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好きな言葉


 誰にでも記憶に残る言葉があると思います。あるとき、ある人に言われた暖かい言葉、冷たい言葉、勇気がわく言葉、落胆させる言葉などです。もちろん私にもあります。そのような他者たちの声が心に宿り、自分の人生を左右するような気がします。

 私自身の日常と絡む具体的な言葉をここに記載することは出来ませんが、書物のなかから何となく好きな言葉、好きでなくとも気になる言葉をあげて行きます。座右の銘とまでは行かないかもしれません。また、わずかながら出典を明記できないものもあります。どの本に書かれたものか、自分でも忘れてしまった言葉があるからです。





アドラー、アルフレッド
 
神経症的なライフスタイルを考察するときには、いつも神経症の相手役がいるのでは、と考えなければなりません。そして、誰が患者の状態によって困るのか、注意しなければなりません。病気が社会全体に対する攻撃であるということもありますが、通常、この相手役は家族の一員であり、異性である場合がしばしばです。神経症には、このように、いつもこのような隠された非難があります。『人はなぜ神経症になるのか』


市川浩
 現実の人間が身体的存在であることは、いうまでもないが、近代の哲学は、身体の問題を奇妙に無視してきた。『精神としての身体』


ヴァイツゼカー
 生命が「それ自体」あるいは「本来的」にはまったく嘘をつくものではないかのように生命を扱うのは、嘘である。と言うよりも、生命がまったく嘘をつかないかのように「生命を無実として」扱うのが、嘘の最たるものだといってよい。『パトゾフィー』


ヴァルデンフェルス
 ナルシスが他者のうちに最終的に自己の顔を見るように、彼は、反響として、第三者の声のうちに最終的にみずからの声を聞く。『経験の裂け目』


ヴァレリー

 人間においてもっとも深いもの、それは皮膚である。『固定観念』


ヴァン・デン・ベルク
 医療行為がこたえねばならない第一の基本的要請は、それが患者にどんな害をも及ぼさないと言うことである。・・この要請は・・患者の人生全体に向けられる。『病床の心理学』


ヴィーコ
 今日においてはクリティカのみがもてはやされている。トピカは先に置かれるどころではなく、まったく無視されている。『学問の方法』


ヴィゴツキー
 人格のダイナミズムはドラマである。『人間の具体的心理学』


ウィトゲンシュタイン
 われわれは摩擦のない滑らかな氷の上に迷い込んだのであり、そこは諸条件がある意味で理想的なのだが、まさにそのためにわれわれは歩くことができない。われわれは歩きたいのであり、そのためには摩擦が必要である。ザラザラした大地へ戻れ! 『哲学的探究』


大森荘蔵
 時間が流れる、時の流れ、という観念は古今東西にわたって人間を呪縛してきた巨大な比喩であることは間違いない。『時は流れず』


ガーゲン、ケネス
 「感じる」とは、「外界の情報を(神経システムを通して)内界へと伝達すること」ではなく、「共同的に構成されたできごと」だと考えてみてはどうでしょうか。『あなたへの社会構成主義』


カッシーラー
 あらゆる動物の「種」に見出されるはずの感受系と反応系のあいだに、人間においては、シンボリック・システムとして記載され得る第三の連結を見出す。『人間-シンボルを操るもの』


ガダマー
 対話は、対話のパートナーを新たな混乱に陥れることなく、ただ自己自身の内的な活動性を呼び起こすための可能性に導くだけである。そうした活動性を医師は患者の「共同参加」と呼んでいる。『健康の神秘』


木村敏
 いま生きているこの一瞬一瞬が「死と再生」なのかもしれない。『精神医学から臨床哲学へ』


グッドマン、ネルソン
 「事実」は「意味」と同様共義的な名辞なのである。というのも、つまるところ事実とは明らかに作為的なものであるからだ。『世界制作の方法』


クラーゲス
 高揚の瞬間いま生きている言葉で詩人に吹き寄せることのあるあの古代は、墓碑やドルメンやメンヒルよりも何千年も数えられないほど古い。言葉は絶え間なく成長の跡を見せながら先史時代にまで遡る。そこでは言葉が何にもまして現実に四大の言葉であり、その「声」を言霊の恩寵にあずかった者がいまなお言葉のなかから聞きとり言葉を介して音声化するのである。『心情の敵対者としての精神』


ゲーテ
 存在するために私たちの存在を放棄するのが、私たちの行う離れ業のすべてである。『箴言と省察』


ゲルストナー、カール
 形は色のからだ 色は形の心 『色の形』


ゴフマン、アーヴィン
 われわれのセルフトーク(独り言)は、間主観性に対するひとつの脅威である。"Forms of Talk"


坂部恵
 「かたる」ことが「語る」ことであると同時に「騙る」ことでもあると言うことは、この行為において、二重化的超出ないし二重化的統合といった反省的屈折の過程が介在することを何よりも明らかに示していると考えられる。『かたり』


酒木保
 自閉症児の言葉や行動は、しばしば私たちには理解困難ですが、それは彼らの特異な感受性ゆえの辛さを私たちに可能な限りのあらゆる形で伝えようとしているからではないでしょうか。だから私たちは、「彼らの心は閉ざされている」と考えてはならないのだと思います。私たちに求められているのは、その辛さへの「共感」と「想像力」なのです。


サリヴァン
 私たちはみな、他の何であるよりも、まず端的に人間である。"Personal Psychopathology: Early Formulations"


ジャネ
 記憶とは声のことである。


スターン、ダニエル
 現在の瞬間と言う発想から一歩話を進めて、「今」と言う問題を取り上げてみよう。まず注目すべきは、私たちはたったいま体験していることについていかに何も知らないか、という点である。『プレゼントモーメント』


ドゥルーズ
 ことそのもの、手から生まれたあの絵画的こと、それは第三の目の構成であり、触感的眼、眼の触感的視覚機能の生誕である。・・それはあたかも、触覚と光覚との二重性が、標識図から生まれたあの触感的機能へと向かって、視覚的に乗り越えられたかのようである。『感覚の論理』


滝沢弘忠
 心理学も本来、日常性のなかで生きている人間をそのまま理解するのに役立つような学問であるべきだろう。『日常性の心理学』


田中孝彦
 教育は、子どもを人間として育てるいとなみである。したがって、私たちが、教育のありかたを論じようとするときには、子どもたちが何を求めているかをじっくりと考えることからしか出発のしようがない。『人が育つということ』


トリュープ、ハンス
 ローゼンツヴァイクに関連して。われわれが人間に人格として呼びかけるとき、われわれは、彼のなかにはじめからあるが、その少年時代に失われてしまったあるものを求めている。無意識と言うことによって意味されているのは、発展の途上で失われ、意識から奪われているところの、まさに人格的なものである。『出会いによる精神療法』


中井久夫
 もうひとつの、私にしっくりくる精神科医像は、売春婦と重なる。そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦の他には精神科医以外にざらにあろうとは思われない。『治療文化論』


中村雄二郎
 声はつよい身体性を持ちながら、自然的な身体性を超えて楽音を形づくり、完成させる働きを持っている。『精神のフーガ(付・音楽論)』


ナンシー、ジャン=リュック
 調子すなわち、緊張、振動、抑揚、色彩、叫びないし歌。いずれの場合においても、常に声であって、「意味作用スル声」でもシニフィアンの秩序でもなく、そのなかでひとつの身体が露呈=遺棄され、また発声され=前へと運び出される、そうした場の音色=響きなのである。『共同-体(コルプス)』


ニン、アナイス
 「あなたは本当の自分を見せたことがありますか。分析と言う仮面を被っているのはあなたではありませんか。・・・・一度でいいですから、この長椅子にあなたが横になって、私がその椅子に座ったとしたら・・・・」・・・・医者でなくなった彼は子供のようだった。・・・・彼女が目覚めさせた彼の内なる子どもは、彼のところにやって来た不満だらけの、嘆き悲しむ病気の子供と同じだった。・・・・彼はただの声にすぎなかった。『声』


野家啓一
 「虚」と「実」との間にある両義的な空間を「物語」と呼んでおけば、「物語」は文学にとってのみならず、科学にとっても不可欠の要素だと言わねばならない。だとすれば、その「物語」の生成と構造を分析することこそ哲学に課せられた役目であろう。『物語の哲学』


バトラー、ジュディス
 反復はトラウマの継続であると同時に、トラウマの構造のなかに自己からの距離-別のものになり得る構造的な可能性-を刻むものでもある。反復しないと言う可能性はない。残る課題はただ一つ、いかにその反復が起こるのか、法的場所であろうとなかろうと、どんな場所で起こるのか、またどんな痛みと将来性を運んでくるかと言うことである。『触発する言葉』


バフチン
 理解は決してトートロジーや複製ではない。なぜなら、そこには必ず二人の当事者と、潜在的な第三者(ポテンシャル・サード)がいるからだ。『テキストの問題』


パールズ
 杞憂の痛みと不快な情動を徹底操作するには、フラストレーションとサポートの微妙なバランスが必要です。「ここといま」それから「我と汝」の本質を患者がひとたび感じ取れば、自分の恐怖症的な振る舞いのことが分かり始めるのです。"Gestalt is"


廣松渉
 現相世界の分節態は、単層的な与件ではなく、そのつどすでに射映的所与"より以上の或るもの"として二肢的二重相で覚識される。『存在と意味』


フェレンツィ、シャーンドル
 どちらが狂っているのか、われわれかそれとも患者か(子どもたちかそれとも大人たちか)。・・・フロイトは分析の発見者でなく、ある程度完成されたものをブロイアーから受け継いだと言うことを忘れてはならない。・・・彼は他者を分析するのみでみずからを分析しない。投影。『臨床日記』


フッサール
 共鳴としての、距離をもつ合一としての「完全な」調和は同等のものの反復、あるいは同等のものの調和である。調和はしかし、不調和を排除するものでもない。しかし、妨げられた調和はそれ自身、ある調和にもとづいてのみ可能なのである。不調和は、重なり合い合一するなかで生ずる抗争の相関物である。『受動的綜合の分析』


ブーバーとユング
 (ブーバー)ユングは・・「人間が神になることこそ人間の目的である」と主張している。・・なるほど、ユングは人格形成に他者が含まれることは「比較的まれな出来事」であっても全く無いわけではないと言う。しかし、ユングにおける他者は、あくまで個人の心的内容として存在するだけであるし、他者を含んだ心的内容が個性化によって完成の域に達したところで、それが個人のこころであることに変わりない。
 (ユング)私が恐れるのは、ブーバーが精神病理上の経験を何ひとつして居ないので、私が「こころの現実」と言い、「個性化の弁証法的プロセス」と唱えることを少しも理解してくれないのではないかと言うことである。『対話の倫理』


フェアベーン(フェアバーン)、ロナルド
 精神分析療法は、ある意味以下のようなかたちに変貌してしまう。患者の側は、転移を介して、内界と呼ぶべき閉鎖システムに分析家との関係を強制徴募(press-gang)しようともがく。分析家の側は、この閉鎖システムに突破口をもたらし、治療関係の設定のうちに、外界と呼ぶべき開放システムを患者が受け入れるように促すであろう諸条件を、提供しようと決意するのである。"On the nature and aims of psychoanalytical treatment"


フォイエルバッハ
 真の弁証法は、孤独な思想家の自分自身とのモノローグではない。それは、私と君とのあいだのダイアローグである。『将来の哲学の根本命題』


ブーゲンタール、ジェームズ
 セラピストであることが意味するのは、さすらい人であり、神のごとし存在であり、これでよいとは充足していない存在であり、悪魔のごとく邪悪な存在であり、脅威に晒されており、熱烈に愛されるかと思えば憎まれもし、みずから問い続けねばならない存在である、と言うことだ。"The Art of the Psychotherapist"


ブランケンブルグ、ヴォルフガング
 私にかけているのは、きっと自然な自明さということなのでしょう。・・・いろんなものごとの感じがないのです。たとえば病気とか苦しみとかそれも、いやなことばだけではなくて、喜びとか、健康とか、年をとるとかいったことばの意味もわからないのです。こういったことばの意味が分かる前に、まずはじめに痛い感じがするのです。『自明性の喪失-分裂病の現象学』


フランクル
 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。・・人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。『それでも人生にイエスと言う』


フロイトとビンスワンガー
 とにかく私(ビンスワンガー)には、宗教的なものが、どこかから、何らかの方法で二次的に派生してきた現象とは思えないことを(フロイトに対して)述べた。ここで私が言うのは、・・宗教的な我-汝関係と呼ぶようになったものを指している。しかしいまや私は、相互の一致の限界を通り越し、彼(フロイト)の反論を喚起してしまったのだった。「宗教が成立するのは」とフロイトは簡潔に説明した。「幼児とか、未熟な人間の持つ頼りなさ、不安のためです。これは揺るぎない事実です」。ビンスワンガー『フロイトへの道』


フロム
 真に人を愛することのできる人を、あなたは何人知って居るだろうか。『愛するということ』


ブロンデル、モーリス
 人間の要求、それは自己自身と等しくなることである。『行為-生の批判と実践の学の試み』


ベイトソン
 分析医としての職業を継続的自己点検とみて、分析場面で再帰的やりとりに終始するに違いない人たちを忘れるわけにはいかない。この人たちにとって治療は、到達でき得る目標ではなく、教育分析に始まり一生を通じて続く生活習慣のようなものだろう。『精神のコミュニケーション』


ベック、アーロン
 エリスは、こうした種類の非適応的な考えを「内在化された話しかけ」または「自己に対する話しかけ」と呼んだ。そして患者には、これらを「あなたが自分自身に話しかけること」と言って説明する。モールツビーは、こうした思考を表現するのに「セルフトーク」と言う用語を用いている。・・・ただ私は、「自動思考」と言う用語の方が好きである。『認知療法-精神療法の新しい発展』


ボーム、デヴィッド
 ある段階においては、観察者と観察されるものとの差異が存続しなくなる。またはクリシュナムルティが言ったように、観察者とは、観察される存在なのである。『ダイアローグ』


メルロ=ポンティ
 視野と言うものは、相矛盾した概念が交叉する独特な環境であって、それと言うのも、視野のなかでは、諸対象は比較の可能となるような客観的・即自的な存在の地平には措定されておらず、むしろ、あたかもそれらが同一の世界には所属していないかのように、それぞれ別個のコンテクストのなかで捉えられるからである。『知覚の現象学』


山崎正和
 われわれは口のなかで呟き、半身を揺することによって、いわば行動のリズムの断片を探し出しているのであり、その断片のかたちを延長して欠けた部分を補おうとしているのだ、と考えられる。われわれは、しだいに持続的に失念した部分の前後の行動をなぞり始め、やがてその運動の調子に身を委ね、その勢いを借りて記憶の穴の部分を埋めようとする。『演技する精神』


ヤーロム、アーヴィン
 もしセラピストが患者よりも不安を抱えていたら、彼は患者になり、患者はセラピストになる。もっと言えば、セラピストの力になれたことで、患者の自尊感情は根本的に引き上げられるのだ。『ヤーロムの心理療法講義』


ライク、セオドール(テオドール)
 言葉を超えたところで、沈黙のうちに、ある心が他の心に向けてどのように話しかけるものなのか、分析家は学ばねばならない。彼は「第三の耳で」(ニーチェ『善悪の彼岸』から)聞くことを知らねばならないのである。自分のことを分かってもらうために、人は大きな声をあげなければならないと言うのは本当のことではない。聞き届けてほしいとき、人は小声でささやくのである。"Listening With The Third Ear- The Inner Experience of a Psychoanalyst"


ライヒ、ウィルヘルム
 けれども、私たちはアドラーの見解に近づきつつあります。たとえ私たちの性格分析が、実質的に彼のものとは異なるとしてもです。この点についてちゃんと認めるのがフェアなことです。違いを明記すれば、このようにアドラーに譲歩したとしてもいたって中立的なことになります。つまり、「リビドーの分析ではない性格分析(アドラー)」対「リビドーの分析を介した性格分析(フロイト)」と言うことです。(投函されなかったフェレンツィへの手紙(1925年)から) "Reich Speaks of Freud"


ランク、オットー
 自己決定について、こう定義することができます。それは、自分自身の運命をみずからの手で、意識的に作り上げることなのです。"Will Therapy"


ランボー
 A白 E白 I赤 U緑 O青 いつかお前たちの誕生の起源を明らかにしよう。『母音』


ルソー
 それは当然のことであった。人はまずはじめに推論したのではなくて、感じたのである。『言語起源論』


レイン、ロナルド
 36歳になって、彼は突然、自分が人間であることに気がついた。そのときにハタと気づいたのは、自分のことを人間であると考えたことがないが、そんな問いすらこれまで思い浮かんだことがなかった、と言うことである。安堵と、戸惑いと、感謝と、喜びで、涙がこぼれおちた。その瞬間に、彼の人生は変わった。"The Voice of Experience"


レヴィナス
  「途上」にある者は、決して出発しない者、もしくは当の昔から到達して居るものの証言を、絶えず要求する。『外の主体』


ローゼンシュトック=フュシー
 どんな話し手にも聞き手が必要である。その話には耳を傾ける価値があると信じる聞き手が。"The Origin of Speech"


ローゼンツヴァイク
 ここにいるのは「私」である。個人としての、人間としての「私」である。まだ完全に受動的であり、かろうじて身を開いただけであり、いまだ空虚で、内容もなければ、本質もなく、純粋な覚悟、純粋な従順さであって、全身これ耳であるような存在である。『救済の星』




以下、更新の予定です。


江別など札幌近郊のメンタルヘルスのために