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2.八尾フレンドに入部

みんな、めっちゃうまい

僕が門を叩いたのは、ボーイズリーグの八尾フレンドというチーム。
地元の小学校の近くでもボーイズリーグのチームはあったが、父親が情報をかき集め、この八尾フレンドに入部させたかったらしい。
初日ということもあり、車の中で小踊りでもしそうなくらい僕ははしゃいでいた。
まさかこの時点では、帰りの車中が無言になることなど、誰も予想していなかった。
練習場に着くと、早速みんなと同じようにランニングやキャッチボールをした。
ウキウキしていた僕に衝撃が走った
「みんな、めっちゃうまい」
僕も運動会の徒競走では常に1位だったし、運動神経も地元の小学校の中では人一倍よかった。
しかし周りを見渡せば、すぐに自分との差に気づいてしまうくらいカルチャーショックを受けたのである。
いくら野球が好きだったとはいえ、硬球を握るのは初めてだし、金属のバットは重くて振れない。
「無理やで、連れて帰ろ……」
僕の姿を見ていたお兄ちゃんも、言葉を呑むほどだった。

入部に決意をこめて

あとあとわかったことだが、この八尾フレンドというチーム、ボーイズリーグの中では知らない人がいないくらいかなり強いチームだったらしい。
当時の6年生なんて負けたところなど見たことがない。
「えらいチームに来てしまった……」
地元なら歩いて通えて、ワイワイできるところを、自転車で片道30分もかけてこのチームに来る価値はあるのか。
子供ながらに究極の選択に迫られた。
「それでも、どうせやるなら強いチームでだ!」
その日に入部の手続きを済ませた。僕の野球人生のスタートはこんなだった。

当時の八尾フレンドについて

ここで八尾フレンドというチームを少し紹介しておこう。
大阪の中央支部に属し、全国大会も含め大体年間で15前後の大会をこなすのだが、そのほとんどが優勝である。
どの大会でも優勝旗を返還し、優勝旗をまたもらって帰る金メダルも飾る場所に困るくらいもらった。
主なOBは、桑田さん(元巨人)、野々垣さん(元広島)、山下(元近鉄)、前川(元近鉄)、平石(現楽天)、橋本(現阪神)など。
小学部の監督は、元南海ホークスでクリーンアップを打っていた笠原和夫氏。
正に常勝軍団だった。

ジュニアの部時代

3年生から始めた野球。
4年生になると、その学年だけでチームができるくらいに部員が集まり、練習試合などもやらせてもらえる。
入部したのが4番目だったこともあり、僕はかろうじて2番セカンドで試合に出させてもらっていた。
野球もわかってきたし、自分の格好も気になり始めたのもこの頃である。
この1987年、高校野球では立浪さん、片岡さん、野村さん、橋本さんを擁するPL学園が、史上4校目の春夏連覇を成し遂げていた。
5年生になるといよいよジュニアの部として大会に出られる。全国大会はないが、ローカル大会がいくつかあり、優勝したらメダルをもらえるということでやりがいも出てきた。
当時は、レギュラーの座を確保するのに必死で練習に精を出す毎日だった。

前歯が折れた!

5年生のゴールデンウィーク、ひとつの事件が起きた。
いつものようにノックを受けてるとき、打球がイレギュラーして僕の口元に直撃したのだ。
「ガン!」
その場に崩れるように倒れこんだ僕に、さらなる悲劇が待っていた。4本の前歯が内側に来ている。
「大人の歯が折れた!」
絶望感が僕を襲う。
結局1本の歯は完全に死んでしまい、残り3つの歯を削って神経を抜き取り、差歯をはめるという治療を受けた。神経を抜き取るときの痛さは今でも思い出したくない。
改めて硬球の恐ろしさを知らされた出来事だった。

6年生で初の日本一に

昭和から平成に変わった1989年、僕は6年生になった。
少しずつ自分の目標や、行きたい高校などを意識するようになっていた。
甲子園では元木選手がいた上宮高校が活躍していた。
ボーイズリーグには全国大会が4つある。夏の選手権、日刊選抜大会、秋の関西大会、春の選手権
全て優勝すると「4冠」。僕らは、それを目指していた。
忘れがたいのは、夏の選手権だ。
前年の1988年に身売りした南海ホークスの本拠地、大阪球場で決勝戦をすることができたのだ。しかも、年内中の取り壊し作業の予定が決まっており、事実上大阪球場で行うボーイズリーグ史上最後の試合が僕らだった。
結果は3対0。晴れの舞台で、人生で初めて日本一になった瞬間であった。

日本一の実感

閉会式終了後、記念撮影。
副キャプテンだった僕は、授与された賞状を持って一番前のど真ん中に陣取る。副キャプテンの特権だ。
いつもと違うのは、日本少年野球連盟の鶴岡一人会長が僕の肩を組んで隣に座っていたこと。
「このおっちゃん、僕の肩なんか持ってはるけど、えらい人なんやろなぁ」
今まで何度も優勝したことがあったが、いつもと違ってなんだか物々しい雰囲気だ。メダルも、今までもらったのと比べてはるかに大きい。
「日本一とはそういうものなのか……」
徐々に実感が沸いてきた。
まず1冠!
後日、集合写真やプレー中の写真を新聞社の人たちが送ってきてくれた。
おじいちゃんにも見てもらった。すると、おじいちゃんはえらい興奮しだした。
「オマエ、これ鶴岡一人やんけ。南海の監督や! なんでサインもろてけえへんかってん!」
どうやら南海のファンだったらしい。
直後に、今教わっている監督が笠原和夫氏と伝えたところ、ひっくり返ってしまったのは言うまでもない。
僕はパ・リーグでは、この年に優勝した近鉄の方が好きだった。

3章につづく

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