9月上旬、僕らはそれを聞いて目が点になった。
呆気に取られたとは、まさにこのことである。
「おまえら、国体もあるんやから、ちゃんと練習しとけよ」
担任の部長からの、寝耳に水のひと言。
「へっ……?」
みんなで顔を合わせるが、まだ理解できていない。
「夏の甲子園でベスト8以上は、無条件で国体や。修学旅行代わりに福島に行くから、ちゃんと練習しとけよ」
ようやく理解できた。
国民体育大会(国体)という存在は知っていたが、どうすれば出られるのか、どこで開催されるのかなどは、全く知らなかったのである。
よくよく聞いてみると、1970年の「みちのく国体」(岩手)と1976年の「若楠国体」(佐賀)で、PL学園は2度も優勝をしているらしい。
しかも、この年の「ふくしま国体」は、第50回という節目の記念大会でもあるという。
まさか僕らが出られるとは思わなかったので、複雑な心境だった。
「せっかく引退したのに、また練習せなあかんのか」
「外出できるんやし、思い出作りにはええわな」
「大学行くまで体がなまるから、ちょうどええわ」
「どうせやったら、優勝しようぜ」
あまりに突然のことで、みんなも言っていることがバラバラだ。
何はともあれ、このメンバーでもう一度野球ができることは確かだ。
骨折をして最後の夏の大会を棒に振った諸麦と、また試合ができるかもしれないと思うと、嬉しさが自然と込み上げてきた。
やりたくてもやれない高校球児がたくさんいる中で、最後の最後まで高校野球ができるのは、本当に幸せなことである。
こうして、国体に向けての練習が再開されたのであった。
ところが予想に反して、国体に向けての練習は、主に週末のみ。午前中で終わるので、かなり楽だった。
平日は、個人的にグラウンドで練習してもいい。もちろん、新チームの練習の邪魔にならないような配慮はしなければならない。
ありがたいことに、僕らは引退しているから、基本的には何をしても怒られなかった。
国体に出場するおかげで、小学生以来の楽しむ野球ができ、学園生活に一層の充実感が生まれていた。
引退してからの寮生活は、パラダイスそのもの。
広間でテレビゲームをしたり、部屋で寝そべったり、地元の友達に電話をしたり、当時流行りはじめたポケベルで女子にメッセージを送ったりして、色々と楽しんでいた。
そんなある日、同級生の仲間内で脱走計画が立てられた。
夜中に敷地から抜け出して、国道沿いにある「吉野家」で牛丼を食べるという、なんとも陳腐なプランだ。
そんなものでも、高校生は冒険心がくすぐられるのだから不思議である。
しかし、作戦決行の日、巡回中の守衛さんに見つかりかけて、慌てて部屋に逃げ帰ったという間抜けぶり。
結局、未遂に終わったが、これも忘れがたい思い出のひとつだ。
楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。
学園生活をエンジョイしているうちに、あっという間に国体の日を迎えたのだった。
このWebサイトについてのご意見、ご感想は、 でお送りください。