大会直前、チームに衝撃が走った。
主力の諸麦が骨折してしまったのだ。
夏の予選どころか、甲子園でのプレーも絶望的。戦力ダウンを余儀なくされた。
僕にとってもショックは大きかった。
諸麦と同じチームでプレーするのも、この年で10年目。
八尾フレンド時代はキャプテン、副キャプテンとして、ともにチームを引っ張り、「一緒に甲子園に行こう」とPLに誘ってくれた彼が、甲子園への道を閉ざされたのだ……。
彼の気持ちを思うと、言葉が出てこない。彼を目の前にして、なんて声をかけてあげればいいのか。
「おまえの分まで、俺ががんばる」
そう伝えたいのだが、言葉にならなかった。それほど大きなことが起きたと、僕の中では思っていた。
だが、意外にも先に口を開いてくれたのは諸麦だった。
「俺の分までがんばってくれ。頼んだで」
その場は平然を装ったが、部屋に戻った僕は、ベランダではらはらと落涙した。
「こんなときになんちゅう精神力しとんねん。辛いのはあいつやのに、俺は何も言ってあげられへんかった。あいつの気持ちを無駄にはせえへん。絶対甲子園に連れてったる!」
親友との約束を守るため、夏の夜空に向かってそう固く決意したのであった。
背番号発表の日。
「5番、稲荷」
もはや、レギュラー番号をもらって興奮するようなドキドキ感はなく、あたりまえのように自信を持って堂々と背番号を受け取った。
その頃の世間は、相変わらず神戸の復興のようすや、オウム真理教の話題で持ちきりだった。
のちに村山連立政権が大惨敗することになる参議院議員選挙を直近に控えていたこともあり、ざわざわと落ち着きのない喧騒が、世の中全体を覆いつくしていた。
そんな剣呑な時世だからこそ、野球のニュースが国民に元気と勇気をあたえていた。
被災地の神戸ではオリックスが躍進し、海外ではロサンゼルス・ドジャースに移籍したばかりの野茂英雄投手が、新人ながら勝利を重ねていた。
「僕らも野球をとおして、元気や勇気を伝えられたらいいのに……」
誰もがそう願い、次のように思っていたはずだ。
「PL本来の野球をすれば、きっとそれは伝わる!」
予選を前に、完全に僕らの心はひとつにまとまっていた。
夏に向けての、全ての準備は整った。
泣いても笑っても、僕らにとっては高校生活最後の戦い。その決戦の火蓋が、まさに切って落とされようとしていた。
1995年7月14日、大阪府予選が開幕した。
3日前に行われたメジャーリーグのオールスターで、野茂英雄投手がナショナル・リーグの先発を務めたという感動的なニュースの余韻が冷めやらぬままの状態で、僕らは開会式を迎えることとなった。
1回戦は、なんと開会式直後の第1試合。
相手の和泉工業に1点を先制される展開に、スタンドがどよめいた。
開会式に出ていた190校の選手たちが、そのままスタンドに残って観戦していたのだ。
甲子園に出場するためには、当然ライバルは少ない方がいい。
「PL負けろっ!」
どの高校も思うことは同じだ。
しかし、自力で勝るPLは、福留の2本のホームランが飛び出すなど、危なげない試合運びを展開。終わってみれば、9対2のコールドゲームだった。
前日に18歳になったばかりの僕もヒットをかっ飛ばし、幸先のいい上々の滑り出しとなった。
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