河 内 飛 鳥 寺 跡 |
河内飛鳥寺跡及び河内飛鳥寺心礎
★河内飛鳥寺心礎<名古屋城内織部堂前> 河内飛鳥寺心礎は、昭和9年南河内郡駒ヶ谷村飛鳥で唐突に?発見?され、翌年以降昭和14年頃までには売却され、名古屋の高松静雄氏邸に移動→その後、名古屋市に寄贈され、名古屋城織部堂(茶室)前に移動 して現存する。○「日本の木造塔跡」 羽曳野市駒ヶ谷(旧南河内村)飛鳥西の寺の小池の畦から昭和初期に発掘されたという。 心礎の大きさは2,8m×1,77mで径102cm深34cmの柱孔を持つ、柱孔に径20cm深2.2cmの蓋受孔、径16cm深15cmの舎利孔、さらに4段目の孔として径14cm深4cmの孔(脱湿孔)を持つという。 ○河内飛鳥寺心礎現況: □河内飛鳥廃寺心礎1 河内飛鳥廃寺心礎2 河内飛鳥廃寺心礎3 河内飛鳥廃寺心礎4 悲しいかな、この心礎はあくまで蹲としての扱いで、かつ紹介が無ければ非公開とされ、通常ではこの大型心礎そのもの及びその構造を観察することは出来ない。要するに心礎としての価値などほとんど認められていないというのが現状である。 ★河内飛鳥寺跡 2010/10/21追加: 2010/10/13追加:
○「羽曳野市史 第3巻 史料編1」 羽曳野市、1994 より 河内飛鳥寺心礎実測図3 河内飛鳥寺跡は南東から北西に延びる幅100mほどの尾根部分を中心とすると考えられる。 寺跡は、ニゴリ池(奥ニゴリ池)と堂新田池の中間地点を中心にして、東西200m南北150mが寺域と想定されてきた。この東西2つの池は谷筋を堰き止めて造られたものである。遺跡の現状はぶどう畑や荒地である。 昭和9年、心礎はニゴリ池北東約80mにある小池の東堤付近で出土したと伝える。 昭和48・49年、60年には遺跡分布調査が行われ、ニゴリ池東側一帯には瓦片が散布することが知られ、平安期の瓦が出土する。 平成元年・2年には広範囲に試掘調査が行われる。 しかし心礎出土付近での試掘(調査区bQ5)も実施されるも、寺院に関係するような遺構は一切発見されず、またそのほかの試掘においても明確な寺院遺構は検出されないと云う結果になる。 それに加えて、白鳳期・奈良期の瓦も1点も出土を見ないという結果でもあった。 当地で白鳳期と推定される心礎が出土したことは明らかであるが、調査結果は白鳳期の寺院遺構及び瓦などの遺物は一切出土しないと云う結果であった。このことはどのように解釈すべきなのであろうか。 1)後世の土砂採掘や畑の造成で一切が削平されたと解釈すべきか。 しかしいくら削平されたと云っても一片の古代瓦の出土を見ないことや、中世の遺構が発見された調査地点もあり、全て削平されたと云う合理的な理由にはならないであろう。 2)発見された心礎は平安後期の寺院創建(平安期の瓦は出土する)に際して、全く別の寺院から搬入されたと解釈すべきか。 しかし、平安期の寺院に、出土したような心礎が必要であるとは思われず、また別の場所にあった前身寺院から移建のために資材の移動を行ったのであろうとしても、心礎は出土した場所では、全く心礎以外の遺構・遺物が出土せず、この理由も成立しないであろう。 3)たまたまここに心礎が遺棄されただけと解釈すべきであろろうか。この説は心礎の出土地の調査結果や試掘調査の結果と合致する。 しかし、仮にそうだとしても、どこから、誰が、何のために・・・遺棄したのかなどがはっきりしない限り、誰しもを納得させる説明には成り得ない。 ○河内飛鳥寺跡の位置
河内飛鳥寺跡想定図2:ニゴリ池(奥ニゴリ池)と堂新田池の中間地点を中心にして、東西200m南北150mが寺域と想定されてきた。 この東西2つの池は谷筋を堰き止めて造られたものである。 河内飛鳥寺跡空撮2:想定図2の範囲の空撮(google) 河内飛鳥寺跡空撮3:yahoo 2010/10/21追加:
2010/10/17作成:2010/10/21更新:ホームページ、日本の塔婆 |