今當社ニ而代々支配罷在候処聊相 違無御座候
一富社社務之儀復餝御開済上者私義神立ニ被 仰付 尤下社家も御座候得者是者権神主ニ破 仰付神道自身
 葬祭素より清家之事ニ候得者右之段御開届披成下置度奉 願上候且當山開山者役小角之草創之由月々開山會
 法楽勤来り候開山之喝恩茂有之候間霊神號奉願上 従来之通り月祭相勤申度志願ニ候間右願之通御間済
 被成下置候様奉願上候然ル上者弥以抽丹誠乍恐永 天朝萬壽ヲ奉祈念萬民泰平五穀豊熟之神楽 相務申度奉存候
一先般神社之由緒書上可社旨被 仰出候ニ付左之通申上候 小菅山八所神本社一宇一鳥居より本社迄三拾六町
 熊野 伊弉諾尊 金峯 安閑天王 白山 菊理媛命 立山 大国主命
 山王 大已貴命 走湯 瓊々杵命 戸隠 手力雄命 小菅 素菱鳴命
 右八所之神二相違無御座候當山者 天武天皇白凰八年之草創ニ候只今之本社者大同元年
 田村将軍之御建立ニ而今以建替不仕候當社之儀者 平城天皇勅願所ニ御座候従往古當社領之内殺生禁
 制ニ候間制札被為建置其上産子七ケ村者今以鳥獣 禁食仕候古来より當社境内ニ下馬札被為建置候前件
 口上書を以奉申上候趣出格之以 御仁恤御聞済被成下置候ハゝ重畳雖間仕合ニ可奉 存候以上
  明治二巳年二月   信濃國高井郡
               小菅山元別當大聖院
               改名 武内大膳
辨事御役所
 右之通 辨事御役所江願出度候間乍恐
 御添簡被成下置度奉願上候
            右 武内犬膳(印)
明治二己年二月二日
              同村
               組頭 兵右衛門(印)
               名主 甚三郎(印)
御料
 尾州御取締
  中野御役所
---------------------------------------------------------------------------------
以上などに見られるように
明治2年神仏分離により、別当大聖院は復飾改名神職となる。八所権現を八所大神と改称、諸仏、什宝は菩提院に移す。
明治33年小菅神社と改称。
以上のほか、現在は僅かに以下の堂宇が残存する。
仁王門(元隆寺西大門)、菩提院(もと桜本坊。真言宗豊山派。享保年間に法印俊栄によって中興)。観音堂(本尊は馬頭観音)。
講堂(元禄10年・1697修理、阿弥陀如来像あり、祭り資料館を兼ねる)、小菅神社里社。
大聖院は石垣・護摩堂(寛延三年<1750>再建)・池泉回遊式庭園・大聖院礎石を残す。

2009/03/23追加:「中近世の地方山岳信仰に関する調査研究報告書」元興寺文化財研究所、2004 より
小菅山八所権現の遺物
 旧本尊木造馬頭観音(平安後期、厨子内墨書:御本地・・・、厨子背面墨書:かやきり堂本尊・・・)
 観音三十三應化身(応永12年・1405、伝加耶吉利堂所在)
 観音堂馬頭観音坐像1(江戸期、観音堂本尊) :写真右の尊像
 観音堂馬頭観音坐像2(元禄9年、秘仏本尊の御前立であろうか?) :写真左の尊像
 阿弥陀三尊(現在旧講堂に安置、中尊は享保17年・1732・小菅山講堂本尊銘)
 小菅山奥院役行者倚像(江戸期)

小菅山の現況(推測)
 千曲川の左岸に小菅神社一之鳥居跡がある。大関橋を渡り、しばらく進むと二之鳥居がある。二之鳥居の先は急斜面の参道が 続き、その先には仁王門がある。さらに参道を登ると小菅山里宮(講堂と御旅所)がある。さらに東に行くと菩提院と馬頭観音堂がある。
付近の集落は修験の宿坊が民宿に変貌している。集落の上端に三之鳥居があり、その脇には護摩堂が残る。この付近が小菅山八所大権別当大聖院跡地と云う。三之鳥居の先 の参道を進むと、小菅山奥院本殿に至る。
そして小菅の集落は近世の景観を色濃く残すも、修験の宿坊は民宿に変貌している。
 小菅山元隆寺現況
以上のような現況であろう。


2009/03/23作成:2009/03/23更新:ホームページ日本の塔婆